『日本書紀』と万世一系
2019.05.21
今回は、信じられないかたには、“疑義”提起になると存じます。

『日本書紀』は、統一独立国家「大和」を出発するための“万世一系”を記したものです。

超ロングスパンでみれば、相応の紆余曲折はあったものの、令和の今上天皇にいたるまで、最初に日本の大半に影響をおよぼし、ゆるやかな“大国主連合”を築いた大王につづく万世一系で間違いはありません。

もともと『日本書紀』は、すべての豪族や氏族を大王(天皇)からの分家として“大和一民族”による独立をうたっているからです。

その象徴は、明治天皇以降、「天照大神」が皇祖とされますが、『日本書紀』に記されている(本来の)皇祖は、神代紀(下巻)の冒頭にあるように「高皇産霊尊」(たかみむすひのみこと)です。

それは、天孫降臨の記述をみても明らかです。

『日本書紀』の本文には、高皇産霊尊による瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨が記されています。

一方、今日、一般に信じられている天照大神による瓊瓊杵尊の“三種の神器”をともなった天孫降臨は、一書(あるふみ=異説)のうちの1つの説として記されているにすぎません。

このあたりは、『日本書紀』編纂責任者(舎人親王:天武天皇の皇子)の真摯な姿勢が垣間見えます。

ちなみに、一書の「天孫降臨神話」は、持統天皇(第41代)の御世に藤原不比等のアイデアで付加したもののようです。

持統天皇こと「高天原広野姫天皇」(たかまのはら ひろのひめの すめらみこと)から、孫の文武天皇(第42代)こと「倭根子豊祖父天皇」(やまとねこ とよおほぢの すめらみこと:25歳で崩御)への譲位をスムーズにはかるために、『日本書紀』は、高天原の天照大神から、孫の瓊瓊杵尊への天孫降臨神話を創作したのです。

明治以降、皇祖が「天照大神」に定められるとともに、この一書のお話は本文のように思わされています。

ここでは長くなるので、その経緯にはふれません。

万世一系を定めた天武天皇(第40代)以降、ほどなく天智系天皇の御世に変わったとはいえ、万世一系が連綿と続いてきたのは事実です。この詳細にもふれません。

問題は、6世紀から7世紀にかけてです。

継体天皇(第26代)にはじまり、安閑、宣化の2代をへて、欽明天皇(第29代)以降、天智天皇(第38代)にいたるまでの皇統は、かなりの操作がなされています。

理由は、次の2点からです。

第1点、宣化天皇(第28代)において、蘇我氏が登場し、いきなり今でいう“首相”に相当する大臣(おおおみ)に就きました。

第2点は、7世紀がはじまる前後、九州倭国(兄)は、畿内大和王権(弟)に政務を委ね、実質の「統一国家」を誕生させたことです。

この直後、『隋書』に記されるように、アメノタリシヒコから煬帝に「日出処の天子、書を日没処の天子にいたす…」と国書が送られました。

つまり、卑弥呼由来の九州倭国は、シナ大陸からの冊封体制からはなれ、「日本」という日出る国とともに統一独立国家として新生したのです。

これが欽明天皇の皇子ら4人が次々と皇位に就いた、と記述されるウラの事情です。

皇位に就いた4人の皇子のうち、敏達天皇(第30代)と推古天皇(第33代)は“兄妹”であり“夫婦”だと記されています。

ありえません。

なぜ、このように記されたのかというと、九州倭国の「大王」と大和王権の「大王」を“万世一系”として直列につなげたためです。

また、推古以降も7世紀前半、実質の大王家となった蘇我三代王家(馬子、蝦夷、入鹿)を、「皇子」ではなかった中大兄が、「乙巳の変」(645年)で弑逆しましたが、この前後の皇統も万世一系にするために作為がみられます。

蘇我氏三代王権を「天皇」として記すことはできないからです。

これらが、本来の皇統にもどったのは、大海人皇子(おおあまのおうじ)こと「天武天皇」からです。

大海人皇子は、古来からの正統で、中大兄は天皇の皇子ではありません。

宝皇女(たからのひめみこ:日本書紀では“皇極天皇”と記されている)の連れ子なので、『日本書紀』には「皇子」とは記されていません。

天武天皇は、それゆえ天智天皇の皇子(追諡:弘文天皇 第39代)と「壬申の乱」(672年)を戦い、勝利したのち、自らの皇位の正統性を残すとともに、二度と皇位争いを起こさないように『日本書紀』の編纂を命じたのす。

日本史の真相がここにあります。

詳細は、いずれ書くことがあるかもしれませんが、今回はここまでです。





持統天皇 御製歌の意味
2019.05.18
だれもが知っている有名な「万葉集」の御製歌です。


春過ぎて夏来(きた)るらし白たへの衣(ころも)乾(ほ)したり天(あめ)の香具山 (万1-28)


詠み人は、万世一系を定めた天武天皇(第40代)の妃、持統天皇(第41代)です。

歌の解釈は人それぞれにあります。
基本的に自身の“器”にあわせて解釈をしますので、ヘタに解釈すると底が知れてしまいます。

いくつか解釈例をご紹介します。

1、
一般的には、持統天皇が帝都藤原京のすぐ近くにある香具山を臨んで、新しい季節の到来を詠んだ歌だとされ、香具山は高さ百メートル余りの低い山なので、山腹に白い衣が干されているのが、すぐにそれと理解できたのであろうと解釈されます。

2、
また、謀略的な解釈としては、詳細は省きますが、「政権奪取に成功した、してやったり」と詠んだ一首であるというのも目にしたことがあります。

3、
さらには、凡庸な解釈ですが、持統天皇自らが女官らとともに洗濯をして、夏になって水がひんやりして…と愛が感じられる歌であるというのもありました。

いずれでもいいのですが、「万葉集」を単なる歌集ととらえると間違います。

とくに天皇クラスになると、そこには歴史や当時の政治色が秘められているのです。

編者とされる大伴家持らも、その歌意を見抜いて選出しています。

持統天皇のこの御製は、字面のまま受けとると、当たり前すぎて“歌”になりません。

そうではなく、当時を映した深い意味が込められています。

今でこそ万世一系は当たり前ですが、完全に定着をさせたのは、知る人ぞ知る持統天皇の功績です。

皇太子草壁皇子が若くして薨御されたため、のちの持統天皇こと鸕野讚良(うののさらら)皇后は、自ら皇位に就いて、孫(草壁皇子の皇子)に譲位し何がなんでも皇位を継承させることによって、万世一系を根づかせようとしました。

それゆえ、神代からの“万世一系”を記した『日本書紀』は、持統天皇から文武天皇への譲位で終わっています。

この一首は、孫の文武天皇へのスムーズな譲位を願って詠んだものです。

「春」から「夏」に当たり前のように季節が変わるように、持統天皇(春)から孫の文武天皇(夏)へ、即位のときの麻の麁服(白妙の衣)を着せたいものだ(ほしたり)という歌意です。

それゆえ単なる香具山ではなく、山頂に国常立神を祀る天孫由縁の「天の香具山」と詠んだわけです。

持統天皇が異常なほど珂瑠皇子(かるのみこ)こと「文武天皇」(第42代)への譲位にこだわったのは、当時の人であれば常識的なお話です。

夫、天武天皇の遺志を実現して、二度と皇位争いを起こさないよう「日本の礎」(万世一系)を築きたいという願いと決意が込められた一首です。

「春過ぎて夏来るらし白たへの衣乾(欲)したり天の香具山」





令和特別トークイベント報告
2019.05.13
東京皇居前ホテルでのトークイベントが終わりました。

宝瓶宮占星学からのトークテーマは「天皇と数理法則-日本占星学」です。

日本歴史のメインストリーム「天皇史」のポイントを、「数理法則」の基本三数「3(4)数」から解き明かしてお話しました。

「宝瓶宮時代のビッグバン」(1989年)にはじまる「平成」(上皇:平成の天皇)の時代、そして今月(2019年5月)から新たにはじまった「令和」(今上天皇:令和の天皇)の時代が、どのようなものになるのかのヒントです。

内容は、一般公開するには深すぎるので書けません。

明治の御一新から「天皇」も日本の「国体(コンステレーション:憲法ではない)のあり方」(日本の国体そのものは変わりません)も、大きく変わりました。

「大正」「昭和」と経て昭和天皇の崩御とともに、人類歴史的には「宝瓶宮時代」がはじまり、日本では「平成」がはじまりました。

「水瓶宮」で象わされる“国体”をもつ日本にとって、このことは偶然ではないのです。

ちなみに、明治から「天皇」と「国体のあり方」が変わったといっても、反日親韓&親北で、“天皇制”に反対する共産党員をふくむ(鹿島某,松重某、鬼塚某など)の「陰謀論」ではありません。

れっきとした「数理法則」からのお話です。

元祖日本の“天皇”(大王、主)からみた場合、明治天皇は大きくは「3数」の立場になるために、内外などの「2方向の関係性」をもつことになるということをふくめた内容です。

ちなみに、大きく1数は「元祖天照大御神」(男性神:天照坐皇大神)、2数は「天武天皇」で、3数の「明治天皇」(2方向性)をふくめて日本の国体の本流となっています。


もっとも、イベント的には、見えない世界をふくめて新たな「令和」の時代の日本をスタートしていくためということのようです。




日本龍体特別トークイベント
2019.04.25
下記、トークイベントに参加します。

【日本龍体 特別 トークイベント 5月12日 東京 皇居付近 】

主催:ドラゴン・ピース(代表:クオリアルスタート☆)

このトークイベントは、凄く特別なものになりそうです。
このトークイベントは、「令和」が新しくスタートするというときに、日本を代表するエネルギー(エネルギー的なお話でリアルではない)が、昨年秋より場所と時期を指定してこられて準備をし、行なっていく内容となります。

なので、 実際に参加申し込みされる方々と さまざまな高次存在たちも参加している少し特殊なイベントとなりそうです。

今回は、 たぶん、 世界でいちばん詳しい目に見えない世界のお話と「令和」を迎えて新しい時代に必要な、クオリアルや霊識などのお話やトークの内容になり、その宣言式のような役割もありそうです。

お話の内容は、ふつうに講座を聴くと時間も金額も20倍以上の内容のエキスを話してまいりますので、凝縮して知りたいという方には、とてもよい時間になると思います。


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日時:2019年(令和元年)5月12日
13:00~ トーク

《クオリアルスタート☆》
霊的世界の新しい構造の話。
世界で今、いちばんに詳しく、そして新しい話。
“アセンション構造の公開”
これまで、9つの花とかフラワーオブライフが何か「すべては立体的な答えがあった」知識や、予想ではなく体得したお話をします。

《sei☆jimitoさん》
クオリアル&宝瓶宮時代に移行して、これからの社会の変化を読む。
そして、新しい時代のあり方を数理法則と占星学から「日本と令和」を紐解いていきます。
タイトル:「天皇と数理法則 ――日本占星学――」(予定)
*それぞれ60分程度を予定。

《サットンさん、てんまるさん》
霊識講座のお話。
体宙羅針盤の話。
*それぞれ10分を予定。

《質問&レクチャー》
15:00~15:30
16:00 終了

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これまで、 魂の道を探して来られたかたにも、とても有意義な時間になると思います。

そして、日本の新しい“時”の創造運勢のエネルギーのワークも行なっていく予定です。
(こちらのワークは希望者のみ、朝9時頃から別の場所で予定しています)

ぜひ、 ご縁のある方のご参加お待ちしております。

ご参加は これまで学んでこられた方も、初めての方も参加できます。
内容の趣旨に賛同されるかたや、関心のある方は参加できます。
また、少し難しい内容ですが、静かにお話が聞けるようでしたら、お子さんも参加可能です。
(泣いたり騒いだりの場合は参加できません)

新しい時代の魂の仕組みのお話です。

場所は、東京駅近くのホテル会場。
参加費 22,000円 (4月末までのお申し込み20,000円)
リアル参加人数は、あと6名の残席

*遠隔での参加もあります。
その場合は、録音(画像なし)をUPしたデーターを後日ご案内いたします。
*参加費は、会場費など差し引き、地震などの災害地へ支援寄付の予定です。

*終わったあとは、時間のある方は、お茶などご一緒しましょう。

(c)クオリアルスタート☆



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※ご連絡やお問い合せは、クオリアルスタート☆さんに。
※宝瓶宮占星学サイトからでもお問い合せいただければ仲介いたします。
 → http://www.aqast.net/formmail/formmail.html
上のフォームメールページに記載の直メールでも可能です。







宝満山「竈門神社」
2019.04.18
先の「高祖山」(たかすやま:クシフル岳)につづき、宝満山は「竈門神社」(かまど じんじゃ:上宮)に参拝登山をしてきました。

高祖山のふもとにある「高祖神社」(たかす じんじゃ)のご祭神は、彦火火出見命(ひこほほでみ のみこと)を主座に、玉依姫命(たまよりひめ のみこと)と、息長足姫命(おきながたらしひめ のみこと:神功皇后)です。


一方、竈門神社は、「玉依姫命」をご祭神とします。
玉依姫は、ご存じのとおり『日本書紀』では、神武天皇こと彦火火出見命の母親とされています。

宝満宮竈門神社の交通安全祈願には、次のように記されていました。

ご祭神玉依姫の命は、御子神武天皇の御東征に当り、この宝満山に陸路航海の安全をお祈りになったと伝えられています。(以下、略)


また、宝満山の山頂付近の「馬蹄石」(ばていせき)には、次のように縁起が記されていました。

玉姫(ぎょっき)降神すれば則(すなわ)ち山谷(さんこく)鳴りて震動す。
心蓮(しんれん)座に登れば則ち天華(てんげ)飛びて繽粉(ひんぷん)たり。
天武天皇白鳳(はくほう)2年(673)2月10日の辰の刻に法相宗(ほっそうしゅう)の僧で、この山の開山である心蓮上人が宝満山に籠(こも)り、樒閼伽(しきみあか)の水を持って修行していたところ、俄(にわ)かに山谷が震動し、何ともいえない香りが漂い、忽然(こつぜん)と貴婦人が現われ、「我は玉依姫なり。現国(うつしくに)を守り、民を鎮護(ちんご)するためにこの山に居ること年久し……」と告げたかと思うと、たちまち雲霧がおこり、貴婦人は姿を変じて金剛神となり、九頭の龍馬(りゅうめ)に駕(が)して飛行した。
その時の龍馬の蹄(ひづめ)のあとが、大岩の上のくぼみであると言い伝えている。


さらに、「竃門神社の由来」は次のとおりです。

第40代天武天皇の御代白鳳2年(紀元673年)法相宗の心蓮という僧が宝満山に篭り、常にシキミアカの水をもち修業しでいた2月10日の朝、俄に山谷が震動し何ともいえない香が漂い忽然として貴婦人が現れて
「我は玉依姫の霊、現国を守り民を鎮護せんためにこの山中に居すること年久し異賊国を傾けんとすること甚だし吾、皇紀を守る神としてこの山の上より海内を塞(ふさ)き、ある時は山の形、水に映り岩の如く波を起こし、ある時は神風を吹かせて賊の船を覆し、神光を飛ばせで船中を迷動す。これによって異賊来るを得ず」
と心蓮に告げたかと思うと、たちまち雲霧が起こり貴婦人は姿を変じで金剛神となり、手に錫杖を携え九頭の龍馬に駕して飛行した。
(その時の龍馬の蹄(ひずめ)の跡が竃門神社上宮の少し下に馬蹄岩として残っている)
さて心蓮は玉依姫命の示現に大変感激し、このことを天皇に奏聞すると、天皇は有司に宣下して社を建立した。
これが宝満山山頂(829m)に建っでいる竃門神社の起元であると伝えられている。


真偽はともかく、『日本書紀』の「神代」(下)に記されている一般に紀元前660年以前とされる神武生誕の母として、玉依姫は登場します。

ほかの地域の神社はよくわかりませんが、九州北部では「玉依姫」「応神天皇」「神功皇后」が、案外と一緒に祀られていることが多いのです。

応神天皇というのは、『日本書紀』で唯一、出生地が記されている天皇で、その場所が、宝満山のすぐ北の宇美町(うみまち:宇美八幡宮)の地とされています。

ですが、「応神天皇」と「神功皇后」の母子神は、『日本書紀』では3世紀のお話です。
なぜ、紀元前7世紀の「神代」に出てくる「玉依姫」とともに祀られているのでしょうか。

ここには、『日本書紀』(古代史)の秘密が隠されています。


実は、「神武天皇」の東征モデルの一つとなった出来事が、いずれも四男である「応神天皇」なのです。
一方、「神功皇后」は、「魏志倭人伝」に記されている邪馬台国の2代目女王「台与」(とよ)と重なります。

つまり、機会があれば詳述いたしますが、宝満山奈辺が「邪馬台国」に比定できるのです。

邪馬台国を有する「九州倭国連合」は、3世紀末に“台与”こと神功皇后を旗頭に、『日本書紀』でいう“大和帰還”、実質的に「東征」を男王ともくされる武内宿禰(たけのうちのすくね)とともに行なっています。

いわゆる「邪馬台国東遷説」ですが、九州倭国連合(邪馬台国=やまと)が東征し、より全国規模の初期「大和(やまと)連合」を築くことになります。



 

[画像左] 山頂のご神体とされる「岩」。“えんむすび”をうたっている竈門神社ゆえか、それとも先にこの二枚岩があったゆえに“えんむすび”の神社にしたのか。写真内の白フチ画像は、ご神体を横から見たもの。ひとつ岩にしか見えない。

[画像右] 山頂に建つコンクリートの神明造りの竈門神社(上宮:白フチ画像)の真後ろにある岩。二枚岩より高い位置にあり、社の真後ろにあることから、こちらがほんとうの“ご神体”ではないでしょうか。岩には「寶満山上宮」と印刻されているようです。







新元号「令和」によせて
2019.04.03
すでにご存じのように、新元号「令和」が発表されました。

『万葉集』の「梅花の歌」三十二首の序文にある「初春令月 気淑風和」(初春の令月にして 気よく 風やわらぎ)から採用されたことも、ご存じのとおりです。

たぶん、すでに多くのかたが解説されていると思いますが、一応、書いておきます。

「令和」の“令”は、初春の令月のことなので、旧暦の2月、厳しかった冬が終わりに近づき、ようやく暖かくなりはじめて、何事をはじめるにも良い月のことを意味します。

2月といえば、新元号の御世となる次の天皇の誕生月、2月23日が思い浮かびます。
ホロスコープでいえば「魚宮3度」の太陽です。

ただし、新暦での2月23日なので、旧暦になおすと1月27日、令月の直前です。

それはともかく、新元号「令和」について、なぜか賛否があるようです。

その理由は、「令」の意味を勘違いされておられるからです。
 
反対している多くのかたは、みたところ、「令和」の“令”をもって、“命令”や“司令官”など支配のイメージでとらえて、「“命令して和す”とは何事か」などと感じているのではないかと存じます。

ですが、採用元となった「令月」には、もちろんそんな意味はありません。

この令は、「ご令息」や「ご令嬢」また「ご令室」(奥さま)といったように、お相手の身内を敬って呼ぶときにつかう美称です。

なので、「命令」というのも、元来は、ご神託を人々がありがたくひざまづいて受けるさまをあらわしたものなので、もとは悪い意味ではありません。

つまり、「令」には、“良い”といった意味しかなく、それゆえ採用元となった「令月」も、暖かくなりはじめて物事をはじめるには“よい月”(旧暦2月)という意味を持ちます。

では、なぜ「令和」に良くないイメージをもつのか。
また、悪くいう人がいるのか。

その理由は、文字というものは、“概念”を表わしたものなので、その人が平和や調和ではなく、「支配、被支配」といった対立二元論でしか物事をとらえていなかったり、共産党一党独裁のように、上からの指示(“命令”)でしか動けない服従させられた思想や環境のなかにいると、「令」の字に“悪い”イメージをもって解釈してしまうからです。

そうではなく、「令」の字を正しく理解していたり、「令月」とまでは知らなかったとしても、「ご令息」や「ご令嬢」といったように、相手を敬い謙譲する気持ちをふだんからもって生活し、使用していれば、新元号「令和」は、相手の平和を称える、日本にふさわしく美しい元号であることがわかると存じます。







高祖山・クシフル岳に登頂
2019.03.23
邪馬台国が記された“魏志倭人伝”(倭人条)に出てくる古代倭国の王都「伊都国」(いとこく、現福岡県糸島市)にある「高祖山」(たかす やま)に登ってきました。

標高は416メートル。

神楽が年2回奉納される由緒あるふもとの「高祖神社」(たかす じんじゃ)から、直登コースを選び、後半、急な斜面をふくめて、約1時間ほどの山頂を目指す登山です。

天気予報では当日のみ100%の降水率でしたが、朝の出発までにはあがり、登頂は曇りときどき晴れに恵まれました。

実は、高祖山の南東に連なる「クシフル山」(クシフル岳、槵触峯)が“目的”です。

記紀に詳しいかたならご存じのように、瓊瓊杵尊(ににぎの みこと)が“天孫降臨”したと記述されている山です。

●『日本書紀』神代(下)一書より抜粋

皇孫(瓊瓊杵尊)を筑紫の日向の高千穂の槵触峯(くしふるたけ)にお届けした。

●『古事記』(上)より抜粋

(邇邇芸命:ににぎのみこと) 竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂のくしふるたけに天降(あまくだ)りましき。(中略) 
「此地(ここ)は韓国(からくに)に向ひ、笠沙(かささ)の御前(みさき)に真来(まき)通りて、朝日の直(ただ)さす国、夕日の日照る国なり、かれ、此地はいと吉(よ)き地(ところ)」と詔りたまひ…。
(以下略)

天孫降臨の地は、一般に宮崎県の高千穂とされますが、それは理由あって、記紀編纂後、今の宮崎県を「日向」とのちに命名し、筑紫の日向の伊都国が実際の“天孫降臨”の地だと知られないようにしたためです。

その理由は、宝瓶宮占星学サイトにも書いた記憶がありますので、ここでは省略いたします。

誰もがわかる理由を書きますと、宮崎の高千穂からだと、上述の『古事記』に記されているような「韓国」(からくに:唐国、半島や大陸)は臨めません。
(霧島山群の最高峰「韓国岳」では何の意味もありません)

しかし、標高416メートルの高祖山(くしふる山)からは、北に玄界灘を臨み、天気がよければ壱岐や対馬を見ることができますし、近くの背振山であれば、韓半島南部の山頂部をぎりぎりながら臨めます。

さらに、「笠沙の御前」(かささのみさき)というのは、現在の「糸島半島」のことで、当時は半島の付け根両脇が糸島水道(入江、港)になっていたので、高祖山(くしふる山)から見ると、ちょうどキノコの“かさ”のように見えることから、“笠沙のみさき”と呼んだようです。

大陸方面(韓国)と糸島半島(笠沙の岬)の延長線上の南に高祖山(くしふる山)がありますので(下図ご参照)、「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前に真来通りて…」という表現はピッタリです。

また、高祖山連峰の東西は平野部なので、「朝日の直さす国、夕日の日照る国」というのも納得です。

補足しておきますと、高祖山連峰の南端に「日向峠」の地名が今も残ります。

さらには、旧「伊都国」(糸島市、高祖山をふくめ西方面)には、天孫降臨した「瓊瓊杵尊」を祀る神社が10社ほどもあり、その子「彦火火出見命」(ひこほほでみの みこと=山幸彦)を祀る神社も6社ほど、さらに孫の「鵜茸草茸不合命」(うがやふきあえずの みこと)を祀る神社も同数ほどあるなど、10km圏内に密集しています。

高祖神社もまた山幸彦こと「彦火火出見命」(妻は豊玉姫)を主祭神に、玉依姫と息長足姫命(神功皇后)の三柱をお祀りしています。

ちなみに、「鵜茸草茸不合命」というのは、初代「神武天皇」の父親です。

神武天皇の実在はともかく、そのモデルとなった人物や出来事があったのは事実で、三種の神器「八咫鏡」(やたの かがみ)と同類ではないかとされる日本最大、直径46.5cmの「内行花文鏡」(ないこう かもん きょう)が発掘された「平原古墳」は、高祖山(くしふる山)の眼下、西の平野部で発見されました。

地図に「高祖山」は掲載されていますが、現在、「くしふる山」の名称は、地元の伝承に残るのみです。


●高祖山連峰


いちばん高い峰が「高祖山」(たかすやま)です。
その右側が「くしふる山」(クシフル岳)と呼ばれていました。


●高祖山と糸島半島の位置関係(古図)


標高416mの高祖山(くしふる山)から見ると、糸島半島は古代、付け根に入り江(湾)が両脇にあったために、高祖山(くしふる山)からだと「笠」のように見えます。
その先に“韓国”(からくに=大陸と半島)が位置しますので、「この地は韓国に向かい、笠沙の岬に真来(真っ直ぐ)とおりて」という表現はぴったりときます。





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