対馬の「和多都美神社」
2021.02.11
 
「建国記念の日」の関連で、“豊玉姫”に関する記事です。

初代「神武天皇」がご即位された紀元前660年の旧暦元日を、現在のグレゴリオ暦になおすと2月11日とされます。

これが、かつての「紀元節」、現在の「建国記念の日」なのはご存じのとおりです。

さて、『日本書紀』に記される「神武天皇」(神日本磐余彦天皇:かむやまと いわれびこの すめらみこと)の“母親”は、「玉依姫」(たまよりひめ)です。

“父親”の「彦波瀲武兎鷀草葺不合尊」(ひこなぎさたけ うがや ふきあえずの みこと)からみれば、「玉依姫」は“妃”と同時に“叔母”にあたります。

どういうことかというと、葺不合尊の母親の「豊玉姫」は、「玉依姫」の“姉”だからです。

ちなみに、葺不合尊の“父親”は、山幸彦(やまさちひこ)こと「彦火火出見尊」(ひこほほでみのみこと)です。

なので、初代「神武天皇」からみれば、「彦火火出見尊」と「豊玉姫」は“祖父母”にあたります。

同時に“母親”の「玉依姫」の“姉”でもあるために、「豊玉姫」は“伯母”にあたる関係です。

ややこしいですよね。


この“両玉姉妹”の父は、『日本書紀』(神代:下)では、「海神」(わたつみ)と記されています。

彦火火出見尊は、兄の“海幸彦”こと「火闌降命」(ほのすそりの みこと)に借りた釣針を探して、「海神の宮」に漂りつき、そこで釣針を見つけた縁で、海神の娘「豊玉姫」と結ばれました。

こまかなお話はともかく、「竜」となった姿で葺不合尊の出産を見られた豊玉姫は、育児を妹の玉依姫に委ねて、「海神の宮」に帰ってしまいます。



※昨年2019年の台風によって、海中の第1鳥居は現在、倒壊したままです。


本題です。

北部九州から大陸や半島につうじる玄界灘(げんかいなだ)の要衝に「対馬」(つしま)が位置します。

「対馬国一宮」は、現在、「豊玉姫命」を主祭神とし、合殿を「彦火火出見尊」「葺不合尊」「宗像神」「道主道命」とする「海神神社」(かいじんじんじゃ)とされています。

海神神社は、明治3年の一時期、“和多都美神社”(わたづみじんじゃ)と称されました。

実際の「和多都美神社」は、対馬の「豊玉町仁位(にい)」にあって、海中に続く鳥居が、その美観とともに有名です。

「和多都美神社」のご祭神は、神武の祖父母「彦火火出見尊」と「豊玉姫」です。

実は、こちらが「対馬国一宮」ではないかとされ、“論社”の一つになっています。

「和多都美神社」のウラに磐座(いわくら)があって、“豊玉姫の墳墓”(御陵)のご案内が記されています。

一般には、ここは“墳墓”ではなく、“古い斎場”だとされています。

なぜなら、幕末の対馬藩士で号を“楽郊”(らっこう)と称した中川延良の『楽郊紀聞』に、和多都美宮司に聞いたお話として、「豊玉姫命を仁位の高山に葬った」という記録が残されているからです。



※和多都美神社のウラにある「豊玉姫の墳墓」(御陵)この先は「海宮山」。


いずれにしても、豊玉町仁位でお亡くなりになられたのであれば、奈辺が「海神の宮」である可能性が高いでしょう。

事実、和多都美神社には、“龍宮伝説”が残されています。

今では、“仁位の高山”がどの山なのか不明だそうです。

有力とされるのは、和多都美神社の南方850mほどに位置し、烏帽子岳展望所がある「烏帽子岳」(標高176m)ではないかとされています。

しかし、私見では、“豊玉姫の墳墓”でお参りすると、烏帽子岳だとお尻をむけてしまうことになるために、ありえないでしょう。

そうではなく、和多都美神社のウラ手から入って東北に位置する「海宮山」(標高110mほど)が“仁位の高山”ではないかと考えられます。

“豊玉姫の墳墓”でのお参りは、「海宮山」にむけてすることになるためです。

なので、和多都美神社のウラの“墳墓”は、本来“遥拝所”だったのではないでしょうか。

こういう事例は多くみられます。

山頂や中腹など遠方に「ご神体」や「元宮」また「陵墓」などがあるために、それを望む山裾などの近場に“拝殿”や“遥拝所”が設けられて、“お参り”できるケースです。

事実、“豊玉姫の墳墓”にむかってお参りすると、200mほど先に「海宮山」が位置します。



※和多都美神社の境内、手前の三本鳥居は比較的最近とされ、満潮時にはここまで海水がきます。


複雑な入り江を有する浅茅湾(あそうわん)の北深部、「仁位浅茅湾」に位置する「和多都美神社」は、今でこそ車や観光バスで行けます。

つい最近の昭和40年代になって道路ができたからです。

それまでは、船でしか行くことができない“隠れ家的”な「海宮」でした。

もっとも、対馬においては、古来より船こそが交通手段だったので、道がない入り江の奥は、敵にみつからず、侵入されにくい安全な場所だったといえます。

「仁位浅茅湾」の奥のさらに東の入り江に佇んでいるのが「和多都美神社」です。


海中に第1と第2と2つの鳥居があり、水際に第3鳥居があり、陸に第4第5と2つの鳥居があって、合計5つもの鳥居が本殿にむかって一直線に並んでいます。

これも、初代「神武天皇」の祖父母「彦火火出見尊」と「豊玉姫」をご祭神とし、豊玉姫の御陵が残る由緒ある海宮だからかもしれません。



※付記

『日本書紀』を仔細に読んでいくと“歴史”の二重・三重構造がみえてきます。

たとえば、初代「神武天皇」の“実在のモデル”が、後世の記録に名前を変えて記されているといったことです。

当然、“実在のモデル”の母親や祖母(当記事における伯母でもある「豊玉姫」)にあたる女性も、『日本書紀』の「人代」などからみえてきます。

対馬の「住吉神社」は、『日本書紀』の「神代」に“神武天皇の父親”として記される「彦波瀲武兎鷀草葺不合尊」をご祭神としていますが、そこからも推測が可能です。

一般に「住吉神社」は、“住吉大神”こと「筒男三神」(つつのおさんじん)をご祭神としますが、住吉は“墨江”(すみのえ)とも呼ばれ、“黒殿”(くろどん:黒男)とも称される「武内宿禰」(たけのうちの すくね)にかかわり、本来のご祭神ではないかともくされています。

「神武天皇」の父「葺不合尊」が“神代”における名称で、“人代”においては別の名称の“天皇”や「武内宿禰」にかかわるとすれば、『日本書紀』に3世紀の出来事として記録される「神功皇后」の三韓征伐のおり、ともに対馬を経由して進軍したゆえに、なんらかの由緒が対馬に残るのは当然でしょう。

つまり、3世紀の女性として『日本書紀』に記される「神功皇后」が、もし邪馬台国の2代目女王“台与”(豊)に比定できるとすれば、それは、いろんな伝承から“神代”に記される“豊玉姫”また“玉依姫”とも重なることになります。

ここでは“疑問”にとどめ、こまかな論拠は省略させていただきます。

機会があれば、壮大な『日本書紀』のカラクリを、まとめて提起することがあるかもしれません。













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