?な「竹内文書」の由来
2021.05.31
  
いまさらですが、「竹内文書」の由来についてです。

真贋がとわれる古史古伝の“代表格”ともいえるのが「竹内文書」です。

今回は、1900年(明治33年)に天津教の前身「御嶽教天都教会」を開設した「竹内巨麿」の「竹内文書」をとりあげます。

10年後の1910年に、神武天皇以前から伝わる“真の歴史書”として「竹内文書」を公表し、この文献や神宝類を「経典」として「皇祖皇太神宮」を復興して「天津教」を立ち上げ、開祖となっています。

それゆえ「竹内文書」(たけのうち もんじょ)のことを「天津教文書」とよぶことがあります。

ウィキペディアの冒頭には、次のように記されています。


「竹内文書(たけうち もんじょ、たけのうち もんじょ、磯原文書、天津教文書ともいう)は、古代の文書を装ったとされる偽書。
神代文字で記された文書と、それを武烈天皇の勅命により武内宿禰の孫の平群真鳥が漢字とカタカナ交じり文に訳したとする写本群と、文字の刻まれた石、鉄剣など、一連の総称。
天津教の聖典とされる。
原本が存在する立場からは、後述の裁判に提出されたのちに焼失したと主張される。」


現在は、孫に当たる竹内康裕氏が茨城にある「皇祖皇太神宮」の第68代管長に就任しています。

だれにでも信教の自由がありますので、ここでは「皇祖皇太神宮」(天津教)には触れません。

純粋に、「竹内文書」の由来についての一筆です。

内容については、一言、“荒唐無稽”というしかありません。

しかし、実のところ個人的には「タネ本」があって、それを日本式に二度三度と書き直していくうちに“脚色”が加えられ、ありえない「荒唐無稽」な内容がふんだんに付加されたものだと考えています。

その点では、歴史的には間違いなく、“偽書”と位置づけるしかありません。


それはともかく、「竹内文書」の由来については、次のように記されています。


● 『これが禁断の書「竹内文書」だ!』より抜粋

◆成立年代
5世紀末。

◆由来
大陸文化の渡来に伴い日本文化の伝統・文化が失われるのではないかと危惧した武烈天皇が、武内宿禰(たけの うちの すくね)の孫である平群真鳥(へぐりの まとり)を神代以来の伝統を守る聖地・越中に派遣。
真鳥を皇祖皇太神宮の大宮司に就任させ、神代文字という象形神名文字でかかれた神代の記録を漢字仮名混じり文字に改め、写筆させた。
この真鳥が写筆した文献と、皇祖皇太神宮に伝わる、神代文字が記された神宝類を総称して竹内文書(たけうち もんじょ)という。

◆内容
宇宙の創成から神武天皇以降の歴史時代までを、主に天皇(すめらみこと)の統治年代別に記した壮大な「記録」。
年代ごとの出来事を記した天の巻、世界中に秘蔵されているとみられる神宝・文書類の隠し場所を記録した地の巻、ノアの洪水など天変地異の真相を明らかにした人の巻からなるとされているが、一般に公開されたのは天の巻だけ。


という、もっともらしい由来です。

『日本書紀』に出てくる人物(武烈天皇、武内宿禰、平群真鳥)をもちいて記されていることから“本物”と思うかたがいらっしゃるかもしれません。

ですが、この由来自体が、“ウソ”なのです。

その理由を挙げておきます。


1、武烈天皇の実在性

「武烈天皇」(小泊瀬稚鷦鷯尊:おはつせの わかさざきの みこと)は、『日本書紀』のなかに第25代天皇として名を連ねていますが、そこには、まもとなエピソードが記されていません。

たとえば、最初の3分の2ほどは、太子時代のエピソードで、ほぼ色恋の歌でしめられています。

残りの3分の1ほどの即位後の記述は、さらにひどいものです。

一例をあげますと、「妊婦の腹を割いてその胎児を見られた」とか、「人の頭の髪を抜いて樹の頂に登らせ、樹の本を切り倒して、登った者を落とし殺して面白がった」とか、「人を池の樋の中に入らせて、外に流れ出るのを三つ刃の矛でさし殺して喜んだ」などです。

異常で、人間にあるまじき暴虐ぶりしか記されていないのです。

これらは、古代支那の史書にでてくる暴君たちのエピソードをモデルにしたもので「創作」とされています。

なぜなら、「不徳な君主は子孫が絶える」という儒教の教えがありますが、それを後継者がいなかった「武烈天皇紀」に記すことで、次の第26代「継体天皇」の選出を正当化しているのです。


2、平群真鳥との関係性

実際、『日本書紀』では「武烈天皇」の出生や即位がおかしいのです。

先代の「仁賢天皇2年」の出生とされますが、「武烈天皇8年12月」(在位 498年~506年)に崩御されて、即位されたのは仁賢天皇11年のことです。

なので、9歳前後で即位して20歳前後で亡くなったことになります。

つまり、『日本書紀』は、正しい年代を明かしていないか、創作された天皇なので、わざとつじつまが合わないように書いて、“創られた天皇”であることを示唆しているのです。

で、本題の平群真鳥との関係性です。

「平群真鳥」(へぐりの まとり)は、第21代「雄略天皇」以降、4代の天皇のもとで大臣(おおおみ:首相)をつとめた実力者です。

ですが、『日本書紀』によれば、「武烈天皇」が即位される直前の太子の時代に殺されています。

そのようすを『日本書紀』から抜粋してみましょう。


● 『日本書紀』「武烈天皇紀」より抜粋

「大伴金村(おおともの かねむら)大連(おおむらじ)が太子に申し上げるのに、「真鳥の奴をお討ちなさい。仰せがあれば討伐いたします」という。

太子は「天下騒乱の恐れがある。世にすぐれた人物でなければ治めることができぬ。よくこれを安らかにできるのはお前であろう」といわれた。

そこで一緒に相談をした。

そして大伴大連が兵を率いて自ら将となり、大臣の家を囲み火をかけて焼き払った。

(中略:平群真鳥は)ついに殺された。科(とが)はその一族に及んだ。」


つまり、武列天皇が即位される前の太子の時代に、平群真鳥は大伴金村の進言によって殺されています。

なので、武列が天皇になったときには、平群真鳥はこの世にはいませんでした。


3、蘇我氏滅亡の「乙巳の変」のモデル

平群本宗家は、こうしてメインが滅ぼされます。

その理由を、「武烈天皇紀」は次のように記しています。


「仁賢天皇が崩御された。大臣の平群真鳥臣が、もっぱら国政をほしいままにして、日本の王になろうと欲した。表向きは太子のために宮を造ることにして、完成すると自分から住みこんだ」


要は、当時は「平群真鳥政権」(平群大王)だったのです。

にがにがしく思った「大伴金村」がこれを倒して、結局、彼の発案で応神天皇の五世の子孫とされる“男大迹王”(をほおのおう)こと「継体天皇」を越から迎えて、後日、即位することになります。

結局、「平群本宗家」の滅亡のパターンは、実質の「蘇我氏三代大王」だった蘇我本宗家を“悪者”にでっちあげて、蘇我入鹿(そがの いるか)大臣を、「中大兄」(のちの天智天皇)と「中臣鎌子」(藤原鎌足)が“弑逆”(しいぎゃく:下のものが上のものを殺すこと)したときの理由に流用されています。


さて、「竹内文書」の由来についてです。

もう、おわかりですよね。

1、
即位もしていない“9歳”前後の太子(武烈天皇)が、「日本古来の伝統・文化が失われるのではないかと危惧した」という「竹内文書」の由来は、明らかにヘンです。

2、
また、「武烈天皇紀」の最初の3分の2ほどに数々の歌が記され、平群真鳥の息子「鮪」(しび)と、“9歳”に満たない太子が“恋敵”だったというのもありえないでしょう。

3、
さらに、政権をほしいままにしていた「鮪」の父親「平群真鳥」を、越中に派遣して皇祖皇太神宮の大宮司に就任させるほどの立場には、まだ父の仁賢天皇が在位中なので、太子(9歳前)だった武烈にはありません。

竹内文書の由緒では、「平群真鳥を大宮司に就任させて、竹内文書を写筆させた」とありますが、「武烈天皇紀」を読めば、そんな由来はとても信用にあたいするものではないということがわかります。

結局、即位前に自らが大伴金村に殺させた「平群真鳥」を、即位後の「武烈天皇」が“大宮司”に就任させて、「竹内文書」を写筆させることなど絶対にできないのです。

4、
第一、「武烈天皇」そのものが、実在性を疑われている架空の天皇です。

そんな架空の天皇がすでに殺されていた「平群真鳥」に写筆を命じるエピソードを、もっともらしく「由来」として残す「竹内文献」は、もはや存在そのものが“偽書”というしかないのは明白です。


ということで、完全にねつ造された「竹内文書」の由来でしかありませんでした。














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