逆説の邪馬台国-論評編
2021.02.28
 
「三数思想」によるこれまでにない“邪馬台国論”は、当ブログに連載した「逆説の邪馬台国」シリーズをご参照ください。

ここでは多彩な「邪馬台国論」について、かってに論評してみます。


邪馬台国の所在論争は、代表的には「近畿説」「四国説」「九州説」くわえて「北陸説」など多々あります。

このなかで、比定地が分かれるのは「九州説」です。

たとえば、次のようにです。

1、九州王朝説で知られる「古田説」(『「邪馬台国」はなかった』)。

2、“朝倉”をメインとする「安本説」(『「邪馬壹国」はなかった』)。

3、“瀬高”(旧山門郡)とする「長浜説」。

4、古代史は豊前(豊国)で起きたとし福岡県の“田川”とする「福永説」。

など、それぞれ多数あります。


ですが、通称「魏志倭人伝」のみならず、陳寿が参考にした“原典”が残る『翰苑』(かんえん)や、古代シナの各正史、また3世紀前後の考古学を含めた史跡や、当時のインフラ状況など、「多彩な観点」から鋭意検証していくと、案外と答えはしぼられてきます。

それを、「魏志倭人伝」の記述が(1字1句)100%正しいとしたり、考古学だけにたよったり、1つ2つの歴史資料に偏って“最終結論”などとすると、ほかのデータを捨象してしまい、事実がみえなくなります。

ちなみに、“邪馬台国”の原点(馬臺)が記される『翰苑』は、唯一、福岡の「太宰府天満宮」に叙文と第30巻のみが残ります。


賢明な皆さまのご意見があるのは承知で、以下、かってに論評してみました。


畿内説

「畿内説」の勘違いは、あえていえば3世紀末以降の“邪馬台国”を、2~3世紀の纏向(まきむく)だとして、意図的にこじつけているといってもよく、卑弥呼の時代ではありません。

なぜなら、2~3世紀末頃までの奈良盆地は、“饒速日命”(にぎはやひ の みこと)や“大国主命”(おおくにぬし の みこと)によるいわゆる「本州大国主連合」の“集会地”だったとおおむねながらいえるからです。

※『日本書紀』の「神代」(かみよ)また初代「神武天皇紀」に記される「大国主命」また「饒速日命」と表記することで系譜を明らかにしました。

その事由は、『日本書紀』に秘められた“史実”(年代:二重構造)を見抜けはご理解できます。


四国説

四国は、日本の“原点”にもかかわる古い歴史や由緒また遺跡などが集中するために、それを「2~3世紀の“邪馬台国”だ」と信じ込んでおられるかたが多いのです。

ですが、それは「日本」また「天皇」にたいする冒涜につながりかねないことを悟らなければなりません。

『日本書紀』をよく読めばわかりますが、“統一独立国家”を主題に記されています。

ところが、卑弥呼のいわゆる“邪馬台国連合”は、呉(ご)につうじる「狗奴国」(くなこく)の侵略から守るためもあったとはいえ、魏(ぎ)の冊封下にあった“属国”といえる立場だったからです。

つまり、畿内説や四国説は、日本全体(大和)が古代シナの“属国”だったという、誤った理解を我知らずとも主張していることになります。

そうではなく、阿波国をはじめとした四国は、日本独自の“縄文文化”を引き継いでいるのであって、“邪馬台国”のようなシナの冊封下にあった“属国”とは根本的に文化基盤が異なります。

日本古来の純粋伝統を残すのが、四国や阿波国といっても過言ではありません。


北陸説

記紀に記される北陸(越前)また近江を出身とする“天皇”といえば、「男大迹王」(おほど の おおきみ)こと「継体天皇」で知られます。

ところが、継体天皇は、5世紀まで半島南端部にあった邪馬台国以来の倭国の“領地”を、6世紀初頭に百済(くだら)に割譲しています。

その百済が滅ぼされ、復興するために「中大兄」(なか の おおえ:のちの天智天皇)は、豪族らを無理やりに出兵させた「白村江の戦い」で、大敗北を喫することになります。

その結果、太宰府市の「水城」(みずき)に大防塁などを築くわけです。

それはともかく、邪馬台国の当時から半島南端部に領地があったことは、「魏志倭人伝」などからも読みとれます。

その領地を、いともかんたんに百済に割譲した継体天皇の「北陸」が、かつての邪馬台国とは思えません。

重要な先祖の土地をかんたんに譲ることができたのは、北陸が「邪馬台国」とは関係がなかった証拠です。


九州説

次に比定地が多い問題の「九州説」です。


古田説

かつて『「邪馬台国」はなかった』という書籍を上梓した、九州王朝説で知られる古田氏は、後年、あのタイトルは編集者が(売らんかなのために?)プッシュしたものと述べています。

通称「魏志倭人伝」の著者「陳寿」(ちんじゅ)以前も以後も、古代シナの歴史家たちは、正しく“臺”(台)の字をもちいて歴史書に「邪馬台国」と記しており、ときには「邪靡堆」とも記しています。

そういうこともあって、「邪馬壹国」(邪馬壱国)という表記のほうが、陳寿の“偽造”です。

ただ、古田氏の“九州王朝”という名称はともかく、「九州倭国」は6世紀末まで間違いなく存在していました。

本州の「日本国」(畿内国)とは別に、日本列島には九州「倭国」など複数の国邑(こくゆう)が存在していたのです。

にもかかわらず、“統一独立国家”を掲げた「『日本書紀』史観」に惑わされると、日本には大和一国しかなかったと思い込み、正しい歴史がみえなくなります。

大陸の「歴史書」のすべてが正しいとはいいませんが、7世紀初めに小国「日本」に自ら合併することを仕向けた「九州倭国」は、それによってシナの冊封下から離脱することに成功しました。

それが、九州倭国王「阿毎多利思比孤」(あめ の たりしひこ)大王(おおきみ)が隋の煬帝(ようだい)に607年に送った「日出る処の天子…」という、名実ともの「日本独立宣言書」です。

合併後は一時「大倭」と称し、それがのちに「大和」(やまと)に変わります。

シナの歴史書には、「その王(倭国王)の姓は阿毎氏」(あめ、あま)と記され、“いにしえの倭王”は「筑紫城に居す」とも記されています。

畿内説の学者らは、これらを無視するどころか、意図的に“偽書”として封印するなどして、大和こそが“邪馬台国”だと主張することによって、日本を中国の属国とする“歴史的根拠”にしています。


安本説

福岡県朝倉(夜須:「天の安河」の“やす”)説をとるのは、古田氏に反論し、『「邪馬壹国」はなかった』を著した安本氏です。

事実、「邪馬壹国」(邪馬壱国:やまいこく)というのは、陳寿の“愛国心?”によるねつ造で、邪馬台国などのように「臺」(台)で呼ぶのが歴史記録からも正解です。

安本氏は、かつての朝倉郡にあった現・筑前町(旧三輪町)の「大已貴神社」(おおなむち じんじゃ:地元では「おんがさま」「おおみわ じんじゃ」)を中心とした朝倉市周辺の地名が、類似の位置関係で奈良の三輪山をご神体とする「大神神社」(おおみわ じんじゃ、おんがさま)を中心に、“大和朝倉”の地名など、周辺に多々同じ地名があることから、“邪馬台国東遷説”を述べました。

ただ、私見では、それが本当に3世紀末の“邪馬台国”だったのか、それとも「九州倭国」が「日本国」と合併した6世紀末~7世紀初頭に、“倭国東遷”によるものだったのか、疑問は残ります。

もっとも、「魏志倭人伝」に記される邪馬台国「7万戸」を信じるなら、筑後川周辺域の筑紫平野を一つにまとめた“邪馬台国連合”しかありえませんので、その“都”が東端の朝倉近辺にあったというのは、納得できなくもありません。


長浜説

“邪馬台国”は「山門」(やまと)であり、現・みやま市の「瀬高」(旧山門郡)だったとする長浜説は、江戸時代の新井白石が先鞭をつけた説ながら、最近、信奉者がみられます。

ですが、「魏志倭人伝」の記述と矛盾するために、決定的に誤りです。

旧山門郡は、有明海沿岸部(当時の海岸線はもう少し内陸部にありました)に位置し、熊本とのほぼ県境にあるために、「邪馬台国」に比定するのは非合理的です。

この地域なら、魏志倭人伝に記される当時は困難だった「陸行1月」(河川を含む)をとる必要がなく、九州西岸を南下して、天草あたりからUターンするように有明海に入り込めば、船で直接いけます。

もし、呉とつうじる「狗奴国」(熊本県菊池界隈)があり、危ないために九州北岸から陸行1月をかけるしかなかったとしても、やはり「魏志倭人伝」の記述に矛盾します。

なぜなら、邪馬台国の北に「伊都国」(いとこく)や「奴国」(なこく)また「不弥国」(ふみこく)があったと記されるのはともかく、邪馬台国の南に「旁余の諸国」(20か国ほど)があったと記されていることとマッチしません。

“邪馬台国連合”に属さず敵対していた「狗奴国」は、旧山門郡と丘陵(山)をはさんで隣接しており、南にあったと記される「旁余の諸国」が存在できないからです。

また、敵国との最前線に“女王の都”をおくことは、非常識でしかありえません。

平和な江戸時代の朝鮮通信使ではあるまいし、地理や地政学、また当時のいつ戦乱が起こるかわからない時代状況を理解していない“平和ボケ”した解釈です。



福永説

『古事記』また『日本書紀』に記される古代の出来事を、ほぼすべて豊前(豊国)界隈で起きたとし、筑豊の田川を“邪馬台国”とする福永説に関しては、省略させていただきます。

地元に迎合した荒唐無稽な部分が多いためですが、一部に事実が含まれるのは認められます。


                       *


さて、他人さまの論評ばかりで「おまえはどうなんだ」といわれそうです。

当ブログの「逆説の邪馬台国」シリーズをご一瞥(いちべつ)ください。


結論的には、攻められにくい河川の上流域に立地し、古くからの歴史的要衝にあり、地政学的条件をそなえた“権威”ある「邪馬台国」(都)ゆえに、卑弥呼を女王に共立できました。

近辺には、後年、「大宰府政庁」(太宰府市)が置かれたり、『新唐書』にいにしえの倭王は「筑紫城に居す」と記され、“筑紫”の地名が残る「筑紫野市」にかけての宝満山(ほうまんざん)の山裾をメインとした地域で、南は朝倉にいたる「筑後平野」の北東部奈辺が、もっとも矛盾が少なく、「魏志倭人伝」の記述をはじめ、ほとんどの整合性がとれます。

此地は、北は博多湾にそそぐ「御笠川」(みかさがわ)の上流域であり、南は有明海にそそぐ筑後川の支流「宝満川」(ほうまんがわ)の上流域でもあるために、福岡平野と筑後平野をつなぐ古来より交通の要衝でした。

両河川を遡上しなければならない攻めにくい上流域にあるというだけではなく、山や丘陵が迫り、防衛にも適した豊かな土地です。


「魏志倭人伝」の記述どおり、北は御笠川によって「伊都国」や「奴国」や「不弥国」にいたり、南は宝満川と筑後川によって、筑後平野にひろがる「旁余の諸国」にいたり、穀倉地の朝倉などをかかえる「台地」部もある“馬臺”と呼べる場所です。

隣接する天山(あまやま)には、徐福につうじる「童男丱女岩」(どうなん かんじょ け いわ)が残るなど、古代シナ語や大陸の情報が伝わっていてもおかしくない地域です。

さらに付記すれば、「白村江の戦い」に負けた翌664年に築かれた巨大な防塁「水城」(みずき)ですが、その下層には倭の五王の時代の5世紀(430年頃)の防塁跡があり、さらに最下層部には卑弥呼の時代の3世紀(240年頃)の防塁跡も確認されています。

このことは、後年7世紀に「大宰府政庁」が築かれるはるか以前から、近辺に重要な“都”があったことを意味します。

つまり、奈辺は、地政学的にも要衝ゆえに、その後も次々と歴史的“都”(都市)が築かれたり、今日も「太宰府天満宮」をはじめ太宰府市街地が広がっています。

歴史的に役目を終え、忘れ去られていたゆえに掘れば、まだ何かがでてくる可能性がある「纒向」とは異なるのです。

前述の「大已貴神社」がある筑前町(旧三輪町)に隣接する「筑紫野市」や「太宰府市」は、古来より連続的に“都”(都市、市街地)です。

また、貿易港「博多湾」を抱える黒田藩と九州一円を治めた江戸幕府直轄地の天領「日田」(ひた)をつなぐ、九州一のにぎわいをみせた市場通り「朝倉街道」の中継地としても、江戸時代をふくめ繁栄していました。

そのために、相次ぐ開発によって3世紀の遺構はすでに破壊され、考古学的な証拠は発掘されにくく“邪馬台国”の痕跡の発見は、ほぼ困難になっているといえます。

逆にいえば、“当たり前”すぎて、あまり人口に膾炙(かいしゃ)されてこなかった地域です。
















- CafeNote -