“逆説”の邪馬台国-書紀編2
2020.10.09

【『日本書紀』の中の“邪馬台国”】


先回の続きです。

何のために『日本書紀』は編纂されたのでしょうか。

学者は、『日本書紀』が漢文による編年体で記されていることから“海外向け”だとし、『古事記』は大和ことばを漢字をもちいた当て字で表記されていることから“国内向け”だとしています。

失礼ながら、上から目線で採点すれば30点程度の回答です。

相応の編集経験からいえば、『日本書紀』には明確な“編集方針”があります。

このことを理解しないと、“字づら”に目を奪われて、『日本書紀』が記したくても書けなかった歴史の“行間”が見えなくなります。

逆にいえば実際の歴史を曲げてでも“作文”せざるをえなかった箇所もあるのです。

『日本書紀』の「編集方針」に関しては、かなり前に「宝瓶宮占星学」サイトで触れたので、詳しいご説明はいたしませんが、結論を記せば次のようになります。


『日本書紀』の編纂方針

1、「万世一系」の皇統が第一の目的。

2、初代「神武天皇」からの独立統一大和として記す。

3、豪族臣民は天皇に連なる“一族”であることを記す。

4、できるだけ史実に沿って記す。


重要度(優先順位)は、番号順です。

これら、1、「万世一系」は絶対方針で、2、「独立統一大和」としての一国史はメインテーマで、3、天皇を中心とした「一族」としての大和民族は、“和”また“一体感”をもたらそうとするものです。

そのうえで、4、「実際の歴史」を史実に沿って、できるだけ“忠実”に記そうとしたのが『日本書紀』です。

もちろん、記録や伝聞に残っていた範囲でのお話です。


1、「万世一系」の象徴「文武天皇」

以上を、簡単にご説明しておきます。

初代「神武天皇」以来、“ヤマト”(畿内)における7世紀末の第42代「文武天皇」にいたる「万世一系」だけは、どうしても譲れないのが『日本書紀』です。

天武と持統の孫、珂瑠皇子(かるのみこ)を「文武天皇」としてご即位させ、「万世一系」を確立させることが『日本書紀』の第一目的だからです。

そのため、持統天皇が孫の珂瑠皇子に譲位し、「文武天皇」がご即位したところで『日本書紀』は終わっています。

結局、「文武天皇」の“正統性”を記しているのです。

以降、天武系と持統天皇の天智系によって皇統が引き継がれていきます。

そこにいたるために、神武以来の系譜(皇統)を操作した箇所がないとはいえません。

ですが、あえて言わせてもらえば、詳細は省略せざるをえませんが、結局のところ日本古来の“皇統”に現在は戻っているといえます。


2、神武以来の“統一大和”一国史

「万世一系」の次は、初代「神武天皇」以来の「独立統一大和」の一国史として記すことです。

歴史的事実としては、6世紀末~7世紀初頭に畿内「日本国」と九州「倭国」が合併してのちが統一大和なのですが、畿内「日本国」は、神武の“モデル”となった人物が3世紀末に東征して“国譲り”を受けた、いえあば“弟国”(独立国)です。

つまり、“兄弟国”なので、広義の意味では「大倭国」(大和)といえなくもありません。

このような『日本書紀』のカラクリを見抜けないと、当初からの大和国家だったと勘違いし、「邪馬台国はヤマト(畿内)だ」という“ファンタジック”な思考の“ヤカラ”が出ることになります。

何を書いているのかというと、次のようなことです。

『日本書紀』は、古代からの“統一独立国家”「大和」として描いたために、紀元前660年の神武天皇以前に「国」はなかったことにしました。

しかし、実際は神武の“モデル”となった人物の東征によって「ヤマト」(畿内国)がはじまっていきます。

ところが、その史実を『日本書紀』は、書き残せないのです。

繰り返しますと、当初からの「統一独立国家」(大和)としたために、実在の“神武”による「ヤマト東征」(畿内東征)以前からあった全国各地の実際の「国々」の存在や歴史を書き残せなくなったのです。

ここが重要なのです。

畿内国の時代に、“神武”が出発した九州に筑紫国などの倭国があり、四国には阿波国があり、瀬戸内海には吉備国があり、日本海側には出雲国、丹後国、越国などがあり、ほかにも尾張国や関東王国など、少なくともその前身となる国邑(こくゆう)がありました。

それらの国の存在を記せなくなったために、今も多くの人々の意識にのぼってきにくくなっています。

結局、『日本書紀』は、ヤマト(東征)以前の歴史のなかで、重要な九州「倭国」と、出雲国をはじめとした本州「大国主連合」(仮)の歴史を、「神代」(上、下)に、“神話”かのように書き記したのです。

そのため、“神話”のようにみえて「神代」(上、下)は、実際の古代史を「史実」をベースに書き残したものです。


もし、「神代」のお話がまったくの「神話」なら、かってに“創作”できます。

適当でもいいし、都合のいいように書けるのです。

ところが、『日本書紀』の「神代」(上、下)を読まれた方ならご存じのように、「神代」には多くの「一書」(あるふみ、別伝)が多く残されてています。

創作された「神話」ならそのようにする必要はありません。

ちなみに、「神代」の分量を比較すると、「本文」が2割弱なのに対し、数々の「一書」(別伝)は7割を超えるページが割かれているのです。

この一事をみても、数々の記録や言い伝えが残る、“神武”以前の歴史をなるべく忠実に書き残そうとしたことがみえてきます。

逆に、神武天皇にはじまる「人代」(歴代天皇紀)に入ると、「一書」はありません。

そういう体裁を『日本書紀』はとっているのです。


3、「神代」に出てくる大已貴神の国

では、「神代」には、どんな歴史が書かれているのでしょうか。

1、神代(上)
「神々の誕生」と「高天原」の天照大神と素戔嗚尊、さらには「大已貴神」の古代の国づくり。

2、神代(下)
大已貴神がつくられた古代国「葦原中国」(あしはらの なかつくに)を天孫族が平定、高天原からの「天孫降臨」、そして「神武誕生」にいたる系譜(エピソード)です。


ここで「神代」は終わり、いよいよ「神武天皇紀」がはじまっていきます。

「大和東征」と「ご即位」(建国)が描かれます。

つまり、「神代」(上、下)は、“神武”のモデルとなった実在した人物による実際の「東征」以前の「古代日本」の姿を記しているのです。

当初からの「独立統一国家 大和」一国史として記すのが『日本書紀』なので、建国以前に実際の国があったことやその歴史は、リアリティーをもって書けません。

そのため、“神話”かのように「神代」に記しているのです。

ちなみに、日本語の“神”は、西洋の「創造神」(THE GOD)とは異なります。

「かみ」(神)は、「お上」(おかみ)や「上流」また「おかみさん」などのように、“支配層”や“古い”(昔)また“生まれ出る源”などのことをさします。

つまり、「神代」という意味は、西洋的な神々のお話(神話)という意味ではなく、神武が建国する以前の「古代」、すなわちヤマトが生まれ出る“源の歴史”といった意味をもちます。

そこで活躍したのが「神」(かみ)であり、また「貴」(むち)や「命」(みこと)「尊」(みこと)など「とうといお方」という意味です。

『日本書紀』は、なるべく歴史の事実を残そうとしましたので、日本の礎を築いた“尊い”先人たちを、そのように「神代」で尊称をつけて記したのです。


素戔嗚尊(すさのおの みこと)につらなる大已貴神(おおあなむちのかみ:大国主命)の古代の国づくりもそうです。

この国は、実在した「出雲国」をはじめ、大国主神(おおくにぬしのかみ)らによる本州「大国主連合」(仮)のことで、神武東征によって“解体”していきました。

その“集会地”こそが、ヤマト(畿内)の纒向です。

なぜそうなのかは、“神武”のモデルとなった実在の人物によって、“国譲り”をさせられた神々は、結局、大已貴神の国づくりを助けた「大物主神」(おおものぬしのかみ)は、大神神社(おおみわじんじゃ)こと「三輪山」に祀られ、大已貴神(大国主神)は、出雲の「出雲大社」(いずも おおやしろ)に祀られるからです。

ちなみに、「神武天皇紀」では、饒速日命(にぎはやひのみこと)の国譲りとして記されます。

これは、物部氏こそが「大国主神」に連なる日本古来“大”の“国主”だったことを意味します。


4、「神代」に出てくる九州「倭国」

一方、「神代」に出てくる「天照大神」や皇祖「高皇産霊尊」(たかみむすびのみこと)は、どの国を象徴しているのでしょうか。

天孫族がいた「高天原」は、九州「倭国」を意味します。

理由は簡単です。

初代「神武天皇」は、当時はどこだったのかはともかく“日向”すなわち「九州」からヤマト東征に出発したためです。

天孫降臨した「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)の4代目「神武」が東征に出発した場所は、「神代」でいう「高天原」にかかわる実在の地です。

なので、「高天原」は神武が東征に出発した「九州」(倭国)なのは明白です。

ちなみに、なぜ「高天原」と呼ぶのかというと、皇祖「高皇産霊尊」と「天照大神」の国だったからです。

2人の頭文字をとって、「高」+「天」+原(国)です。

「神代」に記される「高天原」のエピソードは、「古代九州」また「九州倭国」で起きた出来事を、コンパクトかつ象徴的にまとめたものです。


皇祖「高皇産霊尊」も九州にいました。

北部九州には「高木神」を祀る神社や伝承(エピソード)が数多く残っています。

明治以降、天皇家の先祖「皇祖神」となった「天照大神」も、元は九州なのですが、こちらは少々複雑です。

なぜなら、『日本書紀』は、天皇と臣民が一体の「統一大和民族」を形成するために、「天照大御神」を崇めれば、すべての臣民が自らの“先祖神”を祀ることになるよう、天照大御神のエピソードを少々創作したからです。

ベースは、当初、九州にいた物部氏の祖「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてるくにてるひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひのみこと)で、「男神」です。

ですが、『日本書紀』は、天照大神を“キャラ変”させて、素戔嗚尊との誓約(うけい)を記すことによって“血統”を交錯させ、高天原の天照大神を出雲系と融合させる記述を「神代」で行なっています。

さらには、九州「倭国」の卑弥呼(台与)をはじめとした豪族らの王や先祖神を「天照大神」に“習合”させて、日本(大和)の“象徴神”に巧みに仕立て上げています。

ここでは、「女神」にもなって、後世の第41代「持統天皇」との類似性をもたせる工夫をしています。

それは、『日本書紀』の狙いなのです。

どういうことかというと、「天照大神」を祀れば日本全国の豪族臣民らが自らの“王”や“女王”また“先祖神”を祀るのと同義にして、「天皇」のもとに結集できるようにしたものです。

それゆえ、日本ではときの権力者が替わろうとも、“和”の象徴「天皇」には手出しをしなかったのです。


5、ご参考

ご参考に付記しておきます。

『日本書紀』のこのような「編纂方針」は、7世紀当時の国内外の情勢に起因しています。

“権力亡者”ともいえるハネっかえりの「中大兄」(なかのおおえ:天智天皇)は、朝鮮半島での「白村江の戦い」に大敗し、日本国は「唐羅連合軍」からいつ攻め込まれてもおかしくない極東情勢のなかにありました。

ただし、唐と新羅は仲たがいをはじめ戦争になりましたので、日本を攻める余裕はなかったことがのちにわかりました。

さらに、国内に目をむけても、ようやく天皇に即位した中大兄こと「天智天皇」は、病床で正統な後継を無視して、息子の大友皇子(おおとものみこ、:追諡:弘文天皇)に皇位を託します。

これによって、古代最大の内乱「壬申の乱」が起きました。

大友皇子を倒して、「壬申の乱」に勝利した大海人皇子(おおあまの おうじ)こと「天武天皇」は、自らの「皇統」の正統性を証明すると同時に、千年のちも皇位争いを起こさないことを誓います。

同時に、日本を一つにまとめて海外に対抗できるパワーをそなえるべく、『日本書紀』の編纂を命じたのです。

そういった壮大なグランド・デザインのもとに、「独立統一国家 大和」を早急につくる必要がありました。

その“バックボーン”となるのが『日本書紀』です。

天武の皇子「舎人親王」(とねりしんのう)と当時の状況を理解した「藤原不比等」(ふひと)は、「万世一系」の確立と、「天皇」のもとに臣民が一致団結した「独立統一国家」を築くために、天武天皇の遺志を受け継ぎつつ、『日本書紀』を編纂したのです。












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