“逆説”の邪馬台国-3
2020.09.10
 
【「邪馬壱国」と「邪馬台国」】

かつて、『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)という書籍が発刊されました。

編集者がつけたタイトルらしいのですが、「邪馬台国」(やまたい こく)ではなく、「邪馬壱国」(やまい こく)があったという論旨のようです。

つまり、「臺」(台)ではなく、「壹」(壱)が正しいと。

先回の「“逆説”の邪馬台国-2」でご紹介しました陳寿は、「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)に、「邪馬壹国」(壱)また「壹與」(壱与)と記しています。

だとすれば、正しいのでしょうか?

ちなみに、この「壱与」(いよ)を根拠の一つとして、四国は古来「伊予」と呼んだことから、「邪馬台国 四国説」を唱える方もいるほどです。

にもかかわらず、古来より「邪馬台国」や「台与」と呼称されてきています。

専門家や研究者が、「魏志倭人伝」に“邪馬壱国”や“壱与”と記されていることを知らないはずはありません。


今回は、「宝瓶宮占星学」サイトでも触れた内容ですが、なぜ“邪馬壱国”ではなく、「邪馬台国」と呼ばれつづけてきたのか。

「魏志倭人伝」以外の古代文献からみてみたいと存じます。



1、陳寿は日本にきたことがない。

まず、陳寿は、「倭国」に来たことがありません。

では、どのようにして「魏志倭人伝」を著したのでしょうか。

それは奴国や倭国からの使者が、「後漢」や「魏」を訪れていたからです。

また、「魏志倭人伝」に記されているように、魏王からの使者、太守の「弓遵」や建中校尉の「梯儁」らが倭国(伊都国)に来ているからです。

そういった奴国や倭国からの使者らに聞いた記録や、弓遵や梯儁らが倭国に来て視察した報告などが残されていたからです。

また、陳寿が『魏書』(倭人条)を著す前に、魚豢(ぎょかん)が残した『魏略』(ぎりゃく)がありました。

そこに倭国の都(邪馬台国)に関する記述もあったからです。

陳寿は、そういった複数の記録や資料をもとに、「魏志倭人伝」を著したのです。

それらの記録には、いったい「邪馬○国」と書かれていたのでしょうか。


2、『魏略』の逸文

これらの原本は、残念ながら散逸して残っていません。

しかし、魚豢の『魏略』の逸文(引用文)が、福岡の太宰府天満宮に残っています。

唐の時代に記された『翰苑』(かんえん)がそれです。

遣唐使の名残りなのか、現在、わが国の国宝に指定されています。


では、『翰苑』に残される『魏略』の逸文、3世紀の倭国に関する部分をみてみましょう。


●『翰苑』より抜粋(1)

1) 『魏略』の逸文

「憑山負海 鎮馬臺 以建都」

【読み】 山につき、海を負い、馬台を鎮め、以って都を建てる。


○『翰苑』自体の注釈の抜粋

「後漢書曰 (中略) 其大倭王治邦臺」

【読み】 後漢書にいわく、(中略) その大倭王は(邪馬)台で治める。


陳寿が「魏志倭人伝」を著すにあたって参考にした『魏略』には、逸文ですが卑弥呼の都を「馬臺」と記していたことがわかります。

『後漢書』においても、倭王は「邦臺」(邪馬台国)で治すと注釈がつけられています。

では、次の逸文をみてみましょう。


●『翰苑』より抜粋(2)

2) 『魏略』の逸文

「臺與幼歯方諧衆望」

【読み】台与は幼歯でまさに衆望にかなう。

○『翰苑』自体の注釈の抜粋

「名曰卑弥呼 死更立男王 國中不服 更相誅殺 復立卑弥呼宗女臺與 年十三爲王 國中遂定」

【読み】名は卑弥呼という。死してさらに男王を立てる。国中服さず。さらに相誅殺。再び卑弥呼の宗女台与を立て十三歳を王となす。国中ついに定まる。


これらの逸文からは、「馬臺」「邦臺」(邪馬台国)また「臺與」(台与)というように、明らかに「臺」(台)の字が使われています。


3、そのほかの史書

では、のちの古代支那の史書には、どのように記されているのでしょうか。


●『後漢書』より抜粋…5世紀前半

「其大倭王居邪馬臺國」

【読み】 その大倭王は邪馬台国に居す。

「後漢」は「魏」より古い前の国ながら、『後漢書』自体は、「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)が記された3世紀後半よりのち、5世紀前半に范曄(はんよう)によって記されました。


●『梁書』より抜粋…7世紀前半

「又南水行十日 陸行一月日 至邪馬臺國 即倭王所居」

【読み】 また南に水行十日陸行一月、邪馬台国に至る。すなわち倭王の居すところ。

「復立卑彌呼宗女臺與為王」

【読み】 ふたたび卑弥呼の宗女台与を王となす。


●『隋書』倭国伝より抜粋…7世紀

「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」

【読み】 都を邪靡堆(やまたい)におく。『魏志』におけるいわゆる邪馬台国なり。



以上のように、支那の正史には、「魏志倭人伝」をのぞいて、すべて「邪馬臺国」(邪馬台国)または「臺與」(台与)と記されています。

つまり、「魏志倭人伝」のほうが例外なのです。

理由は何であれ、陳寿の「魏志倭人伝」の元となった資料にも、少なくとも『魏略』には「臺」(台)と記されていました。

にもかかわらず、陳寿のみが「壹」(壱)の字に変えて、「邪馬壹国」(壱)と記したのです。


4、「臺」(台=うてな)の考察

ちなみに、『「邪馬台国」はなかった』の著者は、次のように解釈しています。

「臺」(台=うてな)は、「天子の宮殿とその直属の中央政庁」という特殊の意味を有する。

なので「邪馬」という卑字に、神聖至高の文字「臺」を用いるはずがない。

ゆえに「邪馬臺国」(台)という国名などありえない。(「邪馬壹国」(壱)があった)


本当でしょうか。


「ウィクショナリー日本語版」によれば、「臺」(台=うてな)には、“しもべ”という意味があります。

「邪馬」という卑字に、魏王の“しもべ”という意味で「臺」を用いても、支那としては「邪馬台国」(臺)という国名で、なんら問題はないといえます。

そうであれば、問題は曲筆でも知られる陳寿ご自身のようです。


ちなみに、「臺」(台=うてな)には、まわりを見渡せるように作られた高い建物、また物見台といった意味もあります。

「邪馬台国」が、川の上流域など高台にあったのかもしれません。

もしくは、「魏志倭人伝」に卑弥呼の都のようすが「楼観、城柵、厳かに設け」と記されるように、“高い物見台”(楼観)があったゆえに、「邪馬台国」という漢字があてられたのかもしれません。











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