天皇と「日本の天運」その5
2021.03.28
 
● “神武東征”の実在のモデルと古代海人族の拠点“瀬戸内東端”


先回は、日本の「天運」の原点が実質の初代「大国主大神」の“古代国づくり”にあることをお伝えいたしました。

賛否はあると存じます。

ですが、大国主大神は物部氏の祖「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてるくにてるひこ あめのほあかり くしたまにぎはやひ の みこと)につうじ、本来の男性神「天照大御神」にあたります。

もっとも、『日本書紀』は、神武以前の“古代国づくり”を史実をもとに記しながらも、いろいろと「交錯」させたり「名前」を別名にしてわかりにくくしています。

それゆえ「天照大神」も最後は女性神として描かれました。


初代「神武天皇」は、同じ天孫族の「饒速日命」から“国”をゆずり受けます。

それは物部氏の祖であると「神武天皇紀」にも記されているのは先回のべたとおりです。

つまり、“神武東征”以前に“古代国づくり”が行なわれていました。

“古代国づくり”は「稲作」に端を発します。

どちらかといえば、個々に狩猟や採取を行なっていた縄文生活から、決まった土地を必要とし、集団による「稲作」の弥生生活によって“国づくり”がはじまったといえます。

考古学からみれば、日本の稲作発祥の地とされる北部九州の「遠賀川」(おんががわ)河口付近から大量に見つかった「遠賀川式土器」がそれです。

弥生初期(早期)に近畿中部はもちろん青森にまで遠賀川式土器が広まっていったことを考えると、北部九州に発祥した物部氏の祖「饒速日命」(≒大国主大神)が稲作を日本全国へ伝え、“古代国づくり”を行なった可能性が高くなります。

もちろん、一人とはかぎらず、子孫や弟子たちをふくめた総称です。

ちなみに、“大国主”という呼称も、最初にその国邑(こくゆう)をつくり、主(ぬし)になった人物を意味しますので、各国邑に“大国主”がいたりして一人とはかぎらず、それらの元祖といえる最初に「稲作」を伝えた人物を「大国主大神」と申し上げます。

つまり、饒速日命と称される人物が“大国主大神”であってもおかしくないのです。


さて、「神武天皇」は、“実在のモデル”をベースに、『日本書紀』が“初代”として記したもので、古代よりの「皇統の正当化」をはかったものです。

その神武に、物部氏の祖「饒速日命」が“国ゆずり”を行なって帰順したと『日本書紀』に記されている以上、国づくりは一朝一夕には行なえませんので、以前から「大国主大神」(≒饒速日命)による“古代国づくり”が行なわれていたことになります。


ということから、“二重構造”で記されている『日本書紀』のタネあかしをしておきます。

初代「神武」は名目上の“元祖”として、編纂がはじまった7世紀に考案されました。

では、実際の元祖“天皇”(大王)はだれでしょうか。

『日本書紀』に第10代「崇神天皇」(すじん てんのう)として記されています。

和風諡号(しごう)では「御間城入彦五十瓊殖天皇」(みまき いりひこ いにえ の すめらみこと)です。

つまり、『日本書紀』では神武以前に「大已貴神」(おおあなむち の かみ)として記され、少彦名命(すくなひこな の みこと)とともに“国づくり”を行なった、別名「大国主大神」になぞらえることができます。

「神代」(上)一書に、「大国主神は、大物主神とも、また国作(くにつくり)大已貴命ともいう」と記されているとおりです。

『日本書紀』は、皇統を示す“プロパガンダ”の部分以外は、案外と史実を正直に記そうとしています。

なので、第10代天皇であるにもかかわらず、「御肇国天皇」(はつくに しらす すめらみこと=初めて国を治めた天皇)と「崇神天皇」を記しています。

最初に“古代国づくり”を行ない治めていた「大国主大神」(≒饒速日命)にあたります。


では、“神武東征”の「実在のモデル」となった人物はだれでしょうか?

複数います。

ですが、「天皇」では一人しかいません。

神武と同じ九州出身です。

「筑紫の蚊田(かだ)でお生まれになった」と『日本書紀』に記されています。

蚊田は人々から「宇瀰」(うみ)と呼ばれ、現在の福岡県糟屋郡宇美町になります。

さらに四男の神武と同じ“第四子”と記されています。

初代神武による“東征”を『日本書紀』は記しましたので、「実在のモデル」となったのちの世の天皇は、東征ではなく、九州からの“大和帰還”として記されています。


『日本書紀』に詳しいかたならご存じでしょう。

神功皇后に抱かれた第15代「応神天皇」です。

もっとも、生まれた翌年(神功2年)に“大和帰還”と記されていますので、実際に先頭に立って東征したのは、住吉三神(住吉大神)の導きを受けた「武内宿禰」(たけのうちすくね)です。

天皇以外では「武内宿禰」こそが神武東征の“実在のモデル”で、「神功皇后」と赤児の「応神天皇」を旗頭に「北部九州連合」を率いて東遷しました。

武内宿禰は3世紀の伊都国王(いとこくおう)または狗奴国王(くなこくおう)で、“邪馬台国連合”こと北部九州連合「倭」の男王だった人物に重なります。

『日本書紀』を読むかぎり、そう解釈をできる書き方をしているのです。


なぜかというと、興味深いことに「神功皇后紀」には邪馬台国が記された「魏志倭人伝」に言及した箇所があります。

神功皇后39年に、「倭の女王(ひみこ)が魏に難斗米(なしめ)を遣わした」ことが記されています。

このことから、『日本書紀』は神功皇后を3世紀中頃の人物として描いたことがわかります。

なので、成人した応神天皇のご即位は、3世紀後半になります。

ちなみに、東遷の翌3年に初代“神武”の和風諡号にもある「磐余」(いわれ)で都をつくったと記されています。

この東遷と磐余でのご即位が、神武東征の“実在のモデル”と考えれば、武内宿禰をはじめとした応神の「九州倭国」の勢力が、3世紀末に畿内国(大和)に政権を打ち立てたことになります。

実際、3世紀末あたりに纒向など畿内の考古学的な様相が一変しているのです。

ここでは本旨からズレますので詳しくは述べません。


お話は、一見、とびますが、古代イスラエルのソロモン王の船団は、3年に1度海外遠征から帰国しています。

イスラエルに航海の術(すべ)はありませんので、隣国のレバノンに拠点をおき、父ダビデ王とも仲がよかった航海術に長けた交易集団「フェニキア」とともに行なったもので、栄華をきわめたソロモン王の要請によって、金銀宝石や珍品また鉄などの鉱物を求めて遠征したことが『旧約聖書』に記されています。

かの船団は、約半年間をかけて古代日本に来ています。

なぜなら、日本は屈指の「火山国」なので、狭い国土ながら当時は金銀宝石や鉱物資源に恵まれていたからです。

ソロモン王は、紀元前10世紀頃の人物ですが、砂漠をさまよった古代イスラエルの民からすれば、水がキレイで食料も豊富な日本は、『旧約聖書』にも記される“約束の地”(理想郷)にみえたことでしょう。

そんなこんなで、北イスラエル王国また南ユダ王国が滅びた紀元前8~7世紀頃に、ごく一部ですが日本に渡来し移住してきたことが考えられます。

それが瀬戸内を進んだ“神武東征”の時代設定になったといえなくもありません。


一方、国内においては、北部九州から饒速日命また大国主大神が畿内中部をはじめとした本州に稲作を伝えています。

さらに3世紀には『日本書紀』に記されるように、「武内宿禰」に率いられた神功皇后と乳児の応神天皇が“大和帰還”と呼ばれる「東征」を行なっています。

このように、「大国主大神」(饒速日命)しかり、物語の初代「神武天皇」しかり、実質の初代「応神天皇」(武内宿禰)しかり、いずれも九州を出自とした古代国づくりが行なわれたのが日本です。

が、もう一人、先祖を九州“海人族”(あまぞく)にもつ天皇がいます。

『古事記』や『日本書紀』の編纂を命じた第40代「天武天皇」です。


九州“海人族”の一部は、日本海流に乗って「出雲」「丹後」へと移動し、天武の時代は「尾張」にも拠点をかまえていました。

古代イスラエルとフェニキアの船団もそうですが、この九州“海人族”が初期に拠点としたのが、瀬戸内海の東端です。

そこは波が穏やかな瀬戸内にありながら、日本海に出て行くこともできれば、太平洋にも出て行くことができる“T字路”にあたる海路の要衝だからです。

なぞの“ケベスの火祭り”が残る「国東半島」(くにさき はんとう)の奈辺で、現在の大分県にあたります。

伊勢神宮を左手にみて伊勢湾の最奥部にすすむと、名古屋近隣に現在「海部郡」(あまぐん)があります。

一方、日本最大の断層「中央構造線」が走る豊予海峡の大分県側に、昭和まで「海部郡」(あまべぐん、あまのこおり:北海部郡と南海部郡)がありました。

大海人皇子(天武天皇)が、7世紀に大友皇子(追諡:弘文天皇)と「壬申の乱」(じんしんのらん)を戦ったとき、大海人皇子に味方して多大な戦果を挙げ、最後に生死をかけた決死の瀬田橋の単独突撃によって勝利を決めたのも、「大分君稚臣」(おおきだのきみ わかおみ)でした。

また、大分君恵尺(おおきだのきみ えさか)も功臣として天武天皇に仕えています。

つまり、大分(豊の国=豊前、豊後)が天武(大海人皇子)の出自にかかわる“古代海人族”の初期の拠点でもあったからです。


さらに、天武の出自にかかわるもうひとつのエピソードをご紹介しておきます。

天武系の皇統が途絶える最後の「称徳天皇」(しょうとく てんのう)の御世に、「道鏡が皇位に就くべし」という託宣を行なったのも、国東半島の付け根にある「宇佐神宮」(宇佐八幡宮)でした。

これも奈辺が天武天皇の先祖にかかわる地(海)だったからです。


天武(大海人皇子)が「壬申の乱」に勝って、皇位についたのち、自らの「正統性」を示そうとされたのが『古事記』であり『日本書紀』でした。

それによって、1,000年ののちも皇位争いをなくし、先の「乙巳の変」(蘇我本宗家の滅亡)や「白村江の戦い」また「壬申の乱」が起きた国内外情勢のなか、“平和”で確固とした自主独立の“統一独立国家”「大和」を築こうとされたゆえの編纂命令でもありました。

このような第40代「天武天皇」の御心(意志)は、その正妃、第41代「持統天皇」と孫の第42代「文武天皇」への譲位による「万世一系」の確立とともに、以後、「日本の天運」を担っていくことになります。


占星学からみて、日本の“民族性”「魚宮」の共鳴星「海王星」と、日本の国体”「水瓶宮」の共鳴星「天王星」が、天武天皇の御世に崩御までの約8年間近くも、スムーズに象意の関係をむすぶ「三分」(トライン=120度)をとり続けていました。

このような「星のディレクション」のもと、近代律令国家の成立と今日に続く「日本の天運」は“確立”していったのです。

天武天皇が、“出雲神話”が記される『古事記』を稗田阿礼(ひえだのあれ)に誦(よ)み習(なら)わさせたのも、最初の“国づくり”が「大国主大神」(また物部氏の祖「饒速日命」)にあって、そこに「日本の天運」の原点があるからです。

事実、今日の「宝瓶宮時代」につうじる大国主大神による支配しない“国づくり”は、当時の双魚宮時代にあって日本の「天運」の“萌芽”ともなっています。

『古事記』は、天武天皇(大海人皇子)の出自にかかわっているのですが、詳しくは次回、いよいよ「日本の天運」の本題となる変遷とともに述べてまいります。













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