志賀海神社「沖津宮」
2021.05.03
  
全国の「綿津見神社」(わたつみ じんじゃ)また「海神社」(かいじんじゃ、わたつみじんじゃ、あまじんじゃ)の総本社は、「志賀海神社」(しかうみ じんじゃ)です。

志賀海神社は、博多湾の東端から突き出た「海の中道」の先端、「志賀島」(しかのしま)にある古い神社で、ご祭神を「綿津見三神」(わたつみ さんしん)とします。

志賀島は、1世紀の金印「漢委奴国王」が発見された場所で、“古代海人族”の「阿曇族」(あづみぞく:安曇族とも)が拠点としていた、古代は島でしたが今は砂州によって道一本の陸続きになっています。

綿津見三神は、しこめき“黄泉の国”から帰ってきた伊弉諾尊(いざなぎの みこと)が、“筑紫の日向”で祓ぎはらいをされたときに生まれた神々ですが、『日本書紀』には次のように記されています。


●『日本書紀』「神代」(上)一書より抜粋

《原文》
「底津少童命・中津少童命・表津少童命、是阿曇連等所祭神矣」

《訳文》
底津少童命(そこつ わたつみの みこと)、中津少童命(なかつ わたつみの みこと)、表津少童命(うわつ わたつみの みこと)は、阿曇連(あづみの むらじ)らがお祀りする神である。


伊弉諾尊(いざなぎの みこと)が祓ぎはらいをされて、「八十枉津日神」(やそ まがつひの かみ)ほか2柱と、「住吉三神」(住吉大神)、また「綿津見三神」が生まれます。

そののちに、伊弉諾尊は三貴子(みはしらの うずの みこ)とされる「天照大神」と「月読尊」(つくよみの みこと)と「素戔嗚尊」を生みます。

後者は、日本を治めることになる重要な“神々”ですが、それ以前に日本列島にいたのが、“古代海人族”にかかわる「住吉三神」(住吉大神)や「綿津見三神」ということがわかります。

つまり、古代海人族は日本の“原点”にかかわる神々なのです。


ちなみに、伊弉諾尊が“祓ぎはらい”をされたときに生まれでたこれらの神々を祀る神社が、三つともそろっているのは博多湾岸しかありません。

「八十枉津日神」、「神直日神」(かんなおひの かみ)、「大直日神」(おおなおひの かみ)ら三柱は、昨年2020年末をもって活動休止した「嵐」の“聖地”とされる「櫻井神社」で祀られています。

博多湾西岸の糸島半島で、福岡市との境の糸島市にあります。

奈辺は、かつての「伊都国」(いとこく)です。

「住吉三神」は、今は博多駅近くの内陸部になりましたが、古代は海進によって博多湾の南岸だった日本第一宮「住吉神社」で祀られています。

最後に、当「綿津見三神」を祀るのが「志賀海神社」で、博多湾北端に位置する志賀島にあります。




この意味は、“祓ぎはらい”の場所を九州北岸の「古代博多湾」を「筑紫の日向の小戸の橘の檍原(あわきはら)」(原文:筑紫日向小戸橘之檍原)と想定していたことがわかります。

なぜなら、詳しいお話は省略させていただきますが、伊弉諾尊は、「伊弉冉尊」(いざなみの みこと)と訣別し、“祓ぎはらい”をしたということは、「独立」と「新たなスタート」をあらわすからです。

つまり、“統一独立国家”「大和」のはじまりを意味し、『日本書紀』はこれを「神代」(上)の“国生み”の時代のこととして記しました。

要は、半島や大陸との“決別”による「独立」と「新たなスタート」を意味するのが、この“祓ぎはらい”なのです。

意味はおわかりでしょうか。

そのため、半島や大陸との交流の窓口だった古(いにしえ)の「伊都国」(魏志倭人伝)や、「唐泊」(からどまり)また袖之湊(そでのみなと)こと「唐船の入し港」(唐船入之津)があった「博多湾岸」で“祓ぎはらい”を行なったとしなければ意味がないのです。

さらに書いておきますと、「上の瀬は流れが速い、下の瀬は流れが弱い、と中の瀬で禊ぎをなされた」と『日本書紀』に記されているのは、次のことを示唆します。

「上の瀬」…玄界灘(海峡なので流れが速い)
「下の瀬」…瀬戸内海(内つ海なので、当然、流れが弱い)
「中の瀬」…博多湾奈辺(上記二者の中間、九州北岸)


機会があれば詳しくご説明いたしますが、宮崎県がかつて「日向国」と定められたのは、7世紀中期以降のことです。

なので、「筑紫島(九州)の日向国」と書いていれば宮崎県ですが、単に「筑紫の日向」という場合、天孫降臨の「槵触之峯」(くしふるの たけ)や、初代「神武天皇」の出発地を含めて、「筑紫国」の“日向”を意味します。

それを、なぜあえて「日向国」(宮崎)と勘違いするように記したのかいうと、支那の冊封下にあった「筑紫国」(奴国、伊都国、不弥国など)がそうだとばれると“マズイ”からです。

当然です。

日本(大和)のはじまりにかかわる“天孫降臨”の地や“神武東征の出発地”が、かつて支那の冊封下にあった「筑紫国」(九州倭国)だとわかると、大和(日本)全体が“属国”と誤解されるからです。


信じられないかたは、第12代「景行天皇紀」を読めばわかるのではないでしょうか。

土蜘蛛や熊襲討伐の項です。

景行天皇は13年に「襲国」(そのくに)を平定されたのち、17年に「小湯県」(こゆのあがた:宮崎県児湯郡)にて「それでその国(襲国)を名づけて日向という」と記されています。

意味はおわかりでしょうか。

もし、この日向国(襲国)を、“天孫降臨”の地また“神武東征の出発地”と解釈すると、景行天皇は初代「神武天皇」の国を征討されたという、わけのわからないことになってしまいます。

まだあります。

景行天皇はその後、「火国」(ひのくに:熊本県)から筑紫国の「的邑」(いくはのむら:福岡県うきは市)に着き、翌月「天皇は日向から大和にお帰りになった」(景行19年)と記されています。

ここでも日向は「筑紫国」であることが示唆されています。

逆にいえば、「景行天皇紀」はもちろん記紀(『古事記』と『日本書紀』)の中で、唯一、征討された記述がないのが筑紫国なのです。


ついでにもう一つ書いておきます。

記紀には記されませんが、天孫降臨に付き添った「綺日女命」(かむはた ひめの みこと)がいます。

この綺日女命を祀る「長幡部神社」の“御由緒書き”に、1,200年前の「常陸国風土記」からの引用として、「筑紫國の日向の二神の峰より…」と天孫降臨の場所が記されています。

繰り返しになりますが、「筑紫國の日向」とはっきりと残されているのです。

各風土記は、地名のいわれなどを記した“内部記録”なので、はっきり書いても問題ないと考えたのでしょう。



さて、お話が大きくそれました。

お話をもとにもどします。

「志賀島」の北端から30メートルほど沖合いの小島に、志賀海神社「沖津宮」(おきつぐう)があります。

ふだんは海の中の島なのですが、干潮時には歩いてわたれます。




先の「昭和の日」は、夕方4時半~5時頃にふだん以上に潮が引くことから、歩いてご参拝をしてきました。

低い鳥居をくぐり、高さ10メートルほどの山頂にある沖津宮は、潮や強風にさらされても朽ちない「祠」(ほこら)で、宇佐神宮と同じ、少し尾長の「三つ巴紋」がほどこされていました。

そこで感じたのは、「権力欲がない」ということです。

やはり、“古代海人族”はそうなのだと想いました。

どういうことかというと、支那のような「大陸国家」の場合、どうしても領土や食料など覇権を求めて争いが生じます。

そういう“好戦的”な民族性になってしまうのです。


ところが、「海洋国家」のなかでも日本は、“古代海人族”によって国が形成されたこともあって、“穏やか”な民族性をもつようになりました。

彼らは、もともと「船」が“家”なのです。

広大な大海原を行き来しますので、“領土”という概念にとぼしく、あまり“権力”(支配)という考えをもちません。

船の上では、一蓮托生だからです。

もし、争ったりケンカをしていると、“時化”や“嵐”のさいに乗りきれず、お互いに船もろとも海の藻くずと消えてしまいます。

なので、お互いに協力して助け合うなど危機を乗りきろうとする心をもちます。


日本に国邑が形成された約2,000年ほど前に、ほぼ同時期にはじまったのが「双魚宮時代」(そうぎょきゅう じだい)ということもあって、共鳴星の「木星」につうじる“おおらか”な民族性がベースにあります。

「木星」の象意は、“遠い世界”(海外や精神面)また“自由気まま”や“成り行きまかせ”(寛容さ)といったことをもたらします。

ちなみに、19世紀中盤に「海王星」が発見されると、「双魚宮時代」また「魚宮」の共鳴星は、海王星に変わっていきました。


“古代海人族”に権力欲(支配欲)がなかったことは、物部氏の祖「饒速日命」(にぎはやひの みこと)が初代「神武天皇」に“国ゆずり”をしたことからも明らかです。

海人族の系譜を記した国宝「海部氏系図」(あまべし けいず)には、「始祖 彦火明命」(ほあかりのみこと)と記されています。

これは、物部氏の由緒を記した『先代旧事本紀』(せんだい くじ ほんぎ)でいう「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひの みこと)のことです。

つまり、「饒速日命」は、“古代海人族”に連なる祖神となっています。

そのため、彼は、稲作を広げ、“古代国づくり”をしながらも、領土への執着は少なく、東征してきた「神武天皇」に国をゆずってしまいます。

古代海人族は、海がホーム・グラウンドなので、陸地での争いがいやになれば、いつでも海に出ればいいし、さすれば、だれにも邪魔されず自由なのです。

付記しておきますと、物部氏は古代イスラエルからフェニキアの船団に乗って日本に来た人々を先祖をもつなど、相応にかかわることもあって、“もともと、自分たちの領土ではない”という思いがあったのかもしれません。

“国ゆずり”とはいうものの、古くからの“天孫族にお返しした”という感覚でしょうか。



いずれにしても、志賀島を拠点にした“古代海人族”の安曇族は、その後、東を目指して各地に広がっていきます。

たとえば、淡路島や摂津国(安曇江)もそうですし、三河国(渥美半島:飽海)や伊豆半島(熱海)もそうです。

内陸部ながら信濃国(長野県)の「安曇野」(現在の安曇野市)が、古代海人族「安曇族」にかかわることは有名です。

古代海人族らしく、彼らの結びつきは強いことでも知られています。

そのように、伊勢の神宮や宮中三殿、また全国に広がった一族を遥拝する東(日の出)を向いた鳥居(遥拝所)が、「志賀海神社」の本殿脇にあることも、以外によく知られた事実です。














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