“逆説”の邪馬台国-書紀編3
2020.10.11
 
【『日本書紀』の中の“邪馬台国”】


今回は、神武天皇の“モデル”を生んだ「邪馬台国」をお伝えいたします。


先回までの『日本書紀』(神代)のお話はご納得いただけましたでしょうか。

『日本書紀』は、神武東征以降の「独立統一大和」“一国史”として記されました。

そのため、神武以前の歴史は、「神代」(上、下)の中に“神話”かのように記されています。

そこに記される「高天原」は、九州から東征した初代「神武天皇」ゆえに、“古代九州”での出来事であることを意味します。

さらに現実的なお話をすれば、『日本書紀』は、“紀元前660年”を「大和建国」としましたが、それには別の意味があって、実際には3世紀末に九州から「畿内東征」を行なった人物や出来事を神武東征の“モデル”の一つとしています。

このあたりの実際の歴史は、『日本書紀』の「神功皇后紀」に“3世紀”のお話として、象徴的に記されています。

いずれにしても、「高天原」のエピソードは、「古代九州」や2世紀の倭国の乱(倭国大乱)から3世紀にいたる卑弥呼や台与の「九州倭国」での出来事を、象徴的に記録したものです。


1、その後の「邪馬台国」

さて、『日本書紀』には「高天原」の「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)の天孫降臨が記されます。

その4代のちの天孫が初代「神武天皇」で、神武誕生にいたる経緯が記されています。

「神代」のお話はそこで終わり、人代にうつっては最初の「神武天皇紀」において、“大和東征”と“ご即位”による「日本建国」が語られます。

これらのお話を、史実に置き換えてみます。

「高天原」にたとえられた“古代九州”、とくには「九州倭国」において、3世紀後半に「神武天皇」の“モデル”となった人物が誕生し、3世紀末に「古代海人族」(あまぞく)の助けを受けて「畿内東征」に至ったことを意味します。

もう少し具体的に申し上げますと、「魏志倭人伝」には記されない「邪馬台国」のその後や「北部九州連合」こと九州「倭国」の一部が東征に至ったお話になります。

一例を挙げますと、3世紀末に記された「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)では、「狗奴国」(くなこく)は女王国の境界が尽きた南にあると記されていました。

しかし、5世紀前半に記された『後漢書』では、拘奴国(狗奴国)は「邪馬台国」の東に移動しているのです。


卑弥呼は、魏志倭人伝に「夫婿なし」と記されていることや、3世紀中頃には亡くなっていますので子どもはいません。

そのため、宗女(一族の女)で13歳の「台与」を2代目女王にかつぎ上げて「北部九州連合 倭国」に再び起きた内乱は治まります。

この「台与」であれば、子を生んだ可能性は充分にあります。

政略的に考えられるケースとしては、狗奴国王「卑弥弓呼」(ひみここ)を含めた「北部九州連合 倭国」を治めた“男王”との政略結婚によって、子を産んだといえるでしょう。

いずれにしても、卑弥呼と同様に御輿にかつがれた名目上の女王ながら「台与」と「その子」を旗頭に、3世紀末に「北部九州連合 倭国」を率いて東征を主導したした人物がいて、これら一連の出来事が、実在の“神武東征”のモデルです。

今回は、その人物や詳細についてまで、触れることはいたしません。


ちなみに、東征に出発した地は宮崎県の「日向」ではありません。

なぜなら、宮崎が「日向」と呼ばれるようになったのは、7世紀後半の律令制によってだからです。

『日本書紀』には記されませんので『古事記』から引用しますと、イザナギとイザナミの国生みに宮崎は出てきません。

国生みに出てくるのは、まず四国の4国と隠岐の島、そして九州の4国と壱岐に対馬です。

最後に本州が出てきます。

九州の4つの国とは、筑紫国「白日別」(福岡)、豊国「豊日別」(大分、福岡東部)、肥国「建日向日豊久士比泥別」(佐賀熊本)、熊襲国「建日別」(熊本以南)です。

宮崎が該当するとすれば「熊襲国」ですが、天皇に敵対した熊襲から初代天皇が出ることはありません。

なので、『日本書紀』に記される天孫降臨の「日向の襲の高千穂」というのも、神武の「東征」の出発地も、7世紀後半以降に「日向」となった宮崎ではありえません。

ではどこなのかというと、いまも「日向」の地名が数か所に残る北部九州(倭国)です。

奈辺が「神代」に「高天原」と記された地域です。

では、なぜ北部九州にあった「日向」の地名を、南九州に移したのかといえば、北部九州(倭国)が「天孫降臨」や「東征」の地「日向」だと、どうしても“マズイ”理由があるからです。

その代表的な理由は、次のようなことです。

「独立統一国家 大和」を7世紀以降に実際に築くにあたって、魏をはじめとした支那の冊封下にあった卑弥呼の「北部九州」(倭国)だと、“独立”の所以を保てないからです。

もっとも、「大和一国史」をとる学者らは気づいていませんが、6世紀末~7世紀初頭に、倭国王「アメノタリシヒコ大王」は、隋の高祖「文帝」に“仁義”を切り、九州「倭国」の政務を“弟”の畿内「日本国」に譲り、吸収合併させるかたちで、支那の冊封下から離れることに成功しています。

ふつうなら、支那から討伐軍が来てもおかしくないのですが、当時の隋は戦争末期でもあり、とでもそんな余力はありませんでした。

そこを読みきった「アメノタリシヒコ大王」の外交戦略の大勝利です。

なので、名実ともに日本全土は「独立国」となりましたので、問題はありません。

そのとき、隋の2代目「煬帝」(ようだい)に送ったのが、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子にいたす」という事実上の「独立宣言書」なのです。

そして隋は、その直後に滅びています。

このような輝かしい業績や仏教伝来(興隆)の実績をもつ九州倭国王「アメノタリシヒコ大王」の“功績”を奪うために、『日本書紀』(不比等)が考えた“架空”の人物が「聖徳太子」(厩戸皇子の虚像)です。

ですが、支那の史書に「冠位十二階」などを定めたのは「男王」と記されているのに、当時は女帝「推古天皇」の御世なので、誰が考えてもつじつまが合わず、摂政「聖徳太子」ではおかしいことはわかります。

わからないことを承知で、大和説の学者らは、“こじつけ”ているのです。



2、日本古来の「山族」と新参「海族」

では、“神武”は実際のところ、どのような経緯で誕生したのでしょうか。

『日本書紀』によれば、神武の父は「彦波瀲武兎鷀草葺不合尊」(ひこなぎさたけ うがやふきあえずのみこと)と申し上げます。

彦波瀲武が生まれるにあたっては、その父「彦火火出見尊」(ひこほほでみのみこと)こと“山幸彦”と、その兄「火闌降命」(ほのすそりのみこと)こと“海幸彦”のお話が、「神代」(下)に記録されています。

なぜ「山幸彦」と「海幸彦」なのかは、次のとおりです。


古代日本には、原住日本人の「山族」(広い意味では古代「海人族」もふくむ)がいました。

縄文系の彼らは河川を遡り、防御に適した豊かで開けた土地に都や群落を築き、平和に暮らしていました。

そこに南方の島々や、また西方や北方の大陸から流れてきたり、戦さに破れて海をわたってきた渡来人がいました。

彼らは、武器を持っていましたので、日本の沿岸部に住み着き国を築きます。

これが新参の「海族」です。

一方、南方のポリネシアをはじめ、古代中近東から来たフェニキアやヒッタイト系また国を失くした古代イスラエル人をふくむ「古代海人族」は、日本原住の「山族」と協力して、独自の製鉄技術などを教えて古代国づくりをすすめています。

これに対し、弥生中期前後に大陸から来た新参の「海族」は、戦争で敗北した経緯もあって、1~2世紀に北部九州で鉄器文化が栄えると、領土をめぐって争いを起こします。

それが、福岡平野で起きた「倭国の乱」(倭国大乱)です。

一方、「邪馬台国」をはじめとした日本古来からの「山族」は、広大な筑紫平野に約7万戸の“邪馬台国グループ”を築いて穏やかに暮らしていました。

それらの国邑(こくゆう)のなかで、徐福の船団の末裔にもかかわり、古くからの歴史があったのが、福岡平野にもほど近い位置にあった「邪馬台国」でした。

それゆえ、御輿にかつがれた“お飾り”ながら、邪馬台国を都とした「卑弥呼」は女王に共立されたわけです。

ちなみに、“邪馬台国グループ”(筑紫平野)の南にあった「狗奴国」は、呉から流れ着いた渡来人が相応に多かったことがわかります。

そのため、彼らは呉をバックに、当時の大陸の三国志のミニ版として、魏を後ろ盾にした「邪馬台国」(女王国連合)に戦さを仕掛けています。

そういったこともありまして、「女王国連合」の政(まつりごと)を事実上、とりしきっていた「伊都国王」(いとこくおう)は、女王「卑弥呼」の名によって、魏に援軍を要請する使いを送ります。


3、「山幸彦」と「海幸彦」

さて、神武天皇に連なる「山幸彦」と、敵対した「海幸彦」のお話に戻ります。

結局、上述したような日本古来の「山族」(邪馬台国)と、大陸から来た新参の「海族」との争いといった北部九州での歴史の一コマは、『日本書紀』(神代)に善良な「山幸彦」と少々いじわるな「海幸彦」のお話として記されています。

争いの結末は、古代海人族の「塩土老翁」(しおつつのおじ)や「海神」(わたつみ)の助けをかりた「山幸彦」に、「海幸彦」は降参して従うことになります。

従うことになったゆえに、「万世一系」とともに「独立統一大和」また「天皇のもとにある大和一族」を築くために記された『日本書紀』は、“山族”の山幸彦こと「彦火火出見尊」と、“海族”の海幸彦こと「火闌降命」を、ともに鹿葦津姫(かしつひめ:別名=木花開耶姫姫)から生まれた“兄弟”として描いています。

詳しくは、『日本書紀』「神代」(下)をご確認ください。

「和をもって貴しとなす」からはじまる“憲法17条”もそうですが、『日本書紀』の隠し「テーマ」は、大和民族の「和」なのです。


ご存じのとおり、山幸彦こと「彦火火出見尊」(ひこほほでみのみこと)は、『日本書紀』(神代)に記される天孫であり、“山族”の「邪馬台国」に由来して象徴化された人物です。

なぜなら、山幸彦に象徴される“山族”(邪馬台国)は、天孫が娶(め)とった鹿葦津姫の母「大山祇神」(おおやまつみのかみ)に連なって“神武”の祖父「彦火火出見尊」を生んでいるためです。


鹿葦津姫の子「彦火火出見尊」は、古代海人族すなわち博多湾を拠点とした「安曇族」(綿津見三神、少童命:わたつみのみこと)や「住吉大神」(住吉三神、筒男命:つつのおのみこと)と協力関係にありました。

それが史実として裏付けられるのは、同じ「北部九州連合 倭国」を形成していたからです。

“神武天皇”(山族)が瀬戸内海を東征できたのも、「海神」(安曇族)や「塩土老翁」(住吉大神)など古代海人族の協力があったゆえです。

ちなみに、『日本書紀』に“3世紀”の歴史として記される「神功皇后紀」においても同様です。

神功皇后とその子「ホムタワケ」(応神天皇)による“大和帰還”という名の「東征」においては、瀬戸内海を進むにあたり「住吉大神」が助けたことが記されています。

このようにして、3世紀末に“台与”と“その子”を旗頭とした「北部九州連合 倭国」は、当時、纒向があった畿内国(ヤマト)へと“東征”に向かったのです。

これらが、初代「神武天皇」の東征の“モデル”になった一連のエピソードです。


ご理解しやすいように、“状況証拠”を交えて記した細かな差異の部分はあるとしても、大筋の流れとしては上述のようになっているのです。











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