[補記] 統一独立国家「日本」
2021.04.24
 
先の記事の「補記」です。

7世紀初頭に九州「倭国」と本州「畿内国」(日本)が合併し、統一独立国家「大和」(大倭)が誕生しました。

ときは、“日出ずる処の天子”こと九州倭国王「阿毎多利思比孤」(あめの たりしひこ)大王の御世です。

『古事記』また『日本書紀』では、第33代「推古天皇」の御世です。

くわしい経緯は、先の記事をご参照ください。


このとき、九州「倭国」は、本州「畿内国」(日本国)に、自らを吸収合併させるかたちで、シナ(隋)の冊封下(属国)からはなれ独立しました。

「漢委奴国王」の金印で知られる1世紀の「奴国」(なこく)以来、3世紀の倭の女王ひみこによる“邪馬台国連合”や、6世紀までの九州「倭国」の歴史に幕をおろしたのです。

はじめて聞くお話ゆえに、にわかには信じられないかたも多いでしょう。


信じても信じなくてもいいのですが、今回はいくつかの“状況証拠”を提示しておきます。



1、「記紀」の記述

【古事記】

『日本書紀』は、第41代「持統天皇」で終わっています。

具体的には、天武と持統の孫、第42代「文武天皇」への譲位(万世一系の確立)で巻をとじます。

これに対して『古事記』は異なります。

『古事記』は、第33代「推古天皇」で終わっています。

和風諡号(わふうしごう:国風諡号)「豊御食炊屋比売命」(とよ みけ かしきや ひめの みこと) です。

ちょうど、九州「倭国」と本州「畿内国」(日本)が合併したときです。

これが「倭畿合併」の一つの“証拠”です。

なぜなら、“九州海人族”を出自とする大海人皇子こと「天武天皇」は、『古事記』の編纂(誦習)を命じました。

理由は、自らの皇位の正統性を示すことによって、1,000年のちも皇位争いをなくし、内乱を防いで日本に平和をもたらそうとされたからです。

要は、初代「神武天皇」が九州から東征します。

その九州(倭国)の王統に代々つながる自らの「皇統」(血統)を、『古事記』によって示そうとされたのです。

当然、九州「倭国」の歴史は、7世紀初頭の合併によって途絶えましたので、合併の時点の「推古天皇」で筆をおくことになります。



【日本書紀】

『古事記』だけではありません。

実は『日本書紀』も類似なのです。

巻第1から巻第30まで、一見、連続しているようにみえますが、歴史学者らの研究によると、実は大きく3つわかれています。

表記の基準や漢文の用法などが違うことが専門家のあいだでは知られています。

顕著に区分されるのは、次の3つです。


1) 巻第1「神代(上)」(かみよ) ~ 巻第13「允恭天皇」&「安康天皇」まで。

2) 巻第14「雄略天皇」 ~ 巻第21「用明天皇」&「崇峻天皇」まで。

3) 巻第22「推古天皇」 ~ 巻第30「持統天皇」まで。


要は、3番めの巻第22「推古女帝」から、統一独立国家「大和」の歴史がはじまったために、編纂担当者が変わり、表記基準が異なっています。

ちなみに、ご参考までに記しておきますと、2番めの巻第14「雄略天皇」の御世においても、古代史の転換点でしたので類似します。

「大泊瀬幼武天皇」(おおはつせの わかたけの すめらみこと)こと「雄略天皇」は、『日本書紀』の資料が少なかった前半期の各天皇紀のなかでは、最も分量が多く記されています。

“大泊瀬幼武天皇”(雄略天皇)が“海人族”にかかわることは、古くからの港などを意味する「大泊瀬」という諡号(しごう)からもご理解できるのではないでしょうか。

雄略天皇については、九州(熊本)と関東(埼玉)で“ワカタケル”の銘が印刻された剣が出土しています。

また、1世紀ほど続いていたシナへの朝献を打ち切ったのも、“讃、珍、済、興、武”の「倭の五王」のうち“武”に比定される雄略天皇だとされ、重要な業績を残した大王(天皇)です。

ちなみに、『日本書紀』のなかで、いちばん多い分量で記される天皇は、当然ですが、巻第29の第40代「天武天皇」(下巻)です。「壬申の乱」が記される巻第28の「上巻」を加えるとダントツの分量です。




2、欽明天皇の“皇子”たち

巻第19に記される第29代「欽明天皇」も重要な“スタンス”が認められます。

なぜなら、『日本書紀』は、「欽明天皇紀」から書きはじめられたともいわれているからです。

実際、「欽明天皇紀」には、第29代といった途中にもかかわらず、「他のところもこれと同じである」といった『日本書紀』全体の読み方を示唆する一文があります。

それもそうですが、欽明の“皇子”(皇女)は、立て続けに4人も天皇になっています。

しかも、そのうち「敏達天皇」と「推古天皇」は、ご夫婦です。

4人の“皇子”(皇女)のご即位の順番は、第30代「敏達天皇」、第31代「用明天皇」、第32代「崇峻天皇」、第33代「推古天皇」と、記されています。

このうち、敏達天皇を除けば、蘇我氏の娘たちが生んだ天皇です。

つまり、敏達天皇と推古天皇は、母親違いの“兄妹”でありながらご夫婦なのです。

実際のところは、「倭畿合併」による“政略結婚”の可能性が高いでしょう。

それを『日本書紀』は、“万世一系”ゆえに、いずれも「欽明天皇」の皇子また皇女として記したようです。

通常、このような継承はありえないためです。

それは、本来の和風諡号が異なることからもみえてきます。

第28代「宣化天皇」の娘「広姫」から生まれた敏達天皇は「渟中倉太珠敷天皇」(ぬなくらの ふとたましきの すめらみこと)と申し上げます。

一方、蘇我馬子の姉「堅塩姫」(きたしひめ)から生まれた「用明天皇」と「推古天皇」は、それぞれ「橘豊日天皇」(たちばなの とよひの すめらみこと)、「豊御食炊屋姫天皇」というように“豊”がつけられています。

そして、馬子の妹の「小姉君」(おあねのきみ)から生まれたとされる「崇峻天皇」は、上述の「大泊瀬幼武天皇」(雄略天皇)やその孫「小泊瀬稚鷦鷯天皇」(武烈天皇)に似た「泊瀬部天皇」(はつせべの すめらみこと)とこれまた系統が異なるようです。


『日本書紀』が、この皇子たちにかぎらず他の皇統においても、“万世一系”かのように操作した疑いはぬぐいきれません。

逆の見方をすれば、『日本書紀』は主な豪族たちすべてを歴代天皇の「皇子」に連なる一族として記しました。

それゆえ、武内宿禰や蘇我氏を除いて、どの豪族の王が天皇になっても“万世一系”が成り立つように工夫しています。


では、なぜ欽明天皇の“皇子”(皇女)は次々と天皇になったのでしょうか。

それは、九州「倭国」と本州「畿内国」の合併のさいに、両国の王たちを“万世一系”としてつなげたために、いずれも欽明天皇の皇子(皇女)として一つにまとめたのだといえます。

もっとも、歴史過程をみれば、九州(倭国)を出自とする“初代「神武天皇」”のモデルとなった実在の人物の子孫が、両国の王統を継いできたと考えれば、いずれでも、たしかに“万世一系”といえなくもありません。


お話は変わります。

くだんの「欽明天皇」は、和風諡号を「天国排開広庭天皇」(あめくに おしひらき ひろにわの すめらみこと)と申し上げます。

この意味は、重要です。

なぜなら、“九州倭国を排して、統一日本をつくった天皇”という意味に読めるからです。

解説をします。

「天国排開広庭天皇」の「天」(あめ)は、九州倭国王「阿毎多利思比孤」の“阿毎”(あめ)です。

なので「天国」(あめくに)というのは、九州倭国を意味します。

「排」は、そのまま“排す”です。

「開広庭」は、全国を“統一大和”として広く庭(領土)として開いたことをあらわします。

欽明天皇の在位は、539年~571年です。

この御世に、九州「倭国」の“独立”が模索され、畿内国(弟)との合併による“統一独立国家”「日本」にむけた計画や交渉が進んでいったのではないでしょうか。


ちなみに、『日本書紀』がそのようなウラ事情を書き残すことはありません。

なぜなら、九州「倭国」をはじめ、全国各地の国々や邑々の存在を消し去り、最初からの“統一独立国家”「大和」として編纂したからです。

ただし、『日本書紀』の案外とまじめなところは、本当の歴史を残したいという強い思いが要所要所で散見できることです。

事実と異なる“作文”をやむをえずしなければならない部分は、読者が“疑問”を感じるようにあえ常識的に考えればありえないといった表現をしています。

のちの人が疑問を抱き、よく考えれば“真相”がわかるように工夫されているのです。



3、武内宿禰と蘇我本宗家

次に、武内宿禰と蘇我氏との関係です。

武内宿禰は、第12代「景行天皇」にはじまり、成務、仲哀、神功、応神、仁徳と、5代(6代)もの天皇に仕えたことが記されています。

そのため、歴史家のなかには、“架空の人物”だとする人がいます。

それはありえません。

第8代「孝元天皇紀」に、武内宿禰の祖父は皇子の「彦大忍信命」(ひこふつおしの まことの みこと)であると記されていることもあって、あまりにも存在期間が長いので、理由を理解できず、“架空”とかってにとらえたのかもしれません。

事実は、先の記事に書いたとおりです。

つまり、「武内宿禰」という呼称は、個人の名前ではなく、「建」(武)を出身とし、北部九州を支配した“九州王”(その祖霊)を意味します。

そういった立場の人物のことです。

実際は、「皇祖皇太」にも匹敵する人物(大王)なのですが、蘇我氏の祖でもあり、“天皇”とは記せない事情があって、“大臣”(首相)や“忠臣”として記されています。

3世紀の武内宿禰は、「神功皇后」(台与)と「応神天皇」を旗頭に、北部九州連合を率いて“大和帰還”と記される「東征」を行ない、初代「神武天皇」の実在のモデルの一人となったほどの人物です。

くわしいご説明は省略いたしますが、大阪にある「住吉大社」は、古代博多湾岸にあった日本第一宮「住吉神社」を出発点とすることからも、そういえます。

重要なのは、“九州王”を意味する「武内宿禰」から「蘇我氏」(ほか)がはじまっていることです。

次のような系図になります。


「武内宿禰」→「蘇我石川宿禰」→「蘇我満智」→「蘇我韓子」→「蘇我高麗」→「蘇我稲目」→「蘇我馬子」→「蘇我蝦夷」→「蘇我入鹿」(絶)

ちなみに、なぜ「韓子」や「高麗」といった人物がいるのかというと、当時、九州「倭国」の領土だった半島に派遣され、任那などを治めていた時期があったからです。

それが、第26代「継体天皇」が半島の領土を百済に割譲してしまったために帰国し、第28代「宣化天皇」の御世から急に蘇我氏(稲目)が「大臣」(おおおみ:首相)として『日本書紀』に記されるようになった理由だと考えられます。


さて、そのような海外経験もあって、九州「倭国」と本州「畿内国」(日本)が合併したときの蘇我本宗家の盟主が、稲目の子の「蘇我馬子」です。

“九州王”を意味する「武内宿禰」に続く系譜であることからも、ときの「蘇我馬子」が九州倭国王“阿毎多利思比孤”か、その重要な関係者であってもまったくおかしくはありません。

馬子は、当時、最先端だった仏教への造詣も深い知識人で、大臣(首相)と記されるほどの実力者だったことは、記紀の記述からも明白です。

実際、当時の実権は、推古女帝ではなく、また馬子の業績を奪い“悪者”にするために作られた“厩戸皇子”(うまやどのみこ)でもなく、蘇我氏(三代:馬子、蝦夷、入鹿)にありました。


なぜ、『日本書紀』が、「厩の戸にあたられた拍子に難なく出産された」とか「生まれてすぐにものを言われた」とか、「一度に十人の訴えを聞かれても、誤まられなく…」とか、ありえないことを記したのかというと、常識的に考えれば“実在”ではないことを察してもらうようにしたためです。

では、厩戸皇子は、本当はだれなのかというと、“厩戸”は「馬子」とも読めるように工夫されていることからも、蘇我馬子のこと(業績)だと示唆しているのです。

そのため、馬子と同時代の「倭国」を記したシナの正史『隋書』に、「その倭王の姓は阿毎…」と記される「阿毎多利思比孤」(日出ずる処の天子)は、600年以前に“冠位十二階”を定めていたことも記されていることから、実は「蘇我馬子」だったという推論は、その重要な関係者だったことをふくめて充分になりたちます。

付記すれば、『新唐書』に、古の倭王は「筑紫城に居す」と記されていることからも、九州「倭国」の存在はあきらかです。















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