“逆説”の邪馬台国-番外編
2020.10.02
 
【畿内“日本国”の正体】

「卑弥呼」と「邪馬台国」は、シナの古代史書にしか記されていません。

そのひとつ『旧唐書』には、「倭国伝」と「日本伝」が併記されています。

次の『新唐書』になると「日本伝」のみになりますが、そこには「倭国」と「日本国」とが“合併”また“国名変更”をしたことが記されています。

唐直前の時代がそういうことで、それ以前の「魏志倭人伝」(『魏志』倭人条)に記される「卑弥呼」また「女王国」の3世紀には少なくとも「倭国」と「日本国」があったことがわかります。

もし、これらの史書を“偽書”だと否定するなら、「邪馬台国」そのものが“なかった”としなければつじつまが合いません。

事実は、唐がはじまる直前までは、「倭国」と「日本国」があったのですが、唐の時代(618年~)にはすでに「日本国」に合併していたのが事実です。


1、畿内は「邪馬台国」か

すでに滅びた「邪馬台国」です。

畿内の纒向遺跡が“邪馬台国”でもなく、箸墓古墳が“卑弥呼”の墓でもない、ごく簡単な理由があります。

まず、一般に「邪馬台国」(やまたいこく)を“ヤマト国”と読む人がいます。

しかし、そんな固有名詞の国はなかったかもしれません。

支那人がわざわざ「台」の字を用いて「邪馬台国」と表記した以上、天子直属の政庁“うてな”(台)に相当する女王「卑弥呼」の“都”「ヤマ国」を、“邪馬台国”と表記したかもしれないのです。

一方で、世々「王」がいて、一大卒がおかれ、政治の中心として諸国を検察していた「伊都国」は、当時の“倭国”(女王国連合)の“首都”機能を果たしていたために、“都”の文字が用いられています。

文字にウルサイ古代支那人は、“首都”の「都」(伊都国)と女王の“都”の「台」(邪馬台国)を使い分けたのです。

それゆえ陳寿は、逆に東夷の「倭の女王」の“都”とはいえ天子(皇帝)の直属にもちいる「台」(臺)の字を使うのは、“けしからん”と考えて、邪馬臺国(台)ではなく“邪馬壹国”(壱)に変えて「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)を記したのかもしれません。

まあ、「壹」(壱)でも“もっぱら”という意味がありますので、そう悪い意味ともいえません。


それはともかく、「邪馬台国」を“ヤマト国”と呼んで、それがのちの「大和朝廷」になったと畿内説学者らは考えているのです。

また、このことを根拠に、“邪馬台国は「大和」であり畿内だ”と単純にとらえるかたもいるようです。

本当でしょうか?

もし、そうなら、初代「神武天皇」以来、万世一系の「大和」を記したのが、ご存じ『日本書紀』です。

なので、3世紀の項目に「ヒミコ」が“女王”(女帝、天皇)の一人として堂々と明記されていなければなりません。

ですが、どこにも女王「卑弥呼」が記載されていないのはなぜなのでしょうか。

“決め手”となるお答えは、後述いたします。


2、九州「倭国」は6世紀まであった

「統一大和」(7世紀以降の大和朝廷)は、奈良盆地であって、3世紀の「邪馬台国」があったと畿内説学者は主張しているのですが、そうであればあるほど大和朝廷の正史である『日本書紀』に、女王「卑弥呼」が何らかのかたちで記されていなければおかしいのです。

さらに、彼らは、纏向遺跡から3世紀のあったと思われる“巨大宮殿”の跡が出土したから“卑弥呼”の宮殿だと決め付けています。

ですが、実は確実な“決め手”となる証拠は出ていないのです。

そういった畿内学者の説やマスコミ報道を読んで、一見、なるほどと思われる方もいらっしゃるでしょう。

それは『日本書紀』に記される初代“神武天皇”の古来から、日本は一つだったとする「統一大和史観」が刷り込まれているからです。

後述いたしますが、そういえる「統一大和」が誕生したのは7世紀に入ってからです。

実際、『日本書紀』にも畿内から、日本全国各地に将軍や皇子また天皇ご自身が征討に向かったことが記されています。

ほかに国が各地にあった事実は記さざるをえなかったのです。

「統一大和」がはじまる直近の6世紀でも、継体天皇の時代に畿内“ヤマト”に服属しない「磐井の乱」が北部九州で起きています。

『日本書紀』には、“鎮圧”したかのように記されていますが、結果は「糟谷(かすや)の屯倉(みやけ)」一つしか献上されていないところをみると、実際はせいぜい“和睦”でしかありません。

つまり、九州「倭国」は、唐に至る直前の時代まで、存続していたのです。

これについても後述いたします。


さて、『日本書紀』に「卑弥呼」は出てこないと書くと、畿内説のかたは次のように反論するでしょう。

「卑弥呼」ではなく別の名前「天照大神」で出ている。

詳しいご説明は面倒なので省きますが、「天照大神=卑弥呼」ではなく、天照に象徴される一部にすぎず、「天照大神>卑弥呼(各地の王や神)」というのが正解です。

なぜ、卑弥呼を「天照大神」だと間違って解釈するのかというと、「卑弥呼」を証拠もなく推測で、“日巫女”に違いなだと決めつけてしまうからです。

まず、事実は卑弥呼は「鬼道」につかえていました。

しかし、「天照大神」が、そんな鬼道をもちいた記述はありません。

「“逆説”の邪馬台国-6」でも書いたとおり、「鬼道」をもちいた卑弥呼は、“日巫女”などとは真逆に「霊御子」(霊見子)であることを見逃しているのです。

現代人は、そのことを忘却してしまいました。

鬼道ゆえに、「ひ」は古代の“霊”(高皇産霊尊:たかみむすひの“ひ”)のことでしかありえません。

死者の“霊”(ひ)を呼び込んで、口寄せをすることを支那ではゴースト(幽霊)“という意味の“鬼”をもちい鬼道”と表現しました。

もう少しかっこよくいえば“託宣”を「ヒミコ」は行なっていたのです。

それゆえ、太陽の神でもある「天照大神」と真逆で直接の関係はありません。

「卑弥呼」が“日食”で殺されたという説も、まったくの推測であって、それが真実だとする根拠はどこにもないのです。

事実、畿内でも九州でも当時、皆既日食は実際には起きていないことがわかっています。

にもかかわらず、“日巫女”ゆえに“日食”で殺されたと信じ込んでいる人が多いのです。


3、“大和帰還”は「畿内国東征」だった

では、天照大神が卑弥呼ではないとしたら、それ以外に3世紀の「ヒミコ」に相当する“女帝”(天皇)は『日本書紀』に記されているのでしょうか。

残念ながら、現在の『日本書紀』には見当たりません。

初めて“女帝”が記されているは、7世紀の「推古天皇」だからです。

3世紀の卑弥呼とは時代が合いません。

ところが、ところが。

応神天皇の母親である「神功皇后」(オキナガタラシヒメ)は、かつて『日本書紀』では「天皇」とされていました。

学術的な生存年代はともかく、『日本書紀』の年代では、“神功皇后”はピタリ「3世紀」の人物として記されています。

畿内論者からは、「ほらみろ!」という声が聞こえてきそうです。


でも違うのです。

『日本書紀』には、次のことが記されています。

3世紀後半~末あたりに「神功皇后」は、子供の応神天皇(ホムタワケ)とともに「大和帰還」を果たします。

皇位を簒奪しようとしたホムタワケの兄「忍熊王」(オシクマ)らを討ちとったことが記されています。

では、どこから“大和帰還”をしたのでしょうか。

『日本書紀』にちゃんと記されています。

応神天皇は「筑紫」(九州福岡)で生まれています。

その応神を抱えて、神功皇后は「北部九州」から“大和帰還”を果たしているのです。

つまり、応神も神功皇后も「北部九州」(倭国)にいたことを『日本書紀』は記しています。

万世一系を主旨とする『日本書紀』ゆえに、“大和帰還”と記さないとつじつまが合わなくなるのですが、実際は「大和東征」です。

それを住吉大神こと武内宿禰の助けを借りて行なっているです。

この一事は、「神武東征」の実在の“モデル”の一つともなっています。


かといって、神功皇后は「卑弥呼」ではありません。

卑弥呼は、すでに邪馬台国で亡くなり、魏志倭人伝にも「夫婿(ふせい)なし」と記されていることから、結婚はしておらず子供もいません。

ここでいう“神宮皇后”は「トヨ」(台与)のことなのです。

「邪馬台国」を“都”とした女王「卑弥呼」を共立した「女王国連合」は、卑弥呼の死後、男王が立つも再び乱れ、2代目女王「トヨ」を13歳にして立てて治まります。

新たな“女王国連合”こと「北部九州連合」は、大人になり“御子”を産んだ女王「トヨ」を旗頭に、当時の3世紀末の「畿内国」(のちの日本国また大和)へと“大和帰還”と記される実際上の「畿内東征」をしているのです。

そこで、“国を譲り受けた”ために、のちの「天皇」(大王)の和風諡号には、「豊」(トヨ)という文字がよく出てきます。


4、大和(大倭)は7世紀から

ほかにも、いくつか書いておきます。

畿内が、「大和」(大倭)と呼ばれるようになったのは、小国「日本国」が九州「倭国」を吸収合併するかたちで統合された6世紀末~7世紀初頭のことです。

「倭の女王」卑弥呼の倭国は、それまでどこにあったのでしょうか。

『隋書』『旧唐書』『新唐書』などを読むと、倭国には「阿蘇山あり」と記され、さらにハッキリと「竹斯国」(筑紫国)と記されていて、さらには「倭王は筑紫城に居す」とまで記されています。

ご賢察のとおり、北部九州(福岡界隈)です。

6世紀末の九州「倭国」王“アメノタリシヒコ大王”は、隋の文帝に「政務を弟に委ねる」と、これまで冊封下にあった“仁義”をきると、6世紀末~7世紀のはじめに、弟国の畿内「日本国」に九州「倭国」合併させるかたちで支那の冊封下から離れて“独立”を果たします。

それが、畿内「大和」(大倭)、すなわち「日本国」のはじまりです。

合併後、アメノタリシヒコは、隋の2代目 煬帝(ようだい)に書簡をあてます。

それが有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子にいたす、恙なきや」という“天子”どうしの挨拶で、事実上の「独立宣言書」なのです。

もちろん、支那は、そんことは恥ずかしくて「史書」(隋書)に詳細を残してはいません。

ですが、『旧唐書』に併記されていた「倭国」伝と「日本」伝は、次の『新唐書』になると「日本」伝のみに改められて、「統一大和」の姿が浮かび上ってきます。

つまり、古い『後漢書』また「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)に記されていた九州「倭国」と、畿内(本州)「日本国」は、歴史の事実としては「7世紀」に“統一大和”(大倭)を築き、ここから大和朝廷へと連なっていきます。

「畿内説」の“学者センセイ”に言わせると、これらは“偽書”なのだとか…。

ですが、畿内説(纒向説)学者や研究者は、“詭弁”を弄してなんでも“こじつけ”ることは、すでに良識的な考古学者や研究者のあいだでは、よく知られたお話です。


5、「纏向遺跡」の正体

では、最後に3世紀の畿内は、倭国の「邪馬台国」でもなく、「大和」でもなかったのであれば、「纏向遺跡」や出土した「巨大宮殿」はなんなのでしょうか。

答えは簡単で、考古学の常識を無視せずにいえば、「青銅器文化圏」の国です。

九州「倭国」は、2世紀にはすでに「鉄器文化圏」に移行していたことが考古学から明らかで、「魏志倭人伝」に記される鉄鏃(てつぞく:鉄の矢じり)なども数多く出土しています。

いくら、巨大宮殿遺跡が出たからといって、「邪馬台国」と書かれているわけでもなく、3世紀はまだ別の国だったのですが、あえて答えを申し上げますと、“出雲”を盟主とするゆるやかな本州「大国主連合国」の“集会地”だった場所です。

なぜかといえば、出雲につうじる「青銅器文化圏」もそうですが、『日本書紀』によれば「神武天皇」によって“国譲り”が行なわれた地だからです。

初代「神武天皇」が御即位された“紀元前660年”、この時代の“神武”のモデルとなった人物や出来事については、ここではふれませんが、3世紀後半~末の時代に畿内国に「東征」し、“神武”のモデルの一つともなった実在の人物は、『日本書紀』にも記されるとおり上述いたしました。

畿内の「三輪山」などに出雲系の「大物主神」らが祀られるように、「大国主命」らが、もともとは3世紀中頃過ぎまで治めていたので、“国譲り”で祟られないように封じているのです。

そういったことなどから、本州を広くゆるやかにまとめていた「大国主連合国」の“集会地”だったといえます。

「大国主」という名称自体が、“古くからの国の主”という意味なのです。

纏向遺跡には、人が居住した痕跡が少ないことから、“集会地”や“祭祀場”また収穫などの“情報交換”の場だと考えられます。

いずれにしても、出雲系の国で、3世紀中頃過ぎまで奈良盆地(纒向)にありました。


これが“ヤマト”になったというのであれば、3世紀後半~末に九州「倭国」から、神功皇后こと「トヨ」を旗印にして、“大和帰還”こと実質の「東征」によって“都”「邪馬台国」から“ヤマト”(台与の“ト”)と呼ぶようになったといえなくもありません。

確実には、九州「倭国」と畿内「日本国」(弟国)が合併したのち、「大和」(大倭)として7世紀に礎が築かれ、後半あたりに「統一大和」が正式にはじまったといえます。

その合併の功労者は、「蘇我氏」です。

そのさい、邪馬台国の「卑弥呼」(2代目「台与」)が共立されたのと同様に、御輿に担がれた“女帝”こそが「推古天皇」(トヨミケカシキヤヒメ)なのです。

なので、推古(トヨミケカシキヤヒメ)は、3世紀末に「北部九州連合」(倭国)の旗頭となって、畿内に東征した「トヨ」の末裔か、あるいは九州倭国に残っていた「トヨ」の末裔などを、「和」の象徴として立てた可能性が高いといえそうです。

それが『日本書紀』に最初の“女帝”として記されることになった理由です。















- CafeNote -