「桃の種」は卑弥呼だって?
2018.07.06
驚いたことに、纒向(まきむく)遺跡から大量に発見された“桃の種”は、卑弥呼が祭祀に使ったものだそうです。

と、「纒向学研究センター」なる組織が、今年5月に公表した放射性炭素(C14)年代測定の結果をもとに、邪馬台国畿内説を強弁するために一部でそのように喧伝されています。

ですが、12個の桃の種を測定開始から約8年間もかけて調べたのに、肝心の客観的な数値は公表されず、結果のみ「西暦135年~230年」の間のものと、卑弥呼の在位にあわせるかのように公表されました。

まともな一部の学者や教授方には申し訳ありませんが、日本の一部の歴史好事家とくに“歴史学界”は、昨今のマスコミ同様に“反日思想”の傾向をもちます。

なぜなら、戦後、歴史学界は「マルクス史観」(共産主義史観)に染まり、日本を貶めることが主流となっていたからです。

そのため、当時の日教組による学校教育はもちろん、マスコミが反権力(反自民)であることはもちろん、歴史学界は、“自虐史観”によって日本をとらえ、日本文化はことごとく中国(シナ)や朝鮮半島からもたらされたものという視点から発表してきました。

ですが、もはや現代では、稲作や土器をはじめそれが間違いであることが知られはじめています。

彼らは、共産主義の「中国」や、“地上の楽園”と喧伝された「北朝鮮」など朝鮮半島にシンパシーをもち、日本よりも共産主義国のほうが“進歩的”で優れていると、自らの思想信条によって信じ込んでいたのです。

そういった歴史学界やマスコミとの関係性は、今も続いています。

彼らがいうには、纒向で発見された“桃の種”は、「鬼道」をもちいた卑弥呼が祭祀に使ったもので、それゆえ“邪馬台国”は畿内にあったといいたいわけです。

いわく、鬼道は神仙思想や道教に由来しており、“桃”を神聖なものとしていたので祭祀の重要なお供えだったという理屈です。

この嘘、ホンマ!?

俗称「魏志倭人伝」には、たしかに卑弥呼が鬼道をもちいたことは記されていますが、それが道教由来だとは書かれていません。
まして、卑弥呼が“桃”をもちいたという証拠はどこにもありません。

反日マスコミの“報道”と同じ手法で、自分たちに都合のいいように曲解しているのです。

古代の“桃の種”は、纒向にかぎらず全国の遺跡から相応に発見されています。
纒向で大量に発見されたからといって纒向だけを卑弥呼に結びつけるのは、流行りの言葉でいえばフェイクニュースや印象操作にほかなりません。

次のことからも、それが明白です。

「魏志倭人伝」には、「名を卑弥呼という。鬼道につかえ、よく衆を惑わす」(原文:名曰卑弥呼 事鬼道能惑衆)と書かれています。

この記述は、「魏志倭人伝」を著述した陳寿からみた場合、「道教、すなわち鬼道は衆を惑わす」といっているのに等しい内容です。

当時のシナ人(中国人)が、自国の道教(神仙思想)を、「衆を惑わすもの」と語ることも記録することも絶対にありません。

それゆえ、「鬼道」は道教(神仙思想)とは関係がありません。

なぜなら、「鬼道」というのは、イタコのように“死者の霊を呼び込んで託宣をするもの”だからです。
それゆえシナ人からみたら、“衆を惑わす”と記録されています。


これらのことがわかれば、纒向などをはじめ、各地の遺跡から発見された“桃の種”は、卑弥呼とは関係ないことがはっきりとわかります。

つまり、「桃の種=卑弥呼説」は、明白な間違いです。




羽生選手に「国民栄誉賞」
2018.07.04
機会があれば、羽生結弦選手の「ホロスコープ」(出生天球図)を解説したいと考えています。

西洋占星術流の古い「吉凶解釈」でいえば、彼の「ホロスコープ」は決して“良い”とはいえません。

ですが、輝かしい実績を残してきた女子フィギュア選手と同様に、相応の“試練”(厳しい練習を乗り越える)ものになっています。

羽生選手のホロスコープの特徴は、一言でいえば“柔和”(人気)と“狂気”(挑戦)です。

今年2月の平昌五輪では、昨年11月の練習で4回転ジャンプを着氷失敗。
大事な右足首をケガして出場を危ぶまれましたが、その痛みを乗り越えて演技し、なんと66年ぶりとなる男子フィギュアでの五輪連覇の「偉業」を達成しています。

彼の“狂気”による科学的な研究の成果でもあり、“国民人気”からみても彼への「国民栄誉賞」授与は喜ぶべきものでした。

ところが、「おかしい、羽生結弦への国民栄誉賞は政治利用だ」という人がいます。

引用しますと、「オリンピック2連覇を成し遂げたアスリートは北島康介、内村航平、谷亮子など他にも何人もいる。
これまで、オリンピック選手で国民栄誉賞を受賞したのは、3連覇の吉田沙保里選手、4連覇の伊調馨選手だけ。
3連覇した柔道の野村忠宏選手ですら受賞していない」といった内容です。

これを一般人が言ったのなら“よくある勘違いね”で済まされます。

ですが、“知識”や“情報”を商売とするマスコミが書いた記事なので、“バカじゃないの”と思ってしまいます。

当然、「国民栄誉賞」はスポーツ選手だけに授与されるものではなく、オリンピック連覇の数だけで決められるものでもないことは、多くの人が知っています。

要は、この記事は一般人以下なのです。

「国民栄誉賞」は、内閣府によって次ように定められています。


【目的】 広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃えることを目的とする。

【対象】 内閣総理大臣が本表彰の目的に照らして表彰することを適当と認めるものに対して行う。


単に連覇したからというのではなく、“敬愛される人物”や、国民に“希望を与えた人物”の中で、さらには“内閣総理大臣が行なう”とされています。

野村忠宏選手が見事「3連覇」を成し遂げたときの総理大臣は、小泉純一郎でした。
彼の長期政権下においては、だれも「国民栄誉賞」を授与されていません。

要は、当時の小泉政権が決めなかっただけなのです。
なぜなら、彼の関心は「郵政民営化」など、政局にあったからです。

しかし、安倍政権は「アベノミクス」や「消費税」など庶民の暮らしにも目を向けています。

なので、もし野村選手の3連覇が安倍政権下であれば、反社会的な勢力とのつながりがなく、一部野党など反政府の立場でなければという条件つきながら、当然、授与されていてもおかしくはありません。

ということで、上述のヘンな記事を掲載していた「リテラ」(LITERA)ってナニ? と思いました。

すると、すでに廃刊になった例の“三流誌”(ゴシップマガジン)『噂の真相』の編集スタッフが、これまた根拠のない非難記事を多くアップすることで知られている「サイゾー・ウーマン」の“軒き先”を借りて運営しているWEBサイトだということが判明しました。

なるほど、こんな「ヨタ記事」を書くスタッフがいた『噂の真相』であれば、潰れるのは当然ですね。

それは「朝日新聞」も要注意で、現在も放送中の「ニュース女子」に対して、“放送打ち切り”になったと「ヨタ記事」を掲載しています。
“ウソ”を掲載し続けた俗称“慰安婦”問題の一連の記事もそうですが、こんなことを続けていたらほんとうに潰れかねません。

事実、英国のジャーナリズム研究所が先月、日本の有力紙を対象に行った「信用度調査」では、朝日新聞は最下位にランクされていました。





日本vs波蘭の“場外乱闘”
2018.07.03
ご存じの方も多いので、説明するほどではありませんが、現在、ロシアでサッカー・ワールドカップが開催されています。

そこで6月28日の「日本」対「ポーランド」戦でのお話です。
ちなみにポーランドは、漢字で「波蘭」、略して「波」と書きます。

日本は、「0対1」で負けていたにもかかわらず、最後の約10分間、ファール(イエローカード)をしないように終始、味方陣営内だけでのパスまわしに徹し、会場サポーターからブーイングを浴びながらも時間稼ぎをして、試合に“勝つ”ことを放棄し、結果、「決勝トーナメント」への出場を決めた“戦い方”についてです。

まあ、賛否両論の“情外乱闘”が起きていたことは、ご存じのとおりです。

最近、ドラマ「噂の女」や「限界団地」と立て続けに主演女優を張り、元「Jリーグ 特命PR部 女子マネージャー」の足立梨花は、この試合に対してツィッターで、「嬉しいんだけど 素直に喜べないというかなんというか」とつぶやくと、賛同と反対の意見があがったようです。

足立は、これに対して、「めんどくさい人多すぎ なんなの? 好きなこと呟かせてよ 嫌なら私のツイート見るなよ いろんな人のいろんな見方があっていいじゃんか めんどくさいな」とつぶやくと、これが炎上騒ぎに発展したとか。

サッカーにかぎらず、“まとも”な批判から、“首をかしげ”ざるをえないような“いいがかり”に思えるものまで含めると、こういった「炎上騒ぎ」は、最近、多く見受けられます。

まあ、今回の件に関していえば、サポーターや観客の“想い”は、勝てればベストですが、要は興奮する「面白いゲーム」を期待しているわけです。

一方、監督をはじめ選手たちは、フェアプレイで戦うことはさることながら、1戦でも多く勝って上位にランクするといった「勝つ」ことを目的としたプロスポーツを戦っているわけです。

なので今回は、いわば“負けるが勝ち”の作戦をとったといえます。

プロレスであれば、見て楽しんでもらう“興行”(エンターティメント)の側面が比較的に大きくありますが、サッカーは、試合が面白いことにこしたことはありませんが、“スポーツ”である以上、最終的に“勝つ”ことがメインなので、そこに“面白いゲーム”を期待する観客とのあいだに“想い”や“スタンス”の違いがあります。

結局、サポーターや観客は、監督や選手の立場にたって、“理解”を示すもよし、“サムライ・ジャパン”の名に恥じないように、正々堂々と負けてもいいから気概をみせてほしいと“期待”するもよし。

その“気持ち”は、人それぞれの“想い”なので異なるのは当然です。
今回の場合は、「法」や「倫理」に触れた試合やプレーではないために、どういう“想い”をもとうとまったくの自由です。

むしろ問題は、自分の“想い”を正しいと考えて相手に“違法”に強制したり、不用意に傷つける発言をすることです。
なので、要は、お互いに相手の“想い”を尊重すれば、問題はありません。

監督や選手は、当然、試合結果には「責任」を負って戦っています。

ですが、サポーターや観客は、試合結果に対する「責任」はありません。
責任がないので、自分の“想い”を自由に述べられますが、逆にいえば、“無責任”にならないよう注意が必要です。

それが、相手に自分の考えや“想い”を強請しすぎないことです。
そういった民度をもてば、ムダな「炎上騒ぎ」はなくなります。

もっとも、「炎上騒ぎ」を“体験”していくことで民度のあり方を学ぶ機会が生じるという点では、「宝瓶宮時代」の社会に向かって成長していくために必要な面がなくはないともいえます。

もちろん、これも一つの意見です。




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