“逆説”の邪馬台国-7
2020.09.20
 
【「邪馬台国」の比定】

最後に、これまで6回の「“逆説”の邪馬台国」から、「邪馬台国」の位置を比定してみようと思います。

ただし、以下の比定を強弁するつもりはありません。

ほかの方々が比定した論拠を交えつつ、なにが“事実”なのかを客観的にご判断いただくご参考になればと存じます。


なぜなら、なぜ、邪馬台国論争が混迷するのかというと、一部分だけを見るからです。

また、文献的には、陳寿の記述に惑わされて、「邪馬台国」は大和朝廷に連なる日本の“中心”(原点)に違いないと思い込んでしまうからです。

遺跡的には、その地域の出土品のみをみて、3世紀の日本全国の出土品を謙虚に比較検討しようとせずに、“結論ありき”で学界やマスコミを巻き込んで“牽強付会”にこじつける学者や研究者がいるからです。

ちなみに、「魏志倭人伝」にも間違いはあります。

ですが、「邪馬台国」(卑弥呼)が記された“原典”となる資料は、「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)しかないといえのも事実です。

そのため、無視するわけにはいかず、3世紀前後の日本全国の出土品などとも照らし合わせながら、「文献」と「出土品」また「時代状況」を勘案しつつ、全体的かつ客観的に比定していくしかありません。

ちなみに「倭国」や「倭王」に関する記述なら、後述いたします『隋書』や『旧唐書』また『新唐書』などにも記されています。

これらを無視して、「魏志倭人伝」のみを取り上げて結論づけたり、部分的な考古学の遺構や出土のみを取り上げて断定したり、古い歴史があるからと「ここが邪馬台国だ!」と思い込むと、“視野狭窄”に陥って、“信者”のように周囲が見えなくなり、誤まってご判断してしまうことが起こります。


1、2つの行程問題

さて、まずは考古学では解けない「邪馬台国」への行程です。

「魏志倭人伝」の行程は、まるめた数字で記されていることからも100%正確ではないし、実際、過去の記録をもとに「魏志倭人伝」を著した陳寿が明らかに間違えている箇所もあります。

その大前提は、現代中国もそうですが、古代支那においても“白髪三千丈”とばかりに、相手を威嚇したりするために「数字を誇大に記す」といった傾向が一部にあることです。

そのことを意識に置きつつ「魏志倭人伝」の行程や記された国の規模などを検討していくことも必要です。


「魏」の群使が、帯方郡(北朝鮮南西部)から半島西沿岸に沿って半島南端(倭の北岸)に至り、そこから対馬、そして壱岐へと島伝いに渡ったことは確定しています。

問題は、そこからです。

「また一つ海を渡り、千余里にして末盧国(まつろこく)に至る」という記述です。

半島南端から対馬へ“千余里”、対馬から壱岐へ“千余里”に比較して、壱岐(一支国)から唐津(末盧国)へ至る“千余里”は近すぎるからです。

ちなみに、壱岐から松浦半島の北端までは、わずか30kmほどしかありません。

それまでの“千余里”(約70km)に比べて近すぎるのです。

なので、「末盧国」は壱岐の“南”に位置する唐津付近ではなく、壱岐から“東”に「宗像」(むなかた)付近ではないかと推察されるかたもいます。

ですが、「魏志倭人伝」の対馬(対馬国)や壱岐(一支国)の項には、「南北に市糴(してき)す」と書かれています。

古代において船で海を渡るとき、いちばん近い陸地をまず目指すのは常識です。

船で大海原に出たことがあるかたならおわかりだと思います。

地球は丸いため、5kmほども沖に出れば、もはや出港した桟橋は見えなくなります。

沖合いでは、四方八方、海と空しか見えず、潮の流れもあることから、自分がどこにいるのかわからなくなります。

そんなときでも、内陸部に1,000m級の山があれば、100km以上の沖合いからでも山頂部が見えます。

そこに陸地があることがわかるので、その方向を目指して船を進めることができます。

壱岐からは、南方面の松浦半島の付け根「唐津」の内陸部には、800m~900m級の山が複数あります。

天気さえよければよく見えますし、進む目印にできたのです。

一方、東の「宗像」だと壱岐からは70km近くありますし、高い山も少ないことから少しモヤがかかると見えません。

当然、壱岐から間近に見える唐津市(末盧国)方面をめざします。

すると、約30km先の松浦半島の北端にすぐに至ります。

そのまま、松浦半島の東岸に沿って入り江を進めば、壱岐からだと都合40数kmで末盧国(唐津市)に着きます。

帯方銀からはるばる遠路、一支国(壱岐)まで船できた郡使ら乗組員は、長旅の疲れもあっていちばん近い末盧国(唐津市)を目指したのは当然です。


2、“軍事偵察隊”の陸行

だからといって「群使」は、末盧国で下船する必要がありません。

末盧港にいったん立ち寄ったものの、直接、一大卒が置かれた「伊都国」(いとこく)に船で向かったのは当然中の当然です。

一支国(壱岐)から末盧国(唐津市)を経由して「伊都国」(糸島市)に到る、この約60kmの行程が一支国からの「また一つ海を渡り、千余里(末盧国に至る)」の正体です。

ただし、群使らの船が末盧国に寄ったとき、そこで下船した一行がいました。

それは「魏志倭人伝」が単なる“物見遊山”や“観光旅行”の記録ではないことがわかれば見えてきます。

当時、「呉」や「蜀」と戦争中だった魏は、わざわざ海を渡って朝献にきた「倭国」の現状を“軍事偵録”するという当然の任務もあったからです。

倭と戦争になった場合、海から攻める場合と陸から攻める場合を想定して、郡使一行に随伴していた“軍事偵察隊”の一部が末盧国で下船したことは充分に考えられます。

そして、周辺の地形を調べながら、陸行で「伊都国」を目指した可能性はあります。

その記述が末盧国に記される「草木茂り盛(さか)えて、行くに前の人見えず」という「魏志倭人伝」の記述でしょう。

これが当時の“道”の状況です。

この記述からは、道なき道を進まざるをえなかったことが見えてきます。

偵察隊は、右(山側)に左(海側)に偵察を繰り返しながら、草木を押し分けて進み、どのように行軍するのがよいか情報収集をしながら進んだはずです。

さらには、食料の捕獲や、毎日の野営の準備、ときには雨で足止めをくらいながらも進んだことでしょう。

そのため、後段に「陸行1月」と記されていても、現代人の感覚でとらえると間違います。


3、陳寿、最大の記述ミス

さて、郡使一行がとどまった「伊都国」からは、東南に百里で「奴国」(なこく)。

唐津(末盧国)~糸島(伊都国)までの約5分の1の距離なので、伊都国からだと奴国は福岡平野にあったことがわかります。

さらに東に百里で「不弥国」(ふみこく)と記されています。

福岡平野は、南北方向に大きな河川がいくつか流れています。

このことから、福岡平野の西部が「奴国」で、河川を挟んだ東部が「不弥国」だといえ、平野を大きく東西に二分していたことがわかります。

その国境だったと思われる「那珂川(なかがわ)」もしくは「御笠川」(みかさがわ)を南方面(内陸部)に遡行すると、のちに大堤(おおつつみ)「水城」(みずき)が築かれた「大宰府政庁」があった太宰府市に通じます。

近年でいえば、江戸時代に筑前国博多(福岡藩)と豊後国日田(西国郡代、代官所)を結んで栄えた「朝倉街道」に連なります。


陳寿は「一支国~末盧国」の行程のミスに続き、「不弥国」以降の行程で2つめの大きな記述ミスを犯しました。

陳寿が『魏略』などをはじめとして複数の訪倭記録をもとに「魏志倭人伝」を記したことが知られています。

「倭国」はもちろん「邪馬台国」にきたことがなかった陳寿は、それらを読み比べるさいに解釈を間違えたようです。


その間違いは次のように、重大な問題を含むものでした。

不弥国の南方に、「邪馬台国」が位置したのは事実です。

なので、陳寿は不弥国から南に直接行くかのように、「水行20日、投馬国(つまこく)。水行10日陸行1月、邪馬台国」と記してしまったのです。

福岡平野の南に水行20日はもちろん水行10日の海などありません。

また、なぜこれが間違いとわかるのかというと、次のような理由からです。

地理や方位に詳しい「軍事偵察隊」が「里程」と「日程」を直列して記すことはないからです。

そういったダブル・スタンダードで記す場合、帯方郡からの「里程」をまず記しておいて、次に再度、帯方郡からの「日程」で記して、距離と日数を併記して万全を図ることはありえます。

それが常識だったので、陳寿は断りもなく「不弥国」に続けて「投馬国」や「邪馬台国」への“日程”を記したことは考えられなくもありません。

その場合、“平和ボケ”した日本人が、直列だと勝手に勘違いして解釈したことになります。

ですが、そうではなく、今昔、不弥国までの新しい「里程」の記録と、邪馬台国までの古い「日程」の記録の2つを、陳寿が直列だと勘違いして「魏志倭人伝」につなげて記したのです。

いずれにしても、里程と日程との直列はありえず、並列に理解し、行程を解釈しなおすべきです。

これが、陳寿の最大のミスです。


4、邪馬台国の比定地

この“ミス”によって、「南は東の間違い」などと主張することが起こりました。

軍事偵察は、距離や方位の専門家なので、“平和ボケ”したありえない解釈です。

陳寿の2つの記述ミスは、「邪馬台国 所在論争」の一因ともなりました。


さて、ご参考に「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)以外の史書の記述をご紹介しておきます。


『隋書』には、「竹斯国(筑紫国)より以東、みなに附庸(ふよう)たり」と記されています。

『旧唐書』には、「倭国伝」(筑紫州)と「日本伝」(大和州)の2つが別の国として併記されています。

『新唐書』には、「(倭王は)筑紫城に居す。(中略)治を大和州に移す」と記されています。


これらの記述からは、当時の「倭国」が九州と認識されていたことがハッキリと分かります。

さらにいえば「竹斯国」(筑紫国=福岡県界隈)にあったことまで明らかです。

「畿内説」の学者の“スゴイ”ところは、自分たちに都合が悪いこれらの記述を「これらの史書はみな“偽書”だ」と恥ずかしげもなく“強弁”していることです。

もはや畿内にあってほしいと“駄々”をこねる子どもでしかありません。

あるいは“畿内説信仰”に陥って周囲の客観的な事実が見えなくなっているかのようです。


余談ですが、「畿内説」の事実を書いておきます。

3世紀までの畿内は、青銅器の銅鐸文化圏だったことは学校で習ったと存じます。

出雲や淡路島また畿内など、本州(大和州)には数多く出土しています。

一方、当時の九州はすでに鉄器文化圏でした。

この一事からも、奈良盆地は“ゆるやかな大国主連合”(銅鐸文化圏)の集会地でした。

それは、九州以外の本州の国々の土器が数多く出土していることからもわかります。

上述の支那の「史書」にも記されているように、九州「倭国」と本州「畿内国」(日本国)は、邪馬台国(女王国)の3世紀までは異なる文化圏だったのです。

なので、3世紀の遺跡や宮殿が発見されても、それは「邪馬台国」ではなく青銅器文化圏を形成していた“大国主連合”のものでしかありません。

実際、畿内説学者や研究者は、良識ある学者や研究者からは、自説に都合のよいことしか発表しないし、出土年代をねつ造することでも知られています。

「魏志倭人伝」に記される「鉄鏃」(てつぞく、鉄の矢じり)の出土分布を見ようともしませんし、当然、自らは発表しようともしません。

ちなみに、日本全国の3世紀を含む弥生時代の出土状況をみれば、福岡県と熊本県がダントツで、それぞれ「400個」近い出土が確認されています。《※注)ご参照》

これに対し、奈良県は「4個」に過ぎません。

「邪馬台国」の時代、まだ青銅器文化だった本州「畿内国」とは異なり、北部九州は「魏志倭人伝」にも記される鉄器の文化圏だったのは「鉄鏃」以外の考古学的出土品からも学術的に明らかです。

ところが、この事実でさえ、畿内説学者は無視します。

まともな研究者や学者からはあきれられていますが、“厚顔無恥”は治りません。


さて、上述のなどから、「邪馬台国」は「帯方郡」から“水行10日”で「末盧国」(唐津)あたりに着いて、そのあと、“陸行1月”の内陸部にあったことがわかります。

※陸行の推定ルート:末盧国(唐津市)から南に松浦川を遡上し、佐賀平野からは東に吉野ヶ里方面に歩いたか、いったん有明海に出て築後川を遡上して邪馬台国方面へ。奈辺の筑紫平野は“約7万戸”の邪馬台国グループに属していたため、福岡平野ルートよりは安全。


もちろん、当時の「陸行1月」は簡単ではありません。

草木をかき分け、道なき道を進み、荷物を積んだ船を引き上げつつ川を遡上したり、日が暮れる前に野営の準備をしたり、雨や増水で足止めをくらったりして進んだ日数です。

まとめますと、「邪馬台国」の条件は、次の3つになります。


1、「不弥国」など福岡平野からみて南方に位置した。

2、九州北岸部(末盧国など)から、川の遡上をふくめて陸行1月程度の内陸部。

3、「魏志倭人伝」に記されるように、「邪馬台国」の南に旁余の国(21か国)あり、さらにその南に敵対する「狗奴国」(くなこく)が存在できる地理的条件にあう場所。


5、「山門説」は当てはまらず

有力な説でいえば、「山門説」(みやま市)は上の2、3、の条件にあてはまりません。

「魏志倭人伝」の記述とは大きく異なります。

「山門」こと現「みやま市瀬高町」は、かつては有明海沿岸部で船で直接行けるほどでした。

また、地形をみればわかりますが、山門の南にある、有明海に迫る丘陵や山を隔てて、直接、その南の「狗奴国」と対峙する地域でもあるからです。

つまり、邪馬台国の南にあった「21か国」の旁余の諸国が存在できる余地がないのです。

このことから「山門」は「女王国連合」(邪馬台国グループ)の南方の境界付近にあった最前線の国です。

国名からは、「邪馬台国」への“入口”(門)だといえます。


むしろ、大已貴神神社(おんがさま)のある三輪(みわ:筑前町)や甘木(あまぎ:朝倉市)を含めた「朝倉説」(朝倉市)のほうが、上の3条件に近いのです。

ただし、唯一の難点は、一大卒が置かれた「伊都国」へはもちろん、福岡平野の「奴国」や「不弥国」には遠いことです。

朝倉は、筑後川の中流域で平野部が多く、国は栄えていたのですが、女王卑弥呼を輩出するには福岡平野部との関係からも難があるため、個人的には次のように考えています。

「御笠川」の上流域でもあり、同時に筑後川支流の「宝満川」の上流域でもある場所が、福岡平野にも築後平野の旁余の諸国(旧邪馬台国グループ)にも通じ、卑弥呼が「都」とした中枢部だったと考えています。

後年、奈辺(福岡平野側)には「大宰府政庁」が置かれたことからもわかるように、地理的にみても交通や守りの要衝だったからです。

逆にいえば、太宰府近辺は卑弥呼が“都”とした「邪馬台国」の北の前線基地だったことから、後年、「大宰府政庁」が置かれる所以になったとも考えられます。

なぜ、奈辺が福岡平野と筑紫平野にあった30か国近い「女王国連合」を治めるのに適していたのかを書いておきます。

当地から、そのまま御笠川を北に下れば「不弥国」や「奴国」に通じ、博多湾に出て、「伊都国」に行けます。

では逆に、南はどうでしょう。

太宰府から少し南に「朝倉街道駅」があります。

気づきにくいのですが、いわゆる分水嶺になっています、

その脇を山口川が流れ、すぐに宝満川上流域と合流できます。

そのまま宝満川をくだり、久留米で筑後川と合流します。

築後川を左に遡行すれば、朝倉や日田(大分県)に通じ、右に下れば吉野ヶ里方面を経て有明海やくだんの「山門」に出ます。

宝満川や筑後川を交通のルートとして「邪馬台国」の南にあった旁余の21か国は連携していました。

この地が九州最大の筑紫平野部です。

これらの21か国は、もとより「邪馬台国グループ」を形成していたと考えています。

広い意味での“邪馬台国”です。

その中でも狭義の「邪馬台国」の“都”は、御笠川や宝満川の上流域近辺に位置し、交通にも守りにも便利な地理に位置します。

このことからいえるのは、グループの中でも古くからの歴史がある中心の国が「邪馬台国」で、それゆえ福岡平野で起きた“倭国の乱”の仲裁者として、女王「卑弥呼」を共立輩出できたといえます。


ただし、“女王”卑弥呼と「魏志倭人伝」に記されるものの、陳寿や一般に抱く女王のイメージとは異なり“お飾り”にすぎませんでした。

「女王国連合」の実権は、一大卒が置かれ魏の軍使が駐(とど)まった「伊都国」(王)が握っていたからです。

詳しくは、「“逆説”の邪馬台国-6」をご参照ください。

付記すれば、「狗奴国」(比定地:熊本県界隈)からの攻撃が強まるにつれて、魏と通じた伊都国王の力が必要になったことからもそういえます。


ちなみに、「魏志倭人伝」に記される“南”にあったとされる「狗奴国」は、のちの5世紀前半に記された『後漢書』では、海を渡った“東”に「拘奴国」(狗奴国、くなこく」)があったと記されています。

この2つが同じ「狗奴国」の場合、前後の歴史からの推測ですが、筑紫平野の旁余の諸国を席巻した狗奴国は、豊かな朝倉界隈を拠点とし、後日、伊都国をはじめとした女王国連合とともに東征したと考えられます。

推測されるストーリーは、卑弥呼の死後、伊都国王もしくは狗奴国王が立つも治まらず、13歳の「台与」が再び実権のない女王に立てられます。

和平に至った彼らは、その後、台与を旗印に東征し、5世紀の記録に海を渡った東に「拘奴国」があると記されるようになったともいえます。

いわゆる「神武東征」の実在モデルの一つとなったケースです。

いずれにしても、時代は不明ですが、安本美典氏が述べるように、「朝倉」近辺に拠点を築いたグループは、後年、「畿内大和」に治を移したといえそうです。


以上、現時点のデータから「邪馬台国」を比定してみました。












※注) 「鉄鏃」のデータは、WEBページ「13.遺跡は語る―考古学の成果からみると-総論-」(邪馬台国大研究 本編)より引用。

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