?な「竹内文書」の由来
2021.05.31
  
いまさらですが、「竹内文書」の由来についてです。

真贋がとわれる古史古伝の“代表格”ともいえるのが「竹内文書」です。

今回は、1900年(明治33年)に天津教の前身「御嶽教天都教会」を開設した「竹内巨麿」の「竹内文書」をとりあげます。

10年後の1910年に、神武天皇以前から伝わる“真の歴史書”として「竹内文書」を公表し、この文献や神宝類を「経典」として「皇祖皇太神宮」を復興して「天津教」を立ち上げ、開祖となっています。

それゆえ「竹内文書」(たけのうち もんじょ)のことを「天津教文書」とよぶことがあります。

ウィキペディアの冒頭には、次のように記されています。


「竹内文書(たけうち もんじょ、たけのうち もんじょ、磯原文書、天津教文書ともいう)は、古代の文書を装ったとされる偽書。
神代文字で記された文書と、それを武烈天皇の勅命により武内宿禰の孫の平群真鳥が漢字とカタカナ交じり文に訳したとする写本群と、文字の刻まれた石、鉄剣など、一連の総称。
天津教の聖典とされる。
原本が存在する立場からは、後述の裁判に提出されたのちに焼失したと主張される。」


現在は、孫に当たる竹内康裕氏が茨城にある「皇祖皇太神宮」の第68代管長に就任しています。

だれにでも信教の自由がありますので、ここでは「皇祖皇太神宮」(天津教)には触れません。

純粋に、「竹内文書」の由来についての一筆です。

内容については、一言、“荒唐無稽”というしかありません。

しかし、実のところ個人的には「タネ本」があって、それを日本式に二度三度と書き直していくうちに“脚色”が加えられ、ありえない「荒唐無稽」な内容がふんだんに付加されたものだと考えています。

その点では、歴史的には間違いなく、“偽書”と位置づけるしかありません。


それはともかく、「竹内文書」の由来については、次のように記されています。


● 『これが禁断の書「竹内文書」だ!』より抜粋

◆成立年代
5世紀末。

◆由来
大陸文化の渡来に伴い日本文化の伝統・文化が失われるのではないかと危惧した武烈天皇が、武内宿禰(たけの うちの すくね)の孫である平群真鳥(へぐりの まとり)を神代以来の伝統を守る聖地・越中に派遣。
真鳥を皇祖皇太神宮の大宮司に就任させ、神代文字という象形神名文字でかかれた神代の記録を漢字仮名混じり文字に改め、写筆させた。
この真鳥が写筆した文献と、皇祖皇太神宮に伝わる、神代文字が記された神宝類を総称して竹内文書(たけうち もんじょ)という。

◆内容
宇宙の創成から神武天皇以降の歴史時代までを、主に天皇(すめらみこと)の統治年代別に記した壮大な「記録」。
年代ごとの出来事を記した天の巻、世界中に秘蔵されているとみられる神宝・文書類の隠し場所を記録した地の巻、ノアの洪水など天変地異の真相を明らかにした人の巻からなるとされているが、一般に公開されたのは天の巻だけ。


という、もっともらしい由来です。

『日本書紀』に出てくる人物(武烈天皇、武内宿禰、平群真鳥)をもちいて記されていることから“本物”と思うかたがいらっしゃるかもしれません。

ですが、この由来自体が、“ウソ”なのです。

その理由を挙げておきます。


1、武烈天皇の実在性

「武烈天皇」(小泊瀬稚鷦鷯尊:おはつせの わかさざきの みこと)は、『日本書紀』のなかに第25代天皇として名を連ねていますが、そこには、まもとなエピソードが記されていません。

たとえば、最初の3分の2ほどは、太子時代のエピソードで、ほぼ色恋の歌でしめられています。

残りの3分の1ほどの即位後の記述は、さらにひどいものです。

一例をあげますと、「妊婦の腹を割いてその胎児を見られた」とか、「人の頭の髪を抜いて樹の頂に登らせ、樹の本を切り倒して、登った者を落とし殺して面白がった」とか、「人を池の樋の中に入らせて、外に流れ出るのを三つ刃の矛でさし殺して喜んだ」などです。

異常で、人間にあるまじき暴虐ぶりしか記されていないのです。

これらは、古代支那の史書にでてくる暴君たちのエピソードをモデルにしたもので「創作」とされています。

なぜなら、「不徳な君主は子孫が絶える」という儒教の教えがありますが、それを後継者がいなかった「武烈天皇紀」に記すことで、次の第26代「継体天皇」の選出を正当化しているのです。


2、平群真鳥との関係性

実際、『日本書紀』では「武烈天皇」の出生や即位がおかしいのです。

先代の「仁賢天皇2年」の出生とされますが、「武烈天皇8年12月」(在位 498年~506年)に崩御されて、即位されたのは仁賢天皇11年のことです。

なので、9歳前後で即位して20歳前後で亡くなったことになります。

つまり、『日本書紀』は、正しい年代を明かしていないか、創作された天皇なので、わざとつじつまが合わないように書いて、“創られた天皇”であることを示唆しているのです。

で、本題の平群真鳥との関係性です。

「平群真鳥」(へぐりの まとり)は、第21代「雄略天皇」以降、4代の天皇のもとで大臣(おおおみ:首相)をつとめた実力者です。

ですが、『日本書紀』によれば、「武烈天皇」が即位される直前の太子の時代に殺されています。

そのようすを『日本書紀』から抜粋してみましょう。


● 『日本書紀』「武烈天皇紀」より抜粋

「大伴金村(おおともの かねむら)大連(おおむらじ)が太子に申し上げるのに、「真鳥の奴をお討ちなさい。仰せがあれば討伐いたします」という。

太子は「天下騒乱の恐れがある。世にすぐれた人物でなければ治めることができぬ。よくこれを安らかにできるのはお前であろう」といわれた。

そこで一緒に相談をした。

そして大伴大連が兵を率いて自ら将となり、大臣の家を囲み火をかけて焼き払った。

(中略:平群真鳥は)ついに殺された。科(とが)はその一族に及んだ。」


つまり、武列天皇が即位される前の太子の時代に、平群真鳥は大伴金村の進言によって殺されています。

なので、武列が天皇になったときには、平群真鳥はこの世にはいませんでした。


3、蘇我氏滅亡の「乙巳の変」のモデル

平群本宗家は、こうしてメインが滅ぼされます。

その理由を、「武烈天皇紀」は次のように記しています。


「仁賢天皇が崩御された。大臣の平群真鳥臣が、もっぱら国政をほしいままにして、日本の王になろうと欲した。表向きは太子のために宮を造ることにして、完成すると自分から住みこんだ」


要は、当時は「平群真鳥政権」(平群大王)だったのです。

にがにがしく思った「大伴金村」がこれを倒して、結局、彼の発案で応神天皇の五世の子孫とされる“男大迹王”(をほおのおう)こと「継体天皇」を越から迎えて、後日、即位することになります。

結局、「平群本宗家」の滅亡のパターンは、実質の「蘇我氏三代大王」だった蘇我本宗家を“悪者”にでっちあげて、蘇我入鹿(そがの いるか)大臣を、「中大兄」(のちの天智天皇)と「中臣鎌子」(藤原鎌足)が“弑逆”(しいぎゃく:下のものが上のものを殺すこと)したときの理由に流用されています。


さて、「竹内文書」の由来についてです。

もう、おわかりですよね。

1、
即位もしていない“9歳”前後の太子(武烈天皇)が、「日本古来の伝統・文化が失われるのではないかと危惧した」という「竹内文書」の由来は、明らかにヘンです。

2、
また、「武烈天皇紀」の最初の3分の2ほどに数々の歌が記され、平群真鳥の息子「鮪」(しび)と、“9歳”に満たない太子が“恋敵”だったというのもありえないでしょう。

3、
さらに、政権をほしいままにしていた「鮪」の父親「平群真鳥」を、越中に派遣して皇祖皇太神宮の大宮司に就任させるほどの立場には、まだ父の仁賢天皇が在位中なので、太子(9歳前)だった武烈にはありません。

竹内文書の由緒では、「平群真鳥を大宮司に就任させて、竹内文書を写筆させた」とありますが、「武烈天皇紀」を読めば、そんな由来はとても信用にあたいするものではないということがわかります。

結局、即位前に自らが大伴金村に殺させた「平群真鳥」を、即位後の「武烈天皇」が“大宮司”に就任させて、「竹内文書」を写筆させることなど絶対にできないのです。

4、
第一、「武烈天皇」そのものが、実在性を疑われている架空の天皇です。

そんな架空の天皇がすでに殺されていた「平群真鳥」に写筆を命じるエピソードを、もっともらしく「由来」として残す「竹内文献」は、もはや存在そのものが“偽書”というしかないのは明白です。


ということで、完全にねつ造された「竹内文書」の由来でしかありませんでした。














日本と歴史的朝鮮半島
2021.05.26
 
どうでもいいといえば、どうでもいいお話です。

一方で、重要といえば重要なお話です。

日本からみた“歴史的朝鮮半島”のお話です。


【対共産主義の最前線】

共産主義が華やかりしころの20世紀後半をみれば、日本だけではなく世界とって朝鮮半島は“重要”でした。

なぜなら、対共産主義の“最前線”だったからです。

ご存じのように、朝鮮半島を北朝鮮と韓国にわける“38度線”がそれです。

そのため、欧米など「自由民主主義諸国」からは、韓国は最前線に立つ国として相応に“高く”評価されてきました。

また、上述の理由をふくめて戦後の日本は、GHQからの指示によって韓国また中国に対しては、“忖度”したり、“気兼ね”をしなければならない時代が続き、現在もマスコミや歴史学界に根強くその傾向が残っています。

そういったこともあって、韓国民は“自分たちは世界的に優れている”と、大きな勘違いをこれまでしてきました。


【“頂点とどん底”のディレクション】

占星学からみても、ここ20年間ほど韓国にはたらく「星のディレクション」は類似でした。

15年ほど前の2006年以降、韓国は世界の“頂点”(TOP)に立つことが可能な「星のディレクション」(運勢変化)を受けはじめたからです。

これによって、たとえば「サムソン」に代表されるような韓国企業が、先ごろまで世界のTOPクラスに名を連ねていたわけです。

ですが、このディレクションは、“両極端”のはたらきをもたらします。

TOPに立ったからといって、もし傲慢になったり、(国際)法を守らなかったり、人倫にもとる行為をしたり、対応を間違えると、頂点からたちまち世界の“どん底”に落ちかねない運勢に変わるのです。

ふつうの国であれば、そこまでの急落はないでしょう。

しかし、占星学的にみて、韓国は“情”と“意”を特徴とする国民性ゆえに、大多数の人々が「本質」を見ないで“表層的”な対応をとることになってしまいます。

それゆえ「星のディレクション」によって、一時的に世界の頂点に立つことがあっても、内面がともなわないため、運勢の維持が次第にむずかしくなります。

結局、彼らは、“両極端”のはたらきをもつ「星のディレクション」によって、もはや過去の“TOPクラス”から、一転、世界の“どん底”に落ちていかざるをえない昨今です。


【文在寅の“過ち”と世界情勢の変化】

また、政治的にも文在寅は歴史的な“過ち”をおかしました。

知ってかしらずか、隠し持っていた「共産主義独裁政権」の野望を、自らは自由民主義陣営に身をおきながら、北朝鮮や中国への“ラブコール”とともに、秘かに「韓国共産化」を図ってきました。

そのことが、次第に自由民主主義諸国に明らかになるにつれて、対共産主義の最前線“自由の砦”韓国という立場を喪失し、過去の評価も支援も失いつつあります。

当たり前です。

第二次世界大戦(1945年)後、また朝鮮戦争(1950年~1953年)以降、自由民主主義世界における地政学的な“最前線”として西側諸国から支援や援助による発展を、文在寅また彼を選んだ韓国民は裏切ってしまったからです。


さらにいえば、時代の流れも、もはや「韓国」を必要としなくなりました。

なぜなら、第二次世界大戦や朝鮮戦争、また東西冷戦の時代のような「陸兵戦」の時代ではなくなったからです。

北朝鮮のミサイルは、北海道を少し大きくしたくらいの国土しかない韓国など、かんたんに超えてしまいます。

中共もまた、“世界覇権”をにぎるには「海洋」が重要だと気づき、南シナ海や西太平洋への侵出を“核心的利益”としてるからです。

要は、「空中戦」(宇宙戦)や「海洋戦」、また「情報戦」(サイバー戦)へと戦いのステージが変わった現在、朝鮮半島はもちろん韓国など、重要ではなくなってきたのです。

以上の3点から、今日の韓国は“プレゼンス”(存在感)を失っています。


【日本と歴史的朝鮮半島】

以上を前提に、本題をお届けいたします。

歴史に「もし…」は禁句とされますが、現在を考えるご参考に書いておきます。


約1,500年前の第26代「継体天皇」は、歴史的な“大失策”をおかしました。

『日本書紀』には、次のように記されています。

《概意》
継体6年(512年)、百済が「任那」(みまな:倭国の領土)を要求してきた。継体政権は「任那割譲」を決定。物部大連(もののべの おおむらじ)が使者に伝えようとすると、妻が反対し留保。ところが、割譲されてしまう。どうやら「大伴金村」らが賄賂をもらったのではないかと噂になった。

といったむねの記述です。


2~3世紀の邪馬台国連合以前からの朝鮮半島の領土「任那」を失った日本は、その後、国家的な危機に直面するようになります。

継体天皇が崩御したのち、「任那割譲」は大問題になり、割譲をすすめた「大伴金村」は、第29代「欽明天皇」の御世に責任をとるかたちで失脚してしまいます。

では、「任那割譲」がどのような“国家的危機”を日本にもたらしたのか、代表的な3点をあげておきます。

事実かどうかご推察ください。


1、「白村江の戦い」での敗戦

任那を手にいれた「百済」ですが、150年ほどたった7世紀中頃に「新羅」に滅ぼされてしまいます。

中大兄(天智天皇)は、百済を復興しようと半島へ大挙して出兵しますが、「唐羅連合軍」の前に壊滅的な大敗を喫します。

このことは、“日本弱し”と勘違いした唐や新羅が、いつ日本に攻めてくるかもしれず、九州北岸が国防の“最前線”になったことを意味します。

中大兄(天智天皇)は、東北から人々を「防人」(さきもり)として徴集し、対馬や壱岐そして九州北部に配置しました。

地元九州の人々はというと、「白村江の戦い」で安曇族(古代海人族)らをはじめ、多くの兵士が戦死し、残った人々は、巨大な防塁「水城」(みずき)や「小水城」、また「山城」(やまじろ)を急遽、建造するために借り出されています。


※水城跡:太宰府の手前(博多湾側)の山間をつなぎ664年に築かれた巨大な水濠をもつ防塁。


余談ですが、防人の任を解かれた東北の人々は、自費での帰郷を強いられ、多くの人々が途中で亡くなったといいます。

では、張本人の中大兄はどうしていたのでしょうか。

畿内に戻り、いつでも逃げられるように琵琶湖のほとりに大津京を建造させ遷都すると、「天智天皇」として即位しています。

このような二重三重の“労役”を受けて、天智天皇に人心がともなうはずもなく、多くの人々から怨まれていたのは事実です。

ほどなくして天智天皇は崩御します。

その直後、大友皇子(追諡:弘文天皇)は、野に放たれた“虎”こと「大海人皇子」(おおあまの おうじ)を始末しておこうと、秘かに兵を集めます。

それを察して起きた「壬申の乱」(672年:古代最大の内乱)は、正統な皇位継承者であり人望もあった「大海人皇子」(天武天皇)のもとに、海人族由来の尾張や大分をはじめ、大半の臣民が味方して勝利を治めます。


お話を戻して、「白村江の戦い」の敗因は、戦争中にもかかわらず百済の一族が内輪もめを起こし、有能な将軍を死罪に処したことです。

それ以前に、もし継体天皇が任那を割譲せずに残していれば、「任那」と「百済」の連合軍によって、百済がかんたんに滅ぼされることはなかったでしょう。

また、有能な任那軍(日本軍)の指揮によって、百済の将軍を死罪に処すことはなかったばかりか、慣れた土地で、本土からの援軍とともに、陸と海からもっと有利に戦えたはずです。



2、「元寇」

13世紀にヨーロッパ東端にまでおよぶ広大なモンゴル帝国を築いた「元」は、800年ほど前に日本侵攻(九州上陸)を図ります。

ご存じ、何百艘もの船による1274年と1281年の2度にわたる「元寇」です。

もっとも、“元寇”とはいうものの、日本への侵攻を提言したのは「元」の支配下にあった朝鮮半島人で、船に乗っていた兵士たちの大半も半島人だったといいます。

ここにおいても、「任那」が割譲されずに「百済」とともに残っていれば、天運とともに発展した日本ゆえに、やすやすと「元」の手に落ちることはなく、「元寇」もなかったことでしょう。


ちょうど、20世紀後半の「韓国」が、欧米や日本の後方支援を受けて、対共産主義の“防波堤”の役割を果たしてきたように、鎌倉幕府第8代執権「北条時宗」の時代も、「任那」また「百済」が同様に“防波堤”の役割を相応に果たすことができたはずだからです。

少なくとも、日本から援軍(鎌倉武士)を派遣する時間は稼げたでしょう。


3、「日露戦争」

旧ロシアは、太平洋に出るための「不凍港」を必要としていました。

東南端のウラジオストックだと、冬は流氷など氷に閉ざされて使えないからです。

一般にいう「南下政策」ですが、ロシアは「朝鮮半島」や中国の喉元「遼東半島」(旅順港)が欲しかったのです。

しかし、肝心の朝鮮人は今もそうですが、大国の間で“フラフラ”し、旧ロシアに自国を売りかねない状況でした。

もし、ロシアが南下して朝鮮半島に居座ると、日本は一気に危うくなります。

東アジアに植民地を持つイギリスも同様で、ロシアの南下を危惧していました。

結局は、イギリスからの支援もあって日本は「日露戦争」を戦うことになります。

これまた、邪馬台国や九州倭国以来の日本の領土「任那」が半島に残っていれば、当時、近代化に成功していた日本本土ゆえに、中国やロシアの半島侵出を防ぐことができたはずです。


【安全と平和の“現代の防塁”】

さて、ここまで書けばおわかりでしょうか。

朝鮮半島をめぐる過去の出来事は、今日の21世紀の日本の防衛につうじます。

文在寅の「韓国赤化計画」や、北朝鮮の「核ミサイル実験」また中共の「海洋侵出」がすすむ現在、もはや地政学的な防波堤“自由の砦”としての韓国の存在価値は消えました。

継体天皇の“大失策”「任那割譲」によって、朝鮮半島から完全撤退した日本は、防衛のための“現在の水城”を、独自に空や海や宇宙、またサイバー空間に築かざるをえない現状です。

その備えや、将来を見越した準備開発は、着々と進んでいます。


一例を挙げておきます。

海では、世界最高性能の粛々たる「おうりゅう」型潜水艦、護衛艦「出雲」などの空母化改修。

空では、F22「ラプター」やF35を超える第6世代ステルス戦闘機の開発、小惑星への着陸帰還を成し遂げた宇宙技術開発。

また、クワッド(日米豪印)をはじめ欧州をまじえた「自由陣営」との連携や備えなどが着々と進んでいます。


さらには、日本にはたらく「星のディレクション」も類似です。

くわしい内容は機会をみてご紹介することがあると存じますが、今年2021年を機に2年後の2023年~2024年以降、“防衛”や“生活文化”の世界的「プレゼンス」(存在感)を、日本は高めていくことになる20数年間になっていきます。

民度の高い日本は、世界の“頂点”に立ったからといって、半島のように驕りたかぶることなく、“謙虚さ”を保ってその後も宝瓶宮時代の「天運」を受け続けて発展していくことになります。
















 
天皇と「日本の天運」特別編
2021.05.08
 
● 「太平洋戦争」と「大東亜戦争」の結末
 

天皇と「日本の天運」の“特別編”をお届けいたします。

先の“敗戦”に関して、誤解されるかたがいらっしゃるかもしれないと思ったからです。

次のような“誤解”です。


“明治天皇の御世になって、天皇のもとに「日本の天運」は復活したというけれど、ではなぜ太平洋戦争で日本は負けたのか”


戦後GHQのプロパガンダ(政治宣伝)にダマされず、実際のところを申し上げますと、先の戦争で日本は“2つの戦争”を戦いました。

太平洋を舞台にしたアメリカとの「太平洋戦争」と、東アジアを舞台にした西欧列強との「大東亜戦争」です。

結論的には、アメリカとの「太平洋戦争」には“負けた”ともいえますが、西洋列強の植民地となっていた東アジア諸国は、「大東亜戦争」によって、次々と独立を勝ちとりました。

日本は、“戦争目的”を達成していたのです。


当時、「日本」(とタイ)を除く東アシアの国々は、西洋列強の「植民地」下にあり、次は「日本!?」という切迫した危機的状況にありました。

それを防ぐには、アジア人(黄色人種)として、ともに西洋列強を駆逐し、近隣諸国の「近代化」と「友邦化」をすすめるしか、当時の人種偏見の状況下では、なかったといえます。

いわゆる「大東亜共栄圏構想」がこれにあたります。


しかし、東アジア解放のための“正義の戦争”を日本が行なったとすると、いろいろとマズイために、戦後のGHQは、“大東亜戦争”という言葉を使うことを禁止しました。

そして、「太平洋戦争」と総称するように言論統制をしたまま今日にいたります。

日本が真珠湾を攻撃をして、やむをえずアメリカとの「太平洋戦争」の火ぶたを切らざるをえなかった“根本”には、このような「西洋列強によるアジア蚕食」(植民地化)がありました。

要は、オモテ向きアメリカとの「太平洋戦争」には“負け”ましたが、「大東亜戦争」の“戦争目的”は達成していたことから、一方では戦争に“勝って”いたのです。


それでも“負け”は“負け”だというかたがいらっしゃるでしょう。


では、以下のことを考えてみてください。

まずは、占星学から時代の「天運」をもつ日本が、なぜ「アメリカ」に“負け”ざるをえなかったのか、ご説明しておきます。


日本もアメリカも“国体”を「水瓶宮」とします。

終戦から44年後に正式に「宝瓶宮時代」(ほうへいきゅう じだい)を迎えることから、“宇宙プログラム”は両国とも“勝者”とするしかありませんでした。

日本もアメリカも歴史的に重要な国家だからです。

アメリカは、占星学からみたときに、“世界の自由民主主義体制を守る”という「天命」をもちます。

なぜなら、建国以来、“民族性”を「射手宮」とし、“国体”を「水瓶宮」とし、“現体制”を「蟹宮」とするからです。

この“解釈”は長くなりますので、かってながら省略させていただきます。

そのため、日本とアメリカがやむをえず戦うことになった先の大戦においては、44年後に訪れる「宝瓶宮時代」のベースとなる“自由民主主義体制”これを“守る”「天命」をもつアメリカを、ここで負けさせるわけにはいきませんでした。

当時、自由民主主義に敵対する共産主義の国家「ソ連」が台頭していたからです。

米ソ両国とも当時は「連合国側」であり戦争当事者でもあったことから、もしアメリカが負ければ、それはソ連が世界を牛耳り、“世界共産化”という人類破滅の危機を招くことになるからです。

それゆえ、「天命」をもつアメリカを勝利させ、「天運」を有する日本を、アメリカの軍事力によってソ連の侵略から“庇護”するとともに、“経済”を優先させることで、来るべき「宝瓶宮時代」に向けた日本の復興を図ったのです。

実際、終戦間際や、敗戦時、また占領下の日本を巡る出来事をみると、そのように解釈しなければ説明がつかないことが起きています。


ご参考に書いておきますと、江戸時代の“現体制”は「武家諸法度」などによって「乙女宮」でした。

そのため、江戸時代は“武家社会”ではあるものの「お役人(官僚)的幕藩体制」でした。

江戸時代が終わり、明治から終戦までの日本の“現体制”は、「大日本帝国憲法」などによって「射手宮」でした。

「射手宮」は、“海外”や“拡大”などを象わします。

そのため、明治の御一新によって、海外の西洋に追いつき追い越せと「近代化」を推しすすめてきました。

近代化が成功すると、当時の世界植民地化の国際情勢をかんがみて、“日本防衛”と“アジア解放”にむけた「海外進出」を図っていきます。

台湾や朝鮮半島など近隣諸国の「近代化」を推し進めたのは、その一環です。

もっとも、このことが西洋列強や“民族性”「射手宮」のアメリカとの競合を招いたのは、避けられない時代の趨勢でした。

「日露戦争」に勝った日本は、白人国家から“警戒心”を抱かれていたからです。


いずれにしても、当時は、欧米列強による「植民地」の時代でした。

そのような状況下にあって、双魚宮時代(そうぎょきゅう じだい)最後の「世界的な対立二元論」のピークを星はもたらします。

先進国が「連合国」側と「枢軸国」側とに分かれて戦うことになります。

そのような、“世界覇権のディレクション”によって起きたのが「第二次世界大戦」です。


ドイツ第三帝国のポーランド侵攻による西欧戦線にはじまった「第二次世界大戦」は、劣勢に立たされたイギリスがアメリカに参戦を求めます。

ところが、ルーズベルト米大統領は、「非戦」を公約にかかげて当選していたために、自ら参戦することができませんでした。

一方、ドイツもアメリカとの直接の戦争は避けていました。

そこで、ドイツやイタリアと「三国同盟」を結んでいた日本がターゲットになります。

どうしても「参戦」したいルーズベルトは、日本を追い込んでいきます。

石油も物資も止められ、このまま座して待てば、国が滅ぶしかない日本は、真珠湾奇襲攻撃によって「太平洋戦争」に踏み切ります。

それはそうなのですが、あくまでも日本の主眼は、東アジアから西洋列強を追い出して、アジア諸国の“解放”と“友邦化”による日本の「国家存続」にありました。


重要なことは、戦争には“戦争目的”があることです。

その根幹は、“国体の護持”であり、国家の永続的な“維持発展”です。


たしかに、日本は、「天命」をもつアメリカとの「太平洋戦争」には負けざるをえませんでしたが、東アジアを戦場とした「大東亜戦争」においては、“東アジアの解放”という「戦争目的」を達成しています。

「白人にはかなわない」と思っていたアジア諸国の人々は、またたくまに西洋列強を駆逐していく、“神のごとき日本兵”をみて、自分たちもやれると勇気をもち、次々と独立をしていきました。

そればかりではなく、戦後の日本は、アメリカの軍事力のもとで、“国体の護持”と“国家の維持発展”を成し遂げたのはご存じのとおりでしょう。


では、欧米はどうでしょうか。


西洋列強は、戦争には“勝った”ものの「アジア植民地」をすべて失うことになります。

また、ソ連もアメリカも、さらなる“世界覇権”を競って、その後44年間もの長き「東西冷戦」に突入していくことになります。

その間、日本は、「天運」によって、またたくまに経済復興を成し遂げると、“ジャパン・アズ・ナンバーワン”と呼ばれるほど、一時はアメリカをしのぐ発展を遂げています。


さて、最後に東西両陣営の盟主国「米ソ」のTOPの評価をご紹介して終わります。


1989年のことです。

約2.160年(計算値)続くことになる現在の「宝瓶宮時代」が正式にはじまった年です。

アメリカの「レーガン大統領」とソ連の「ゴルバチョフ大統領」は、「東西冷戦の終結」(米ソ冷戦の終結宣言)にむけて、地中海のマルタ島で会談をします。

そのさい、「東西冷戦」のはじまりとなった先の「第二次世界大戦」において、“真の勝者”はどの国かというお話になりました。

二人の大統領がそろって挙げたのは「日本」でした。


アメリカもソ連も、世界各地の“東西代理紛争”と“軍拡競争”とによって、経済的に疲弊していました。

また、多大な犠牲者を出したドロ沼の「ベトナム戦争」などをみても、あまりにも大きな代償を長きにわたり払ってきていたからです。

逆に「日本」は、“戦争目的”を達成したばかりか、戦後はアメリカの軍事力に守られて、平和と経済的な繁栄を手にしていたのです。


終戦後、しばらくは“世界覇権のディレクション”が続いていましたので、次の仮説も重要です。


もし、日本が「太平洋戦争」に勝っていたら…。

当然、1945年で戦争は終わることはありません。

次は、植民地を失ったものの本体は残っていた「西洋列強」による反転攻勢や、ドイツのモスクワ侵攻を下した「ソ連」の日本への南下といった、いずれの国々をも相手に、“世界覇権”をかけた第2ラウンドの戦いが続くことになります。

物資に不足していた日本は、国家が滅びるか、ソ連に占領されるまで戦争を遂行せざるをえなかったでしょう。

なぜなら、日本が「戦争や~めた」と言っても、“世界共産化”をもくろむソ連は、決して日本を攻めることをやめないからです。


以上のようなことから、天皇とともにある「日本の天運」は、“敗戦”のようにみえる先の戦争においても、絶妙な“天業”でもって、たしかに働いていたことがわかるでしょう。



【ご参考】

1、
「水瓶宮」を“国体”とする日米両国は、「水瓶宮生まれ」(太陽)のルーズベルト米大統領の“策謀”によって「太平洋戦争」を戦わざるをえなくなりました。

2、
その占星学的な理由は、当時、「水瓶宮」の対宮=「獅子宮」に「冥王星」が入宮し、トランシット(運行)しはじめたために、“世界覇権のディレクション”がもたらされたからです。

3、
“国体”を「水瓶宮」とする日米両国と、“両極端”の象意をもつ冥王星の「獅子宮」への入宮またトランシットは、「牡牛宮生まれ」(太陽)の“昭和天皇”の御世でした。

そういうこともありまして、歴史的な大役を果たされた昭和天皇は、「東西冷戦の終結」と「宝瓶宮時代」が正式にはじまった、1989年(1月7日)に崩御されたのは、単なる偶然とはいえないようです。

4、
結果、戦後の日本においては、新「憲法」をはじめ、「サンフランシスコ講和条約」によるGHQの占領下からの脱却によって、“現体制”を「牡牛宮」として新たにスタートすることになりました。

「牡牛宮」の代表的な象意は、“日常生活の安全と快適性”です。たとえば“衣食住”(ファッション、グルメ、インテリア)などのアメニティー(快適な環境)などを象わします。

この“現体制”もあって、「宝瓶宮時代」にむけて“家電製品”などにみられるように、快適な生活環境が花開いて今日に至っています。













※5月10日、一部追記補足を行ないました。
志賀海神社「沖津宮」
2021.05.03
  
全国の「綿津見神社」(わたつみ じんじゃ)また「海神社」(かいじんじゃ、わたつみじんじゃ、あまじんじゃ)の総本社は、「志賀海神社」(しかうみ じんじゃ)です。

志賀海神社は、博多湾の東端から突き出た「海の中道」の先端、「志賀島」(しかのしま)にある古い神社で、ご祭神を「綿津見三神」(わたつみ さんしん)とします。

志賀島は、1世紀の金印「漢委奴国王」が発見された場所で、“古代海人族”の「阿曇族」(あづみぞく:安曇族とも)が拠点としていた、古代は島でしたが今は砂州によって道一本の陸続きになっています。

綿津見三神は、しこめき“黄泉の国”から帰ってきた伊弉諾尊(いざなぎの みこと)が、“筑紫の日向”で祓ぎはらいをされたときに生まれた神々ですが、『日本書紀』には次のように記されています。


●『日本書紀』「神代」(上)一書より抜粋

《原文》
「底津少童命・中津少童命・表津少童命、是阿曇連等所祭神矣」

《訳文》
底津少童命(そこつ わたつみの みこと)、中津少童命(なかつ わたつみの みこと)、表津少童命(うわつ わたつみの みこと)は、阿曇連(あづみの むらじ)らがお祀りする神である。


伊弉諾尊(いざなぎの みこと)が祓ぎはらいをされて、「八十枉津日神」(やそ まがつひの かみ)ほか2柱と、「住吉三神」(住吉大神)、また「綿津見三神」が生まれます。

そののちに、伊弉諾尊は三貴子(みはしらの うずの みこ)とされる「天照大神」と「月読尊」(つくよみの みこと)と「素戔嗚尊」を生みます。

後者は、日本を治めることになる重要な“神々”ですが、それ以前に日本列島にいたのが、“古代海人族”にかかわる「住吉三神」(住吉大神)や「綿津見三神」ということがわかります。

つまり、古代海人族は日本の“原点”にかかわる神々なのです。


ちなみに、伊弉諾尊が“祓ぎはらい”をされたときに生まれでたこれらの神々を祀る神社が、三つともそろっているのは博多湾岸しかありません。

「八十枉津日神」、「神直日神」(かんなおひの かみ)、「大直日神」(おおなおひの かみ)ら三柱は、昨年2020年末をもって活動休止した「嵐」の“聖地”とされる「櫻井神社」で祀られています。

博多湾西岸の糸島半島で、福岡市との境の糸島市にあります。

奈辺は、かつての「伊都国」(いとこく)です。

「住吉三神」は、今は博多駅近くの内陸部になりましたが、古代は海進によって博多湾の南岸だった日本第一宮「住吉神社」で祀られています。

最後に、当「綿津見三神」を祀るのが「志賀海神社」で、博多湾北端に位置する志賀島にあります。




この意味は、“祓ぎはらい”の場所を九州北岸の「古代博多湾」を「筑紫の日向の小戸の橘の檍原(あわきはら)」(原文:筑紫日向小戸橘之檍原)と想定していたことがわかります。

なぜなら、詳しいお話は省略させていただきますが、伊弉諾尊は、「伊弉冉尊」(いざなみの みこと)と訣別し、“祓ぎはらい”をしたということは、「独立」と「新たなスタート」をあらわすからです。

つまり、“統一独立国家”「大和」のはじまりを意味し、『日本書紀』はこれを「神代」(上)の“国生み”の時代のこととして記しました。

要は、半島や大陸との“決別”による「独立」と「新たなスタート」を意味するのが、この“祓ぎはらい”なのです。

意味はおわかりでしょうか。

そのため、半島や大陸との交流の窓口だった古(いにしえ)の「伊都国」(魏志倭人伝)や、「唐泊」(からどまり)また袖之湊(そでのみなと)こと「唐船の入し港」(唐船入之津)があった「博多湾岸」で“祓ぎはらい”を行なったとしなければ意味がないのです。

さらに書いておきますと、「上の瀬は流れが速い、下の瀬は流れが弱い、と中の瀬で禊ぎをなされた」と『日本書紀』に記されているのは、次のことを示唆します。

「上の瀬」…玄界灘(海峡なので流れが速い)
「下の瀬」…瀬戸内海(内つ海なので、当然、流れが弱い)
「中の瀬」…博多湾奈辺(上記二者の中間、九州北岸)


機会があれば詳しくご説明いたしますが、宮崎県がかつて「日向国」と定められたのは、7世紀中期以降のことです。

なので、「筑紫島(九州)の日向国」と書いていれば宮崎県ですが、単に「筑紫の日向」という場合、天孫降臨の「槵触之峯」(くしふるの たけ)や、初代「神武天皇」の出発地を含めて、「筑紫国」の“日向”を意味します。

それを、なぜあえて「日向国」(宮崎)と勘違いするように記したのかいうと、支那の冊封下にあった「筑紫国」(奴国、伊都国、不弥国など)がそうだとばれると“マズイ”からです。

当然です。

日本(大和)のはじまりにかかわる“天孫降臨”の地や“神武東征の出発地”が、かつて支那の冊封下にあった「筑紫国」(九州倭国)だとわかると、大和(日本)全体が“属国”と誤解されるからです。


信じられないかたは、第12代「景行天皇紀」を読めばわかるのではないでしょうか。

土蜘蛛や熊襲討伐の項です。

景行天皇は13年に「襲国」(そのくに)を平定されたのち、17年に「小湯県」(こゆのあがた:宮崎県児湯郡)にて「それでその国(襲国)を名づけて日向という」と記されています。

意味はおわかりでしょうか。

もし、この日向国(襲国)を、“天孫降臨”の地また“神武東征の出発地”と解釈すると、景行天皇は初代「神武天皇」の国を征討されたという、わけのわからないことになってしまいます。

まだあります。

景行天皇はその後、「火国」(ひのくに:熊本県)から筑紫国の「的邑」(いくはのむら:福岡県うきは市)に着き、翌月「天皇は日向から大和にお帰りになった」(景行19年)と記されています。

ここでも日向は「筑紫国」であることが示唆されています。

逆にいえば、「景行天皇紀」はもちろん記紀(『古事記』と『日本書紀』)の中で、唯一、征討された記述がないのが筑紫国なのです。


ついでにもう一つ書いておきます。

記紀には記されませんが、天孫降臨に付き添った「綺日女命」(かむはた ひめの みこと)がいます。

この綺日女命を祀る「長幡部神社」の“御由緒書き”に、1,200年前の「常陸国風土記」からの引用として、「筑紫國の日向の二神の峰より…」と天孫降臨の場所が記されています。

繰り返しになりますが、「筑紫國の日向」とはっきりと残されているのです。

各風土記は、地名のいわれなどを記した“内部記録”なので、はっきり書いても問題ないと考えたのでしょう。



さて、お話が大きくそれました。

お話をもとにもどします。

「志賀島」の北端から30メートルほど沖合いの小島に、志賀海神社「沖津宮」(おきつぐう)があります。

ふだんは海の中の島なのですが、干潮時には歩いてわたれます。




先の「昭和の日」は、夕方4時半~5時頃にふだん以上に潮が引くことから、歩いてご参拝をしてきました。

低い鳥居をくぐり、高さ10メートルほどの山頂にある沖津宮は、潮や強風にさらされても朽ちない「祠」(ほこら)で、宇佐神宮と同じ、少し尾長の「三つ巴紋」がほどこされていました。

そこで感じたのは、「権力欲がない」ということです。

やはり、“古代海人族”はそうなのだと想いました。

どういうことかというと、支那のような「大陸国家」の場合、どうしても領土や食料など覇権を求めて争いが生じます。

そういう“好戦的”な民族性になってしまうのです。


ところが、「海洋国家」のなかでも日本は、“古代海人族”によって国が形成されたこともあって、“穏やか”な民族性をもつようになりました。

彼らは、もともと「船」が“家”なのです。

広大な大海原を行き来しますので、“領土”という概念にとぼしく、あまり“権力”(支配)という考えをもちません。

船の上では、一蓮托生だからです。

もし、争ったりケンカをしていると、“時化”や“嵐”のさいに乗りきれず、お互いに船もろとも海の藻くずと消えてしまいます。

なので、お互いに協力して助け合うなど危機を乗りきろうとする心をもちます。


日本に国邑が形成された約2,000年ほど前に、ほぼ同時期にはじまったのが「双魚宮時代」(そうぎょきゅう じだい)ということもあって、共鳴星の「木星」につうじる“おおらか”な民族性がベースにあります。

「木星」の象意は、“遠い世界”(海外や精神面)また“自由気まま”や“成り行きまかせ”(寛容さ)といったことをもたらします。

ちなみに、19世紀中盤に「海王星」が発見されると、「双魚宮時代」また「魚宮」の共鳴星は、海王星に変わっていきました。


“古代海人族”に権力欲(支配欲)がなかったことは、物部氏の祖「饒速日命」(にぎはやひの みこと)が初代「神武天皇」に“国ゆずり”をしたことからも明らかです。

海人族の系譜を記した国宝「海部氏系図」(あまべし けいず)には、「始祖 彦火明命」(ほあかりのみこと)と記されています。

これは、物部氏の由緒を記した『先代旧事本紀』(せんだい くじ ほんぎ)でいう「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひの みこと)のことです。

つまり、「饒速日命」は、“古代海人族”に連なる祖神となっています。

そのため、彼は、稲作を広げ、“古代国づくり”をしながらも、領土への執着は少なく、東征してきた「神武天皇」に国をゆずってしまいます。

古代海人族は、海がホーム・グラウンドなので、陸地での争いがいやになれば、いつでも海に出ればいいし、さすれば、だれにも邪魔されず自由なのです。

付記しておきますと、物部氏は古代イスラエルからフェニキアの船団に乗って日本に来た人々を先祖をもつなど、相応にかかわることもあって、“もともと、自分たちの領土ではない”という思いがあったのかもしれません。

“国ゆずり”とはいうものの、古くからの“天孫族にお返しした”という感覚でしょうか。



いずれにしても、志賀島を拠点にした“古代海人族”の安曇族は、その後、東を目指して各地に広がっていきます。

たとえば、淡路島や摂津国(安曇江)もそうですし、三河国(渥美半島:飽海)や伊豆半島(熱海)もそうです。

内陸部ながら信濃国(長野県)の「安曇野」(現在の安曇野市)が、古代海人族「安曇族」にかかわることは有名です。

古代海人族らしく、彼らの結びつきは強いことでも知られています。

そのように、伊勢の神宮や宮中三殿、また全国に広がった一族を遥拝する東(日の出)を向いた鳥居(遥拝所)が、「志賀海神社」の本殿脇にあることも、以外によく知られた事実です。














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