天皇と「日本の天運」その3
2021.03.18
 
● 「魚宮」の象意による日本の“大自然”と“海人族”


先回「お知らせ」いたしました内容をご紹介する前に、今回は「双魚宮時代」(そうぎょきゅうじだい)の日本に「天運」をもたらした“外因”をご紹介いたします。

日本が“民族性”を「魚宮」とする由縁でもあります。

端的には、日本の“大自然”と古代“海人族”(あまぞく)に由来します。


日本は世界でも特異な“大自然”を特徴とします。

茫漠とした“大海”や地形また気候の“多様性”などですが、いずれも「魚宮」の象意です。

逆にいえば、和辻哲郎の『風土-人間学的考察 』(1935)を持ち出すまでもなく、そのような要因や気候によって日本の“民族性”は形成されました。

「縄文時代」や「双魚宮時代」の影響圏また初期のことです。

ただし、このことは科学技術が発展し、即物的な思考がはびこった近現代では、いくぶん気づきにくかったり、ご理解しにくくなっているかもしれません。


占星学からみて、「魚宮」によって“民族性”を象わすことができる日本は、紀元前6世紀ころに「双魚宮時代」の影響圏がはじまった“縄文末期”あたりから「天運」をともなうようになっていきます。

一例を挙げますと、そのことは『日本書紀』にも示唆されています。

真偽はともかく、『日本書紀』に記される日本国は、初代「神武天皇」のご即位にはじまり、「双魚宮時代」の影響圏に入る直前の紀元前660年(紀元節)といわれます。

ちなみに、そののち「双魚宮時代」が正式にはじまるのは、紀元前2世紀(BC171年頃)からです。


占星学による宇宙的な時代区分の「双魚宮時代」や「宝瓶宮時代」などは、「プラトン年」(グレート・イヤー)にもとづきます。

「プラトン年」は、古代ギリシャの数学者であり天文学者でもある「ピッパルコス」(BC190年頃-BC120年頃)によって発見された“春分点歳差”にもとづいて、「地球」の自転軸の傾きが1周する約25,920年(計算値)の周期をもちます。

詳しいお話は「宝瓶宮占星学サイト」をご高覧いただくとして、約2,160年間続く双魚宮時代は、「魚宮」(木星)の象意にもとづく“宗教”(高等宗教)の時代でした。

その影響圏において、「ブッダ」(お釈迦様)が現われ、正式にはじまってのちは「イエス」(キリスト)が現われています。

それによって、東洋では「仏教」、西洋では「キリスト教」が、双魚宮時代の「天運」にのって世界的に広まっていきました。


ちなみに、「ユダヤ教」は少々おもむきが異なります。

ユダヤ教は、双魚宮時代の前、「白羊宮時代」(はくようきゅうじだい)にあたる紀元前2,000年ころのアブラハムをイスラム教とともに“信仰の祖”とします。

その後、奴隷となっていたイスラエルの民をエジプト脱出によって導いたモーセが、シナイ山で神から授かった「十戒」をベースにした「戒律」を重視するのがユダヤ教です。

「戒律」は、魚宮の象意に基づいた“信仰”(宗教)というよりも、「牡羊宮」の象意に基づいた“行動規範”(ルール)だからです。

事実、「世界3大宗教」といえば、仏教、キリスト教、そして7世紀に成立したイスラム教で、ユダヤ教は含まれていません。


それはともかく、魚宮(木星)の象意にもとづく「双魚宮時代」は、1846年に海王星が発見されると、共鳴星が「海王星」に変わっていきます。

以降、海王星の象意にもとづいて、“神秘主義”(スピリチュアリズム)が盛んになり、「木星」の“世界宗教”から、「海王星」の“新興宗教”や怪しげな“カルト宗教”が隆盛をきわめていきます。

海王星が発見された1846年は、幕末の孝明天皇がご即位された年で、黒船来航の7年ほど前にあたります。

この江戸時代末期から明治にかけては、日本でも新興宗教がよく使われる表現をすれば“雨後のたけのこ”のように誕生していきました。


お話はもどりますが、日本でも相応に宗教の影響はさけられなかったものの、むしろ縄文時代や双魚宮時代の初期においては、「魚宮」のもう一方の象意、“大自然”や“海人族”の影響が日本では顕著でした。

代表的には“大自然”を崇敬する原始神道(太古神道)です。

お天道様や宇宙万物を“八百万の神々”として崇め、大自然そのものを“信仰”の対象として大切にしました。

それは、日本列島が大自然に恵まれ、畏敬の対象でもあったからです。


一方、大自然とも関係しますが、3~4万年ほど前に「スンダランド」をはじめ各地から海流に乗って古代日本列島に船でやってきて、住み着いた“原初日本人”がいました。

彼ら初代“海人族”や双魚宮時代の初期に日本にやってきた幾多の“海人族”らは、日本原住の“大山族”とともに『日本書紀』には「山幸彦と海幸彦」として象徴されています。

近年は単一民族と考えられてきた日本人ですが、太古また「双魚宮時代」の初期あたりまでは、周辺の島や陸から船で渡ってきた海人族らを交えた“他民族国家”でした。

それは、世界でも珍しいほど多くのDNAが入り混じっていることからも科学的に明らかです。

このような“多様性”や“他民族”を受け入れ、日本化していく(清濁併せ呑む)“感化力”は、12サイン(宮)の最後を飾る「魚宮」の象意に通じます。


もう少し書いておきましょう。

周囲を海に囲まれ、南北に細長い島国であることから、南からの暖流と北からの寒流が混じる豊かな漁場を抱えるのが日本列島です。

のみならず、4つのプレート上に位置することから、3,000メートル級の山々が背骨のようにそびえ、必然的に豊かな大自然と豊富でキレイな水に恵まれました。

四方の海からの水蒸気をふくんだ風が高山によって上昇し、大量の雨や雪を降らせるためです。

それは四季の移り変わりや、狭いわりには海抜の変化が激しい地形ゆえに、多種多様な植生や生き物の派生を可能にしました。

そのような“大自然”が残っていた当時は、山海の“食料資源”に恵まれていたのです。


結果的に、「衣食足りて礼節を知る」ではありませんが、縄文時代や上古は、土地や食料を求めて争う必要がありませんでした。

また、余暇も生まれたことから、お互いの役割分担や助け合いをはじめ、創意工夫による「縄文文明」の形成が可能になったのです。

結局のところ、“大自然”の恵みをはじめ、「木星」の象意による寛容な“海人族”のメンタリティーは、トータルで「魚宮」の“民族性”をはじめ、“日本的霊性”を生み出していきます。

かぎられた陸地とは異なり、大海原では大陸のように土地や食料を求めて争う必要がありません。

海に出れば、「舟」を我が家として“自由気まま”な暮らしが可能で、船影に魚が寄ってきますし、随時の雨を溜めておけば飲料水にも困りません。

そんなこんなで、現代人が思う以上に豊かで平和的な暮らしが可能な古代日本列島でした。


「双魚宮時代」以前、またその初期に、上述のような「魚宮」の象意にもとづいた“大自然”や、原住の大山族と“海人族”の融和によって形成されたのが日本の“民族性”です。

それは、その後の「双魚宮時代」において、日本の「天運」のメインストリームとなっていきます。


一方、日本の“国体”は、「水瓶宮」によって象わされますが、そこに起因する「天皇」もまた、大自然の豊穣と、国民の安寧を祈る祭祀長が原点です。

それは邪馬台国の「ひみこ」(霊巫女:霊媒師)を共立して、倭国大乱を終わらせ「平和」をもたらした故事にも由来します。

もっとも、マルキシズム(共産主義)の歴史学者は、「天皇」を武力で民を支配する“権力者”に仕立てようとしますが、それは一時的な例外の“大王”にすぎません。

むしろ、“海人族”にもかかわって平和主義者というのが「本流」です。

そのような「天皇」にかかわる「水瓶宮」の“国体”は、のちの「宝瓶宮時代」にそなえて、双魚宮時代の「天運」を維持し補強するものになってきた事実があります。














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