“逆説”の邪馬台国-書紀編3
2020.10.11
 
【『日本書紀』の中の“邪馬台国”】


今回は、神武天皇の“モデル”を生んだ「邪馬台国」をお伝えいたします。


先回までの『日本書紀』(神代)のお話はご納得いただけましたでしょうか。

『日本書紀』は、神武東征以降の「独立統一大和」“一国史”として記されました。

そのため、神武以前の歴史は、「神代」(上、下)の中に“神話”かのように記されています。

そこに記される「高天原」は、九州から東征した初代「神武天皇」ゆえに、“古代九州”での出来事であることを意味します。

さらに現実的なお話をすれば、『日本書紀』は、“紀元前660年”を「大和建国」としましたが、それには別の意味があって、実際には3世紀末に九州から「畿内東征」を行なった人物や出来事を神武東征の“モデル”の一つとしています。

このあたりの実際の歴史は、『日本書紀』の「神功皇后紀」に“3世紀”のお話として、象徴的に記されています。

いずれにしても、「高天原」のエピソードは、「古代九州」や2世紀の倭国の乱(倭国大乱)から3世紀にいたる卑弥呼や台与の「九州倭国」での出来事を、象徴的に記録したものです。


1、その後の「邪馬台国」

さて、『日本書紀』には「高天原」の「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)の天孫降臨が記されます。

その4代のちの天孫が初代「神武天皇」で、神武誕生にいたる経緯が記されています。

「神代」のお話はそこで終わり、人代にうつっては最初の「神武天皇紀」において、“大和東征”と“ご即位”による「日本建国」が語られます。

これらのお話を、史実に置き換えてみます。

「高天原」にたとえられた“古代九州”、とくには「九州倭国」において、3世紀後半に「神武天皇」の“モデル”となった人物が誕生し、3世紀末に「古代海人族」(あまぞく)の助けを受けて「畿内東征」に至ったことを意味します。

もう少し具体的に申し上げますと、「魏志倭人伝」には記されない「邪馬台国」のその後や「北部九州連合」こと九州「倭国」の一部が東征に至ったお話になります。

一例を挙げますと、3世紀末に記された「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)では、「狗奴国」(くなこく)は女王国の境界が尽きた南にあると記されていました。

しかし、5世紀前半に記された『後漢書』では、拘奴国(狗奴国)は「邪馬台国」の東に移動しているのです。


卑弥呼は、魏志倭人伝に「夫婿なし」と記されていることや、3世紀中頃には亡くなっていますので子どもはいません。

そのため、宗女(一族の女)で13歳の「台与」を2代目女王にかつぎ上げて「北部九州連合 倭国」に再び起きた内乱は治まります。

この「台与」であれば、子を生んだ可能性は充分にあります。

政略的に考えられるケースとしては、狗奴国王「卑弥弓呼」(ひみここ)を含めた「北部九州連合 倭国」を治めた“男王”との政略結婚によって、子を産んだといえるでしょう。

いずれにしても、卑弥呼と同様に御輿にかつがれた名目上の女王ながら「台与」と「その子」を旗頭に、3世紀末に「北部九州連合 倭国」を率いて東征を主導したした人物がいて、これら一連の出来事が、実在の“神武東征”のモデルです。

今回は、その人物や詳細についてまで、触れることはいたしません。


ちなみに、東征に出発した地は宮崎県の「日向」ではありません。

なぜなら、宮崎が「日向」と呼ばれるようになったのは、7世紀後半の律令制によってだからです。

『日本書紀』には記されませんので『古事記』から引用しますと、イザナギとイザナミの国生みに宮崎は出てきません。

国生みに出てくるのは、まず四国の4国と隠岐の島、そして九州の4国と壱岐に対馬です。

最後に本州が出てきます。

九州の4つの国とは、筑紫国「白日別」(福岡)、豊国「豊日別」(大分、福岡東部)、肥国「建日向日豊久士比泥別」(佐賀熊本)、熊襲国「建日別」(熊本以南)です。

宮崎が該当するとすれば「熊襲国」ですが、天皇に敵対した熊襲から初代天皇が出ることはありません。

なので、『日本書紀』に記される天孫降臨の「日向の襲の高千穂」というのも、神武の「東征」の出発地も、7世紀後半以降に「日向」となった宮崎ではありえません。

ではどこなのかというと、いまも「日向」の地名が数か所に残る北部九州(倭国)です。

奈辺が「神代」に「高天原」と記された地域です。

では、なぜ北部九州にあった「日向」の地名を、南九州に移したのかといえば、北部九州(倭国)が「天孫降臨」や「東征」の地「日向」だと、どうしても“マズイ”理由があるからです。

その代表的な理由は、次のようなことです。

「独立統一国家 大和」を7世紀以降に実際に築くにあたって、魏をはじめとした支那の冊封下にあった卑弥呼の「北部九州」(倭国)だと、“独立”の所以を保てないからです。

もっとも、「大和一国史」をとる学者らは気づいていませんが、6世紀末~7世紀初頭に、倭国王「アメノタリシヒコ大王」は、隋の高祖「文帝」に“仁義”を切り、九州「倭国」の政務を“弟”の畿内「日本国」に譲り、吸収合併させるかたちで、支那の冊封下から離れることに成功しています。

ふつうなら、支那から討伐軍が来てもおかしくないのですが、当時の隋は戦争末期でもあり、とでもそんな余力はありませんでした。

そこを読みきった「アメノタリシヒコ大王」の外交戦略の大勝利です。

なので、名実ともに日本全土は「独立国」となりましたので、問題はありません。

そのとき、隋の2代目「煬帝」(ようだい)に送ったのが、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子にいたす」という事実上の「独立宣言書」なのです。

そして隋は、その直後に滅びています。

このような輝かしい業績や仏教伝来(興隆)の実績をもつ九州倭国王「アメノタリシヒコ大王」の“功績”を奪うために、『日本書紀』(不比等)が考えた“架空”の人物が「聖徳太子」(厩戸皇子の虚像)です。

ですが、支那の史書に「冠位十二階」などを定めたのは「男王」と記されているのに、当時は女帝「推古天皇」の御世なので、誰が考えてもつじつまが合わず、摂政「聖徳太子」ではおかしいことはわかります。

わからないことを承知で、大和説の学者らは、“こじつけ”ているのです。



2、日本古来の「山族」と新参「海族」

では、“神武”は実際のところ、どのような経緯で誕生したのでしょうか。

『日本書紀』によれば、神武の父は「彦波瀲武兎鷀草葺不合尊」(ひこなぎさたけ うがやふきあえずのみこと)と申し上げます。

彦波瀲武が生まれるにあたっては、その父「彦火火出見尊」(ひこほほでみのみこと)こと“山幸彦”と、その兄「火闌降命」(ほのすそりのみこと)こと“海幸彦”のお話が、「神代」(下)に記録されています。

なぜ「山幸彦」と「海幸彦」なのかは、次のとおりです。


古代日本には、原住日本人の「山族」(広い意味では古代「海人族」もふくむ)がいました。

縄文系の彼らは河川を遡り、防御に適した豊かで開けた土地に都や群落を築き、平和に暮らしていました。

そこに南方の島々や、また西方や北方の大陸から流れてきたり、戦さに破れて海をわたってきた渡来人がいました。

彼らは、武器を持っていましたので、日本の沿岸部に住み着き国を築きます。

これが新参の「海族」です。

一方、南方のポリネシアをはじめ、古代中近東から来たフェニキアやヒッタイト系また国を失くした古代イスラエル人をふくむ「古代海人族」は、日本原住の「山族」と協力して、独自の製鉄技術などを教えて古代国づくりをすすめています。

これに対し、弥生中期前後に大陸から来た新参の「海族」は、戦争で敗北した経緯もあって、1~2世紀に北部九州で鉄器文化が栄えると、領土をめぐって争いを起こします。

それが、福岡平野で起きた「倭国の乱」(倭国大乱)です。

一方、「邪馬台国」をはじめとした日本古来からの「山族」は、広大な筑紫平野に約7万戸の“邪馬台国グループ”を築いて穏やかに暮らしていました。

それらの国邑(こくゆう)のなかで、徐福の船団の末裔にもかかわり、古くからの歴史があったのが、福岡平野にもほど近い位置にあった「邪馬台国」でした。

それゆえ、御輿にかつがれた“お飾り”ながら、邪馬台国を都とした「卑弥呼」は女王に共立されたわけです。

ちなみに、“邪馬台国グループ”(筑紫平野)の南にあった「狗奴国」は、呉から流れ着いた渡来人が相応に多かったことがわかります。

そのため、彼らは呉をバックに、当時の大陸の三国志のミニ版として、魏を後ろ盾にした「邪馬台国」(女王国連合)に戦さを仕掛けています。

そういったこともありまして、「女王国連合」の政(まつりごと)を事実上、とりしきっていた「伊都国王」(いとこくおう)は、女王「卑弥呼」の名によって、魏に援軍を要請する使いを送ります。


3、「山幸彦」と「海幸彦」

さて、神武天皇に連なる「山幸彦」と、敵対した「海幸彦」のお話に戻ります。

結局、上述したような日本古来の「山族」(邪馬台国)と、大陸から来た新参の「海族」との争いといった北部九州での歴史の一コマは、『日本書紀』(神代)に善良な「山幸彦」と少々いじわるな「海幸彦」のお話として記されています。

争いの結末は、古代海人族の「塩土老翁」(しおつつのおじ)や「海神」(わたつみ)の助けをかりた「山幸彦」に、「海幸彦」は降参して従うことになります。

従うことになったゆえに、「万世一系」とともに「独立統一大和」また「天皇のもとにある大和一族」を築くために記された『日本書紀』は、“山族”の山幸彦こと「彦火火出見尊」と、“海族”の海幸彦こと「火闌降命」を、ともに鹿葦津姫(かしつひめ:別名=木花開耶姫姫)から生まれた“兄弟”として描いています。

詳しくは、『日本書紀』「神代」(下)をご確認ください。

「和をもって貴しとなす」からはじまる“憲法17条”もそうですが、『日本書紀』の隠し「テーマ」は、大和民族の「和」なのです。


ご存じのとおり、山幸彦こと「彦火火出見尊」(ひこほほでみのみこと)は、『日本書紀』(神代)に記される天孫であり、“山族”の「邪馬台国」に由来して象徴化された人物です。

なぜなら、山幸彦に象徴される“山族”(邪馬台国)は、天孫が娶(め)とった鹿葦津姫の母「大山祇神」(おおやまつみのかみ)に連なって“神武”の祖父「彦火火出見尊」を生んでいるためです。


鹿葦津姫の子「彦火火出見尊」は、古代海人族すなわち博多湾を拠点とした「安曇族」(綿津見三神、少童命:わたつみのみこと)や「住吉大神」(住吉三神、筒男命:つつのおのみこと)と協力関係にありました。

それが史実として裏付けられるのは、同じ「北部九州連合 倭国」を形成していたからです。

“神武天皇”(山族)が瀬戸内海を東征できたのも、「海神」(安曇族)や「塩土老翁」(住吉大神)など古代海人族の協力があったゆえです。

ちなみに、『日本書紀』に“3世紀”の歴史として記される「神功皇后紀」においても同様です。

神功皇后とその子「ホムタワケ」(応神天皇)による“大和帰還”という名の「東征」においては、瀬戸内海を進むにあたり「住吉大神」が助けたことが記されています。

このようにして、3世紀末に“台与”と“その子”を旗頭とした「北部九州連合 倭国」は、当時、纒向があった畿内国(ヤマト)へと“東征”に向かったのです。

これらが、初代「神武天皇」の東征の“モデル”になった一連のエピソードです。


ご理解しやすいように、“状況証拠”を交えて記した細かな差異の部分はあるとしても、大筋の流れとしては上述のようになっているのです。











“逆説”の邪馬台国-書紀編2
2020.10.09

【『日本書紀』の中の“邪馬台国”】


先回の続きです。

何のために『日本書紀』は編纂されたのでしょうか。

学者は、『日本書紀』が漢文による編年体で記されていることから“海外向け”だとし、『古事記』は大和ことばを漢字をもちいた当て字で表記されていることから“国内向け”だとしています。

失礼ながら、上から目線で採点すれば30点程度の回答です。

相応の編集経験からいえば、『日本書紀』には明確な“編集方針”があります。

このことを理解しないと、“字づら”に目を奪われて、『日本書紀』が記したくても書けなかった歴史の“行間”が見えなくなります。

逆にいえば実際の歴史を曲げてでも“作文”せざるをえなかった箇所もあるのです。

『日本書紀』の「編集方針」に関しては、かなり前に「宝瓶宮占星学」サイトで触れたので、詳しいご説明はいたしませんが、結論を記せば次のようになります。


『日本書紀』の編纂方針

1、「万世一系」の皇統が第一の目的。

2、初代「神武天皇」からの独立統一大和として記す。

3、豪族臣民は天皇に連なる“一族”であることを記す。

4、できるだけ史実に沿って記す。


重要度(優先順位)は、番号順です。

これら、1、「万世一系」は絶対方針で、2、「独立統一大和」としての一国史はメインテーマで、3、天皇を中心とした「一族」としての大和民族は、“和”また“一体感”をもたらそうとするものです。

そのうえで、4、「実際の歴史」を史実に沿って、できるだけ“忠実”に記そうとしたのが『日本書紀』です。

もちろん、記録や伝聞に残っていた範囲でのお話です。


1、「万世一系」の象徴「文武天皇」

以上を、簡単にご説明しておきます。

初代「神武天皇」以来、“ヤマト”(畿内)における7世紀末の第42代「文武天皇」にいたる「万世一系」だけは、どうしても譲れないのが『日本書紀』です。

天武と持統の孫、珂瑠皇子(かるのみこ)を「文武天皇」としてご即位させ、「万世一系」を確立させることが『日本書紀』の第一目的だからです。

そのため、持統天皇が孫の珂瑠皇子に譲位し、「文武天皇」がご即位したところで『日本書紀』は終わっています。

結局、「文武天皇」の“正統性”を記しているのです。

以降、天武系と持統天皇の天智系によって皇統が引き継がれていきます。

そこにいたるために、神武以来の系譜(皇統)を操作した箇所がないとはいえません。

ですが、あえて言わせてもらえば、詳細は省略せざるをえませんが、結局のところ日本古来の“皇統”に現在は戻っているといえます。


2、神武以来の“統一大和”一国史

「万世一系」の次は、初代「神武天皇」以来の「独立統一大和」の一国史として記すことです。

歴史的事実としては、6世紀末~7世紀初頭に畿内「日本国」と九州「倭国」が合併してのちが統一大和なのですが、畿内「日本国」は、神武の“モデル”となった人物が3世紀末に東征して“国譲り”を受けた、いえあば“弟国”(独立国)です。

つまり、“兄弟国”なので、広義の意味では「大倭国」(大和)といえなくもありません。

このような『日本書紀』のカラクリを見抜けないと、当初からの大和国家だったと勘違いし、「邪馬台国はヤマト(畿内)だ」という“ファンタジック”な思考の“ヤカラ”が出ることになります。

何を書いているのかというと、次のようなことです。

『日本書紀』は、古代からの“統一独立国家”「大和」として描いたために、紀元前660年の神武天皇以前に「国」はなかったことにしました。

しかし、実際は神武の“モデル”となった人物の東征によって「ヤマト」(畿内国)がはじまっていきます。

ところが、その史実を『日本書紀』は、書き残せないのです。

繰り返しますと、当初からの「統一独立国家」(大和)としたために、実在の“神武”による「ヤマト東征」(畿内東征)以前からあった全国各地の実際の「国々」の存在や歴史を書き残せなくなったのです。

ここが重要なのです。

畿内国の時代に、“神武”が出発した九州に筑紫国などの倭国があり、四国には阿波国があり、瀬戸内海には吉備国があり、日本海側には出雲国、丹後国、越国などがあり、ほかにも尾張国や関東王国など、少なくともその前身となる国邑(こくゆう)がありました。

それらの国の存在を記せなくなったために、今も多くの人々の意識にのぼってきにくくなっています。

結局、『日本書紀』は、ヤマト(東征)以前の歴史のなかで、重要な九州「倭国」と、出雲国をはじめとした本州「大国主連合」(仮)の歴史を、「神代」(上、下)に、“神話”かのように書き記したのです。

そのため、“神話”のようにみえて「神代」(上、下)は、実際の古代史を「史実」をベースに書き残したものです。


もし、「神代」のお話がまったくの「神話」なら、かってに“創作”できます。

適当でもいいし、都合のいいように書けるのです。

ところが、『日本書紀』の「神代」(上、下)を読まれた方ならご存じのように、「神代」には多くの「一書」(あるふみ、別伝)が多く残されてています。

創作された「神話」ならそのようにする必要はありません。

ちなみに、「神代」の分量を比較すると、「本文」が2割弱なのに対し、数々の「一書」(別伝)は7割を超えるページが割かれているのです。

この一事をみても、数々の記録や言い伝えが残る、“神武”以前の歴史をなるべく忠実に書き残そうとしたことがみえてきます。

逆に、神武天皇にはじまる「人代」(歴代天皇紀)に入ると、「一書」はありません。

そういう体裁を『日本書紀』はとっているのです。


3、「神代」に出てくる大已貴神の国

では、「神代」には、どんな歴史が書かれているのでしょうか。

1、神代(上)
「神々の誕生」と「高天原」の天照大神と素戔嗚尊、さらには「大已貴神」の古代の国づくり。

2、神代(下)
大已貴神がつくられた古代国「葦原中国」(あしはらの なかつくに)を天孫族が平定、高天原からの「天孫降臨」、そして「神武誕生」にいたる系譜(エピソード)です。


ここで「神代」は終わり、いよいよ「神武天皇紀」がはじまっていきます。

「大和東征」と「ご即位」(建国)が描かれます。

つまり、「神代」(上、下)は、“神武”のモデルとなった実在した人物による実際の「東征」以前の「古代日本」の姿を記しているのです。

当初からの「独立統一国家 大和」一国史として記すのが『日本書紀』なので、建国以前に実際の国があったことやその歴史は、リアリティーをもって書けません。

そのため、“神話”かのように「神代」に記しているのです。

ちなみに、日本語の“神”は、西洋の「創造神」(THE GOD)とは異なります。

「かみ」(神)は、「お上」(おかみ)や「上流」また「おかみさん」などのように、“支配層”や“古い”(昔)また“生まれ出る源”などのことをさします。

つまり、「神代」という意味は、西洋的な神々のお話(神話)という意味ではなく、神武が建国する以前の「古代」、すなわちヤマトが生まれ出る“源の歴史”といった意味をもちます。

そこで活躍したのが「神」(かみ)であり、また「貴」(むち)や「命」(みこと)「尊」(みこと)など「とうといお方」という意味です。

『日本書紀』は、なるべく歴史の事実を残そうとしましたので、日本の礎を築いた“尊い”先人たちを、そのように「神代」で尊称をつけて記したのです。


素戔嗚尊(すさのおの みこと)につらなる大已貴神(おおあなむちのかみ:大国主命)の古代の国づくりもそうです。

この国は、実在した「出雲国」をはじめ、大国主神(おおくにぬしのかみ)らによる本州「大国主連合」(仮)のことで、神武東征によって“解体”していきました。

その“集会地”こそが、ヤマト(畿内)の纒向です。

なぜそうなのかは、“神武”のモデルとなった実在の人物によって、“国譲り”をさせられた神々は、結局、大已貴神の国づくりを助けた「大物主神」(おおものぬしのかみ)は、大神神社(おおみわじんじゃ)こと「三輪山」に祀られ、大已貴神(大国主神)は、出雲の「出雲大社」(いずも おおやしろ)に祀られるからです。

ちなみに、「神武天皇紀」では、饒速日命(にぎはやひのみこと)の国譲りとして記されます。

これは、物部氏こそが「大国主神」に連なる日本古来“大”の“国主”だったことを意味します。


4、「神代」に出てくる九州「倭国」

一方、「神代」に出てくる「天照大神」や皇祖「高皇産霊尊」(たかみむすびのみこと)は、どの国を象徴しているのでしょうか。

天孫族がいた「高天原」は、九州「倭国」を意味します。

理由は簡単です。

初代「神武天皇」は、当時はどこだったのかはともかく“日向”すなわち「九州」からヤマト東征に出発したためです。

天孫降臨した「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)の4代目「神武」が東征に出発した場所は、「神代」でいう「高天原」にかかわる実在の地です。

なので、「高天原」は神武が東征に出発した「九州」(倭国)なのは明白です。

ちなみに、なぜ「高天原」と呼ぶのかというと、皇祖「高皇産霊尊」と「天照大神」の国だったからです。

2人の頭文字をとって、「高」+「天」+原(国)です。

「神代」に記される「高天原」のエピソードは、「古代九州」また「九州倭国」で起きた出来事を、コンパクトかつ象徴的にまとめたものです。


皇祖「高皇産霊尊」も九州にいました。

北部九州には「高木神」を祀る神社や伝承(エピソード)が数多く残っています。

明治以降、天皇家の先祖「皇祖神」となった「天照大神」も、元は九州なのですが、こちらは少々複雑です。

なぜなら、『日本書紀』は、天皇と臣民が一体の「統一大和民族」を形成するために、「天照大御神」を崇めれば、すべての臣民が自らの“先祖神”を祀ることになるよう、天照大御神のエピソードを少々創作したからです。

ベースは、当初、九州にいた物部氏の祖「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてるくにてるひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひのみこと)で、「男神」です。

ですが、『日本書紀』は、天照大神を“キャラ変”させて、素戔嗚尊との誓約(うけい)を記すことによって“血統”を交錯させ、高天原の天照大神を出雲系と融合させる記述を「神代」で行なっています。

さらには、九州「倭国」の卑弥呼(台与)をはじめとした豪族らの王や先祖神を「天照大神」に“習合”させて、日本(大和)の“象徴神”に巧みに仕立て上げています。

ここでは、「女神」にもなって、後世の第41代「持統天皇」との類似性をもたせる工夫をしています。

それは、『日本書紀』の狙いなのです。

どういうことかというと、「天照大神」を祀れば日本全国の豪族臣民らが自らの“王”や“女王”また“先祖神”を祀るのと同義にして、「天皇」のもとに結集できるようにしたものです。

それゆえ、日本ではときの権力者が替わろうとも、“和”の象徴「天皇」には手出しをしなかったのです。


5、ご参考

ご参考に付記しておきます。

『日本書紀』のこのような「編纂方針」は、7世紀当時の国内外の情勢に起因しています。

“権力亡者”ともいえるハネっかえりの「中大兄」(なかのおおえ:天智天皇)は、朝鮮半島での「白村江の戦い」に大敗し、日本国は「唐羅連合軍」からいつ攻め込まれてもおかしくない極東情勢のなかにありました。

ただし、唐と新羅は仲たがいをはじめ戦争になりましたので、日本を攻める余裕はなかったことがのちにわかりました。

さらに、国内に目をむけても、ようやく天皇に即位した中大兄こと「天智天皇」は、病床で正統な後継を無視して、息子の大友皇子(おおとものみこ、:追諡:弘文天皇)に皇位を託します。

これによって、古代最大の内乱「壬申の乱」が起きました。

大友皇子を倒して、「壬申の乱」に勝利した大海人皇子(おおあまの おうじ)こと「天武天皇」は、自らの「皇統」の正統性を証明すると同時に、千年のちも皇位争いを起こさないことを誓います。

同時に、日本を一つにまとめて海外に対抗できるパワーをそなえるべく、『日本書紀』の編纂を命じたのです。

そういった壮大なグランド・デザインのもとに、「独立統一国家 大和」を早急につくる必要がありました。

その“バックボーン”となるのが『日本書紀』です。

天武の皇子「舎人親王」(とねりしんのう)と当時の状況を理解した「藤原不比等」(ふひと)は、「万世一系」の確立と、「天皇」のもとに臣民が一致団結した「独立統一国家」を築くために、天武天皇の遺志を受け継ぎつつ、『日本書紀』を編纂したのです。












「仲秋の火星」が見れる
2020.10.07
計算上では、昨日10月6日に地球に最接近した「火星」です。

ですが、見ごろは太陽と火星が衝(オポジション=180度)をとるこれからになります。

牡羊宮23度を逆行中の「火星」と、本日7日に天秤宮13度に至った「太陽」は、宝瓶宮占星学がとる許容度数(オーブ)10度では、いよいよ今日からが衝(180度)に入ります。

いわば、火星の“満月”です。


最接近の昨今うえ満月状態なので、夜中の12時ごろだと天頂付近にひときわ輝く“赤い星”が、太陽の光を反射してよく見えるようになります。

ちなみに、ジャストの衝(180度)は、10月14日~15日頃です。

火星は自らの共鳴サイン(宮)の牡羊宮22~21度で、太陽は天秤宮21~22度をトランシット(運行)中です。

といっても、月とは異なり動きは遅いので、10月中旬前後で天候が良い日であればおすすめです。


今月1日は「仲秋の名月」だったように、空気も澄んできれいな日が多い秋の昨今なので、「仲秋の火星」を愛でるのもよいかもしれません。


もっとも、占星学からいえば、そうノンビリもしていられないかもしれません。

天秤宮の「太陽」と牡羊宮の「火星」の衝(180度)に対して、山羊宮の「木星&冥王星&土星」のそうそうたる星が軸となって「T矩」(Tスクエア=90・90・180)をとる昨今ともなるからです。

なかなかの“TOP争い”や“対立”が、日本のみならず世界でも繰り広げられる星の配置です。

とくに、17日の「新月」の前後1週間~10日は、個人的にもご注意しましょう。

これにかかわるホロスコープ(出生天球図)をもたれている場合は、上述のT矩(90・90・180)に「月」が加わるからです。

「太陽&月」の合(0度)と「火星」との衝(180度)に、上述の「木星&冥王星&土星」を軸に影響力のあるT矩(90・90・180)T矩(90・90・180)が形成されます。

なので、“事件”や“事故”にも注意が必要な10月中旬です。

田舎道では動物たちが道に飛び出すなど、交通事故を起こしやすくなります。


といったこともあって、比較的、気分にゆとりをもって「仲秋の火星」とシャレ込めるのは、人によっては今だけかもしれません。














“逆説”の邪馬台国-書紀編1
2020.10.06
 
【『日本書紀』の中の“邪馬台国”】


先の「“逆説”の邪馬台国-番外編」で終わろうと思ったのですが…。

ついでなので『日本書紀』編を書いておきます。

そのまえに、なぜ、“逆説”とタイトルをつけたのかというと、『逆説の日本史』の第1巻に「卑弥呼」や「邪馬台国」が、新たな解釈をふくめてでてきます。

たとえば、“卑弥呼は日食で殺された”や、“卑弥呼は天照大神だった”などです。

一見、なるほどと思える説なのですが、事実は異なります。

小説家でもある著者は、どうやらあまり深く調べたのではなく、意外性のある面白い説得力のありそうな説を書いたただけなのかもしれません。

唯一、倭の女王「卑弥呼」が記される「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)や、「邪馬台国」があった「倭国」が記される古代支那の史書をよく読まれてはいないようなのです。

そんなこともあって、“本当”の「卑弥呼」と「邪馬台国」の比定に役立つ「あれこれ」を書いてみようと考えて、“逆説”を拝借し、はじめたのが「“逆説”の邪馬台国」シリーズです。

最初は3~4回で書き終わると思っていました。

ですが、書いていくうちに今回で12回になります。

最後に支那の史書だけではなく、「邪馬台国」が直接出てくるわけではありませんが、『日本書紀』のなかの“邪馬台国”にも触れておいたほうがいいと考えて補足することにしました。


1、三数思考(クオリアル・シンキング)

それを述べる前に、順番が前後しますが「邪馬台国」を解明する手法を書いておきます。

「数理法則とクオリアル・ワールド」(伝授講座)から宇宙この世界をつらぬく「数理法則」によって、真相の解明には「三数思考」(クオリアル・シンキング)が重要です。

かんたんにいえば、この世界が「三次元」から成り立っているように、一方向からのみでは「実像」がつかめないのです。

商品の大きさを「タテ×ヨコ×奥行き」で記し、ときに「重さ」も記すように、「基本三数」3(4)数が必要です。

「邪馬台国」の所在も同様です。

「史書」だけでなく「考古学」も必要ですし、全国各地の古代の「時代考証」も必要です。

そういった、最低限まったく異なる3つの方向から検討しないと正しい所在地はみえてきません。

邪馬台国「所在論争」が起きるのは、「魏志倭人伝」の一部しかみていなかったり、「考古学」の一部しかみていなかったり、「一部地域の歴史」しかみていないなど、いずれにしても客観性を欠いて“部分”のみをみて“絶対”だなどと決めつけるからです。


2、「山門説」の一例

たとえば、「魏志倭人伝」をよく読まれていたり、地方の歴史年代を把握されてるとは思いますが、重要な一節を見逃してしまうと、「山門説」や「八女説」になってしまいます。

「魏志倭人伝」に記される位置関係からは残念ながら、当てはまりません。

「山門説」や「八女説」など筑紫平野の南端部の場合、「女王国」(広義の邪馬台国)の北に「伊都国」(いとこく)、「奴国」(なこく)、「不弥国」(ふみこく)があったというのはなんとか該当しますが、「邪馬台国」の南に「21の某国」があったと記されていることに該当しないためです。

「魏志倭人伝」には女王(国)の境界が尽きたその南に「狗奴国」(くなこく)があったと記されています。

狗奴国は、現在の「菊池」など“熊本県界隈”です。

旧「山門」(みやま市瀬高町)は、その南の丘陵や山を挟んで、すぐに熊本県になります。

今もむかしも「川」や「山」が国境(県境)になるのは、生活圏が異なるために変わりません。

つまり、「邪馬台国」の南にあったと記される「21の某国」が存在できる余地が「山門」や「八女」の場合、ないのです。

また、魏の郡使は「邪馬台国」には行っていません。

「伊都国」に駐(とど)まっています。

などの理由から、旧「山門」や現「八女市」は、「邪馬台国」に比定するには明らかに位置関係が「魏志倭人伝」の記述に合わないのです。


3、考古学の陥穽(かんせい)

「三数思考」をもちいると「魏志倭人伝」だけでなく、その資料となった『魏略』(逸文のみ)をはじめ、「倭国」について記される『隋書』『旧唐書』『新唐書』も参考にすることになります。

さらには、直接は記されませんが『日本書紀』も参考にすることで文献から“邪馬台国”の位置が浮かび上がってきます。

文献だけをみても、3つ4つをみないと「邪馬台国」の所在は比定できません。

ですが、文献だけでも片手落ちなのです。

それを確実に証明する「物証」が2番めに必要だからです。

それが「考古学」などですが、考古学も1か所だけでなく「三数思考」によって異なる3点をみることが必要ですし、自分の地域だけでなく、邪馬台国が存在した3世紀の古代日本の全体的な出土状況をみないと、正しいご判断はできません。

考古学によって3世紀の日本全国のすべてが出土していれば、比較検討して「比定」することは相応に可能です。

ただし、日本全国を掘り起こすことは不可能ですし、考古学だけではムリです。

まして一部の地域だけの出土で比定するのは、“無謀”というほかありません。

ちなみに、3世紀の畿内は「青銅器文化」と「石器」がメインで、大陸は遠すぎて交流は行なわれていませんでした。

もし、行なわれていたのであれば、大陸に近い北部九州のように3世紀の「鉄鏃」(てつぞく)などの鉄器製品が相応に出土してもいいはずです。

ですが、ほとんどみられません。

今や多くの関係者が知ることですが「畿内説」学者や研究者は、マスコミを巻き込んで纒向説への“こじつけ”がひどいことで知られています。

良識的な多くの学者や研究者また一般のマニアでさえも、そのことを見抜いてあきれているのです。

「日本学術会議」ではありませんが、古代史や政策などの人文分野では、学者の“権威”などあてになりません。

なぜなら、結果的に間違っていることのほうが多いからです。

ほかのページにも書きましたが、かつて「出雲国」なんて神話にすぎないという歴史学の大家がいましたが、全国の出土数を上回る銅剣が一気に出雲の荒神谷遺跡から出土したことがあります。

感想を求められた大家は、なにも答えられませんでした。

最近の言葉でいえば表現は悪いのですが、“学歴のあるバカ”のたぐいで、“専門”(一部)しか見ておらず、「古代史」や「政治」などのように広く世界全体をみて判断しなければならない分野では、狭い分野にはなるほど間違うことが起こりやすいのです。


4、『日本書紀』の「邪馬台国」

それはともかく、日本の成り立ちを記した『日本書紀』にも当然、「邪馬台国」はシンボリックに記されています。

日本古来からの“万世一系”を記し、“統一独立国家”「大和」を記した『日本書紀』は、九州“倭国”をはじめ各地の歴史を取り込んで、「統一大和一国史」として記しているからです。

この意味は重要なのです。

初代「神武天皇」ご即位以前の「神代」(上、下)の部分など古代はとくにそうです。

先に結論をいえば、古代九州「倭国」は、“高天原”としてが描かれていることが多いようです。

一方、国譲り以前の本州「大国主国連合」(仮)は、“出雲”や“大已貴神”(おおなむちのかみ)の活動などをして描かれています。

このあたりの『日本書紀』の記述は、100%正しいというのではなく、「神代」(上下)には数々の「一書」(あるふみ=別伝)が併載されていることからもわかるように、当時の“記録”や“伝承”が少なく、各豪族によって交錯していたこともあって、相応に“創作”を交えて記されています。

なので字面どおりに『日本書紀』を読んでも“正解”にはいきつきません。

どのような“意志”(意図、考え)のもとに『日本書紀』が記されたのか、その“編纂方針”などを見抜ければ、記述のカラクリ(レトリック)がみえてきます。

天武天皇がなぜ『古事記』や『日本書紀』の編纂を命じたのか。

当時の国内外の情勢がどのようなときに天武は「天皇」になったのか、なぜ“大海人皇子”だったのかなどともかかわっています。

また、天武の皇子で編纂委員長をつとめた歌人「舎人親王」(とねりしんのう)や“卓越”したアドバイザー「藤原不比等」(ふじわらのふひと)が、どのように日本古来からの“万世一系”や“統一独立国家”を記そうとしたのか。

その「編纂方針」や、もちいられている「表記基準また「論理展開」を見抜ければ、隠された実在の九州「倭国」や「邪馬台国」また「卑弥呼」が“おぼろげ”ながらでもみえてきます。

もう一つ重要なのは、大和統一のために、日本各地の有力な豪族たちや国邑(こくゆう)を、どのようにして「天皇」のもとに結集せしめたのか。

その「ノウハウ」などが『日本書紀』の記述からみえてくると、有力な1国でもあった「倭国」や「邪馬台国」また「卑弥呼」の姿がシンボリックながら明らかになっていくのです。

詳しくは後日、機会をみてお届けいたします。











日本学術会議? 不要
2020.10.05
 
ご存じのように、菅新首相がこれまでの慣例を破って「日本学術会議」が提出した105名のうち6名を任命しませんでした。

これに対して野党や左翼もちろんマスコミも、何を血迷ったのか「学問の自由が…」と騒ぎたてています。

だいたい、マスコミが「言論の自由を守れ!」などと、“自由”を持ち出すときは、“反日左翼”の活動ができなくなるために騒ぎ立てていることが多いので、そのまま100%うのみにするわけにはいきません。

事実、新聞5大紙のうち騒ぎ立てているのは、「朝日」「毎日」「東京」のご存じ反日3紙で、「読売」「産経」は静観です。

「日本学術会議」は、政府丸抱えの組織で、210名の会員に対して、毎年10億円が投入されています。

平均して一人当たり、毎年5,000万円近い経費が使われていることになります。

で、「日本学術会議」が何をしているのかというと、これまでの一例では日本の「国防技術」や「防衛に関する法整備」に対しては、徹底して拒否を繰り返しているのです。

たとえば、日本の「国防技術」に関しては、研究支援はいっさいしないという声明を「日本学術会議」は2度にわたって出しています。


えらいね~、よっ“平和主義者”の集まり、って思ったかた、間違いです。

日本への「国防技術」に関しては拒否する一方、実は「中国科学技術協会」とは連携し、協力する覚書を交わしているといいます。

科学技術の“情報交換”だからいいんじゃない、って、ウソ~!

「中国科学技術協会」は、モロ中国共産党配下にあって、中国共産党が“世界覇権”を握るための“軍事技術”や“5G研究”などをしている、いわば軍事部門です。

一党独裁の中国なので、“民間”などありえず、すべては中国人民軍に協力せざるをえないようになっています。

つまり、「日本学術会議」は日本の税金を使いながら、自衛隊には非協力的でありながら、中国の軍事開発には協力しているわけです。

一部の反日マスコミや野党がいうような、そんな“学問の自由”などありえません。


そもそものお話をすれば、210名もの会員を抱える「日本学術会議」は、民間団体などではなく政府が丸抱えしている官営団体です。

なので、国民から選ばれた国会議員によって選出された内閣総理大臣が、最終的に任命するわけですが、その菅新首相が6名に対して任命しなかっったことに「違憲」だと騒いでいます。

そんな理屈はとおりません。

一般の会社でたとえればわかりやすいのです。

会社から高額の給料を貰って雇われている立場でありながら、「学問の自由」だと言って、会社に貢献せずに、いわばライバル企業の研究所には情報を流し協力しているわけですから。

そんなとくに“素行”の悪い研究員に対して、今回、社長が「NO!」を突きつけて任命しなかったことにたいして、“社外取締役”の野党や、“外野”の反日マスコミが騒いで、“文句”をいっているわけです。

当然、野党や反日マスコミには、上の例でいえばライバル会社の“シンパ”や“回し者”(スパイ、工作員)が潜んでいたりしますので、“正義”の第三者のふりをして日本国民を欺こうとしているにすぎません。

ネットが発達した現在、そんなこと日本国民の大多数は、もはや見抜いています。

そんな反日左翼の巣窟となった“ロートル”(老頭児:中国語)「日本学術会議」なんて要りません。


「学問の自由」だというのであれば、財政的に自立すればいいのです。

政府から丸抱えで給料を貰いながら、その政府の方針や政策に対しては、“学術”と言いながら自分たちの政治的な思想信条から反対して潰す、というのでは、誰がみてもスジがとおりません。

そんなに日本や政府に反対したいのなら、政府から予算を貰わずに自分たちだけの力でやればいいのです。


「愛知トリエンナーレ」も同じ構造です。

政府や自治体から“補助金”を貰い“支援”を受けながら、「表現の自由だ」というのはまだしも、「昭和天皇や日本人兵士を貶め」、日本人の大半が不快に思う思想的に偏った展示をしているのです。

その一方で、韓国の俗称「元慰安婦問題」を支援するような展示は、日本人であれば誰がみてもおかしいと思うのです。

反日活動をするのであれば、国民の税金である政府や自治体からの援助をもらわずに、有志の自費でやれば「違法」でないかぎり問題はありません。

結局、彼らは、これまでの“慣例”をいいことに「反日」でも給料や援助をしてきた、一部の公官庁や共産党が巣食う自治体とのマッチポンプで、活動をし続けてき、それが“常態化”している側面があるわけです。

もはや、国際情勢や日本人の意識は「組織運営の変革」のディレクションとともに変わったのです。

「中国」や「韓国」また「北朝鮮」を優遇してきた戦後体制は終わりました。

常識的におかしいことは、もはや改めていくしかありません。


「日本学術会議」の会員選定をスルーしてきた内閣府もそうですが、「愛知トリエンナーレ」を支援する大村県知事に関しては、まあ選んだケンミンの課題ともいえます。

“リコール運動”もそうですが、次の“選挙”で結局、愛知ケンミンの良識が問われるのです。

もっとも、県民のせいだけでもないのは、愛知県でのシェア率76.8%もの「中日新聞」が実は「大村県知事」と手を組んでいるためです。

「愛知トリエンナーレ」の実状はもちろん「大村県知事へのリコール運動」が県民には伝わりにくいという側面があります。

それでもネットをタグれば、案外と実状がアップされていますので、真相はすぐに明白にできます。











2021年の運勢展望-プレ版
2020.10.04
 
【来年2021年の運勢は“大統領選”の結果次第】


来年2021年の「星のディレクション」は決まっています。

“決まっている”ものの、現実的には来月11月3日の「アメリカ大統領選挙」の結果次第で異なってきます。

異なってくるというのは、「ディレクション」そのものではなく、ディレクションによって“進む方向性”いわゆる「運勢」状況が異なってくるということです。

つまり、「星のディレクション」によって、“結論”は決まっているのですが、実際にどのように動いていくことになるのか、それは「人間自身」の“意志決定”次第によってそきに、相応ながらその後の“状態”(ルート)が異なることがあるためです。

たとえいえば次のようなことです。


どこに行くのか、“目的地”は決まっています。

ですが、そこへ行くのに、「高速道路」に通じる道をちゃんと選べるのか、それとも、さまざまな事情があったとしても、好むと好まざるとにかかわらず、一見、景色が良さそうな「山道」に通じる迂回路となる回り道を選んでしまうのか、といったような違いです。

「星のディレクション」は、ときおりそのような働きをします。

どのように進むのか「人間自身」の選択にゆだねて、“道”や“状態”を自ら決めさせていく「運勢パターン」のときもあるということです。

今年また昨今がそのようなときです。


この喫緊(きっきん)の“選択”によって、今後約20年間の人類の「運勢」が決まります。

そんな岐路に人類は今、立っているのです。


もう少しご説明しておきます。

今年2020年は、これまで約9年間つづいた「組織運営変革の“深化”」のディレクションがピークを迎えた1年です。

「宝瓶宮占星学」サイトで、何度もお伝えしてまいりましたように、2023年まで約15年間におよぶ「組織運営の変革」のディレクション」がつづきます。

これは、国際関係から家庭や個々人にいたるまで、過去の運営のあり方を変えなければならない“運営変革”が必要となる現実的なディレクションです。

もちろん、国家や会社またさまざなな分野の組織も同様に、何らかの「組織運営の変革」が迫られる事態が生じていく時期なのです。

そのなかでも、当該ディレクションが強まる「組織運営変革の“深化”」のディレクションの時期が、
これまで約9年間つづきました。

それは、オバマの「アメリカは世界の警察官ではない…」(2013年)にはじまる中国の台頭、北朝鮮核ミサイル問題、韓国文在寅政権をみても明らかですし、その一方で、約8年間つづいた日本の安倍政権や、トランプ米大統領の登場などもそうでした。

そして、“深化”のディレクションの最後の年2020年に“ピーク”を迎えることは、宝瓶宮占星学サイトでリーディングをお伝えしてきたとおりです。

事実、今年2020年は世界人類にとって大きく「組織運営の変革」を求められる大変な1年になりました。

国連から国家はもちろん各家庭や個々人に至るまでご体験されたとおりです。

“深化”(ピーク)のディレクションは今年で終わりますが、「組織運営の変革」自体はまだ3年間つづきます。

つづくと同時に、来年2021年はもちろん今後、約20年間ものあいだ、人類が「高速道路」のようなスムーズな運勢の道を進むのか、それとも、我知らずとも「山道」のような遠回りの困難な運勢の道を意図せずとも選択して進むのか、近々にも、ほぼ決まるのです。


一例を挙げて端的にいえば、「アメリカ」を選ぶのか、「中国」の“一党独裁体制”を選ぶのかです。

日本政府はもちろん、日本企業をはじめ「組織運営の変革」の渦中にあるので当然です。

さらにアメリカ国民が、共和党の「トランプ」を選ぶのか、民主党の「バイデン」を選ぶのかにかかっています。

それらによって、来年2021年から「影響圏」に入り2024年から「正式」にはじまる今後約23年間の「精神意識の変革のディレクション」の“状態”(道:運勢)が決まっていきます。

たとえば、“宝瓶宮時代の精神意識”を身につけるために、和や民度などを自由に理想としてストレートに目指して進めるようになるのか。

それとも、日本国民をはじめ人類が、“厳しい環境や試練”を体験することによって、反面教師のように本来るあるべき自由な“宝瓶宮時代の精神意識”を願望し目指して進まざるをえなくなるのかといったことです。


簡単に星の動きでご説明しておきます。

今年2020年1月13日に「山羊宮22度」でトランシットの「木星&土星&冥王星」がジャストの合(コンジャンクション=0度)をとりました。

これによって「組織運営変革の“深化”」は“ピーク”に至ったのです。

“深化”のディレクション自体は今年で終わりますが、「組織運営の変革」はまだあと3年間つづきますので、ここが重要なのです。

来年2021年は、水瓶宮2度と3度の「木星&土星」の合(0度)にはじまります。

1月26日には、「冥王星」が山羊宮25度を通過し、水瓶宮の影響圏入りをします。

これによって、“負”の第2次世界大戦に匹敵するような、新たな「運命ディレクション」が並行して徐々に影響力を増していきます。

詳しくは後日、お届けいたします。


いずれにしましても、来年2021年1月1日の星の配置は象徴的です。

水瓶宮の「木星&土星」の合(0度)に加え山羊宮の「冥王星」は、蟹宮から獅子宮に移動する「月」と衝(オポジション=180度)です。

これに、牡羊宮28度の「火星」が軸となって「T矩」(Tスクエア=90・90・180)を形成します。

同時に、射手宮の「金星&ドラゴン・テール」の合(0度)と双子宮の「ドラゴン・ヘッド」の衝(180度)に、これまた魚宮の「海王星」が軸となった「T矩」(90・90・180)が形成されます。

古典占星学でいう“グレート・コンジャクション”を交えた2つのT矩(90・90・180)です。

互いの意見や考えが幻想を交えて異なる“対立”のなか、2021年の幕が明けるといえます。


さて、来年「2021年の運勢」についてです。

個々人においても、所属する会社や組織またご家庭などをふくめ今年の「組織運営変革の“深化”」の“ピーク”の結果を受けて、来年は今後約23年間つづく「精神意識の変革のディレクション」の影響圏に入っていきます。

これは、端的にいえば日本国民の一人ひとりはもちろん、世界の人々が“考え方”や“とらえ方”など“精神意識”を徐々にながらも改めることが求められる、21世紀最大の最重要ディレクションなのです。

そういうこともあって、“深化”のディレクションがはじまった2012年から「数理法則とクオリアル・ワールド」伝授講座を漸次グレードアップしつつ備えてまいりました。

今後、どのように選択をして「組織運営の変革」の結果を残していくのか。

それによって、来年「2021年の運勢」はもちろん、その後、どのような“運命の道”を進んで行くのかが、相応なりにも異なってまいります。

ということで、来年「2021年の運勢リーディング」は、アメリカ大統領選挙の結果をみてはじめていくことになります。












“逆説”の邪馬台国-番外編
2020.10.02
 
【畿内“日本国”の正体】

「卑弥呼」と「邪馬台国」は、シナの古代史書にしか記されていません。

そのひとつ『旧唐書』には、「倭国伝」と「日本伝」が併記されています。

次の『新唐書』になると「日本伝」のみになりますが、そこには「倭国」と「日本国」とが“合併”また“国名変更”をしたことが記されています。

唐直前の時代がそういうことで、それ以前の「魏志倭人伝」(『魏志』倭人条)に記される「卑弥呼」また「女王国」の3世紀には少なくとも「倭国」と「日本国」があったことがわかります。

もし、これらの史書を“偽書”だと否定するなら、「邪馬台国」そのものが“なかった”としなければつじつまが合いません。

事実は、唐がはじまる直前までは、「倭国」と「日本国」があったのですが、唐の時代(618年~)にはすでに「日本国」に合併していたのが事実です。


1、畿内は「邪馬台国」か

すでに滅びた「邪馬台国」です。

畿内の纒向遺跡が“邪馬台国”でもなく、箸墓古墳が“卑弥呼”の墓でもない、ごく簡単な理由があります。

まず、一般に「邪馬台国」(やまたいこく)を“ヤマト国”と読む人がいます。

しかし、そんな固有名詞の国はなかったかもしれません。

支那人がわざわざ「台」の字を用いて「邪馬台国」と表記した以上、天子直属の政庁“うてな”(台)に相当する女王「卑弥呼」の“都”「ヤマ国」を、“邪馬台国”と表記したかもしれないのです。

一方で、世々「王」がいて、一大卒がおかれ、政治の中心として諸国を検察していた「伊都国」は、当時の“倭国”(女王国連合)の“首都”機能を果たしていたために、“都”の文字が用いられています。

文字にウルサイ古代支那人は、“首都”の「都」(伊都国)と女王の“都”の「台」(邪馬台国)を使い分けたのです。

それゆえ陳寿は、逆に東夷の「倭の女王」の“都”とはいえ天子(皇帝)の直属にもちいる「台」(臺)の字を使うのは、“けしからん”と考えて、邪馬臺国(台)ではなく“邪馬壹国”(壱)に変えて「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)を記したのかもしれません。

まあ、「壹」(壱)でも“もっぱら”という意味がありますので、そう悪い意味ともいえません。


それはともかく、「邪馬台国」を“ヤマト国”と呼んで、それがのちの「大和朝廷」になったと畿内説学者らは考えているのです。

また、このことを根拠に、“邪馬台国は「大和」であり畿内だ”と単純にとらえるかたもいるようです。

本当でしょうか?

もし、そうなら、初代「神武天皇」以来、万世一系の「大和」を記したのが、ご存じ『日本書紀』です。

なので、3世紀の項目に「ヒミコ」が“女王”(女帝、天皇)の一人として堂々と明記されていなければなりません。

ですが、どこにも女王「卑弥呼」が記載されていないのはなぜなのでしょうか。

“決め手”となるお答えは、後述いたします。


2、九州「倭国」は6世紀まであった

「統一大和」(7世紀以降の大和朝廷)は、奈良盆地であって、3世紀の「邪馬台国」があったと畿内説学者は主張しているのですが、そうであればあるほど大和朝廷の正史である『日本書紀』に、女王「卑弥呼」が何らかのかたちで記されていなければおかしいのです。

さらに、彼らは、纏向遺跡から3世紀のあったと思われる“巨大宮殿”の跡が出土したから“卑弥呼”の宮殿だと決め付けています。

ですが、実は確実な“決め手”となる証拠は出ていないのです。

そういった畿内学者の説やマスコミ報道を読んで、一見、なるほどと思われる方もいらっしゃるでしょう。

それは『日本書紀』に記される初代“神武天皇”の古来から、日本は一つだったとする「統一大和史観」が刷り込まれているからです。

後述いたしますが、そういえる「統一大和」が誕生したのは7世紀に入ってからです。

実際、『日本書紀』にも畿内から、日本全国各地に将軍や皇子また天皇ご自身が征討に向かったことが記されています。

ほかに国が各地にあった事実は記さざるをえなかったのです。

「統一大和」がはじまる直近の6世紀でも、継体天皇の時代に畿内“ヤマト”に服属しない「磐井の乱」が北部九州で起きています。

『日本書紀』には、“鎮圧”したかのように記されていますが、結果は「糟谷(かすや)の屯倉(みやけ)」一つしか献上されていないところをみると、実際はせいぜい“和睦”でしかありません。

つまり、九州「倭国」は、唐に至る直前の時代まで、存続していたのです。

これについても後述いたします。


さて、『日本書紀』に「卑弥呼」は出てこないと書くと、畿内説のかたは次のように反論するでしょう。

「卑弥呼」ではなく別の名前「天照大神」で出ている。

詳しいご説明は面倒なので省きますが、「天照大神=卑弥呼」ではなく、天照に象徴される一部にすぎず、「天照大神>卑弥呼(各地の王や神)」というのが正解です。

なぜ、卑弥呼を「天照大神」だと間違って解釈するのかというと、「卑弥呼」を証拠もなく推測で、“日巫女”に違いなだと決めつけてしまうからです。

まず、事実は卑弥呼は「鬼道」につかえていました。

しかし、「天照大神」が、そんな鬼道をもちいた記述はありません。

「“逆説”の邪馬台国-6」でも書いたとおり、「鬼道」をもちいた卑弥呼は、“日巫女”などとは真逆に「霊御子」(霊見子)であることを見逃しているのです。

現代人は、そのことを忘却してしまいました。

鬼道ゆえに、「ひ」は古代の“霊”(高皇産霊尊:たかみむすひの“ひ”)のことでしかありえません。

死者の“霊”(ひ)を呼び込んで、口寄せをすることを支那ではゴースト(幽霊)“という意味の“鬼”をもちい鬼道”と表現しました。

もう少しかっこよくいえば“託宣”を「ヒミコ」は行なっていたのです。

それゆえ、太陽の神でもある「天照大神」と真逆で直接の関係はありません。

「卑弥呼」が“日食”で殺されたという説も、まったくの推測であって、それが真実だとする根拠はどこにもないのです。

事実、畿内でも九州でも当時、皆既日食は実際には起きていないことがわかっています。

にもかかわらず、“日巫女”ゆえに“日食”で殺されたと信じ込んでいる人が多いのです。


3、“大和帰還”は「畿内国東征」だった

では、天照大神が卑弥呼ではないとしたら、それ以外に3世紀の「ヒミコ」に相当する“女帝”(天皇)は『日本書紀』に記されているのでしょうか。

残念ながら、現在の『日本書紀』には見当たりません。

初めて“女帝”が記されているは、7世紀の「推古天皇」だからです。

3世紀の卑弥呼とは時代が合いません。

ところが、ところが。

応神天皇の母親である「神功皇后」(オキナガタラシヒメ)は、かつて『日本書紀』では「天皇」とされていました。

学術的な生存年代はともかく、『日本書紀』の年代では、“神功皇后”はピタリ「3世紀」の人物として記されています。

畿内論者からは、「ほらみろ!」という声が聞こえてきそうです。


でも違うのです。

『日本書紀』には、次のことが記されています。

3世紀後半~末あたりに「神功皇后」は、子供の応神天皇(ホムタワケ)とともに「大和帰還」を果たします。

皇位を簒奪しようとしたホムタワケの兄「忍熊王」(オシクマ)らを討ちとったことが記されています。

では、どこから“大和帰還”をしたのでしょうか。

『日本書紀』にちゃんと記されています。

応神天皇は「筑紫」(九州福岡)で生まれています。

その応神を抱えて、神功皇后は「北部九州」から“大和帰還”を果たしているのです。

つまり、応神も神功皇后も「北部九州」(倭国)にいたことを『日本書紀』は記しています。

万世一系を主旨とする『日本書紀』ゆえに、“大和帰還”と記さないとつじつまが合わなくなるのですが、実際は「大和東征」です。

それを住吉大神こと武内宿禰の助けを借りて行なっているです。

この一事は、「神武東征」の実在の“モデル”の一つともなっています。


かといって、神功皇后は「卑弥呼」ではありません。

卑弥呼は、すでに邪馬台国で亡くなり、魏志倭人伝にも「夫婿(ふせい)なし」と記されていることから、結婚はしておらず子供もいません。

ここでいう“神宮皇后”は「トヨ」(台与)のことなのです。

「邪馬台国」を“都”とした女王「卑弥呼」を共立した「女王国連合」は、卑弥呼の死後、男王が立つも再び乱れ、2代目女王「トヨ」を13歳にして立てて治まります。

新たな“女王国連合”こと「北部九州連合」は、大人になり“御子”を産んだ女王「トヨ」を旗頭に、当時の3世紀末の「畿内国」(のちの日本国また大和)へと“大和帰還”と記される実際上の「畿内東征」をしているのです。

そこで、“国を譲り受けた”ために、のちの「天皇」(大王)の和風諡号には、「豊」(トヨ)という文字がよく出てきます。


4、大和(大倭)は7世紀から

ほかにも、いくつか書いておきます。

畿内が、「大和」(大倭)と呼ばれるようになったのは、小国「日本国」が九州「倭国」を吸収合併するかたちで統合された6世紀末~7世紀初頭のことです。

「倭の女王」卑弥呼の倭国は、それまでどこにあったのでしょうか。

『隋書』『旧唐書』『新唐書』などを読むと、倭国には「阿蘇山あり」と記され、さらにハッキリと「竹斯国」(筑紫国)と記されていて、さらには「倭王は筑紫城に居す」とまで記されています。

ご賢察のとおり、北部九州(福岡界隈)です。

6世紀末の九州「倭国」王“アメノタリシヒコ大王”は、隋の文帝に「政務を弟に委ねる」と、これまで冊封下にあった“仁義”をきると、6世紀末~7世紀のはじめに、弟国の畿内「日本国」に九州「倭国」合併させるかたちで支那の冊封下から離れて“独立”を果たします。

それが、畿内「大和」(大倭)、すなわち「日本国」のはじまりです。

合併後、アメノタリシヒコは、隋の2代目 煬帝(ようだい)に書簡をあてます。

それが有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子にいたす、恙なきや」という“天子”どうしの挨拶で、事実上の「独立宣言書」なのです。

もちろん、支那は、そんことは恥ずかしくて「史書」(隋書)に詳細を残してはいません。

ですが、『旧唐書』に併記されていた「倭国」伝と「日本」伝は、次の『新唐書』になると「日本」伝のみに改められて、「統一大和」の姿が浮かび上ってきます。

つまり、古い『後漢書』また「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)に記されていた九州「倭国」と、畿内(本州)「日本国」は、歴史の事実としては「7世紀」に“統一大和”(大倭)を築き、ここから大和朝廷へと連なっていきます。

「畿内説」の“学者センセイ”に言わせると、これらは“偽書”なのだとか…。

ですが、畿内説(纒向説)学者や研究者は、“詭弁”を弄してなんでも“こじつけ”ることは、すでに良識的な考古学者や研究者のあいだでは、よく知られたお話です。


5、「纏向遺跡」の正体

では、最後に3世紀の畿内は、倭国の「邪馬台国」でもなく、「大和」でもなかったのであれば、「纏向遺跡」や出土した「巨大宮殿」はなんなのでしょうか。

答えは簡単で、考古学の常識を無視せずにいえば、「青銅器文化圏」の国です。

九州「倭国」は、2世紀にはすでに「鉄器文化圏」に移行していたことが考古学から明らかで、「魏志倭人伝」に記される鉄鏃(てつぞく:鉄の矢じり)なども数多く出土しています。

いくら、巨大宮殿遺跡が出たからといって、「邪馬台国」と書かれているわけでもなく、3世紀はまだ別の国だったのですが、あえて答えを申し上げますと、“出雲”を盟主とするゆるやかな本州「大国主連合国」の“集会地”だった場所です。

なぜかといえば、出雲につうじる「青銅器文化圏」もそうですが、『日本書紀』によれば「神武天皇」によって“国譲り”が行なわれた地だからです。

初代「神武天皇」が御即位された“紀元前660年”、この時代の“神武”のモデルとなった人物や出来事については、ここではふれませんが、3世紀後半~末の時代に畿内国に「東征」し、“神武”のモデルの一つともなった実在の人物は、『日本書紀』にも記されるとおり上述いたしました。

畿内の「三輪山」などに出雲系の「大物主神」らが祀られるように、「大国主命」らが、もともとは3世紀中頃過ぎまで治めていたので、“国譲り”で祟られないように封じているのです。

そういったことなどから、本州を広くゆるやかにまとめていた「大国主連合国」の“集会地”だったといえます。

「大国主」という名称自体が、“古くからの国の主”という意味なのです。

纏向遺跡には、人が居住した痕跡が少ないことから、“集会地”や“祭祀場”また収穫などの“情報交換”の場だと考えられます。

いずれにしても、出雲系の国で、3世紀中頃過ぎまで奈良盆地(纒向)にありました。


これが“ヤマト”になったというのであれば、3世紀後半~末に九州「倭国」から、神功皇后こと「トヨ」を旗印にして、“大和帰還”こと実質の「東征」によって“都”「邪馬台国」から“ヤマト”(台与の“ト”)と呼ぶようになったといえなくもありません。

確実には、九州「倭国」と畿内「日本国」(弟国)が合併したのち、「大和」(大倭)として7世紀に礎が築かれ、後半あたりに「統一大和」が正式にはじまったといえます。

その合併の功労者は、「蘇我氏」です。

そのさい、邪馬台国の「卑弥呼」(2代目「台与」)が共立されたのと同様に、御輿に担がれた“女帝”こそが「推古天皇」(トヨミケカシキヤヒメ)なのです。

なので、推古(トヨミケカシキヤヒメ)は、3世紀末に「北部九州連合」(倭国)の旗頭となって、畿内に東征した「トヨ」の末裔か、あるいは九州倭国に残っていた「トヨ」の末裔などを、「和」の象徴として立てた可能性が高いといえそうです。

それが『日本書紀』に最初の“女帝”として記されることになった理由です。















- CafeNote -