天皇と「日本の天運」その7
2021.04.07
 
● 約1,000年続いた天智系皇統と異なる「明治天皇」


天皇と「日本の天運」の最終回です。

「日本の天運」を半減させたまま、約1,000年続いたのが天智系皇統でした。

これを補い、日本を守ってきたのが“草薙剣”由来の源頼朝にはじまる「武家政権」です。

その武家政権も、最後の将軍 徳川慶喜が「大政奉還」を行なったことで、“天皇の大権”が明治に復活していきます。

このことは「明治天皇」が天智系から決別したことによって、半減していた「日本の天運」が天武天皇による“原点”へと戻っていきました。

どういうことでしょうか。


「宝瓶宮時代」(ほうへいきゅう じだい)が正式にはじまる約120年ほど前のことです。

ちなみに、占星学でいう宇宙的な時代区分の一つ、「宝瓶宮時代」が正式にはじまったことが、なぜわかるのかというと、約25,920年(計算値)の周期をもつ“春分点歳差”と、当時の特異な“星の配置”、さらには世界の各分野で人知れずに起きたパラダイム転換の出来事からリーディングできます。

今年2021年から32年前、平成元年(1989年)のことでした。

この年の1月7日に昭和天皇が崩御されています。

つまり、日本では「宝瓶宮時代」の正式なはじまりとともに「平成元年」を迎えたのです。


なぜ、このような一致の現象が起きたのか。

約2,000年ほど前の「双魚宮時代」(そうぎょきゅう じだい)の初期に、日本では「魚宮」の“民族性”のもと、「水瓶宮」で象わすことができる“国体”が定まっていきました。

これが「日本の天運」の“萌芽”となっていきます。

簡単にいえば、人類歴史の流れと軌をいつにする、“民族性”「魚宮」と“国体”「水瓶宮」の“古代国づくり”がおこなわれたことに由来します。

たとえば、“君臨すれども統治しない”「天皇」のように、支配しない「大国主大神」(≒饒速日命:にぎはやひ の みこと)による“古代国づくり”などによってです。

ちなみに、“大国主”(おおくにぬし)というのは、固有名詞ではなく、“国づくり”を行なうなどして、最初に国の主(ぬし)となった人物を意味します。

なので、全国各地の国邑(こくゆう)ごとに、“大国主命”また“大国魂命”(おおくにたま の みこと)がいてもいいのです。

その大もととなった人物が「大国主大神」です。

具体的には、遠賀川河口域に発祥した日本の「稲作」を、自分たちだけのものとはせず、「病気治療の方法」や「鳥獣や昆虫の災いを除くまじないの法」とともに、全国に広めた「大国主大神」(『日本書紀』「神代」では“大已貴神”:おおあなむちのかみ、「神武天皇紀」では“饒速日命”にあたります)による“古代国づくり”でした。

このことが、一部に例外はありますが、卑弥呼のように“祭祀王”の共立による“合議的共同体運営”といった「水瓶宮」で象わすことができる“国体”の形成につながっていきます。

左翼の言葉を借りていえば“天皇制”です。

ですが、そこに共産主義でいう“支配”や“搾取”の概念は含まれません。

“臣民一体”であり、「和」や「絆」や「民度」による国家運営を意味します。

そういうことがありまして、人類歴史における「双魚宮時代」→「宝瓶宮時代」への移行は、古来よりの「日本の天運」(命脈)と共鳴したのです。

それゆえ、「宝瓶宮時代」の正式なはじまりとともに、天皇の代替わりによる「平成」の御世に移行する出来事が起こりました。


それはともかく、今から150年ほど前の「明治天皇」は、1,000年近く続いた天智系皇統から、なぜ離れたといえるのでしょうか。

また、「明治天皇」によって「日本の天運」が、なぜもとに戻ったといえるのでしょうか。

これまでの当シリーズのなかに“根拠”は書いておきました。

繰り返しになりますが、「日本の天運」の“萌芽”は、縄文晩期から弥生初期にかけて、“古代国づくり”をおこなった「大国主大神」(≒饒速日命)にあります。

さらには、7世紀に『古事記』と『日本書紀』の編纂を命じた「天武天皇」によって、「日本の天運」は確立していきました。

このような“日本の原点”を、忌避してきたのが「天智系皇統」です。


第38代「天智天皇」から10代後の第49代「光仁天皇」(天智天皇の孫)にはじまり、幕末の第121代「孝明天皇」まで、約1,000年近く天智系皇統は続きます。

天智系に皇統が変わることよって、「日本の天運」は半減し、“命脈”を保つことに黄信号がともりました。

それを補い、諸外国による数々の侵略から守ったのが、「草薙剣」を祀る熱田神宮の大宮司家の娘 由良御前を母にもつ「源頼朝」にはじまる武家政権でした。

もし、「武家政権」がこの時期にできていなければ、日本は侵略されて滅びていたか、植民地にされていたかもしれません。

そのように「日本の天運」を補ってきた武家政権も、約700年続いたのち、「大政奉還」(明治維新)によって終わっていきます。

そのとき、ご即位されたのが「明治天皇」です。

後述しますが、「明治天皇」が天智系と訣別し、“古代海人族”や「天武天皇」につうじる“日本の原点”に立ち返ったことで、「日本の天運」は復活していきます。


そのことを列記する前に、かんたんな事例を挙げておきます。


かつて「中大兄」(天智天皇)は、“民族性”「魚宮」と“国体”「水瓶宮」の日本らしくなく、半島に出兵し、「白村江の戦い」を起こしました。

結果は、ご存じのように壊滅的な犠牲と歴史的大敗北を喫しました。

一方、「明治天皇」は、“日本の原点”に立ち返ったことで、大国を相手にした「日清戦争」と「日露戦争」ともに勝利されます。

中大兄(天智天皇)に「日本の天運」がともなわなかった理由は、当シリーズの中でお伝えしたとおりです。

しかし、「明治天皇」は逆でした。

天武天皇が、7世紀に「近代律令国家 大和」を築いていったのと同様に、明治天皇の御世は、アジア諸国に先駆けて“富国強兵”や“殖産興業”など「文明開化」を推し進めて、「近代国家 日本」の建設を成し遂げます。

それは、当時、世界を支配していた白人国家も一目おくものでした。


さて、最終的なご判断は皆さま各位に委ねますが、「明治天皇」が「日本の天運」を半減させた天智系皇統とどう訣別し、どのように“日本の原点”に立ち返って「日本の天運」を引き継いでいったのか、以下、そのいくつかをご紹介いたします。



1、「天皇」号の復活

はじめて「天皇」号をもちいたのは、第40代「天武天皇」でした。

その天武系の皇統が、藤原氏の策謀によって第48代「称徳天皇」で終わり、天智天皇の孫の第49代「光仁天皇」から天智系皇統が続いていくことになります。

天武天皇、持統天皇、文武天皇の3代(+不比等)の「基本三数」3(4)数によって確立した「万世一系」は、天智系(実状は藤原氏の傀儡)にうばわれます。

さらには、光仁天皇から3代のちの第52代「嵯峨天皇」からは、仏教式に「院」号がもちいられることになります。

「○○天皇」ではなく、「○○院」と称されるようになったのが、天智系皇統(院統)です。


そして、ときは幕末。

光仁天皇から70代のちの第119代「光格天皇」(傍系)は、この「院」号を廃止して、本来の「天皇」号に戻しました。

さらには、途絶えていた「新嘗祭」を復活させています。

その3代のちが、第122代「明治天皇」です。

明治天皇からは、かつての「神道祭祀」と「宮中行事」が本格的に復活していきます。

私たちは、天皇が「神道」にもとづいて継承されてきたと思っていますが、天智系皇統の御世は、神道よりも「仏教」が優先され、神仏習合はもちろん、天皇の「即位式」でさえも、主な宮中行事はことごとく仏教式で行われてきました。

そんな皇統(院統)に「日本の天運」などともなうはずがありません。

それが元の「神道」に戻ったのは、150年ほど前の「明治天皇」からです。



2、天智系が遷都した「平安京」

明治天皇になって“平安京”(京都)から、「東京」へと遷都がおこなわれます。

天智系に皇統が替わった第49代「光仁天皇」は、現在でも最高齢記録となる61歳でご即位され、“酔いどれ”でした。

藤原氏が利用するために御輿にかついだだけの天皇です。

次の第50代「桓武天皇」のとき、それまでの「平城京」(奈良)から“都”を長岡京(784年)さらには「平安京」(京都)へとうつします。

794年のことです。

ここから「明治維新」(1686)まで、京都を御所とする天智系の皇統(院統)が続きます。

つまり「京都」は、天智系の“都”なのです。

その“都”を、明治天皇は捨てて、「東京」に遷都しました。

たてまえとしては、京都も、東京も、両方を都とする“奠都”(てんと)とされましたが、結果的に江戸城跡を「皇居」とし、首都機能も移転して「遷都」がおこなわれたわけです。


ここに天智系の“都”は、「明治天皇」によって約900年の歴史に幕を下ろしました。



3、「崇徳院」の解怨と帰還

日本の三大怨霊の代表格は、“讃岐院” 改め「崇徳院」です。

要は、第75代「崇徳天皇」のことです。

なぜ、“讃岐院”とよばれたのかというと、都から讃岐に配流(はいる)になったからです。

しかし、“讃岐院”は、激しい怨みをいだいたまま崩御され、都に「祟り」が起きたために、おそれられて「崇徳院」と呼ばれるようになりました。

配流になった崇徳天皇(讃岐院)は、自分の舌を噛み切り、その血で義理の父であり兄の「後白河院」へ、「日本国の大魔縁となり、皇をとって民とし、民を皇となさん」と呪詛を書き記して、壮絶な崩御をされたといいます。

その真偽はともかく、ほどなくして“平民”だった平家が天皇をしのいで隆盛を極め、さらには平家を滅ぼした源頼朝が、「鎌倉幕府」を開幕します。

崇徳天皇(讃岐院)の呪いどおりに、平民だった武士が天皇にとってかわり、天下を治めるようになったのです。

そういった厄災が100年毎につづき、崇徳天皇の“祟り”と恐れられるようになっていったという事実があります。


ちなみに、「崇徳」という諡号(しごう)ゆえに、“崇高”で“徳”の高い素晴らしい天皇と解釈すると間違います。

事実は異なります。

“崇高”で“徳”があるといった「言霊」で呼ぶことによって、怨霊として祟らないように鎮めようとしているのです。

このような諡号の例は、案外と多くあります。


たとえば、第10代「崇神天皇」もそうです。

“古代国づくり”を最初におこないながらも、“国ゆずり”をせざるをえなかった実質の“初代天皇”です。

「祟(たた)り」を鎮めるために、よく似た字面の「崇(あが)める」という字をもちいて、鎮魂をはかり、“崇神天皇”という「漢風諡号」(しごう)を定めたものです。

具体的には、「大国主大神」(『日本書紀』では「大已貴命」また「饒速日命」)をさします。

いずれも、“国ゆずり”をしたことが『日本書紀』に記されている人物です。

ほかにも、第16代「仁徳天皇」や殺害された第32代「崇峻天皇」がいます。


ですが、いちばん有名なのは「聖徳太子」でしょう。

「聖徳太子」と呼ぶから、“聖”なる“徳”があったと考えるのは早計です。

事実は、法隆寺の法要「聖霊会」(しょうりょうえ)での「蘇莫者」(そまくしゃ)にかかわります。

7世紀初頭に日本(倭国)の独立と近代化をすすめながらも、孫(入鹿)を中大兄と中臣鎌子に暗殺され、自らの功績は“厩戸皇子”(うまやど の みこ)のものとして『日本書紀』に記された人物で、「蘇我馬子」(蘇我本宗家)を意味します。

その怨霊を鎮め、祟らないように、当時の人々は、才能もなかった厩戸皇子ではなく、蘇我氏を意味して「聖徳太子」と呼んだのです。

なので、“聖徳太子”そのものは実在しません。


お話をもとに戻します。

明治天皇は、孝明天皇が崩御された半月後に皇位を受け継ぐ「践祚」(せんそ)をされました。

しかし、践祚はなされていたものの、2年近く即位はなさらず、「崇徳院」が崩御された讃岐に勅使を派遣しています。

崇徳院の命日にあたる8月26日に「宣命」(せんみょう)が読み上げられ、謝罪を行なったうえで、日本国へのご加護と、御霊の京都へのご帰還を願っています。

崇徳天皇をお祀りする「白峯神宮」を京都に創建したうえでのことです。

その翌日、1868年8月27日に「明治天皇」は東京で「ご即位」されます。

徹底して「崇徳院」を嫌い、讃岐に配流(はいる)にしたのちも、見向きもせず、崇徳院の願いを退け続け、仏教にのめりこんだ第77代「後白河院」の後始末をするかたちでの、「明治天皇」のご即位でした。

天智系皇統の不始末に“ケジメ”をつけたうえで、京都を離れ、東京でご即位をされたのです。



4、「伊勢神宮」へのご親拝

さて、メインです。

私たち日本人は、今でこそ皇祖神を「天照大御神」とし、「伊勢神宮」を崇敬しています。

ところが、天智系天皇は、誰一人として「伊勢」に行幸されていません。

むしろ、伊勢も、天照大御神をも、忌避してきたのが「天智系皇統」です。


なぜでしょうか。

少し伊勢のいわれを書いておきます。

「壬申の乱」にさいして、「大海人皇子」(天武天皇)は、隠棲先の吉野から本陣をおく不破の関に向かう途中、「伊勢」を遥拝されています。

なぜ、わざわざ「伊勢」を遥拝されたのでしょうか。

これは重要なので、後述いたします。

当時は、小さな祠(ほこら)だった伊勢を、「壬申の乱」の戦勝もあって、天武天皇は大きくして末永く祀ろうとされます。

その遺志を受け継いだ正妃の「持統天皇」は、今日のように「伊勢神宮」を大きく立派に建て直されます。

さらには、永く続くように20年ごとの「式年遷宮」を定めています。

そういうことがありまして、天智天皇の皇女でもある「持統天皇」は、何度か伊勢に行幸をされています。

ところが、まわりの人々は、持統の伊勢行幸に反対しているのです。

理由は、天智系皇統(藤原氏)が仏教を優先するようになったこともありますが、伊勢に祀られる「天照大御神」は、天武天皇とは関係があっても、天智系の祖「天智天皇」とは関係がなく、むしろ敵対視さえしていたからです。


ちなみに、そんな天智系皇統に対して、“民族性”「魚宮」の一般庶民はやはり違いました。

上述の崇徳天皇や平家の時代に、元武士(佐藤義清)だった西行法師は、行脚で伊勢を訪れ、有名な次の歌を詠んでいます。


 「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」


また、江戸時代には、伊勢神宮へ集団参詣する「お蔭参り」(おかげまいり)が次第にさかんになっていきます。

当時は、貴賤や貧富の別なく「一生に一度は伊勢参り」といわれるほどでした。

そういった庶民の気運にもかかわらず、天智系天皇は、伊勢を無視し続けました。

そして、約1,000年ぶりにそれを破り、伊勢神宮をご親拝されたのが「明治天皇」です。


さて、大海人皇子(天武天皇)は、なぜ当時は小さな祠(ほこら)でしかなかった伊勢を知っていたのでしょうか。

また、「壬申の乱」にさいして、なぜ遥拝をされたのでしょうか。

答えは次のとおりです。

天武天皇は「大海人皇子」と呼ばれたように、出自は“海人族”(あまぞく)にかかわります。

九州に端を発した“古代海人族”は、出雲、丹後(元伊勢)、尾張へと拠点を広げます。

その尾張“海人族”が、荒波の太平洋へ出るさい、航海の安全を願って自分たちの先祖神を祀った「伊勢」を遥拝していたことが第一点です。

たとえば、古くからの漁港や港の入口付近には、今でも漁業や航海の安全を願う地元の神社が多くみられます。

尾張で養育された「大海人皇子」は、それゆえ伊勢の存在をご存じでした。


また、尾張“海人族”の海部氏は、天の橋立を参道とすることでも知られる元伊勢こと「籠神社」(このじんじゃ)に残る国宝「海部氏系図」に、その始祖が記されています。

「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひの みこと」こと「始祖 彦天火明命」です。

歴史上の秘密は、『日本書紀』「神武天皇紀」によると、「神武東征」以前に大和を治めていたのは、同じ天孫族で、最初に“国づくり”をおこなった「饒速日命」(物部氏の祖)でした。

つまり、男性神「天照大御神」です。

“海人族”の祖の一人で、元来からのご祭神です。

なぜ、このことが隠されたのかというと、藤原不比等が『日本書紀』の編纂に関与したからです。

記述の中にヒントを残しつつも、二重三重に交錯させることで、どの族統なのか、また男性か女性かもわかりにくくしてしまいました。

不比等は、「持統天皇」(和風諡号:高天原広野姫天皇 たかあまのはら ひろのひめの すめらみこと)を「天照大神」になぞらえさせるため、“女性神”とも読めるようにしたのです。

事実は、平安時代に伊勢神宮に奉納された「天照大神」の装束一式は、ほとんどが男性用の衣装と記されています。

さらに、祇園祭の岩戸山の御神体「天照大神」も、男性の姿で描かれています。

なぜ、女性神と読めるように記したのかというと、実在の「天照大御神」(男性神)を消し去るのと同時に、持統天皇から「孫」の文武天皇への譲位に神話的な裏付けをもたせて正当化をはかるためです。

神代(かみよ)において、高天原の皇祖「高皇産霊尊」(たかみむすひの みこと)と「天照大神」は、葦原中国(あしはらの なかつくに)の君主として、「孫」の「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)を天孫降臨させました。

つまり、持統天皇を「天照大神」にみたてて、孫の「文武天皇」への譲位の裏付けとしたのです。

もっとも、それもあって、「万世一系」は定着していくことになります。


「壬申の乱」にさいして、大海人皇子が伊勢を遥拝した理由は、“国ゆずり”をして追われた身なので、当時は小さな祠ながら伊勢に祀られる「天照大御神」(饒速日命)が、かつては“大和”を治めていたからです。

それゆえ、天智天皇の皇子「大友皇子」と“大和”の覇権をかけて「壬申の乱」を戦わざるをえない事態になったとき、かつて大和を治めていた“先祖神”「天照大御神」(饒速日命≒大国主大神)の霊威にあずかるべく遥拝されたのです。


伊勢神宮に祀られる「天照大御神」が、“海人族”にかかわることは、三種の神器「八咫鏡」(やたのかがみ)が、「舟形」の容器に入れられて安置されているといわれていることからも、ご理解できるのではないでしょうか。

逆にいえば、それまで一度も伊勢に行幸されなかった天智系の天皇に対して、はじめて伊勢をご親拝された「明治天皇」は、実際か霊統かはともかく、“古代海人族”にかかわっている可能性さえでてきます。

付記しておきますと、“反天皇”の左翼系ジャーナリストや、“反日”の半島系作家などが、「悪意」をもって作話師まがいに語る「明治天皇」の出自に関する“ウソ”は別として、奈辺には相応に複雑なご事情があるようです。



5、皇祖神「天照大御神」

もうひとつ書いておきます。

明治になって「国家神道」が立ち上がります。

そのさいに、神殿の「ご祭神」をどうするかという論争が神道界で起きました。

1880年~1881年のことです。

『古事記』に記される「天之御中主神」と「高御産巣日神」と「神産巣日神」の造化三神に加えて、「天照大御神」の四柱を祀るのか、それとも出雲派が推す「大国主大神」を加えて五柱を祀るかということです。

論争は紛糾し、結論はでませんでした。

そこで「明治天皇」の勅裁を仰ぐことが提案されます。

結果、「天照大御神」のみを皇祖神とし、ほかは「歴代天皇」と「天神地祇」をご祭神とすることが決まりました。

ここでも「明治天皇」は、天智系が徹底的に無視した「天照大御神」を選ばれています。

それゆえ、今では皇祖神は「天照大御神」となっています。

ちなみに、『日本書紀』の「神代」(下)で記される皇祖は「高御産霊尊」(たかみむすひの みこと)です。

それはともかく、実際の歴史である「日本の天運」の“原点”からみて、最初に平和的な“古代国づくり”を行なった男性神「天照大御神」を皇祖とするのは、間違っていません。

実際は岩倉具視(いわくら ともみ)が、上述に関与した可能性が考えられなくもありません。

ですが、「明治天皇」によって来るべき「宝瓶宮時代」にむけた「日本の天運」が復活していくことになったことは、事実であり変わりません。



6、追記:国歌「君が代」

書き忘れたので追記しておきます。

明治になって先進諸国にならい、「国歌」が定められました。

ご存じ「君が代」です。

だれもが知るその歌詞は、『古今和歌集』に“読み人知らず”として採録されていたものですが、ほとんど同じ元歌があります。

それは博多湾東端の志賀島(しかのしま)にある「志賀海神社」(しかうみ じんじゃ) でおこなわれる“山ほめ祭”で詠じられる神楽歌です。


 「君が代(だい)は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりて こけのむすまで…」


この歌が旅芸人によってひろまり、『古今和歌集』への採録になったといわれています。

「志賀海神社」というのは、『日本書紀』でも活躍する「綿津見三神」(わたつみ さんしん)を祀る“古代海人族”の神社です。

“古代海人族”の「安曇族」(あずみぞく)が当初、拠点としたのが、1世紀(西暦57年)に奴国(なこく)の使者に後漢の光武帝がさずけたとされる「金印」(漢委奴国王)が発見されたこの志賀島で、志賀海神社は、全国の“綿津見神社”また“海神社”の総本社になっています。

伊勢に祀られる皇祖神「天照大御神」が、“古代海人族”にかかわる祖神で、明治天皇以来の日本の国歌も知ってか知らずか、“古代海人族”の神楽歌を元歌として作曲されていることは、単なる偶然ではなさそうです。


「双魚宮時代」の“古代国づくり”による“民族性”「魚宮」と、“国体”「水瓶宮」にもとづく「日本の天運」のはじまりと、太古日本列島の成り立ちが、“古代海人族”にかかわってもたらされているために、ある意味、当然のことなのかもしれません。
















                               天皇と「日本の天運」:完

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