“逆説”の邪馬台国-2
2020.09.08
 
【陳寿伝】

「陳寿」(ちんじゅ)は、信頼できる人物でしょうか。

「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)を著した「陳寿」(ちんじゅ)は、どんな人物なのか、それがみえてくれば「魏志倭人伝」の記述がどこまで信用できるのか、そのベースが見えてきます。

「陳寿」について残された記録は、『晋書』第82巻列伝52の一人として出てきます。

233年~297年に生きた陳寿ですが、『晋書』は7世紀に記されました。

「邪馬台国」に関する記述や講演などを見聞きしていると、ときおり「陳寿は正しい人物だったので『魏志倭人伝』の記述は信用できる」といっておられるかたがいらっしゃいます。

本当でしょうか。


先回の「“逆説”の邪馬台国-1」に、「邪馬台国」など古代史にご関心をもたれるかたは、“夢”(ロマン)や“事実誤認”を象わす「海王星」の象意の影響を受けた人物が多いと書きました。

ゆえに、“善意”だったり、“悪気”はないことが多いのですが、“シビア”な視点からは、にわかには首肯できない一面があります。

なぜなら、元資料には「邪馬台国」(臺)と記されていたにもかかわらず、かってに「邪馬壹国」(一、壱)と書き換えた人物だからです。

では、「陳寿伝」からみてみましょう。


1、宦官の「黄皓」におもねず

「陳寿伝」で、いちばん最初に出てくるエピソードは次のようなものです。

劉邦、関羽、張飛の義兄弟や諸葛孔明で知られる『三国志』の一国「蜀」に陳寿がいたころのお話です。


●「陳寿伝」より抜粋(1)

「ときに宦官の黄皓が権勢をほしいままにしていた。大臣らはみな意を屈して黄皓に付き従っていた。
陳寿だけは、これにおもねることはなかった。このため、しばしば官位を下げられた。」


これだけを読むと、“善意”の日本人であれば、「陳寿は正義心にあふれた人だ」と思い込んでしまいそうです。

ですが、マンガやドラマのお話ではありません。

また、陳寿は日本人でもないので、そう単純な理由からではなさそうです。

それは、陳寿の別のエピソード(記録)からみえてきます。


2、「喪」の話と、“ワイロ”の要求

●「陳寿伝」より抜粋(2)

「父の喪にあい病気になった。下女に“丸薬”をつくらせた。弔問の客がそれを目にしたために、郷里の人々に非難されることになった。」

(中略)

「また、次のようにも言われている。
丁儀兄弟は、魏で名声があった。
陳寿はその子に、“千斛の米をいただけるなら、父君のために立派な伝を作りましょう”と言った。
丁兄弟の子らは与えなかったので、伝を立てなかった。」


千斛の米というのは、日本の分量と同じかどうかは不明ですが、“千石大名”と同じで、江戸時代で換算すれば“千両”もの金額になります。

要は、一種の“ワイロ”の要求ですね。

もし、このとき陳寿が、丁兄弟の子らから千斛の米をもらっていれば、「丁儀兄弟伝」は、正しい“歴史記録”として残されたでしょうか。

現在の“広告掲載費”と同じと考えれば、“ワイロ”(掲載費)をもらいながら“悪く”書くことはむずかしいために、どこかに「曲筆」が混じると存じます。

この事実は、丁兄弟の子らが拒否したので明らかになったと考えられます。

「魏志倭人伝」がそうだとは申しませんが、陳寿が著した「伝」のなかに同じようなことはなかったといえるでしょうか。


3、“泣いて馬謖を斬る”関連

次の記述も驚きです。

『三国志』の中に、だれもが知る「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」というエピソードがあります。

「蜀」の名参謀 諸葛亮(りょう)こと「諸葛孔明」は、有能な馬謖(ばしょく)将軍を高く評価していました。

しかし、あるとき戦さで、馬謖が軍命に従わず、かってに動いたため、蜀軍は大敗をしてしまいます。

軍律違反は大罪です。

なので、軍律保持のため、孔明は泣いて馬謖を処したという故事です。

実は、このとき陳寿の父親は、馬謖の“参軍”(参謀役)をしていました。

そのため、陳寿の父もまた、連座して刑に処せられたことが記されています。

その続きが次の記述です。


●「陳寿伝」より抜粋(3)

「(亮の子)諸葛贍(しょかつ せん)も陳寿を軽んじていた。

陳寿は、亮(諸葛孔明)の伝を立て、“将軍としての計略は優れたものではなく、敵に対応できる軍才はない”と述べ、“諸葛贍は、ただ書がうまいだけで、名声がその実力を越えている”と言った。

議論する者は、このことで陳寿をそしった。」


この一文からみえてくるのは、陳寿は自分の感情で人物の評価を下すということです。

それだけなら、肉親の情として“当然”といえばそういうこともありますので、同情はできます。

ですが、自分の感情によって歴史を曲げて記すのは、もはやフィクションでしかありません。

客観的な“歴史記録”にならないからです。

これらのエピソードは、陳寿は自分の感情や利によって“筆を曲げ”たり“公私混同”して、“歴史記録”を残す人物であることがわかります。


4、『三国志』編纂

上述のようなエピソードの一方で、次のような記述もあります。


●「陳寿伝」より抜粋(4-1)

「(陳寿は)『魏呉蜀三国志』全65巻を編纂した。
当時の人々は、よく記述されており、すぐれた史官としての才能がある、と賞讃した。

夏侯湛は、時を同じくして『魏書』を書いていた。
陳寿の著作をみると、自分の書いたものを破り、書くことを止めてしまった。」


陳寿に文才があったことは事実です。

また、『三国志』は人々(庶民)にも人気があったことが記され、史実どおりかどうかはともかく、わかりやすく、“勧善懲悪”ともいえるドラマ風に仕立てるのが上手だったようです。

それが、後年のだれもが知る劇作『三国志演義』の誕生につながったといえるでしょう。


陳寿は歴史の事実を、ドラマのように“勧善懲悪”で仕立てるのがうまかったことは、次のエピソードからもわかります。

「陳寿伝」の最後に、死後のエピソードとして、俗称「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)が収録される『三国志』が書き写されたいきさつが記されています。


●「陳寿伝」より抜粋(4-2)

「范頵らが上表していうことには、(中略)

“陳寿は『三国志』を著しました。
その文辞には、善を勧め悪を懲らしめることが多く記され、ことの成否が明らかにされ、人民を教え導くのに有益なものです。

文章の艶麗さは、相如にはおよびませんが、しかし、内容の質直さにおいては、相如以上のものがあります。
どうか御採録を賜りますように。”

そこで、河南の尹・洛陽の令に詔がくだされ、(陳寿の)家に行って、その書(『三国志』)を書き写させた。

陳寿はまた『古国志』50篇、『益部耆旧伝』10篇を撰述し、その他の文章も今の世に伝えられている。」


で、「陳寿伝」は終わっています。

文中で“質直”というのは、飾り気がないことです。

余計な修辞(レトリック)がなく記されているという意味です。

この最後のエピソードは、「陳寿伝」の4分の1近い文字数がさかれており、“デティール”(細部)が効きすぎています。

“歴史書”がこういう饒舌な書き方をするとき、“弁明”や“ウソ”などを、のちの読者に納得させようとしていることが多いのです。

たぶん、ワケありで、上表した功績を誇示すために“盛った”可能性などがありそうです。

それまでの「陳寿伝」の簡潔な流れからみると、長々と上表に触れずに、たとえば「記録として残すため、陳寿の家に行って『三国志』を書き写させた」という事実のみで済むはずだからです。


5、おわりに

以上、「魏志倭人伝」の作者 陳寿について『晋書』からご紹介しました。

「陳寿伝」のエピソードが、どこまでが“事実”なのかはわかりません。

ですが、上述のような記録が残る陳寿が、書きあらわした『三国志』巻30「魏書30 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」(魏志倭人伝)の内容は、どこまで信用できる“歴史記録”といえるのでしょうか。

私見を述べることは避けますが、ご参考の一部とされて「邪馬台国」の所在地の比定をされてみられるのもアリかと存じます。










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