富士山を遥拝-山宮浅間神社
2020.12.28
 
お正月も近いので、日本にお話を戻します。

初夢といえば「一富士、二鷹、三茄子」の順に縁起が良いといわれます。

そこで、静岡県富士宮市にある「富士山本宮浅間大社」(ふじさん ほんみや せんげん たいしゃ)の“富士山元宮”といわれる「山宮浅間神社」(やまみや せんげん じんじゃ)をご紹介いたします。

ここは、「富士山本宮浅間大社」から北に住宅地を抜けた5.5kmほどの閑静な山すそにあります。

「社」(やしろ)はなく、山あいからみえる富士山をご神体として、古くから遥拝されていた場所です。


※山宮浅間神社(遥拝所)からみた富士山


一般に、富士山や「浅間大社」は、「木花之佐久夜毘売命」(このはなの さくやひめの みこと)をご祭神とすることで知られています。

それは、遠方より眺望する富士山が“なだらか”で、“女性的”な印象を与えるからではないでしょうか。

しかし、この浅間大社や富士宮市から近場で見上げる富士山は、決して“なだらか”ではなく、山頂も鋭角な部分があり、富士山に抱く一般のイメージとは異なってかなり「男性的」です。

それもそのはずで、もともとのご祭神は「富士大神」や「浅間大神」(あさまの おおかみ)なのです。

実際、日本の“始原”にもつうじる古くからの「大神」の感じがします。


富士山が現在のような形態になったのは、約11,000年前~約9,000年前の断続的な噴火ののちで、その後、4,000年間ほど穏やかだったものの、約5,000年前から新富士火山としてほぼ現在にいたります。

そして、約3,000年ほど前の縄文時代後期に、4回の爆発的噴火が起きました。

奈辺で生活していた日本原住の縄文人は、そのような富士山におそれを抱き、「あさまの おおかみ」と呼んで崇拝したのかもしれません。

「“あさま”しい」といえば、現代では“ネガティブ”な意味で使われますが、古文ではそうとはかぎらず両方の意味をもちます。

それは、“予想外”や“驚くべき”といった日常ならざる形容です。

推測ですが、古代の人々は、ずば抜けた「富士山」の威容に、そのような“あさま”しさ(驚き、畏敬)を感じ、「あさまの おおかみ」(浅間大神)と呼んだのかもしれません。

もちろん、漢字は当て字です。

『続日本紀』に記された「富士」の表記が一般的になったのは、江戸時代からで、それ以前は『万葉集』では「不二」や「布士」などさまざまに表記され、『竹取物語』では「不死」、また「常陸風土記」では「福慈」といったように必ずしも定まっていませんでした。

いずれにしても、富士山本宮浅間大社の元宮「山宮浅間神社」がある富士宮市から見た「富士山」は、どちらかといえば、まさに“あさま”しく、雄々しい姿をしています。

それが、鎌倉幕府を開いた「源頼朝公」や甲斐の「武田信玄公」、また江戸幕府をひらいた「徳川家康公」が日本一の富士山を“ご神体”また本来の“ご祭神”とする「富士山本宮浅間大社」を尊崇し、数々の寄進を行なった理由かもしれません。

たとえば、武田信玄公は「流鏑馬」(やぶさめ)をご寄進し今でも伝統行事として行なわれています。

また、富士山頂を所有していた徳川家康公は、その山頂を「富士山本宮浅間大社」に寄贈し、いまや「浅間神社」が山頂に建っているのはご存じのとおりです。



●ご参考「山宮浅間神社」説明板



山宮浅間神社(やまみや せんげん じんじゃ)は、富士山そのものを祭神として祀られた場所と言われていています。境内には社殿がなく、富士山を直接仰ぎ見る遥拝所(ようはいしょ)があります。拝殿や本殿が存在しないのは、富士山体を遥拝する場所として、その祭祀(さいし)の形を留めているものと推定されています。遥拝所には、南北15.2m、東西8.4mにわたり 30~40cm程度の溶岩で築かれた斎場となる石列(れきれづ)があります。この石列は玉垣(たまがき)で囲まれ、さらにその周囲には45cm四方を区画する溶岩を積み上げた石塁(せきるい)が見られます。
神社の創建年代は不詳ですが、富士山本宮浅間大社伝によれば、山宮に遷(うつ)される前、山足の地へ祀り、その後、山宮の地に祀ったと伝えています。
かつては、浅間大社の春秋の大祭前日に、浅間大社の祭神が山宮を訪れる「山宮御神幸」(やまみやごしんこう)が行われていました。この行事に使用された行路を「御神幸道」(ごしんこうどう)と呼び、道筋の50丁(1丁=約109メートル)の間には、1丁目毎に目安の石碑が建てられていました。(現在は4基だけが残されています。)
また、「山宮御神幸」の祭神は、鉾に宿り山宮へ向かったことから、御神幸の途中休憩する際に鉾を置く「鉾立石」(ほこたていし)が設けられました。鉾立石は道筋に幾つかあったといわれますが、現在は浅間大社楼門前と山宮浅間神社の参道に残っています。
拝殿や本殿が存在しない山宮浅間神社ですが、境内には籠屋(こもりや)と呼ばれる建物があります。かつて神事の際に浅間大社の神官らが参籠(さんろう)したとされるもので、現在の籠屋は、昭和8年に建築されたものです。











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