“逆説”の邪馬台国-6
2020.09.17
 
【“幻想”の卑弥呼】

夢を壊すようで申し訳ありませんが、「“邪馬台国”幻想と陰謀」に続いては、「“幻想”の卑弥呼」をお届けいたします。

先回もご紹介しましたように「魏志倭人伝」の作者陳寿(ちんじゅ)は『晋書』「陳寿伝」を読めばわかるとおり、作家としての文才はあっても「史述家」としては信頼できない部分があります。

筆が立つのはいいのですが、シビアな「史実」を著すにしては、“ロマン”をかきたてる筆致が得意だからです。

俗称「魏志倭人伝」こと『魏書』「倭人条」も同様で、「卑弥呼」や「邪馬台国」をミステリアスな“ロマン”ある筆致で著しました。

そのため、“倭の女王”「卑弥呼」に対して、多くの人が少なからず“ロマン”を感じ、正直にいえば、“美化”してしまい、“幻想”を抱いてしまう書き方をしているのです。

では、史実としての「卑弥呼」はどんな人物だったのでしょうか。

「魏志倭人伝」を、陳寿の筆致に惑わされずに考証しながら読めば、そこそこながら「卑弥呼」の“実像”が浮かび上がってきます。


1、女王「卑弥呼」実権をもたず

陳寿は「邪馬台国」に来たことはありません。

もちろん、「卑弥呼」に接したこともありません。

それどころか、「魏志倭人伝」を読めばわかることですが、人前にほとんど姿を現わさなかった「卑弥呼」は、当時の人々でさえ接した人がほぼいなかったことがわかります。

この記述が意味するところは、卑弥呼に接したことがない倭の人々の“伝聞”をまた聞きした魏の使者の“伝聞録”をもとに、陳寿は、“女王”ゆえ「卑弥呼」は相応の人物に違いないと、“ドラマチック”に真の女王かのように描いたことがみえてきます。

これが“曲者”なのです。

いわば、支那流の“女帝”か“歴史のヒロイン”など“スーパースター”のような筆致で「卑弥呼」を描いています。

では、「魏志倭人伝」から「卑弥呼」に関する記述をみてみましょう。


● 「魏志倭人伝」より抜粋(1)

「倭国乱れて相攻伐すること年を歴(へ)たり、すなわち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。」

原文 : 「倭国乱 相攻伐暦年 及共立一女子為王 名曰卑弥呼」


「魏志倭人伝」のなかに「卑弥呼」が最初に登場するこのシーンは、印象的にドラマチックな筆致で記されています。

マンガであれば、戦乱に明け暮れ人類が危機にひんするなか、ついに正義の味方「卑弥呼さま登場!」 ジャジャーン! といった手法です。

この登場シーンによって、読者は「卑弥呼」が歴史的な英雄のかのように感じ、古代日本のスーパースターかのように誤解させる根本要因になっています。

本当に「卑弥呼」は“スーパースター”なのでしょうか。

事実は、「魏志倭人伝」から明らかにしていくとして、“倭の女王”と記されているものの、「卑弥呼」に“実権”はなかったことがわかります。

つまり、和平のために御輿に担ぎ上げられれた“お飾り”でしかありませんでした。

と、いえば、「何をそんなバカな」という声が聞こえてきそうです。

続けて、次のように記されています。



● 「魏志倭人伝」より抜粋(2)

「鬼道に事(つか)え、よく衆を惑わす。年、すでに長大なれども、夫婿(ふせい)なし。」

原文 : 「事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻」


この書き方は、正体がわからない「卑弥呼」を“ミステリアス”にショー・アップしています。

「よく衆を惑わす」という表現は、その後段を読めば、矛盾する一文だからです。

もし、陳寿が“ドラマ”仕立てではなく、史実のみを書こうとすれば、「鬼道につかえた」だけでこと足りるのです。

ですが陳寿は、続けて「よく衆を惑わす」と記し、続く「年、すでに長大なれども、夫婿なし」と対句的に“ドラマ仕立て”の修辞を使っています。

「よく衆を惑わす」の矛盾については後述するとして、文脈から「年、すでに長大にして…」という一文を素直に読めば、2世紀末に女王に共立された時点で、すでに“老婆”だったと読めてしまいます。

その場合、「女王になった年齢」+「3世紀中頃まで約70年近く」を当時、生き長らえたとするのは、環境与件や食料事情からは少々無理がありそうです。

なので陳寿は、事実よりも“イメージ優先”また“漢詩的表現”で、上の一文を書いたことがわかります。

さらに続きます。


● 「魏志倭人伝」より抜粋(3)

「男弟ありて国をたすけ治む。王となりてより以来、見まゆることある者、少なし。
婢千人をもって自ら侍らしむ。ただ男子一人のみありて飲食を給し、辞を伝えて出入りす。」

原文 : 「有男弟 佐治国 自為王以来 少有見者 以婢千人 自侍 唯有男子一人給飲食 伝辞出入」


「女王になって以来、見た人が少ない」と記されています。

前段の「よく衆を惑わす」という一文と矛盾する一文です。

陳寿は「鬼道」の何たるかを説明しようと「よく衆を惑わす」という一文を入れたのでしょう。

それは陳寿の“親切”ではなく、これこそが陳寿が得意とした“ドラマ手法”で、ヘタに用いると史書ではなく“フィクション小説”になりかねないものです。

さらには、「卑弥呼」はほとんど室内に引きこもっていたと記されていることから、「女王国連合」の“運営”や“政務”は当然、行なうことができません。

実権のない“お飾り”にすぎなかったことは、次の一文からもわかります。


● 「魏志倭人伝」より抜粋(4)

「女王国より以北は、とくに一大卒をおきて諸国を検察せしめ、諸国これを畏憚(いたん)す。常に伊都国に治す。」

原文 : 「自女王国以北 特置一大卒 検察諸国 諸国畏憚之 常治伊都国」


「女王国連合」の諸国が畏(おそ)れ憚(はばか)っていたのは、女王「卑弥呼」に対してではなく、「魏志倭人伝」に「世々王あり」と記される「伊都国王」でした。

「卑弥呼」が実権のない“お飾り”なのは、その死後、力も経験もない13歳の「台与」(とよ)が引き続き“女王”に選出されたことからもわかります。

結局、「卑弥呼」も「台与」も御輿に担がれた存在でしかなく、実際の権力は、諸国から畏れ憚られていた「伊都国王」の掌中にあったのです。

次に述べる「鬼道」から申し上げますと、重大時にかぎり、「卑弥呼」からの“託宣”が伊都国王に届けられた可能性はあります。

ですが、聞く聞かないは伊都国王の胸一つです。



2、「鬼道」にみる「卑弥呼」の“正体”

さて、次に「鬼道」についてお届けいたします。

「日本的霊性」を見失い、「科学」に毒された学者をはじめ現代人は、古代の「鬼道」を理解できなくなりました。

なかには「道教」の一種だと“学問的”に主張する人もいますが、違います。

古代日本では当たり前のことだったのですが、即物的な利に走る中国や古代支那また陳寿には理解できず、「衆を惑わすもの」ととらえられています。

“謎解き”は簡単です。

以前、「宝瓶宮占星学」サイトにも書いたことですが、中国また古代支那で「鬼」が何を表わすかが見えてくれば、古代日本に照らし合わせてすぐに「鬼道」の正体がわかります。


昨今の中国では建設ラッシュが起こり、高層マンションが数多く建ちました。

その数が多すぎて、また高価だったりしたことから、人が住まず、次第に“ゴースト・タウン”となってしまった住宅街がありますが、それを中国では「鬼城」と書き表わします。

なぜ、“街”なのに“城”と表現されるのかというと、戦乱が続いた古代支那では、「城」(砦)の中に「街」がつくられていたからです。

また北京で、「鬼街通り」といえば、“幽霊通り”のことをさします。

日本でも、類似の意味をもつ「鬼」の使われかたに、“火の玉”(霊の魂)を「鬼火」と呼んでいたことがあります。

ほかにも、人が死んだことを「鬼籍に入る」と表現することも同様です。

つまり「鬼」は、“人がいない状態”や“人が亡くなった先”、さらには“幽霊”など“死者の魂”(霊)といった、日常ならざる状態や「死後の世界」にかかわる事物を意味します。

そのため「鬼道」と表現された理由は、人がいないにもかかわらず、イタコのように“死者の霊”を招き寄せて、その言葉を人に伝える“口寄せ”のようなことを「卑弥呼」が行なっていたからです。

かつては盲目の女性が行なうことも多かったようです。

なぜ、盲目の女性が多かったのかというと、外界の刺激が遮断された“孤独”な状態のほうが、“霊”がかかりやすく、“コンタクト”がとれやすいからです。

『日本書紀』などに出てくる単語を用いれば、神仏の言葉を伝える「託宣」(たくせん)ともいえます。

今風にいえば、“間違い”が多いのですが俗にいう「霊言」の類いです。


古代日本においては、男が「政」(まつりごと)を行ない、女性が「祭祀」(祭りごと、祈祷)を行なう、分業して国を治め運営していく「ヒメヒコ制」がありました。

その名残りで、“憑依体質”の持ち主「卑弥呼」が祭祀を行なう“女王”に共立されたともいえます。

なので実際の政治は、“男王”の「伊都国王」が実権をもって行ない、諸国を検察し、女王国連合の実質的な運営を行なっていたのです。

なぜ、卑弥呼が人前にほとんど姿を現わさなかったのかというと、「鬼道」を行なうさいの“憑依体質”や“霊媒体質”は、お日さまのもとや健全な日常生活では弱まることが起こるからです。

盲目や孤立した状況、また相応に不健康な状態のほうが、“憑依体質”を維持でき、絶対に避けなければなりませんが、“霊”が懸かりやすいのです。

そのために、「卑弥呼」は密室や暗い屋内に引きこもり、「鏡」を前に自分の意識を徐々に飛ばして、“死者の霊”をのりうつらせたり、とり憑(つ)かせて「鬼道」(口寄せ)を行なっていたのです。



3、卑弥呼≠天照大神

よく、「天照大神」は「卑弥呼」だと言われることがあります。

それは「正解」ではありませんが、100%間違っているわけでもありません。

あえていえば30%は“正解”です。

まず、『古事記』や『日本書紀』に、天照大神が「鬼道」につかえたとか、「口寄せ」の類いを行なったということは記されていません。

「天照大神」は、『日本書紀』に記される皇祖「高皇産霊尊」(たかみむすひのみこと)と、高天原にいた先祖神の“1柱”だとされます。

詳細なご説明は、本旨からそれるので省きます。

簡単にいえば、「統一大和」を築くために、だれもが崇める共通の“象徴”(シンボル)が必要でした。

全国各地の国邑(こくゆう)や豪族を、「天皇」のもとに一つに結集するために、“実在”をベースに立てられた“1柱”が「天照大神」なのです。

なので、物部氏をはじめ、全国各地の豪族の高祖神(始祖)の“集合体”だと考えてもらってかまいません。

卑弥呼や台与は、その一部にすぎません。

『日本書紀』(神代)をよく読めばわかるように、「天照大神」は“男性”でもあり、また“女性”でもあり、“キャラ変”したかのように描かれている箇所があります。

現代的には、大政奉還ののち、明治天皇はその意をくまれて、素戔嗚尊(すさのうのみこと)ではなく、「天照大神」を日本民族統合の象徴として「皇祖神」と定めるご聖断をくだされました。

「天照大神」は日本を照らす“お天道様”を象徴する側面をもちますが、「卑弥呼」はまったくの逆です。

上述いたしましたように“口寄せ”(鬼道)を行なうために、日光を避けて屋内にこもり、人前に姿を見せずに「鏡」をもちいていたからです。


4、「ひみこ」と名づけられた理由

これらのことがわかれば、「ひ・み・こ」と呼ばれた理由がみえてきます。

死者の霊を呼び込む“口寄せ”(鬼道)につかえたゆえに、“明るい場所”や“太陽”を避けて屋内にこもっていた「ひみこ」です。

決して“日巫女”や“天照大神”などではありません。

むしろ正反対です。

明るく輝き、生きとし生けるものに“生命”をもたらす「太陽」を意味する“日”(ひ)などとは真逆に、“肉体”を失った「冥府」や「常夜の国」の死者などを象わす“霊”(ひ)のことです。

「卑弥呼」は、霊(ひ)によって「鬼道」(口寄せ、霊言)を行なっていたゆえに、“霊”の“御子”すなわち「ひみこ」と呼ばれていたといえます。

たとえば、「霊の魂」(ひのたま:火の玉)もそうですが、『日本書紀』に記される皇祖「高皇産霊尊」(たかみむすひのみこと)の4番めの文字=「霊」(ひ)がそうです。

死者の霊(れい=ひ)をとり憑かせて、“口寄せ”や“霊言”の類いである、支那人いわく「鬼道」に生涯つかえたために、「ひみこ」(霊御子)と呼ばれ、“霊力”の喪失をおそれて結婚もしなかった(禁じられていた)ということです。

さらにいえば、「邪馬台国」の王また豪族の娘(御子)だったようです。

なぜなら、そのへんの市井(しせい)の「巫女」が女王に共立されることなど実際にはありえません。

長く続いた「倭国の乱」を終える“仲裁者”にふさわしく、相応に歴史や立場を持っていた「邪馬台国」の王族の出身(御子)だったために、その正統性によって“お飾り”ながら、「女王」に共立されたと考えられます。













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