まとめ「邪馬台国」の結論
2020.06.01
  
結論的に、まずいえるのは、女王「卑弥呼」や「邪馬台国」を“美化”しすぎということです。

支那の歴史書には、「倭国」や6世紀末~7世紀初頭にかけての「阿毎多利思比孤」(あめのたりしひこ)大王については、相応に記されています。

ですが、「卑弥呼」については、女王に共立されたこと、鬼道をもって衆を惑わすことなどは記されますが、「自為王以来 少有見者」すなわち女王になって以降は姿を見せず、詳細は不明なのです。

ほかに、支那(魏)の冊封下にあって、魏王に使いを送ったことが記されていますが、それとて伊都国(いとこく)の王が「卑弥呼」の名のもとに行なったと考えるのがしぜんです。

なぜなら、「伊都国」に“一大卒”が置かれ、「諸国を検察せしめ、諸国 之を畏憚す」(『三国志』「魏書」烏丸鮮卑東夷伝倭人条)と記されているからです。

この『三国志』「魏書」烏丸鮮卑東夷伝倭人条というのは、俗称“魏志倭人伝”のことです。


すなわち、諸国が「おそれはばかった」のは、女王卑弥呼ではなく、伊都国王だったのです。

卑弥呼は、かつぎ上げられた御輿すなわち“象徴”にすぎませんでした。

247年に着任した帯方郡(魏)の太守が、倭国に使節を遣わし、使節が到着したときには、「卑弥呼以死 大作冢」すなわち卑弥呼はすでに死んで墓がつくられたと記されています。

よくわからない“卑弥呼”にもかかわらず、私たちはかってなイメージを抱いているのです。

結局、所在不明の“邪馬台国”とともに、必要以上に“美化”し、あれやこれやと想像しています。


もとい。

実は、邪馬台国が奈辺にあったのかは、明確な「論拠」があります。

“邪馬台国畿内説”のエセ学者たちは、自分たちに都合が悪いので、その論拠となる支那の「歴史書」を“偽書”と決め付けたうえに、マスコミを抱き込んで隠していますので、正しく衆知されないだけなのです。

なので「邪馬台国論争」に必要以上の混乱をもたらしているのは、北部九州にあったことが明白になると、国からの“研究費”が少なくなることから、必死で意図的に言辞を弄して誤魔化し続けているエセ学者たちというのが実状です。


では、はっきりと「論拠」を記します。

『古事記』や『日本書紀』など、日本の文献を調べても、当然、邪馬台国の所在はわかりません。

では、どうしたらよいのでしょうか。

簡単です。

「卑弥呼」や「邪馬台国」また「倭国」が記されているのは、俗称“魏志倭人伝”なので、結局は古代支那の歴史書をひもとけばいいのです。

ほぼ、それだけです。

ただし、陳寿が記した魏志倭人伝だけでは不十分で、その後の『隋書』、『旧唐書』、『新唐書』にも、倭国について記されています。

そういった支那の歴史書を、ごくふつうにひもとけば、容易に邪馬台国の位置を比定できます。


簡潔に要点のみを書いてまいります。


『隋書』「倭国伝」の冒頭に、「倭国は、いにしえの奴国なり」と記されています。

奴国があった場所が、倭の女王“卑弥呼”を共立した倭国です。

同じく、『隋書』の「日本伝」の冒頭には、「日本国は、倭国の別種なり」と記されています。

つまり、倭国と日本国は別もので、古代には九州「倭国」と、本州「日本国」(大和州畿内国)とがありました。

いつごろまでかというと、7世紀に入る頃までです。

7世紀初頭には、阿毎多利思比孤大王の九州「倭国」は、隋の高祖文帝に“仁義”をきったうえで冊封下から離れ、政権を日本国に“禅譲”するかたちで統一されます。

両州は、もともと関門海峡や周防灘にへだてられていますので、治は別の国でした。

それがわかれば、「倭国はいにしえの奴国なり」、すなわち、「漢委奴国王」の金印が出土した北部九州が奴国(なこく)の地なので、奈辺が卑弥呼がいた“倭国”です。

そして、魏志倭人伝には、邪馬台国は「女王の都する所なり」と記されています。

結局、「邪馬台国」は北部九州以外にはありえません。


さらに、続けます。

『隋書』「倭国伝」のなかに、「阿蘇山あり」と記されています。

倭国が日本国とは別の国で、「倭国」に阿蘇山があったというこの一節も、九州「倭国」を裏付けています。

まだあります。

両国が統合されたのちの『新唐書』には、倭国の時代の記述として、倭国王は「筑紫城に居す」と記されています。

筑紫は、だれもが知る現在の北部九州“福岡”界隈のことで、広くみても筑紫のある「筑紫嶋」(ちくしのしま)なので、九州です。

続けて、『新唐書』には「天皇をもって号となし、治を大和州にうつす」と記されているのです。

この記述は、倭国王はかつて「筑紫」にいて、「大和」に東征し、“天皇”と号したということです。

これは、『日本書紀』に記される「神武東征」に重なる記述なのですが、その出発点は、南九州の宮崎(日向)ではなく、実は北部九州「倭国」の“筑紫城”だったという意味です。


少し、日本史から謎解きをします。

宮崎が「日向」と定められたのは、大和朝廷ができた7~8世紀頃のことです。

それ以前には、日向は北部九州にありました。

なぜ、7世紀後半から編纂をはじめ、8世紀(720年)に上奏された『日本書紀』に相前後して、急遽、宮崎の地を「日向」と定めたのでしょうか。

それは、次のような理由からです。

古代の記録には、“神武天皇”が日向(高千穂、瑞穂の国)から出発したことが記されていました。

そのままだと「北部九州」から出発したことがバレるので、まずいからです。

なぜなら、国生みの古来から「統一独立国家」日本(大和)をコンセプトとして記した『日本書紀』は、もし、北部九州が神武天皇の出身地だとわかれば、当該地「倭国」は、6世紀まで支那の「冊封下」にあったからです。

結局、記録は変えず、『古事記』や『日本書紀』の編纂にさいして、日向などの地名を南九州(宮崎)に移して、北部九州「倭国」だとはわからなくしたのです。

もうひとつの理由は、大和の政権が九州「倭国」系から、ときの「大和朝廷」に移っていたため北部九州だとわからなくしたためです。

ちなみに、「筑紫」(ちくし)というのは、現在のほぼ福岡県で、「筑紫嶋」(ちくしのしま)というのは、筑紫のある嶋(九州)という意味で、「筑紫」そのものは、筑紫の地名が残る北部九州の福岡界隈です。


では、筑紫城は、どこにあったのでしょうか。

ここは私見になりますが、3世紀の場合、伊都国の可能性を捨てきれませんが、6世紀には「歴史的経緯」や「地政学的見地」から太宰府市近辺にあったと考えられます。

ほかの候補地を強いてあげれば、王国は、『隋書』に記される「竹斯国」(ちくしこく=筑紫国)でなければ、その東にあった「秦王国」(現在の嘉麻市もしくは飯塚市か田川市)になります。

ですが、北部九州を治めるには、地政学からみても、やはり「大宰府政庁」近辺が最適地です。

ちなみに、3世紀の邪馬台国もその近辺にありました。


なぜなら、この地は、太宰府から御笠川を北にくだれば、邪馬台国以北にあったとされる「奴国」や「不弥国」に容易に行けます。

一大卒の「伊都国」は、そこから平野部を西にすすむだけです。

一方、反対方向に、宝満川を南にくだれば、筑後川に合流し、筑後川をくだれば「吉野ヶ里遺跡」があり、逆にのぼれば朝倉市の「平塚川添遺跡」という、2~3世紀の2大環濠集落を版図とする広大な地域です。

この筑後川流域(筑後平野)が、邪馬台国の南にあったと魏志倭人伝に記される“21か国の旁国”(ぼうこく)の地域です。

魏志倭人伝には、旁国の南端が「女王(国)の境界の尽くる所なり」と記されていて、続けて「その南には狗奴国あり」と記されています。


狗奴国(くなこく)というのは、卑弥呼(女王国、倭国)に属せず、敵対し戦った国です。

3世紀の「鉄鏃」(てつぞく=鉄のやじり)の出土が、福岡県と争う全国でもダントツの多さから、狗奴国は熊本県にあたります。

福岡県南端部の大牟田市あたりが、その国境でしょう。


実は、これが何を意味するのかは重要です。

一部で、邪馬台国に比定される「山門」(旧山門郡、現みやま市)は、大牟田市に隣接し、福岡県の南端部に位置します。

つまり、狗奴国とほぼ接するために、その南に21か国の旁国が存在する余地がありません。

さらには、もう一つ、地理からみても筑後川河口域の「山門」は、船で直接行けるほどの近さなので、「陸行1月」の邪馬台国に該当しないのです。


さて、最後の結論です。

“魏志倭人伝”の著者、陳寿は、「倭国」に行ったことがありません。

そのため、過去のいくつかの記録“倭国偵察記”をもとに“魏志倭人伝”を記しました。

つまり、陳寿は、邪馬台国の位置を知らなかったのです。


ということから、魏の使節が留まる「伊都国」までは、明確に直列で行程を記すことができました。

しかし、そこから先は使節の聞き書きを写したものなので、伊都国から放射状に「奴国」と「不弥国」を記しています。

問題は、不弥国に続いて記される「水行20日」の投馬国(つまこく)と、「水行10日、陸行1月」の邪馬台国への行程の記録です。

これらは、もう一つの別の記録からもってきて、付記されたものです。

その証拠は、不弥国の南には“水行”などできる“海”がありません。


とはいえ、陳寿は、女王が都する「邪馬台国」を記さないわけにはいきません。

なので、別の倭国偵察記に記されていた、帯方郡からの行程記録によって、「南して投馬国にいたる。水行20日なり」や「南して邪馬台国に至る。水行10日、陸行1月なり」と付記したのです。

そのため、行程をすべて直列で読むと、邪馬台国の位置は、とんでない場所にあったことになってしまいます。


結局、邪馬台国は、水行のみで行ける“有明海沿岸部”や、“瀬戸内海地域”にあったのではなく、河川沿いを船を引っ張りながら遡行することを含めて、当時の“道なき道”を野営をしながら進んだ路程で「陸行1月」の内陸部にありました。

北部九州で、魏志倭人伝に記されるように、北の「奴国」や「不弥国」に通じ、南の21の旁国に通じる内陸部の「要衝の地」は、後世の「大宰府政庁」もそうですが、近隣にほぼ一つしかありません。

太宰府をふくめてもいいのですが、太宰府だけだと狭いので、その近辺で平野部が広がり、河川の上流域で、山を背に防御にも適した奈辺(あたり)の地が、古代からの「邪馬台国」です。


《 参考図 》



要するに、女王卑弥呼を共立した「倭」(国)は、6世紀には“筑紫城”があったと推測される「筑紫野市」の朝倉街道駅付近を分水嶺として博多湾に流れ込む北の「御笠川水系」と、南の有明海に流れ込む「宝満川・築後川水系」の国々を一つにたばねた“北部九州連合”をさします。

古代は、河川が交通路だったので、海や水系によって国はまとまったと考えるのが合理的です。


※ご参考:

不弥国(ふみこく)は海に面していたので“海国”(うみこく)、奴国(なこく)はかつては湿地帯で今も沼が多いことから“沼国”(ぬまこく)。

そう考えれば、陸行1月の邪馬台国(やまたいこく)は、山間部付近にあって女王が都していた古い国でもあることから“山大国”(やまたいこく)です。

もしくは、後述する伊都国と同様に、女王がいたことから“山統王国”(やまとおうこく)と呼んでいた考えてみるのも面白いかと存じます。

古代は、必ずしも固有名詞で国が呼ばれていたとはかぎらず、地形の特徴などから呼んでいた可能性が高いからです。

さらに書いておきますと、末盧国(まつらこく)は、伊都国からみて“虹の松原”の先にあるので松裏国(まつうらこく)です。

魏に使節を送っていた伊都国(いとこく)自身は、王がいて一大卒がおかれ諸国を検察し統べていたので、自らを“一統王国”(いとおうこく)と称して、魏に伝えていたというのはいかがでしょうか。

♪ 知らんけどね。









                   ※6月2日:地図を追加、6月7日:一部を最終リライト。

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