“逆説”の邪馬台国-鉄鏃
2020.09.24
 
【「鉄鏃」の出土分布が示す「邪馬台国」】

1、「鉄鏃」の出土分布

「邪馬台国」の“3世紀”を含めた弥生時代に出土した「鉄鏃」(てつぞく=鉄の矢じり)の出土分布を、先の「“逆説”の邪馬台国-地図」に掲載した周辺図に重ねると、下図のようになります。




「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)には、次のように記されています。

「兵には、矛、盾、木弓を用う。木弓は下を短く、上を長くす。竹箭(ちくせん=矢)には、或いは鉄鏃(てつぞく)、或いは骨鏃(こつぞく)。」

魏志倭人伝は、魏の郡使や軍事偵察隊の“偵察記録”をまとめたものでもあるために、倭人がどのような武器を使っていたのか多く記録されています。

たとえば、「矢」にはどんな種類の竹がもちいられているのか、また「矢じり」に何が使われているのか等々です。

ご存じのように、卑弥呼が共立されたキッカケになった「倭国の乱」(倭国大乱)が過去にありました。

卑弥呼が女王に共立されてのちも、南の「狗奴国」(くなこく)が攻めのぼってきたことが記されています。

つまり、「鉄鏃」が奈辺から多数、出土するのは、そこが邪馬台国近辺である以上、当然なのです。

邪馬台国の3世紀を含む弥生時代の「鉄鏃」の出土は、全国でも「福岡県」と「熊本県」がダントツです。

全国平均の“50個”前後に対して、それぞれ“400個”前後が出土しています。

一方、纒向遺跡を有する「奈良県」での出土は、わずか“4個”にすぎません。


2、重ねた地図から見えてくること

さて、上図を掲載した「いきさつ」を書いておきます。

「“逆説”の邪馬台国」シリーズ「1~6」の考察をふまえて、「“逆説”の邪馬台国-7」で邪馬台国の比定を試みました。

文章だけでは位置関係がわかりにくいと思い地図を作成したのです。

それが、「“逆説”の邪馬台国-地図」に掲載した周辺図です。

そのとき、ふと思ったのです。

この地図に「鉄鏃」の出土分布図を重ねたらどうなるだろう?

そこで、ご参考にさせていただいたWEBページ「13.遺跡は語る―考古学の成果からみると-総論-」(邪馬台国大研究 本編)から拡大して重ねてみました。

結果は「ビンゴ!」でした。

それぞれの比定地と、鉄鏃の出土分布が見事に一致したのです。

わかりにくい部分もあると思いますので、以下、かんたんにご説明しておきます。


3、福岡平野と旧「山門」の鉄鏃

上図から見えてくることは、福岡平野や広い筑紫平野のなかでも、出土がいくつかの地域に集中し、限定されていることです。

その周辺には、重要な国邑(こくゆう)があったことがわかります。

まず、福岡平野東部の「不弥国」(ふみこく)には、極端に片寄った「鉄鏃」の出土がみられます。

これは、倭国の乱(倭国大乱)が「不弥国」の地域で行なわれたことを意味します。

また、「伊都国」(いとこく)でも相応の出土がみられます。

これらのことは、その中間にあった「奴国」(なこく)が主に仕掛けたのかもしれません。

なぜなら、自国内で他国との戦争をはじめるバカはいませんので、鉄鏃が多く出てくるのは、生産工場があったケースもありますが、広い分布は他から攻められた証拠なのです。


それはともかく、筑紫平野に目を向けると次のようにいえます。

筑紫平野の南部と東部の2か所に「鉄鏃」の出土が集中しています。

“邪馬台国グループ”(女王国連合)の南端、「山門」(現みやま市瀬高)付近がその1つです。

この地に「鉄鏃」の出土が多くみられるのは、「狗奴国」に対峙した最前線だったので当然です。

「山門」の南には丘陵や山が有明海まで迫っており、そのためこのあたりが「狗奴国」との国境だったことを意味します。

魏志倭人伝には、「邪馬台国」(女王国)の南に“旁余の21か国”があったという記述があります。

「山門」を“邪馬台国”とした場合、それらの国々が立地する余地がないのです。

それは「山門」が、水行のみで行ける有明海沿岸部付近にあることからも、わざわざ“陸行1月”をかける必要がありません。

これらのことは、「邪馬台国 山門説」は成立しないことを意味します。

「山門」は、邪馬台国グル-プの中で南の境界に位置する「最前線」の地でした。

地名の「山門」をあえて解釈すれば、筑後川の河口域に位置していることからも、その上流域にあった「邪馬台国」の入口、すなわち“門”(扉)を意味し、南の玄関口だったといえます。


4、平塚川添遺跡の南北の「鉄鏃」

筑紫平野の東部に位置した「平塚川添遺跡」の周辺でも多くの「鉄鏃」が出土しています。

平塚川添遺跡は、筑紫平野北部にあった「吉野ヶ里遺跡」に匹敵する大規模な3世紀前後の環濠集落です。

ですが、ワケあってその発掘は充分に行なわれなかったようです。

それはともかく、朝倉市の西端部に位置する「平塚川添遺跡」の南北に「鉄鏃」の出土が集中していることは、戦略的な意味があります。

宝満川上流域の「邪馬台国」(比定地)を「狗奴国」など敵が攻撃した場合、その背後をついて挟み撃ちにできる位置に「平塚川添遺跡」はあるからです。

そのため、「邪馬台国」を攻める場合、「平塚川添遺跡」も同時に攻撃せざるをえません。

挟み撃ちに遭わないために、逆に、反対側から「平塚川添遺跡」を挟み撃ちにする必要があるのです。

それが「平塚川添遺跡」の南北に「鉄鏃」の出土が多く見られる理由です。

そのように「狗奴国」は、筑後川上流域から「平塚川添遺跡」に攻撃を仕掛けたことがわかります。


5、「邪馬台国」(比定地)南北の「鉄鏃」

「鉄鏃」の出土分布を重ねてみて、わかる重要なことがあります。

宝満川上流域の「邪馬台国」(否定地)のすぐ南にも、かなりの数の「鉄鏃」が出土しています。

国内に攻め入られたら終わりなので、宝満川を遡上してきた「狗奴国」に対して、この地で防戦したことがわかります。

場所は現在の「小郡市」(おごおりし)で、「鉄鏃」の多さからは、宝満川中流域のこの地が「邪馬台国」vs「狗奴国」の激戦地だったようです。

鉄鏃発掘の詳しい状況はわからないのですが、高速「大分自動車道」の建設によって発掘されたのかもしれません。

もし、そうであるなら周辺には、まだまだ発掘されていない3世紀前後の遺跡や出土品が眠っている可能性があります。


ただし、大和朝廷があった「纒向遺跡」とは異なり、地方には国からの予算がつかないのが現状です。

遺跡や出土品が眠っていたとしても、地方の発掘はなかなか進まないのです。

見つかっていないからといって「ない」とは言い切れません。

実際、かつては「出雲なんて神話にすぎない」と一蹴されてきました。

しかし、日本全国の出土数を上回る「銅剣」が、出雲市の「荒神谷遺跡」1か所から出土し、後年には、出雲大社から巨大な「柱」の遺構が出土したこともご存じのとおりです。

これらによって一気に実在の古代国家であることが認められました。

考古学の恐ろしさは、たった一つの出土品で、それまでの歴史認識が根本から変わることがあることです。

なので、出雲もそうですが、文献的に可能性がある以上、100%否定はできないのです。

史跡のなかには、古代から栄えた太宰府などのように、何度も建築物が建て変えられ、学問の神様 菅原道真をまつる「太宰府天満宮」をかかえる市街地として栄えていることからも、発掘は容易ではない地域があります。

何にもなかった山あいの土地を開墾して、「大宰府政庁」のような都市機能を建設することは、たいへんな時間と労力を要します。

そのために、むかしから相応の“国邑”や“都市機能”が存在するなど、相応にひらけていた場所を拡張するカタチで発展させた可能性は充分にあるのです。

なので「大宰府政庁」(近辺)が、古(いにしえ)の「邪馬台国」の“一施設”の場所だったとしてもおかしくはありません。


それはともかく、宝満川上流域の女王の都「邪馬台国」(比定地)をはさんで、南北に「鉄鏃」の出土が多く確認できることは、重要な“国邑”また“施設”があった証拠だといえます。

従来のように、「魏志倭人伝」の里程と日程による行程を「連続」して比定地を推測するではなく、帯方郡からの“里程”と“日程”との「並列」(併記)だと常識的に解釈すれば、新たな発見があるのです。

博多湾に流れ込む「御笠川」の上流域でもあり、また有明海に流れ込む筑後川の支流「宝満川」の上流域でもある奈辺は、「鉄鏃」の出土数や守りや交通に便利な位置であることからも、“北部九州連合”こと女王国連合の“都”「邪馬台国」(比定地)として充分に候補になりえます。


断定はいたしません。ほかのかたの見解もご参考にご自由に推測ください。










※「鉄鏃」の出土分布は、WEBページ「13.遺跡は語る―考古学の成果からみると-総論-」(邪馬台国大研究 本編)をご参考にさせていただきました。


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