平成は宝瓶宮時代元年
2022.02.11
 
「建国記念の日」特別編 平成は宝瓶宮時代元年
― 国体「天皇制」と水瓶宮 ―


◆「天皇は権力者ではなく和と絆と臣民一体の象徴」



古来日本の建国と、“国体”は、「宝瓶宮時代」(ほうへいきゅう じだい)に共鳴する「水瓶宮」に由来します。

それは「建国記念の日」が2月11日で「水瓶宮」だからというだけではなく、それは「太陽」が水瓶宮にあるという意味にすぎず、「和」と「絆」といった「臣民一体」だからです。

日本の“民族性”は「魚宮」で、大自然を崇拝する「日本的霊性」ゆえでもありますが、“国体”は「水瓶宮」で、それは「天皇制」にもとづいています。

宝瓶宮時代が正式にはじまった1989年は、元号が「平成」に変わり、そのことがいっそう顕著になりました。



≪天皇は権力者か?≫

最初にお断りしておきます。

「天皇制」という言葉が左巻きだとか、左翼用語というご意見があるのは承知のうえで、便利なので使わせていただいています。

ただし、彼らの勘違いは、天皇は日本の国主だと海外からは認識されているのですが、彼らが思うような権力者ではありません。

国家や国民の安寧と平穏を祈る、むしろ祭祀長のお立場です。

彼らは、すべてをブルジョアジー(資本家、支配者)とプロレタリアート(労働者、被支配者)に図式化して、二元対立でとらえて階級闘争をうながす主義思想をもつようです。

明治以降、先の戦前戦中までは軍部など国家権力に利用されてきた天皇でした。

ですが、敗戦後(終戦後)は、現行憲法で象徴天皇と定められ、とくに宝瓶宮時代がはじまった平成の御世以降は、ご存じのように権力者というのはまったく該当しません。



≪統一独立国家「日本」≫

もともと天皇が権力者であった時期は、日本の歴史の中で多くありません。

天皇以前は「大王」号であり、「天皇」号に変わったのは第40代「天武天皇」からだとされています。

先の天智天皇(大王)が「白村江の戦い」で唐羅連合(唐と新羅)に大敗北し、天智が崩御後、その御子(大友皇子)との国家を二分した古代最大の内戦「壬申の乱」という2大国難に直面して、内戦に勝利した大海人皇子(おおあまのおうじ)こと天武天皇は、早急な日本国の統一と立て直しの必要がありました。

そのような国難に際しては、強いリーダーシップが求められるのは洋の東西を問いません。

事実、天武天皇は、天皇の正統性をひもとく『古事記』や『日本書紀』の編纂を勅命され、統一独立国家「日本」を7世紀に築き上げます。

それまでの日本こと、古(いにしえ)の「倭国」(わこく)は、大陸や半島との交流や関係を深めつつ、相互に影響しながら国づくりをしてきたところがあります。

しかし、7世紀初頭以来、統一日本へと独立してきた歴史があるのです。



≪御輿に担がれた歴代天皇≫

そこで生まれたのが「天皇」号で、皇親政治を行なった天武天皇だとされます。

なので当初は、国家の礎を築くため相応のリーダーシップや権力は仕方ありません。

その後、天武系の皇統から天智系の皇統に代わるにしたがって、権力をなくし、完全なお飾りになっていきます。

体(てい)のいい「御輿」に天皇を担ぎ上げて、世の権力をほしいままにしていたのが、約300年近く続いた平安時代の藤原氏でした。

その後の時代も、しばらくは塀が壊れ、雨漏りがするような屋敷に天皇お住まいだったのです。

もっとも、鎌倉幕府が滅亡した翌1334年、後醍醐天皇は、権力を手にしようと動き「建武の親政(中興)」を図りました。

ですが、わずか3年足らずで潰(つい)えています。

結局、天皇の“復権”は「明治維新」による武家から天皇への「大政奉還」が行なわれるまで、その後、500年以上待つことになります。

それとて、まだ若かった当時の明治天皇に権力が移譲されることはなく、明治新政府に御輿に担がれた状態でした。



≪卑弥呼と7世紀の大和≫

いずれであっても、日本史における天皇の存在は偉大でした。

当時の権力者から御輿に担がれていても、相応の内乱や戦国時代また軍部による先の戦争はあったとしても、天皇ゆえに革命は起こらず、日本(国体)は護持され、今日まで続いているからです。

それは、天皇のもとにある「和」や「絆」など古い言葉でいえば「臣民一体」の想いがあるからです。

たとえば、それは2~3世紀の「倭国大乱」のさいに、霊媒による鬼道をもちいる「卑弥呼」(ひみこ)を女王に共立して平和をもたらした歴史的事実を嚆矢(こうし)とします。

卑弥呼は女王に祀り上げられただけで政治権力はなく、祭祀を行なう立場であり、事実上は通称「魏志倭人伝」に「世々王あり」と記された伊都国(いとこく)の王が“議長役”で取り仕切っていたようです。

ということもあり、当時の倭の女王が都とした「邪馬台国」から7世紀の「大和」に受け継がれ、『日本書紀』に記される「17条憲法」の冒頭に「和をもって貴しとなす」とあるように、日本の根幹思想に定められていきます。

異論があってもかまいません。アバウトでは、そのような歴史の流れがあります。

結局、“プレ天皇”の役割を果たした「卑弥呼」といい、権力は行使したものの「天武天皇」といい、また日露戦争の開戦にさいして「四方の海 みな同胞(はらから)と 思う世に など波風の 立ち騒ぐらん」と詠まれた近年の「明治天皇」といい、国家や臣民の安寧と平和を祈る祭祀の役割を果たしていたのです。



≪国民の「和」の象徴≫

上述の内容は、「水瓶宮」またその共鳴星「天王星」の象意をご存じのかたならお気づきでしょう。

天皇による日本の国体が「水瓶宮」で象わされて、おかしくないことを意味します。

戦後もそうですが、「君臨すれども統治せず」というお立場の天皇は、権力者たりえません。

国民の「和」の象徴なのです。

倭国大乱のさいに共立され、「平和」をもたらした倭の女王「卑弥呼」の立場がそうでした。

“プレ天皇”また“天皇のプロトタイプ(原型)”です。

そのスタンスを引き継いだのが、大和の「天武天皇」で、千年のちまでも皇位をめぐる争いが起きないように、自らを戒めつつ「吉野の盟約」を天智天皇の御子らとともに結んでいます。

近年の「明治天皇」も上述のとおり同胞の平和を願っています。

さらに申し上げますと、宝瓶宮時代(水瓶宮時代)のはじまりとともに「平成」へと元号が変わり、名実ともに、水瓶宮にみられる「友愛精神」(和、絆、民度)とともに、「和の象徴」としての天皇のスタンスは、“宇宙波動エネルギー的”にも確立されたのです。









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