天皇と「日本の天運」その6
2021.03.31
 
● 日本国が守られてきた「日本の天運」の変遷


天皇と「日本の天運」のメインとなる“天運の変遷”をお届けいたします。

おおむね、次のようになります。


1、萌芽期

「日本の天運」の「萌芽期」は、双魚宮時代のはじまりと期を一(いつ)にします。

紀元前の縄文時代末期から弥生時代にかけて行なわれた「大国主大神」(また饒速日命)による“古代国づくり”がそれです。

占星学からみれば、この時期に「魚宮」で象わされる日本の“民族性”が形成され、また「水瓶宮」で象わされる日本の“国体”が形成されました。

前者は、世界でも珍しい日本列島の豊かな“大自然”に由来します。

後者は、「大国主大神」(または饒速日命)による「遠賀川式土器」(おんががわしきどき)とともに全国に普及した「稲作」による“支配”しない“古代国づくり”をベースにします。

「稲作」を自分たちだけのものにとどめず、全国に普及させ、彼らは“おんがさま”と呼ばれることになります。

のちには「大神さま」という漢字が当てられますが、“古代国づくり”を行なった「大国主大神」は、『日本書紀』では「大已貴神」(おおあなむちのかみ)として記されています。


さらに、「水瓶宮」で象わされる日本の“国体”は、「魚宮」で象わされる“民族性”にもかかわって、共立的統治形態「ヒメヒコ制」に由来します。

「ヒメヒコ制」が歴史書に明記された一例は、“倭国大乱”を収めた倭の女王「ひみこ」の共立が挙げられます。

鬼道につかえる「ひみこ」を権力をもたない“祭祀王”に「共立」(推戴)することによって、各国の覇権争いを避け、宝瓶宮時代につうじる“合議的連合体の運営”(共和制)が導入されます。

この体制は、一部に例外はありますが、“君臨しても統治しない”水瓶宮で象わされる「天皇」を推戴した「大和」(大倭)の“プロトタイプ”(原型)ともなっていきます。



2、確立期

結局のところ、「日本の天運」は、人類歴史の流れにそった「魚宮」の“民族性”と「水瓶宮」の“国体”によってもたらされています。

このような天運が確立したのは、第40代「天武天皇」の御世です。

占星学からみても、日本の“民族性”を象わす魚宮の共鳴星「海王星」と、同じく“国体”を象わす水瓶宮の共鳴星「天王星」が、“生活”や“定着”をあらわす現実サイン(宮)で、天武天皇の御世の後半から崩御まで足かけ8年近くもスムーズに関係性を結ぶ「三分」(トライン=120度)をとりつづけました。

直前の7世紀初頭に、邪馬台国の流れをくむ九州倭国の「阿毎多利思比孤」(あめの たりしひこ)大王( おおきみ)が、シナの冊封下から離れるかたちで、本州畿内国(日本)と合併し統一大和(大倭)となり、「日出処の天子」として隋(シナ)の煬帝(ようだい)に対して“日没処の天子”と呼び、「ご機嫌いかが」と事実上の“独立宣言”をしています。

その後、天武天皇が、7世紀終盤に“統一独立国家”「大和」を構築するわけです。

なぜなら、ご即位直前の中大兄(天智天皇)の時代に、実質の大王家だった蘇我本宗家を滅ぼした「乙巳の変」(645年)、また半島へ出兵した「白村江の戦い」(663年)での大敗北、そして古代最大の内戦「壬申の乱」(672年)が起きたからです。

このような国内外の危機にさいして、天武天皇は「1,000年ののちまでも皇位争いを起こさない」と平和を誓い、早急に国家をまとめて建て直し、近代日本(律令国家)を築く決意をもたれます。

これによって、天武の正妃、第41代「持統天皇」から、二人の孫の第42代「文武天皇」への譲位(697年)が行なわれ、“万世一系”と「日本の天運」が確立していきます。


その理論的バックボーンとなったのが、天武が編纂を命じた『古事記』であり、また『日本書紀』(720年)でした。

重要なのは、天武が自らの正統性を示すために編纂を命じた『古事記』が、なぜ推古天皇で終わっているのかということです。

そのお答えは、推古女帝の御世に、本州畿内国と合併したことで「九州倭国」の歴史がに幕を閉じたからです。

つまり、本来『古事記』に記されていたのは、天武の(先祖の)出自となる“九州海人族”(あまぞく)また“九州倭国”にかかわる歴史でした。

『古事記』に大国主命の“出雲神話”が記されるのも、出雲の降りた素戔嗚尊(すさのお の みこと)が「高天原」を出自とし“九州海人族”にかかわるからです。

実際、『古事記』には、「汝命は海原を知らせ」(治めよ)と命じられたことが記されています。

また、“大国主大神”にかかわり、遠賀川河口域(九州北部)に発祥した「稲作」を全国に伝えた“おんがさま”こと「饒速日命」(にぎはやひ の みこと:物部氏の祖、男性神「天照大御神」)による“古代国づくり”を記すことで、大和を治める自らの立場の正統性を記そうとされたからです。

それまでの天智ら“大王”(おおきみ)とは異なるために、天武は初めて「天皇」号をもちいます。

もっとも、『古事記』後に上奏された『日本書紀』は、太古からの“統一独立国家”をコンセプトとして「大和一国史」として記しました。

そのために九州倭国の歴史をはじめ、出雲国も阿波国もや全国各地の国邑の歴史も、全部“大和”に組み込まれて消されたことを知っておかなければなりません。


お話はもどりますが、前述の3つの争い「乙巳の変」「白村江の戦い」「壬申の乱」は、すべて中大兄(天智天皇)がかかわっています。

「乙巳の変」は、実質の大王家だった蘇我入鹿(そが の いるか)を、『日本書紀』に記される“大極殿”などではなく、蘇我入鹿の首塚あたりで中大兄と中臣鎌子が不意打ちにしたものです。

また、蘇我本宗家を滅ぼし、蘇我氏が所有していた九州倭国の「歴史書」を、蘇我氏が自ら火をつけたことにして抹殺しています。

入鹿暗殺の動機は、「九州倭国」と「本州畿内国」の主導権争いです。

しかし、このような“事実”は、『日本書紀』に記されることはありません。

なぜなら、当初からの“大和一国史”として記されたこともありますが、中大兄がのちに「天皇」にご即位されたからです。

くわえて、「藤原」の姓をたまわった中臣鎌子(藤原鎌足)の子、藤原不比等が『日本書紀』の編纂に多大な影響力をもったためです。

ちなみに、ご参考までに書いておきますと、『日本書紀』編纂の総裁をつとめた「舎人親王」(とねり しんのう)は、天武の皇子ですが、なぜ「舎人」(使用人)と記されるのかといえば、不比等のほうが知恵も働き、実質的に権限をもっていて、なかば“パシリ”だったからです。


そういう事情がありまして、『日本書紀』は蘇我本宗家を“悪者”として描きました。

事実は、蘇我氏こそ7世紀初頭に日本の独立をもたらし、大和の近代化をすすめようとした先覚者です。

その実績によって、合併後、統一大和の実質の“3代大王”(蘇我馬子→蝦夷→入鹿)に就いていたわけです。

しかし、そうとは書けない『日本書紀』は、蘇我氏を推古女帝の「大臣」(おおおみ:首相)として描き、同時に蘇我氏の偉大な功績は、“架空”の「聖徳太子」こと実在の可能性が残る厩戸皇子(うまやど の みこ)の業績として記しました。


いずれにしても、蘇我氏を滅ぼし、調子づいた中大兄は、半島に大挙出兵の命令を九州海人族らに出し、結果「白村江の戦い」で壊滅的大敗北を喫します。

それゆえ、多大な犠牲者をだした当時の日本は、唐羅連合(唐と新羅)にいつ攻め込まれてもおかしくない国家存亡の危機に陥っていたのです。

幸いなことに「日本の天運」ゆえか、白村江の戦いに勝った唐羅連合は、ほどなくして仲間割れを起こしています。

日本に攻め込む余裕がなくなり、唐は日本に使節団を送って逆に新羅をけん制する作戦にでました。


アウトラインでご紹介いたしましたが、中大兄に「日本の天運」がともなわず、なぜ日本を危地に陥れることになったのかはあきらかです。

占星学からいえば、「日本の天運」のもとにとなった“民族性”「魚宮」も“国体”「水瓶宮」も、“他国に攻め込む”といった象意はもちません。

「天運」に反すれば、当然、天運はともなわないからです。

さらには、中大兄は正統な“皇子”ではなく、「日本の天運」を引き継ぐ立場にありませんでした。

事実、巷間言われる“中大兄皇子”という表記は、『日本書紀』にはいっさいありません。

「中大兄」と書き捨てです。

なぜなら、中大兄の出自にかかわる「高向王」(たかむくおう=おおきみではない)や「漢皇子」(あやのみこ)というネーミングで、『日本書紀』自らが示唆しています。

言葉には“魂”が宿るとされていた当時、中大兄の“出自”にかかわる人物を「高向王」や「漢皇子」と記したのは、“高”や“漢”が高句麗など半島系や大陸系を意味し、帰化一族を示唆するからです。

ちなみに、「漢皇子」と“皇子”の号で『日本書紀』に表記されるのは、高向王が大王(天皇)だったからではなく、母の宝皇女(たからのひめみこ)こと斉明天皇がのちにご即位されたために、さかのぼって“皇子”と表記したもので本来は“漢王”です。

ただ、それだとシナの「漢」の王と間違えますしね。

結局、中大兄は、その強すぎる“権力欲”からみても、「魚宮」の“民族性”をもち「水瓶宮」の“国体”をもって「和」を尊んだ天武天皇や原住日本人らしくなく、半分しか「日本の天運」を受けていないことがわかります。



3、減退期

さて、「天武天皇」の皇統は、藤原氏の策謀もあって、第48代「称徳天皇」で終わります。

古来の物部系の「道鏡」への禅譲も邪魔されてかなわず、結局、天智の孫の第49代「光仁天皇」に皇統が移っていきます。

770年のことです。

光仁天皇は、現在でも最高記録となる61歳の高齢でご即位されました。

なぜかというと、藤原氏がそれまで皇位にあった天武系ではなく、最も操りやすい酒びたりの「白壁王」(光仁天皇)を選んだからです。

ここから「日本の天運」は減退期に入ります。

実際、天武が行なった皇親政治は終わり、平安時代(794年~1185年)に藤原道長が“望月の世”を歌ったように、ひとり藤原家のみが栄華を極め、庶民はもちろん天皇でさえも置き去りにされて、藤原摂関家による政治が行なわれていくことになるためです。


さらに、日本に「天運」をもたらした“古代神道”ではなく、天智天皇にはじまる天智系の皇統は、藤原氏によっては「泉涌寺」(せんにゅうじ:仏寺)に祀られ菩提寺となります。

そればかりか、天皇家の主な宮中行事も、仏教式に変わっていきます。

天皇の即位式も、密教儀式の「即位灌頂」(そくいかんじょう)が取り入れられ、天武天皇が定めた「天皇」という号ではなく、仏教式に「○○院」と院号で称されるようになります。

藤原氏が、実質の政権を握った奈良時代後期~平安時代また武家の鎌倉時代中頃にかけてそのように変わっていったのです。

つまり、もはや“天皇”ではなくなったのが天智系の皇統です。


そこに「日本の天運」などともなうはずもなく、半減した時代が続きました。

長く続いた院号が、もとの天皇号に戻るのは、幕末の「光格天皇」によってです。

その後、明治の「御一新」によって、現在のように古来の神道に全面的に戻っていきます。

この一時からみても、当時の「日本の天運」の“減退”は明らかでした。

インドで発祥し、日本で新たな「大乗仏教」に変わったとはいえ、日本の「天運」は仏教にあるのではなく、大自然を崇敬した縄文時代の太古神道に源泉があるからです。

大自然を敬う祭祀から天皇が離れていくと、「日本の天運」は半減していきます。

光格天皇は、明治天皇の3代前にあたり、嫡系ではなく傍系天皇ですが、途絶えていた「新嘗祭」をはじめ朝廷儀式の復旧に努めるなど、天運復活のさきがけともなっています。



4、武家政権による「日本の天運」

そんな“天運の減退”を補ったのが、源頼朝(みなもと の よりとも)にはじまる武家政権でした。

なぜなら、源頼朝の母「由良御前」(ゆらごぜん)は、「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)を祀る「熱田神宮」の大宮司家の娘だったからです。

「八咫鏡」(やたのかがみ)と同様に、古代日本の“国づくり”に関わるもう一つの神器「草薙剣」の霊威が、天智系皇統に代わって、「日本の天運」を補っていくことになります。

ちなみに、もともとの“神器”は「八咫鏡」と「草薙剣」の二種です。

「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)が加わり“三種の神器”となるのは、持統天皇から孫の文武天皇への皇位継承からで、“万世一系”が確立してからです。

先入観なく『日本書紀』を読めば、歴代天皇紀からそのことがわかります。

持統天皇までは「八咫鏡」と「草薙剣」、加えて天皇印こと「御璽」による皇位継承が記されています。


お話を戻して、幕府を開くには、名目上とはいえ天皇から「征夷大将軍」の勅許(ちょっきょ)をえることで可能になります。

鎌倉幕府を開いた源頼朝も、以後、「将軍」(征夷大将軍)として天下を治めていくことになります。

これは最後の将軍「徳川慶喜」が、天皇への「大政奉還」(1867年)を行ない征夷大将軍を返上するまで続きます。


では、なぜ双魚宮時代と宝瓶宮時代に「天運」をもつ日本は、武家政権に変わったのでしょうか。

その後の国際情勢をみればわかります。

もし、のちの世までも天皇をないがしろにした藤原氏の公家政権が続いていたら、日本は外国に侵略され滅びた可能性があるからです。

のちの世の度重なる外国からの侵略を、武家政権ゆえに防ぐことができました。

だれもが知るところを挙げれば代表的には次の3つです。

1、
鎌倉時代の中期に2度にわたる「元寇」(1274年、1281年)です。

2、
次に、安土桃山時代のキリスト教の宣教に名を借りた「日本侵略」の意図もそうです。

しかし、嵐にあって種子島に漂着したポルトガル人から伝わった鉄砲(1543年)を、優れた刀鍛冶の技術によって、あっというまに量産し、当時、最強の軍事国家になったのが戦国時代の日本です。

それゆえ、武力侵略はむずかしいと判断したことが、宣教師の記録に残されています。

そのため彼らは、キリスト教への改宗“洗脳”によって侵略をすすめる作戦に変えたのです。

その意図を見破ったのが、禁教令を出した天下人秀吉でした。

「バテレン追放令」(1587年)がそれです。

また、家康も、だれよりも宗教(一向一揆)の怖さを身をもって体験していたゆえに、2代将軍秀忠によって 「キリスト教禁止令」(1612年)を発布し、宗教の名を借りた侵略から日本は守られることになります。

一般の信徒は“純粋”でも、宗教は「政治」に利用されるのが人の世の常です。

3、
さらには、幕末も同様です。

欧米諸国の植民地政策から、武家政権ゆえに日本を守ることができました。

一方、アヘンによって大儲けをしつつ、相手国を衰退させ、植民地化しようとするイギリスに対して、清国は阿片戦争(1840~1842年)まで起こしますが、敗北して香港を割譲することになります。

幸い、日本は武家政権でしたし、何よりも水戸黄門こと徳川光圀(みつくに)の「大日本史」編纂に端を発する「水戸学」によって、将軍よりも天皇を“君主”と仰ぐ「尊皇思想」が幕末にかけて高まっていました。

なぜなら、光圀の誕生(1628年)直後、翌々1630年から「宝瓶宮時代」の影響圏に入ったからです。

水瓶宮を“国体”とする日本にとって、国体の象徴である天皇の「復権」のはじまりを意味します。


これにより、欧米が開国をせまった幕末には、天皇を守り外国を討つ「尊皇攘夷」の気運が高く、諸外国も容易に手出しはできない状況が生じていました。

また、「水瓶宮生まれ」(太陽)の徳川家康が開幕した江戸時代は、長く平和が続いたことで、庶民の文盲率は低く、武士は高い教養とモラルを身につけていたことも重要です。

極東の小さな“未開の島国”と思って侵略と植民地を企図した欧米は、日本の「武力」と「文化」に一目おかざるをえませんでした。

もっとも、こういうお話は、マルクス史観の日本の歴史学者や戦後の日教組による学校教育またマスコミは隠すのがふつうです。

彼らが妄信する「共産主義思想」に合わないためで、歴代政権は一方的な“支配者”でなければならず、庶民から“搾取”する悪人であり、そのように思い込んで歴史を曲げて解釈するためです。

“共産主義”華やかりしころの戦後教育やマスコミ報道によって、知らずに“洗脳”されていると、違和感を感じることがあってもおかしくありません。


いずれにしても、武家政権ができることで日本は守られます。

これは、正統の「天武天皇」(八咫鏡)や“古代国づくり”を行なった「大国主神」(草薙剣)に代表される「日本の天運」の一端です。



5、明治天皇による「日本の天運」の復活

さて、重要なことを書かなければなりません。

「大政奉還」による“御一新”によって、「日本の天運」を補ってきた源頼朝の鎌倉幕府以降の武家政権は終わります。

しかし、「明治維新」は、天智系皇統までも“御一新”したようです。

でなければ、「日本の天運」が天皇に戻ることはありません。


左系の反天皇学者や、某国系の反日ジャーナリストが、どういおうと、明治天皇以降、皇統は天武天皇の“古代海人族”による「日本の天運」へと戻ったようなのです。

その証拠は簡単です。

正統ではない中大兄(天智天皇)が、百済復興の名目で他国に戦争をしかけて歴史的大敗をしたことは、「日本の天運」をお持ちでないことを証明しています。

その後の天智系天皇の御世をみても、藤原氏に乗っ取られ、意のままに操られたこともその証左です。

また、草薙剣にかかわる源頼朝が、「武家政権」を樹立し、天智系皇統に代わって「日本の天運」を補ってきたのも事実です。

“好戦的”だった天智天皇に反して、明治大帝は天武天皇が確立した「日本の天運」を引き継ぐ天皇らしく、平和を願う大御心をおもちでした。

その御世において、大国と近代戦を戦うことになった「日清戦争」にも「日露戦争」にも勝利し、後者はとくに“奇跡的”ともいえる勝利をおさめました。

ロシアに対する日本の勝利は、ご存じのかたも多いように歴史上はじめて、有色人種が白人国家を打ち負かしたものです。

ロシアに苦しめられていた国々から喝采を浴びると同時に、世界を支配し意のままにしてきた白人に抑圧されてきたアジアやアフリカの国々の人々に希望を与えることになったのはご存じのとおりです。


この出来事は、結果的に欧米の警戒心を強め、大東亜戦争(太平洋戦争)を招きます。

しかし、日本の“大義名分”が、「アジアの解放」と「各国の独立」につながったのは事実です。

つまるところ、明治以降の一連の出来事は、お互いに対等な国家や個々人の社会を築く「宝瓶宮時代」を迎えるベースとなっていきます。


長くなりましたので、次回「最終回」にて、「明治天皇」にかかわる「日本の天運」をお届けいたします。














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