天皇と「日本の天運」その7
2021.04.07
 
● 約1,000年続いた天智系皇統と異なる「明治天皇」


天皇と「日本の天運」の最終回です。

「日本の天運」を半減させたまま、約1,000年続いたのが天智系皇統でした。

これを補い、日本を守ってきたのが“草薙剣”由来の源頼朝にはじまる「武家政権」です。

その武家政権も、最後の将軍 徳川慶喜が「大政奉還」を行なったことで、“天皇の大権”が明治に復活していきます。

このことは「明治天皇」が天智系から決別したことによって、半減していた「日本の天運」が天武天皇による“原点”へと戻っていきました。

どういうことでしょうか。


「宝瓶宮時代」(ほうへいきゅう じだい)が正式にはじまる約120年ほど前のことです。

ちなみに、占星学でいう宇宙的な時代区分の一つ、「宝瓶宮時代」が正式にはじまったことが、なぜわかるのかというと、約25,920年(計算値)の周期をもつ“春分点歳差”と、当時の特異な“星の配置”、さらには世界の各分野で人知れずに起きたパラダイム転換の出来事からリーディングできます。

今年2021年から32年前、平成元年(1989年)のことでした。

この年の1月7日に昭和天皇が崩御されています。

つまり、日本では「宝瓶宮時代」の正式なはじまりとともに「平成元年」を迎えたのです。


なぜ、このような一致の現象が起きたのか。

約2,000年ほど前の「双魚宮時代」(そうぎょきゅう じだい)の初期に、日本では「魚宮」の“民族性”のもと、「水瓶宮」で象わすことができる“国体”が定まっていきました。

これが「日本の天運」の“萌芽”となっていきます。

簡単にいえば、人類歴史の流れと軌をいつにする、“民族性”「魚宮」と“国体”「水瓶宮」の“古代国づくり”がおこなわれたことに由来します。

たとえば、“君臨すれども統治しない”「天皇」のように、支配しない「大国主大神」(≒饒速日命:にぎはやひ の みこと)による“古代国づくり”などによってです。

ちなみに、“大国主”(おおくにぬし)というのは、固有名詞ではなく、“国づくり”を行なうなどして、最初に国の主(ぬし)となった人物を意味します。

なので、全国各地の国邑(こくゆう)ごとに、“大国主命”また“大国魂命”(おおくにたま の みこと)がいてもいいのです。

その大もととなった人物が「大国主大神」です。

具体的には、遠賀川河口域に発祥した日本の「稲作」を、自分たちだけのものとはせず、「病気治療の方法」や「鳥獣や昆虫の災いを除くまじないの法」とともに、全国に広めた「大国主大神」(『日本書紀』「神代」では“大已貴神”:おおあなむちのかみ、「神武天皇紀」では“饒速日命”にあたります)による“古代国づくり”でした。

このことが、一部に例外はありますが、卑弥呼のように“祭祀王”の共立による“合議的共同体運営”といった「水瓶宮」で象わすことができる“国体”の形成につながっていきます。

左翼の言葉を借りていえば“天皇制”です。

ですが、そこに共産主義でいう“支配”や“搾取”の概念は含まれません。

“臣民一体”であり、「和」や「絆」や「民度」による国家運営を意味します。

そういうことがありまして、人類歴史における「双魚宮時代」→「宝瓶宮時代」への移行は、古来よりの「日本の天運」(命脈)と共鳴したのです。

それゆえ、「宝瓶宮時代」の正式なはじまりとともに、天皇の代替わりによる「平成」の御世に移行する出来事が起こりました。


それはともかく、今から150年ほど前の「明治天皇」は、1,000年近く続いた天智系皇統から、なぜ離れたといえるのでしょうか。

また、「明治天皇」によって「日本の天運」が、なぜもとに戻ったといえるのでしょうか。

これまでの当シリーズのなかに“根拠”は書いておきました。

繰り返しになりますが、「日本の天運」の“萌芽”は、縄文晩期から弥生初期にかけて、“古代国づくり”をおこなった「大国主大神」(≒饒速日命)にあります。

さらには、7世紀に『古事記』と『日本書紀』の編纂を命じた「天武天皇」によって、「日本の天運」は確立していきました。

このような“日本の原点”を、忌避してきたのが「天智系皇統」です。


第38代「天智天皇」から10代後の第49代「光仁天皇」(天武天皇の孫)にはじまり、幕末の第121代「孝明天皇」まで、約1,000年近く天智系皇統は続きます。

天智系に皇統が変わることよって、「日本の天運」は半減し、“命脈”を保つことに黄信号がともりました。

それを補い、諸外国による数々の侵略から守ったのが、「草薙剣」を祀る熱田神宮の大宮司家の娘 由良御前を母にもつ「源頼朝」にはじまる武家政権でした。

もし、「武家政権」がこの時期にできていなければ、日本は侵略されて滅びていたか、植民地にされていたかもしれません。

そのように「日本の天運」を補ってきた武家政権も、約700年続いたのち、「大政奉還」(明治維新)によって終わっていきます。

そのとき、ご即位されたのが「明治天皇」です。

後述しますが、「明治天皇」が天智系と訣別し、“古代海人族”や「天武天皇」につうじる“日本の原点”に立ち返ったことで、「日本の天運」は復活していきます。


そのことを列記する前に、かんたんな事例を挙げておきます。


かつて「中大兄」(天智天皇)は、“民族性”「魚宮」と“国体”「水瓶宮」の日本らしくなく、半島に出兵し、「白村江の戦い」を起こしました。

結果は、ご存じのように壊滅的な犠牲と歴史的大敗北を喫しました。

一方、「明治天皇」は、“日本の原点”に立ち返ったことで、大国を相手にした「日清戦争」と「日露戦争」ともに勝利されます。

中大兄(天智天皇)に「日本の天運」がともなわなかった理由は、当シリーズの中でお伝えしたとおりです。

しかし、「明治天皇」は逆でした。

天武天皇が、7世紀に「近代律令国家 大和」を築いていったのと同様に、明治天皇の御世は、アジア諸国に先駆けて“富国強兵”や“殖産興業”など「文明開化」を推し進めて、「近代国家 日本」の建設を成し遂げます。

それは、当時、世界を支配していた白人国家も一目おくものでした。


さて、最終的なご判断は皆さま各位に委ねますが、「明治天皇」が「日本の天運」を半減させた天智系皇統とどう訣別し、どのように“日本の原点”に立ち返って「日本の天運」を引き継いでいったのか、以下、そのいくつかをご紹介いたします。



1、「天皇」号の復活

はじめて「天皇」号をもちいたのは、第40代「天武天皇」でした。

その天武系の皇統が、藤原氏の策謀によって第48代「称徳天皇」で終わり、天智天皇の孫の第49代「光仁天皇」から天智系皇統が続いていくことになります。

天武天皇、持統天皇、文武天皇の3代(+不比等)の「基本三数」3(4)数によって確立した「万世一系」は、天智系(実状は藤原氏の傀儡)にうばわれます。

さらには、光仁天皇から3代のちの第52代「嵯峨天皇」からは、仏教式に「院」号がもちいられることになります。

「○○天皇」ではなく、「○○院」と称されるようになったのが、天智系皇統(院統)です。


そして、ときは幕末。

光仁天皇から70代のちの第119代「光格天皇」(傍系)は、この「院」号を廃止して、本来の「天皇」号に戻しました。

さらには、途絶えていた「新嘗祭」を復活させています。

その3代のちが、第122代「明治天皇」です。

明治天皇からは、かつての「神道祭祀」と「宮中行事」が本格的に復活していきます。

私たちは、天皇が「神道」にもとづいて継承されてきたと思っていますが、天智系皇統の御世は、神道よりも「仏教」が優先され、神仏習合はもちろん、天皇の「即位式」でさえも、主な宮中行事はことごとく仏教式で行われてきました。

そんな皇統(院統)に「日本の天運」などともなうはずがありません。

それが元の「神道」に戻ったのは、150年ほど前の「明治天皇」からです。



2、天智系が遷都した「平安京」

明治天皇になって“平安京”(京都)から、「東京」へと遷都がおこなわれます。

天智系に皇統が替わった第49代「光仁天皇」は、現在でも最高齢記録となる61歳でご即位され、“酔いどれ”でした。

藤原氏が利用するために御輿にかついだだけの天皇です。

次の第50代「桓武天皇」のとき、それまでの「平城京」(奈良)から“都”を長岡京(784年)さらには「平安京」(京都)へとうつします。

794年のことです。

ここから「明治維新」(1686)まで、京都を御所とする天智系の皇統(院統)が続きます。

つまり「京都」は、天智系の“都”なのです。

その“都”を、明治天皇は捨てて、「東京」に遷都しました。

たてまえとしては、京都も、東京も、両方を都とする“奠都”(てんと)とされましたが、結果的に江戸城跡を「皇居」とし、首都機能も移転して「遷都」がおこなわれたわけです。


ここに天智系の“都”は、「明治天皇」によって約900年の歴史に幕を下ろしました。



3、「崇徳院」の解怨と帰還

日本の三大怨霊の代表格は、“讃岐院” 改め「崇徳院」です。

要は、第75代「崇徳天皇」のことです。

なぜ、“讃岐院”とよばれたのかというと、都から讃岐に配流(はいる)になったからです。

しかし、“讃岐院”は、激しい怨みをいだいたまま崩御され、都に「祟り」が起きたために、おそれて「崇徳院」と呼ぶようになりました。

配流になった崇徳天皇(讃岐院)は、自分の舌を噛み切り、その血で義理の父であり兄の「後白河院」へ、「日本国の大魔縁となり、皇をとって民とし、民を皇となさん」と呪詛を書き記して、壮絶な崩御をされたといいます。

その真偽はともかく、ほどなくして“平民”だった平家が天皇をしのいで隆盛を極め、さらには平家を滅ぼした源頼朝が、「鎌倉幕府」を開幕します。

崇徳天皇(讃岐院)の呪いどおりに、平民だった武士が天皇にとってかわり、天下を治めるようになったのです。

そういった厄災が100年毎につづき、崇徳天皇の“祟り”と恐れられるようになっていったという事実があります。


ちなみに、「崇徳」という諡号(しごう)ゆえに、“崇高”で“徳”の高い素晴らしい天皇と解釈すると間違います。

事実は異なります。

“崇高”で“徳”があるといった「言霊」で呼ぶことによって、怨霊として祟らないように鎮めようとしているのです。

このような諡号の例は、案外と多くあります。


たとえば、第10代「崇神天皇」もそうです。

“古代国づくり”を最初におこないながらも、“国ゆずり”をせざるをえなかった実質の“初代天皇”です。

「祟(たた)り」を鎮めるために、よく似た字面の「崇(あが)める」という字をもちいて、鎮魂をはかり、“崇神天皇”という「漢風諡号」(しごう)を定めたものです。

具体的には、「大国主大神」(『日本書紀』では「大已貴命」また「饒速日命」)をさします。

いずれも、“国ゆずり”をしたことが『日本書紀』に記される人物です。

ほかにも、第16代「仁徳天皇」や殺害された第32代「崇峻天皇」がいます。


ですが、いちばん有名なのは「聖徳太子」でしょう。

「聖徳太子」と呼ぶから、“聖”なる“徳”があったと考えるのは早計です。

事実は、法隆寺の法要「聖霊会」(しょうりょうえ)での「蘇莫者」(そまくしゃ)にかかわります。

7世紀初頭に日本(倭国)の独立と近代化をすすめながらも、孫(入鹿)を中大兄と中臣鎌子に暗殺され、自らの功績は“厩戸皇子”(うまやど の みこ)のものとして『日本書紀』に記された人物で、「蘇我馬子」(蘇我本宗家)を意味します。

その怨霊を鎮め、祟らないように、当時の人々は、才能もなかった厩戸皇子ではなく、蘇我氏を意味して「聖徳太子」と呼んだのです。

なので、“聖徳太子”そのものは実在しません。


お話をもとに戻します。

明治天皇は、孝明天皇が崩御された半月後に皇位を受け継ぐ「践祚」(せんそ)をされました。

しかし、践祚はなされていたものの、2年近く即位はなさらず、「崇徳院」が崩御された讃岐に勅使を派遣しています。

崇徳院の命日にあたる8月26日に「宣命」(せんみょう)が読み上げられ、謝罪を行なったうえで、日本国へのご加護と、御霊の京都へのご帰還を願っています。

崇徳天皇をお祀りする「白峯神宮」を京都に創建したうえでのことです。

その翌日、1868年8月27日に「明治天皇」は東京で「ご即位」されます。

徹底して「崇徳院」を嫌い、讃岐に配流(はいる)にしたのちも、見向きもせず、崇徳院の願いを退け続け、仏教にのめりこんだ第77代「後白河院」の後始末をするかたちでの、「明治天皇」のご即位でした。

天智系皇統の不始末に“ケジメ”をつけたうえで、京都を離れ、東京でご即位をされたのです。



4、「伊勢神宮」へのご親拝

さて、メインです。

私たち日本人は、今でこそ皇祖神を「天照大御神」とし、「伊勢神宮」を崇敬しています。

ところが、天智系天皇は、誰一人として「伊勢」に行幸されていません。

むしろ、伊勢も、天照大御神をも、忌避してきたのが「天智系皇統」です。


なぜでしょうか。

少し伊勢のいわれを書いておきます。

「壬申の乱」にさいして、「大海人皇子」(天武天皇)は、隠棲先の吉野から本陣をおく不破の関に向かう途中、「伊勢」を遥拝されています。

なぜ、わざわざ「伊勢」を遥拝されたのでしょうか。

これは重要なので、後述いたします。

当時は、小さな祠(ほこら)だった伊勢を、「壬申の乱」の戦勝もあって天武天皇は、大きくして末永く祀ろうとされます。

その遺志を受け継いだ正妃の「持統天皇」は、今日のように「伊勢神宮」を大きく立派に建て直されます。

さらには、永く続くように20年ごとの「式年遷宮」を定めています。

そういうことがありまして、天智天皇の皇女でもある「持統天皇」は、何度か伊勢に行幸をされています。

ところが、まわりの人々は、持統の伊勢行幸に反対しているのです。

理由は、天智系皇統(藤原氏)が仏教を優先するようになったこともありますが、伊勢に祀られる「天照大御神」は、天武天皇とは関係があっても、天智系の祖「天智天皇」とは関係がなく、むしろ敵対視さえされていたからです。


ちなみに、そんな天智系皇統に対して、“民族性”「魚宮」の一般庶民はやはり違いました。

上述の崇徳天皇や平家の時代に、元武士(佐藤義清)だった西行法師は、行脚で伊勢を訪れ、有名な次の歌を詠んでいます。


 「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」


また、江戸時代には、伊勢神宮へ集団参詣する「お蔭参り」(おかげまいり)が次第にさかんになっていきます。

当時は、貴賤や貧富の別なく「一生に一度は伊勢参り」といわれるほどでした。

そういった庶民の気運にもかかわらず、天智系天皇は、伊勢を無視し続けました。

そして、約1,000年ぶりにそれを破り、伊勢神宮をご親拝されたのが「明治天皇」でした。


さて、大海人皇子(天武天皇)は、なぜ当時は小さな祠(ほこら)でしかなかった伊勢を知っていたのでしょうか。

また、「壬申の乱」にさいして、なぜ遥拝をされたのでしょうか。

答えは次のとおりです。

天武天皇は「大海人皇子」と呼ばれたように、出自は“海人族”(あまぞく)にかかわります。

九州に端を発した“古代海人族”は、出雲、丹後(元伊勢)、尾張へと拠点を広げます。

その尾張“海人族”が、荒波の太平洋へ出るさい、航海の安全を願って自分たちの先祖神を祀った「伊勢」を遥拝していたことが第一点です。

たとえば、古くからの漁港や港の入口付近には、今でも漁業や航海の安全を願う地元の神社が多くみられます。

尾張で養育された「大海人皇子」は、それゆえ伊勢の存在をご存じでした。


また、尾張“海人族”の海部氏は、天の橋立を参道とすることでも知られる元伊勢こと「籠神社」(このじんじゃ)に残る国宝「海部氏系図」に、その始祖が記されています。

「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひの みこと」こと「始祖 彦天火明命」です。

歴史上の秘密は、『日本書紀』「神武天皇紀」によると、「神武東征」以前に大和を治めていたのは、同じ天孫族で、最初に“国づくり”をおこなった「饒速日命」(物部氏の祖)でした。

つまり、男性神「天照大御神」です。

“海人族”の祖の一人で、元来からのご祭神です。

なぜ、このことが隠されたのかというと、藤原不比等が『日本書紀』の編纂に関与したからです。

記述の中にヒントを残しつつも、二重三重に交錯させることで、どの族統なのか、また男性か女性かもわかりにくくしてしまいました。

不比等は、「持統天皇」(和風諡号:高天原広野姫天皇 たかあまのはら ひろのひめの すめらみこと)を「天照大神」になぞらえさせるため、“女性神”とも読めるようにしたのです。

事実は、平安時代に伊勢神宮に奉納された「天照大神」の装束一式は、ほとんどが男性用の衣装と記されています。

さらに、祇園祭の岩戸山の御神体「天照大神」も、男性の姿で描かれています。

なぜ、女性神と読めるように記したのかというと、実在の「天照大御神」(男性神)を消し去るのと同時に、持統天皇から「孫」の文武天皇への譲位に神話的な裏付けをもたせて正当化をはかるためです。

神代(かみよ)において、高天原の皇祖「高皇産霊尊」(たかみむすひの みこと)と「天照大神」は、葦原中国(あしはらの なかつくに)の君主として、「孫」の「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)を天孫降臨させました。

つまり、持統天皇を「天照大神」にみたてて、孫の「文武天皇」への譲位の裏付けとしたのです。

もっとも、それもあって「万世一系」は定着していくことになります。


「壬申の乱」にさいして、大海人皇子が伊勢を遥拝した理由は、“国ゆずり”をして追われた身なので、当時は小さな祠ながら伊勢に祀られる「天照大御神」(饒速日命)が、かつては“大和”を治めていたからです。

それゆえ、天智天皇の皇子「大友皇子」と“大和”の覇権をかけて「壬申の乱」を戦わざるをえない事態になったとき、かつて大和を治めていた“先祖神”「天照大御神」(饒速日命≒大国主大神)の霊威にあずかるべく遥拝されたのです。


伊勢神宮に祀られる「天照大御神」が、“海人族”にかかわることは、三種の神器「八咫鏡」(やたのかがみ)が、「舟形」の容器に入れられて安置されているといわれていることからも、ご理解できるのではないでしょうか。

逆にいえば、それまで一度も伊勢に行幸されなかった天智系の天皇に対して、はじめて伊勢をご親拝された「明治天皇」は、実際か霊統かはともかく、“古代海人族”にかかわっている可能性さえでてきます。

付記しておきますと、“反天皇”の左翼系ジャーナリストや、“反日”の半島系作家などが、「悪意」をもって作話師まがいに語る「明治天皇」の出自に関する“ウソ”は別として、奈辺には相応に複雑なご事情があるようです。



5、皇祖神「天照大御神」

もうひとつ書いておきます。

明治になって「国家神道」が立ち上がります。

そのさいに、神殿の「ご祭神」をどうするかという論争が神道界で起きました。

1880年~1881年のことです。

『古事記』に記される「天之御中主神」と「高御産巣日神」と「神産巣日神」の造化三神に加えて、「天照大御神」の四柱を祀るのか、それとも出雲派が推す「大国主大神」を加えて五柱を祀るかということです。

論争は紛糾し、結論はでませんでした。

そこで「明治天皇」の勅裁を仰ぐことが提案されます。

結果、「天照大御神」のみを皇祖神とし、ほかは「歴代天皇」と「天神地祇」をご祭神とすることが決まりました。

ここでも「明治天皇」は、天智系が徹底的に無視した「天照大御神」を選ばれています。

それゆえ、今では皇祖神は「天照大御神」となっています。

ちなみに、『日本書紀』の「神代」(下)で記される皇祖は「高御産霊尊」(たかみむすひの みこと)です。

それはともかく、実際の歴史である「日本の天運」の“原点”からみて、最初に平和的な“古代国づくり”を行なった男性神「天照大御神」を皇祖とするのは、間違っていません。

実際は岩倉具視(いわくら ともみ)が、上述に関与した可能性が考えられなくもありません。

ですが、「明治天皇」によって来るべき「宝瓶宮時代」にむけた「日本の天運」が復活していくことになったことは、事実であり変わりません。



6、追記:国歌「君が代」

書き忘れたので追記しておきます。

明治になって先進諸国にならい、「国歌」が定められました。

ご存じ「君が代」です。

だれもが知るその歌詞は、『古今和歌集』に“読み人知らず”として採録されていたものですが、ほとんど同じ元歌があります。

それは博多湾東端の志賀島(しかのしま)にある「志賀海神社」(しかうみ じんじゃ) でおこなわれる“山ほめ祭”で詠じられる神楽歌です。


 「君が代(だい)は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりて こけのむすまで…」


この歌が旅芸人によってひろまり、『古今和歌集』への採録になったといわれています。

「志賀海神社」というのは、『日本書紀』でも活躍する「綿津見三神」(わたつみ さんしん)を祀る“古代海人族”の神社ます。

当初は、“古代海人族”の「安曇族」(あずみぞく)が拠点としたのが、1世紀のものとされる「金印」(漢委奴国王)が発見されたこの志賀島で、志賀海神社は、全国の“綿津見神社”また“海神社”の総本社になっています。

伊勢に祀られる皇祖神「天照大御神」が、“古代海人族”にかかわる祖神で、明治天皇以来の日本の国歌も知ってか知らずか、“古代海人族”の神楽歌を元歌として作曲されていることは、単なる偶然ではなさそうです。


「双魚宮時代」の“古代国づくり”による“民族性”「魚宮」と、“国体”「水瓶宮」にもとづく「日本の天運」のはじまりと、太古日本列島の成り立ちが、“古代海人族”にかかわってもたらされているために、ある意味、当然のことなのかもしれません。
















                               天皇と「日本の天運」:完
天皇と「日本の天運」その6
2021.03.31
 
● 日本国が守られてきた「日本の天運」の変遷


天皇と「日本の天運」のメインとなる“天運の変遷”をお届けいたします。

おおむね、次のようになります。


1、萌芽期

「日本の天運」の「萌芽期」は、双魚宮時代のはじまりと期を一(いつ)にします。

紀元前の縄文時代末期から弥生時代にかけて行なわれた「大国主大神」(また饒速日命)による“古代国づくり”がそれです。

占星学からみれば、この時期に「魚宮」で象わされる日本の“民族性”が形成され、また「水瓶宮」で象わされる日本の“国体”が形成されました。

前者は、世界でも珍しい日本列島の豊かな“大自然”に由来します。

後者は、「大国主大神」(または饒速日命)による「遠賀川式土器」(おんががわしきどき)とともに全国に普及した「稲作」による“支配”しない“古代国づくり”をベースにします。

「稲作」を自分たちだけのものにとどめず、全国に普及させ、彼らは“おんがさま”と呼ばれることになります。

のちには「大神さま」という漢字が当てられますが、“古代国づくり”を行なった「大国主大神」は、『日本書紀』では「大已貴神」(おおあなむちのかみ)として記されています。


さらに、「水瓶宮」で象わされる日本の“国体”は、「魚宮」で象わされる“民族性”にもかかわって、共立的統治形態「ヒメヒコ制」に由来します。

「ヒメヒコ制」が歴史書に明記された一例は、“倭国大乱”を収めた倭の女王「ひみこ」の共立が挙げられます。

鬼道につかえる「ひみこ」を権力をもたない“祭祀王”に「共立」(推戴)することによって、各国の覇権争いを避け、宝瓶宮時代につうじる“合議的連合体の運営”(共和制)が導入されます。

この体制は、一部に例外はありますが、“君臨しても統治しない”水瓶宮で象わされる「天皇」を推戴した「大和」(大倭)の“プロトタイプ”(原型)ともなっていきます。



2、確立期

結局のところ、「日本の天運」は、人類歴史の流れにそった「魚宮」の“民族性”と「水瓶宮」の“国体”によってもたらされています。

このような天運が確立したのは、第40代「天武天皇」の御世です。

占星学からみても、日本の“民族性”を象わす魚宮の共鳴星「海王星」と、同じく“国体”を象わす水瓶宮の共鳴星「天王星」が、“生活”や“定着”をあらわす現実サイン(宮)で、天武天皇の御世の後半から崩御まで足かけ8年近くもスムーズに関係性を結ぶ「三分」(トライン=120度)をとりつづけました。

直前の7世紀初頭に、邪馬台国の流れをくむ九州倭国の「阿毎多利思比孤」(あめの たりしひこ)大王( おおきみ)が、シナの冊封下から離れるかたちで、本州畿内国(日本)と合併し統一大和(大倭)となり、「日出処の天子」として隋(シナ)の煬帝(ようだい)に対して“日没処の天子”と呼び、「ご機嫌いかが」と事実上の“独立宣言”をしています。

その後、天武天皇が、7世紀終盤に“統一独立国家”「大和」を構築するわけです。

なぜなら、ご即位直前の中大兄(天智天皇)の時代に、実質の大王家だった蘇我本宗家を滅ぼした「乙巳の変」(645年)、また半島へ出兵した「白村江の戦い」(663年)での大敗北、そして古代最大の内戦「壬申の乱」(672年)が起きたからです。

このような国内外の危機にさいして、天武天皇は「1,000年ののちまでも皇位争いを起こさない」と平和を誓い、早急に国家をまとめて建て直し、近代日本(律令国家)を築く決意をもたれます。

これによって、天武の正妃、第41代「持統天皇」から、二人の孫の第42代「文武天皇」への譲位(697年)が行なわれ、“万世一系”と「日本の天運」が確立していきます。


その理論的バックボーンとなったのが、天武が編纂を命じた『古事記』であり、また『日本書紀』(720年)でした。

重要なのは、天武が自らの正統性を示すために編纂を命じた『古事記』が、なぜ推古天皇で終わっているのかということです。

そのお答えは、推古女帝の御世に、本州畿内国と合併したことで「九州倭国」の歴史がに幕を閉じたからです。

つまり、本来『古事記』に記されていたのは、天武の(先祖の)出自となる“九州海人族”(あまぞく)また“九州倭国”にかかわる歴史でした。

『古事記』に大国主命の“出雲神話”が記されるのも、出雲の降りた素戔嗚尊(すさのお の みこと)が「高天原」を出自とし“九州海人族”にかかわるからです。

実際、『古事記』には、「汝命は海原を知らせ」(治めよ)と命じられたことが記されています。

また、“大国主大神”にかかわり、遠賀川河口域(九州北部)に発祥した「稲作」を全国に伝えた“おんがさま”こと「饒速日命」(にぎはやひ の みこと:物部氏の祖、男性神「天照大御神」)による“古代国づくり”を記すことで、大和を治める自らの立場の正統性を記そうとされたからです。

それまでの天智ら“大王”(おおきみ)とは異なるために、天武は初めて「天皇」号をもちいます。

もっとも、『古事記』後に上奏された『日本書紀』は、太古からの“統一独立国家”をコンセプトとして「大和一国史」として記しました。

そのために九州倭国の歴史をはじめ、出雲国も阿波国もや全国各地の国邑の歴史も、全部“大和”に組み込まれて消されたことを知っておかなければなりません。


お話はもどりますが、前述の3つの争い「乙巳の変」「白村江の戦い」「壬申の乱」は、すべて中大兄(天智天皇)がかかわっています。

「乙巳の変」は、実質の大王家だった蘇我入鹿(そが の いるか)を、『日本書紀』に記される“大極殿”などではなく、蘇我入鹿の首塚あたりで中大兄と中臣鎌子が不意打ちにしたものです。

また、蘇我本宗家を滅ぼし、蘇我氏が所有していた九州倭国の「歴史書」を、蘇我氏が自ら火をつけたことにして抹殺しています。

入鹿暗殺の動機は、「九州倭国」と「本州畿内国」の主導権争いです。

しかし、このような“事実”は、『日本書紀』に記されることはありません。

なぜなら、当初からの“大和一国史”として記されたこともありますが、中大兄がのちに「天皇」にご即位されたからです。

くわえて、「藤原」の姓をたまわった中臣鎌子(藤原鎌足)の子、藤原不比等が『日本書紀』の編纂に多大な影響力をもったためです。

ちなみに、ご参考までに書いておきますと、『日本書紀』編纂の総裁をつとめた「舎人親王」(とねり しんのう)は、天武の皇子ですが、なぜ「舎人」(使用人)と記されるのかといえば、不比等のほうが知恵も働き、実質的に権限をもっていて、なかば“パシリ”だったからです。


そういう事情がありまして、『日本書紀』は蘇我本宗家を“悪者”として描きました。

事実は、蘇我氏こそ7世紀初頭に日本の独立をもたらし、大和の近代化をすすめようとした先覚者です。

その実績によって、合併後、統一大和の実質の“3代大王”(蘇我馬子→蝦夷→入鹿)に就いていたわけです。

しかし、そうとは書けない『日本書紀』は、蘇我氏を推古女帝の「大臣」(おおおみ:首相)として描き、同時に蘇我氏の偉大な功績は、“架空”の「聖徳太子」こと実在の可能性が残る厩戸皇子(うまやど の みこ)の業績として記しました。


いずれにしても、蘇我氏を滅ぼし、調子づいた中大兄は、半島に大挙出兵の命令を九州海人族らに出し、結果「白村江の戦い」で壊滅的大敗北を喫します。

それゆえ、多大な犠牲者をだした当時の日本は、唐羅連合(唐と新羅)にいつ攻め込まれてもおかしくない国家存亡の危機に陥っていたのです。

幸いなことに「日本の天運」ゆえか、白村江の戦いに勝った唐羅連合は、ほどなくして仲間割れを起こしています。

日本に攻め込む余裕がなくなり、唐は日本に使節団を送って逆に新羅をけん制する作戦にでました。


アウトラインでご紹介いたしましたが、中大兄に「日本の天運」がともなわず、なぜ日本を危地に陥れることになったのかはあきらかです。

占星学からいえば、「日本の天運」のもとにとなった“民族性”「魚宮」も“国体”「水瓶宮」も、“他国に攻め込む”といった象意はもちません。

「天運」に反すれば、当然、天運はともなわないからです。

さらには、中大兄は正統な“皇子”ではなく、「日本の天運」を引き継ぐ立場にありませんでした。

事実、巷間言われる“中大兄皇子”という表記は、『日本書紀』にはいっさいありません。

「中大兄」と書き捨てです。

なぜなら、中大兄の出自にかかわる「高向王」(たかむくおう=おおきみではない)や「漢皇子」(あやのみこ)というネーミングで、『日本書紀』自らが示唆しています。

言葉には“魂”が宿るとされていた当時、中大兄の“出自”にかかわる人物を「高向王」や「漢皇子」と記したのは、“高”や“漢”が高句麗など半島系や大陸系を意味し、帰化一族を示唆するからです。

ちなみに、「漢皇子」と“皇子”の号で『日本書紀』に表記されるのは、高向王が大王(天皇)だったからではなく、母の宝皇女(たからのひめみこ)こと斉明天皇がのちにご即位されたために、さかのぼって“皇子”と表記したもので本来は“漢王”です。

ただ、それだとシナの「漢」の王と間違えますしね。

結局、中大兄は、その強すぎる“権力欲”からみても、「魚宮」の“民族性”をもち「水瓶宮」の“国体”をもって「和」を尊んだ天武天皇や原住日本人らしくなく、半分しか「日本の天運」を受けていないことがわかります。



3、減退期

さて、「天武天皇」の皇統は、藤原氏の策謀もあって、第48代「称徳天皇」で終わります。

古来の物部系の「道鏡」への禅譲も邪魔されてかなわず、結局、天智の孫の第49代「光仁天皇」に皇統が移っていきます。

770年のことです。

光仁天皇は、現在でも最高記録となる61歳の高齢でご即位されました。

なぜかというと、藤原氏がそれまで皇位にあった天武系ではなく、最も操りやすい酒びたりの「白壁王」(光仁天皇)を選んだからです。

ここから「日本の天運」は減退期に入ります。

実際、天武が行なった皇親政治は終わり、平安時代(794年~1185年)に藤原道長が“望月の世”を歌ったように、ひとり藤原家のみが栄華を極め、庶民はもちろん天皇でさえも置き去りにされて、藤原摂関家による政治が行なわれていくことになるためです。


さらに、日本に「天運」をもたらした“古代神道”ではなく、天智天皇にはじまる天智系の皇統は、藤原氏によっては「泉涌寺」(せんにゅうじ:仏寺)に祀られ菩提寺となります。

そればかりか、天皇家の主な宮中行事も、仏教式に変わっていきます。

天皇の即位式も、密教儀式の「即位灌頂」(そくいかんじょう)が取り入れられ、天武天皇が定めた「天皇」という号ではなく、仏教式に「○○院」と院号で称されるようになります。

藤原氏が、実質の政権を握った奈良時代後期~平安時代また武家の鎌倉時代中頃にかけてそのように変わっていったのです。

つまり、もはや“天皇”ではなくなったのが天智系の皇統です。


そこに「日本の天運」などともなうはずもなく、半減した時代が続きました。

長く続いた院号が、もとの天皇号に戻るのは、幕末の「光格天皇」によってです。

その後、明治の「御一新」によって、現在のように古来の神道に全面的に戻っていきます。

この一時からみても、当時の「日本の天運」の“減退”は明らかでした。

インドで発祥し、日本で新たな「大乗仏教」に変わったとはいえ、日本の「天運」は仏教にあるのではなく、大自然を崇敬した縄文時代の太古神道に源泉があるからです。

大自然を敬う祭祀から天皇が離れていくと、「日本の天運」は半減していきます。

光格天皇は、明治天皇の3代前にあたり、嫡系ではなく傍系天皇ですが、途絶えていた「新嘗祭」をはじめ朝廷儀式の復旧に努めるなど、天運復活のさきがけともなっています。



4、武家政権による「日本の天運」

そんな“天運の減退”を補ったのが、源頼朝(みなもと の よりとも)にはじまる武家政権でした。

なぜなら、源頼朝の母「由良御前」(ゆらごぜん)は、「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)を祀る「熱田神宮」の大宮司家の娘だったからです。

「八咫鏡」(やたのかがみ)と同様に、古代日本の“国づくり”に関わるもう一つの神器「草薙剣」の霊威が、天智系皇統に代わって、「日本の天運」を補っていくことになります。

ちなみに、もともとの“神器”は「八咫鏡」と「草薙剣」の二種です。

「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)が加わり“三種の神器”となるのは、持統天皇から孫の文武天皇への皇位継承からで、“万世一系”が確立してからです。

先入観なく『日本書紀』を読めば、歴代天皇紀からそのことがわかります。

持統天皇までは「八咫鏡」と「草薙剣」、加えて天皇印こと「御璽」による皇位継承が記されています。


お話を戻して、幕府を開くには、名目上とはいえ天皇から「征夷大将軍」の勅許(ちょっきょ)をえることで可能になります。

鎌倉幕府を開いた源頼朝も、以後、「将軍」(征夷大将軍)として天下を治めていくことになります。

これは最後の将軍「徳川慶喜」が、天皇への「大政奉還」(1867年)を行ない征夷大将軍を返上するまで続きます。


では、なぜ双魚宮時代と宝瓶宮時代に「天運」をもつ日本は、武家政権に変わったのでしょうか。

その後の国際情勢をみればわかります。

もし、のちの世までも天皇をないがしろにした藤原氏の公家政権が続いていたら、日本は外国に侵略され滅びた可能性があるからです。

のちの世の度重なる外国からの侵略を、武家政権ゆえに防ぐことができました。

だれもが知るところを挙げれば代表的には次の3つです。

1、
鎌倉時代の中期に2度にわたる「元寇」(1274年、1281年)です。

2、
次に、安土桃山時代のキリスト教の宣教に名を借りた「日本侵略」の意図もそうです。

しかし、嵐にあって種子島に漂着したポルトガル人から伝わった鉄砲(1543年)を、優れた刀鍛冶の技術によって、あっというまに量産し、当時、最強の軍事国家になったのが戦国時代の日本です。

それゆえ、武力侵略はむずかしいと判断したことが、宣教師の記録に残されています。

そのため彼らは、キリスト教への改宗“洗脳”によって侵略をすすめる作戦に変えたのです。

その意図を見破ったのが、禁教令を出した天下人秀吉でした。

「バテレン追放令」(1587年)がそれです。

また、家康も、だれよりも宗教(一向一揆)の怖さを身をもって体験していたゆえに、2代将軍秀忠によって 「キリスト教禁止令」(1612年)を発布し、宗教の名を借りた侵略から日本は守られることになります。

一般の信徒は“純粋”でも、宗教は「政治」に利用されるのが人の世の常です。

3、
さらには、幕末も同様です。

欧米諸国の植民地政策から、武家政権ゆえに日本を守ることができました。

一方、アヘンによって大儲けをしつつ、相手国を衰退させ、植民地化しようとするイギリスに対して、清国は阿片戦争(1840~1842年)まで起こしますが、敗北して香港を割譲することになります。

幸い、日本は武家政権でしたし、何よりも水戸黄門こと徳川光圀(みつくに)の「大日本史」編纂に端を発する「水戸学」によって、将軍よりも天皇を“君主”と仰ぐ「尊皇思想」が幕末にかけて高まっていました。

なぜなら、光圀の誕生(1628年)直後、翌々1630年から「宝瓶宮時代」の影響圏に入ったからです。

水瓶宮を“国体”とする日本にとって、国体の象徴である天皇の「復権」のはじまりを意味します。


これにより、欧米が開国をせまった幕末には、天皇を守り外国を討つ「尊皇攘夷」の気運が高く、諸外国も容易に手出しはできない状況が生じていました。

また、「水瓶宮生まれ」(太陽)の徳川家康が開幕した江戸時代は、長く平和が続いたことで、庶民の文盲率は低く、武士は高い教養とモラルを身につけていたことも重要です。

極東の小さな“未開の島国”と思って侵略と植民地を企図した欧米は、日本の「武力」と「文化」に一目おかざるをえませんでした。

もっとも、こういうお話は、マルクス史観の日本の歴史学者や戦後の日教組による学校教育またマスコミは隠すのがふつうです。

彼らが妄信する「共産主義思想」に合わないためで、歴代政権は一方的な“支配者”でなければならず、庶民から“搾取”する悪人であり、そのように思い込んで歴史を曲げて解釈するためです。

“共産主義”華やかりしころの戦後教育やマスコミ報道によって、知らずに“洗脳”されていると、違和感を感じることがあってもおかしくありません。


いずれにしても、武家政権ができることで日本は守られます。

これは、正統の「天武天皇」(八咫鏡)や“古代国づくり”を行なった「大国主神」(草薙剣)に代表される「日本の天運」の一端です。



5、明治天皇による「日本の天運」の復活

さて、重要なことを書かなければなりません。

「大政奉還」による“御一新”によって、「日本の天運」を補ってきた源頼朝の鎌倉幕府以降の武家政権は終わります。

しかし、「明治維新」は、天智系皇統までも“御一新”したようです。

でなければ、「日本の天運」が天皇に戻ることはありません。


左系の反天皇学者や、某国系の反日ジャーナリストが、どういおうと、明治天皇以降、皇統は天武天皇の“古代海人族”による「日本の天運」へと戻ったようなのです。

その証拠は簡単です。

正統ではない中大兄(天智天皇)が、百済復興の名目で他国に戦争をしかけて歴史的大敗をしたことは、「日本の天運」をお持ちでないことを証明しています。

その後の天智系天皇の御世をみても、藤原氏に乗っ取られ、意のままに操られたこともその証左です。

また、草薙剣にかかわる源頼朝が、「武家政権」を樹立し、天智系皇統に代わって「日本の天運」を補ってきたのも事実です。

“好戦的”だった天智天皇に反して、明治大帝は天武天皇が確立した「日本の天運」を引き継ぐ天皇らしく、平和を願う大御心をおもちでした。

その御世において、大国と近代戦を戦うことになった「日清戦争」にも「日露戦争」にも勝利し、後者はとくに“奇跡的”ともいえる勝利をおさめました。

ロシアに対する日本の勝利は、ご存じのかたも多いように歴史上はじめて、有色人種が白人国家を打ち負かしたものです。

ロシアに苦しめられていた国々から喝采を浴びると同時に、世界を支配し意のままにしてきた白人に抑圧されてきたアジアやアフリカの国々の人々に希望を与えることになったのはご存じのとおりです。


この出来事は、結果的に欧米の警戒心を強め、大東亜戦争(太平洋戦争)を招きます。

しかし、日本の“大義名分”が、「アジアの解放」と「各国の独立」につながったのは事実です。

つまるところ、明治以降の一連の出来事は、お互いに対等な国家や個々人の社会を築く「宝瓶宮時代」を迎えるベースとなっていきます。


長くなりましたので、次回「最終回」にて、「明治天皇」にかかわる「日本の天運」をお届けいたします。














天皇と「日本の天運」その5
2021.03.28
 
● “神武東征”の実在のモデルと古代海人族の拠点“瀬戸内東端”


先回は、日本の「天運」の原点が実質の初代「大国主大神」の“古代国づくり”にあることをお伝えいたしました。

賛否はあると存じます。

ですが、大国主大神は物部氏の祖「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてるくにてるひこ あめのほあかり くしたまにぎはやひ の みこと)につうじ、本来の男性神「天照大御神」にあたります。

もっとも、『日本書紀』は、神武以前の“古代国づくり”を史実をもとに記しながらも、いろいろと「交錯」させたり「名前」を別名にしてわかりにくくしています。

それゆえ「天照大神」も最後は女性神として描かれました。


初代「神武天皇」は、同じ天孫族の「饒速日命」から“国”をゆずり受けます。

それは物部氏の祖であると「神武天皇紀」にも記されているのは先回のべたとおりです。

つまり、“神武東征”以前に“古代国づくり”が行なわれていました。

“古代国づくり”は「稲作」に端を発します。

どちらかといえば、個々に狩猟や採取を行なっていた縄文生活から、決まった土地を必要とし、集団による「稲作」の弥生生活によって“国づくり”がはじまったといえます。

考古学からみれば、日本の稲作発祥の地とされる北部九州の「遠賀川」(おんががわ)河口付近から大量に見つかった「遠賀川式土器」がそれです。

弥生初期(早期)に近畿中部はもちろん青森にまで遠賀川式土器が広まっていったことを考えると、北部九州に発祥した物部氏の祖「饒速日命」(≒大国主大神)が稲作を日本全国へ伝え、“古代国づくり”を行なった可能性が高くなります。

もちろん、一人とはかぎらず、子孫や弟子たちをふくめた総称です。

ちなみに、“大国主”という呼称も、最初にその国邑(こくゆう)をつくり、主(ぬし)になった人物を意味しますので、各国邑に“大国主”がいたりして一人とはかぎらず、それらの元祖といえる最初に「稲作」を伝えた人物を「大国主大神」と申し上げます。

つまり、饒速日命と称される人物が“大国主大神”であってもおかしくないのです。


さて、「神武天皇」は、“実在のモデル”をベースに、『日本書紀』が“初代”として記したもので、古代よりの「皇統の正当化」をはかったものです。

その神武に、物部氏の祖「饒速日命」が“国ゆずり”を行なって帰順したと『日本書紀』に記されている以上、国づくりは一朝一夕には行なえませんので、以前から「大国主大神」(≒饒速日命)による“古代国づくり”が行なわれていたことになります。


ということから、“二重構造”で記されている『日本書紀』のタネあかしをしておきます。

初代「神武」は名目上の“元祖”として、編纂がはじまった7世紀に考案されました。

では、実際の元祖“天皇”(大王)はだれでしょうか。

『日本書紀』に第10代「崇神天皇」(すじん てんのう)として記されています。

和風諡号(しごう)では「御間城入彦五十瓊殖天皇」(みまき いりひこ いにえ の すめらみこと)です。

つまり、『日本書紀』では神武以前に「大已貴神」(おおあなむち の かみ)として記され、少彦名命(すくなひこな の みこと)とともに“国づくり”を行なった、別名「大国主大神」になぞらえることができます。

「神代」(上)一書に、「大国主神は、大物主神とも、また国作(くにつくり)大已貴命ともいう」と記されているとおりです。

『日本書紀』は、皇統を示す“プロパガンダ”の部分以外は、案外と史実を正直に記そうとしています。

なので、第10代天皇であるにもかかわらず、「御肇国天皇」(はつくに しらす すめらみこと=初めて国を治めた天皇)と「崇神天皇」を記しています。

最初に“古代国づくり”を行ない治めていた「大国主大神」(≒饒速日命)にあたります。


では、“神武東征”の「実在のモデル」となった人物はだれでしょうか?

複数います。

ですが、「天皇」では一人しかいません。

神武と同じ九州出身です。

「筑紫の蚊田(かだ)でお生まれになった」と『日本書紀』に記されています。

蚊田は人々から「宇瀰」(うみ)と呼ばれ、現在の福岡県糟屋郡宇美町になります。

さらに四男の神武と同じ“第四子”と記されています。

初代神武による“東征”を『日本書紀』は記しましたので、「実在のモデル」となったのちの世の天皇は、東征ではなく、九州からの“大和帰還”として記されています。


『日本書紀』に詳しいかたならご存じでしょう。

神功皇后に抱かれた第15代「応神天皇」です。

もっとも、生まれた翌年(神功2年)に“大和帰還”と記されていますので、実際に先頭に立って東征したのは、住吉三神(住吉大神)の導きを受けた「武内宿禰」(たけのうちすくね)です。

天皇以外では「武内宿禰」こそが神武東征の“実在のモデル”で、「神功皇后」と赤児の「応神天皇」を旗頭に「北部九州連合」を率いて東遷しました。

武内宿禰は3世紀の伊都国王(いとこくおう)または狗奴国王(くなこくおう)で、“邪馬台国連合”こと北部九州連合「倭」の男王だった人物に重なります。

『日本書紀』を読むかぎり、そう解釈をできる書き方をしているのです。


なぜかというと、興味深いことに「神功皇后紀」には邪馬台国が記された「魏志倭人伝」に言及した箇所があります。

神功皇后39年に、「倭の女王(ひみこ)が魏に難斗米(なしめ)を遣わした」ことが記されています。

このことから、『日本書紀』は神功皇后を3世紀中頃の人物として描いたことがわかります。

なので、成人した応神天皇のご即位は、3世紀後半になります。

ちなみに、東遷の翌3年に初代“神武”の和風諡号にもある「磐余」(いわれ)で都をつくったと記されています。

この東遷と磐余でのご即位が、神武東征の“実在のモデル”と考えれば、武内宿禰をはじめとした応神の「九州倭国」の勢力が、3世紀末に畿内国(大和)に政権を打ち立てたことになります。

実際、3世紀末あたりに纒向など畿内の考古学的な様相が一変しているのです。

ここでは本旨からズレますので詳しくは述べません。


お話は、一見、とびますが、古代イスラエルのソロモン王の船団は、3年に1度海外遠征から帰国しています。

イスラエルに航海の術(すべ)はありませんので、隣国のレバノンに拠点をおき、父ダビデ王とも仲がよかった航海術に長けた交易集団「フェニキア」とともに行なったもので、栄華をきわめたソロモン王の要請によって、金銀宝石や珍品また鉄などの鉱物を求めて遠征したことが『旧約聖書』に記されています。

かの船団は、約半年間をかけて古代日本に来ています。

なぜなら、日本は屈指の「火山国」なので、狭い国土ながら当時は金銀宝石や鉱物資源に恵まれていたからです。

ソロモン王は、紀元前10世紀頃の人物ですが、砂漠をさまよった古代イスラエルの民からすれば、水がキレイで食料も豊富な日本は、『旧約聖書』にも記される“約束の地”(理想郷)にみえたことでしょう。

そんなこんなで、北イスラエル王国また南ユダ王国が滅びた紀元前8~7世紀頃に、ごく一部ですが日本に渡来し移住してきたことが考えられます。

それが瀬戸内を進んだ“神武東征”の時代設定になったといえなくもありません。


一方、国内においては、北部九州から饒速日命また大国主大神が畿内中部をはじめとした本州に稲作を伝えています。

さらに3世紀には『日本書紀』に記されるように、「武内宿禰」に率いられた神功皇后と乳児の応神天皇が“大和帰還”と呼ばれる「東征」を行なっています。

このように、「大国主大神」(饒速日命)しかり、物語の初代「神武天皇」しかり、実質の初代「応神天皇」(武内宿禰)しかり、いずれも九州を出自とした古代国づくりが行なわれたのが日本です。

が、もう一人、先祖を九州“海人族”(あまぞく)にもつ天皇がいます。

『古事記』や『日本書紀』の編纂を命じた第40代「天武天皇」です。


九州“海人族”の一部は、日本海流に乗って「出雲」「丹後」へと移動し、天武の時代は「尾張」にも拠点をかまえていました。

古代イスラエルとフェニキアの船団もそうですが、この九州“海人族”が初期に拠点としたのが、瀬戸内海の東端です。

そこは波が穏やかな瀬戸内にありながら、日本海に出て行くこともできれば、太平洋にも出て行くことができる“T字路”にあたる海路の要衝だからです。

なぞの“ケベスの火祭り”が残る「国東半島」(くにさき はんとう)の奈辺で、現在の大分県にあたります。

伊勢神宮を左手にみて伊勢湾の最奥部にすすむと、名古屋近隣に現在「海部郡」(あまぐん)があります。

一方、日本最大の断層「中央構造線」が走る豊予海峡の大分県側に、昭和まで「海部郡」(あまべぐん、あまのこおり:北海部郡と南海部郡)がありました。

大海人皇子(天武天皇)が、7世紀に大友皇子(追諡:弘文天皇)と「壬申の乱」(じんしんのらん)を戦ったとき、大海人皇子に味方して多大な戦果を挙げ、最後に生死をかけた決死の瀬田橋の単独突撃によって勝利を決めたのも、「大分君稚臣」(おおきだのきみ わかおみ)でした。

また、大分君恵尺(おおきだのきみ えさか)も功臣として天武天皇に仕えています。

つまり、大分(豊の国=豊前、豊後)が天武(大海人皇子)の出自にかかわる“古代海人族”の初期の拠点でもあったからです。


さらに、天武の出自にかかわるもうひとつのエピソードをご紹介しておきます。

天武系の皇統が途絶える最後の「称徳天皇」(しょうとく てんのう)の御世に、「道鏡が皇位に就くべし」という託宣を行なったのも、国東半島の付け根にある「宇佐神宮」(宇佐八幡宮)でした。

これも奈辺が天武天皇の先祖にかかわる地(海)だったからです。


天武(大海人皇子)が「壬申の乱」に勝って、皇位についたのち、自らの「正統性」を示そうとされたのが『古事記』であり『日本書紀』でした。

それによって、1,000年ののちも皇位争いをなくし、先の「乙巳の変」(蘇我本宗家の滅亡)や「白村江の戦い」また「壬申の乱」が起きた国内外情勢のなか、“平和”で確固とした自主独立の“統一独立国家”「大和」を築こうとされたゆえの編纂命令でもありました。

このような第40代「天武天皇」の御心(意志)は、その正妃、第41代「持統天皇」と孫の第42代「文武天皇」への譲位による「万世一系」の確立とともに、以後、「日本の天運」を担っていくことになります。


占星学からみて、日本の“民族性”「魚宮」の共鳴星「海王星」と、日本の国体”「水瓶宮」の共鳴星「天王星」が、天武天皇の御世に崩御までの約8年間近くも、スムーズに象意の関係をむすぶ「三分」(トライン=120度)をとり続けていました。

このような「星のディレクション」のもと、近代律令国家の成立と今日に続く「日本の天運」は“確立”していったのです。

天武天皇が、“出雲神話”が記される『古事記』を稗田阿礼(ひえだのあれ)に誦(よ)み習(なら)わさせたのも、最初の“国づくり”が「大国主大神」(また物部氏の祖「饒速日命」)にあって、そこに「日本の天運」の原点があるからです。

事実、今日の「宝瓶宮時代」につうじる大国主大神による支配しない“国づくり”は、当時の双魚宮時代にあって日本の「天運」の“萌芽”ともなっています。

『古事記』は、天武天皇(大海人皇子)の出自にかかわっているのですが、詳しくは次回、いよいよ「日本の天運」の本題となる変遷とともに述べてまいります。













天皇と「日本の天運」その4
2021.03.23
 
● 初代 「神武天皇」以前に“国づくり”を行なった「大国主神」


ここからは本題の「天皇と“日本の天運”」その変遷をお届けする初回です。


結論的に、日本で最初の“国づくり”を行なったのは、実在が不確かな初代「神武天皇」ではなく、それ以前の「大已貴命」(おおあなむちのみこと)こと“大国主大神”(おおくにぬしのおおかみ)です。

ウソや冗談ではなく、『日本書紀』にそう記されています。

結局、「大国主神」の“善政”にはじまる日本の「天運」となっています。


詳細は後述いたします。

約2,160年間(計算値)続いた「双魚宮時代」(そうぎょきゅうじだい)も、また今後の「宝瓶宮時代」(ほうへいきゅうじだい)も日本は「天運」を有します。

それゆえ、世界史の中で数千年も滅びることのない“奇跡の国家”になっています。

それは、今後の「宝瓶宮時代」も同様です。


その理由は、「双魚宮時代」のはじまりと相前後して、「魚宮」(木星)で象わされる“民族性”をもち、「宝瓶宮時代」に共鳴する「水瓶宮」を“国体”として当時の国づくりが行なわれたからです。

それを可能にしたのが、日本列島の豊かな“大自然”と、太古また古代に日本列島にたどり着き住みついた複数の“海人族”(あまぞく)との融合で、特徴的には君臨しても支配しない“天皇”(大王、大神)やそのもとで平和的な“合議制”(共和制)の国体にあります。

もちろん、例外となる時期や国邑(こくゆう)はありました。


「双魚宮時代」は、今から32年前の1989年に終わりました。

人知れず“宝瓶宮時代のビッグバン”(宇宙波動の変化)が起き、新たに“共鳴関係論”を歴史パラダイムとする「宝瓶宮時代」が正式にはじまったからです。

宝瓶宮時代もまた約2,160年間(計算値)続きます。

これらの時代区分は、“春分点歳差”にともなう「プラトン年」(グレート・イヤー=約25,920年の周期)にもとづく「プラトン月」(グレート・マンス=約2,160年)のことです。

詳細は、「宝瓶宮占星学サイト」や「数理法則とクオリアル・ワールド伝授講座」で述べていますが、人類歴史は「プラトン月」こと占星学的な時代区分にもとづいて、その象意による“歴史パラダイム”に規定されて推移し、漸次、発展してきた事実があります。

これまでの「双魚宮時代」は、“対立二元論”を歴史パラダイムとしていましたので、“神とサタン”、“天国と地獄”、“霊と肉”、“善と悪”、“吉と凶”といった「宗教」また「思想哲学」の時代でした。

ただし、昨今は、そのような「双魚宮時代」から「宝瓶宮時代」の社会体制への重要な移行期(変遷期)にあります。


約2,000年ほど前、“対立二元論”の「双魚宮時代」初期にあって、日本も1~2世紀に大陸からの影響と鉄製武器の普及などによって、“争い”が生じました。

それを治めたのが、「ヒメヒコ制」(共立的統治形態)にもとづいて、“祭祀長”(大王、天皇)を推戴し、より対等の立場で首長や豪族らによる“合議制”の平和的な連合体(共和国)の運営でした。

そのような“長”のあり方や“臣民平等”の国家運営は、日本の“国体”「水瓶宮」となっていきます。

なぜなら、最初に“国づくり”を行なった“大已貴命”こと「大国主神」は、人々を“大御宝”(おおみたから)として、“支配”ではなく対等に教え諭して「和」(饒:にぎわう、ゆたかさ)をもたらしてきたからです。

そういうこともありまして、『日本書紀』の“憲法十七條”には、冒頭に「一曰(いちにいわく:第1条)以和爲貴」(和をもって貴しとなす)と記されています。


さて、“万世一系”の皇統を記す『日本書紀』ですが、それは7世紀の「白村江の戦い」の敗戦など国内外情勢によって、早急に「天皇」のもとに確固とした“統一独立国家”「大和」を構築する必要が生じていたためです。

また、古代最大の内戦「壬申の乱」によって、“千年のちまでも二度と皇位争いを起こさない”と誓った第40代「天武天皇」によって、皇位(王位)の“正統”を明確にする必要があったからです。

それゆえ、“プロパガンダ”となる部分が『日本書紀』には相応にありますが、日本書紀編纂の総裁をつとめた歌人の舎人親王(とねりしんのう:天武天皇の皇子)の人柄ゆえか、一方では案外と正直に史実のままに残そうと努めています。

初代「神武天皇」以前に、すでに“国づくり”が行なわれていたことが、ちゃんと記されているのもその一つです。

そのへんを、まず「神武天皇紀」から抜粋してみましょう。


●『日本書紀』「神武天皇紀」から抜粋

「塩土(しおつつ)の翁(おじ)に聞くと『東の方に良い土地(※注:葦原中国)があり、(中略)その中に天の磐舟(あまのいわふね)に乗ってとび降ってきた者がある』と。(中略)そのとび降ってきた者は、饒速日(にぎはやひ)というものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる。」

「長髄彦(ながすねひこ)は、使いを送って言上し、『むかし、天神の御子が天磐船(あまのいわふね)に乗って天降(あまくだ)られました。櫛玉(くしたま)饒速日命といいます』」

「(饒速日命は)その部下を率いて帰順された。神武天皇は饒速日命が天から降った(※注:国を治めていたという意味が含まれる)ということはわかり、いま忠誠のこころを尽くしたので、これをほめて寵愛された。これが物部氏の先祖である。」


つまり、物部氏の祖「櫛玉饒速日命」が、“葦原中国”(あしはらのなかつくに)に天降りし、すでに古代“国づくり”を行なっていたと記されているのです。

そこに、おなじ天孫族の“神武”が東征してきたので、“国譲り”をして忠誠を誓ったという“ストーリー”を『日本書紀』は描いています。


次に、順番が前後しますが、神武以前の「神代」(上)をみてみましょう。


●『日本書紀』「神代」(上)一書から抜粋

「大国主神は、大物主神(おおものぬしのかみ)とも、また国作(くにつくり)大已貴命(おおあなむちのみこと)ともいう。(中略)また、大国玉神(おおくにたまのかみ)ともいう。また顕国玉神(うつしくにたまのかみ)ともいう。」

「さて、大已貴命と少彦名命(すくなびこなのみこと)は、力を合わせ、心を一つにして天下を造られた。また、現世の人々と家畜のためには、病気治療の方法を定めた。

また、鳥獣や昆虫の災いを除くためには、まじないの法を定めた。このため、百姓(おおみたから=大御宝)は今に至るまでその恵みを受けている。」

「これから後、国の中でまだ出来上がらないところを、大已貴命が一人でよく巡り造られた。ついに出雲国に至って揚言(ことあげ)していわれるのに、『そもそも葦原中国(あしはらのなかつくに)は、もとから荒れて広いところだった。けれども、私が皆くだき伏せて、今は従わないという者はない』と。

そして、『今この国を治めるものは、ただ私一人である。私とともに天下を治めることができる者がほかにあるだろうか』と。」


ここにおいても、天孫「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)が高天原から天降る前に、大已貴命こと「大国主神」による“国づくり”が「葦原中国」(狭義では“畿内国”、広義では“日本”)で成されていたことが記されています。

つまり、日本国でみた場合、実質の初代は「大国主神」(大已貴命)なのです。


しかし、それでは「天皇」が治める正当性が成立しません。

それゆえ、当時の出来事や、のちの世に東征しモデルとなった実在の人物よって、初代“神武天皇”をたてて、“始めて天下を治められた天皇”「始馭天下之天皇」(はつくにしらすすめらみこと)という“ストーリー”を作成したのが『日本書紀』です。

なので、実在の“初代天皇”は、『日本書紀』にもう一人「御肇国天皇」(はつくにしらすすめらみこと)として記されている第10代“崇神天皇”(和風諡号:御間城入彦五十瓊殖天皇:みまきいりびこいにえのすめらみこと)の御世にあたります。

最初に“国づくり”を行ない、天下を治めた「大国主神」(大物主神、大已貴命)がそうです。

それを『日本書紀』は“万世一系”の皇統に“崇神天皇”あるいはその“御世”のこととして組み込んで記しています。

当時は、固有名詞(名前)が不確かなので、「大国主神」という呼び名は、“最初(太古)に国づくりを行なって主(あるじ)となったかみ(人物)”という業績から名づけられたものです。

必ずしも一人とはかぎりません。

ですが、最初に“国づくり”を行なった人物を「大国主命」また「大国主神」と申し上げます。


『日本書紀』によると、物部氏の祖「饒速日命」もその一人です。

「饒速日命」という呼称も、大国主神と類似で、“先に人々に「和」(饒:にぎわう、ゆたかさ)をもたらした尊い人物”という意味です。

後日(平安時代)、“天皇家”の由緒を記した『日本書紀』との整合性をとって、加筆修正された物部氏の由緒『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)によると、饒速日命は物部氏の祖「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと」と記されています。

実は、男性神「天照大御神」(大神さま)となった人物です。

ですが、『日本書紀』は、“万世一系”を定着させた第41代「持統天皇」(和風諡号:高天原広野姫天皇:たかまのはらひろのひめのすめらみこと)をわけあって「天照大神」になぞらえさせたために、途中で女性神「天照大神」に“キャラ変”させています。

それが今日に伝わるイメージになりました。


厳密にいえば、「天照大神」は、“饒速日尊”(物部氏や大国主神)であり、“大日孁貴”(おおひるめのむち:九州倭国の卑弥呼)でもあり、“持統天皇”(畿内国大和の天皇)とも読めるようになっています。

要は、“統一大和”の象徴として『日本書紀』に描かれたわけです。

そのため、「天照大神」を崇拝すれば、どの豪族や臣民であっても、自分たちの先祖や先祖大神を崇めるように計算されていて、「素戔嗚尊」(すさのおのみこと)との誓約(うけい)によっても、どの子孫が崇めてもおかしくないように修辞されています。


さらに付記しておきます。

縄文晩期後半また弥生早期において、「遠賀川式土器」(おんががわしきどき)が模倣もふくめて東北青森まで全国に広がっています。

その意味は、北部九州また福岡県の遠賀川流域に発した稲作が、“おんがさま”(大神さま)こと「大国主神」(大已貴命また饒速日命)によって、日本海の出雲を経て、全国規模に広まっていったことを現わしています。

上掲の『日本書紀』「神代」(上)の抜粋を今一度、ご吟味いただければ、そのことが示唆されていると存じます。


事実、福岡県郡筑前町(旧三輪町)には、山をご神体とした“おんがさま”と呼ばれる「大已貴神社」があります。

のちに、畿内国(大和)の三輪山をご神体とする「大神神社」(おおみわじんじゃ=おんがさま)の“前身”ともなる神社だと考えられます。

大和の大神神社は、「大物主大神」をご祭神とし、大已貴神と少彦名神を配祀しています。

ちなみに、「大物主神」という呼称は、“最初の物部氏の主(ぬし)となったかみ(人物)”とも読めることから、その場合、饒速日命こと物部氏の祖「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(男性神「天照大神」)の別称ともいえます。

三輪山をご神体とされる“大神神社”ですが、本来は三輪山登拝口がある「狭井神社」(さいじんじゃ)こそがもとの神社です。

なぜなら、狭井神社でご参拝すると、ちゃんと三輪山山頂を拝するようになっています。

これに対し、大神神社でのご参拝は、その方向にはだれがたくらんだのか、三輪山山頂ではなく「伊勢神宮」を遥拝するかたちになっているためです。


この意味を解説いたしますと、大神神社に祀られる「大物主大神」は、上述のように伊勢神宮の元祖「天照大御神」こと物部氏の祖で、最初に“国づくり”を行ない全国に遠賀川式土器とともに稲作をもたらし指導した「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(≒大国主大神)という可能性が否定できなくなります。


いずれにしても、重要なのは、日本の「天運」の原点は、人物でいえば「天皇」もそうですが、古代“国づくり”を行なった実質の初代「大国主神」(大物主神、大已貴神)また男性神「天照大御神」(櫛玉饒速日命)にかかわって、もたらされているという事実があります。

このことがみえてくると、以後、今日に至る日本の「天運」の変遷が解けてきます。












天皇と「日本の天運」その3
2021.03.18
 
● 「魚宮」の象意による日本の“大自然”と“海人族”


先回「お知らせ」いたしました内容をご紹介する前に、今回は「双魚宮時代」(そうぎょきゅうじだい)の日本に「天運」をもたらした“外因”をご紹介いたします。

日本が“民族性”を「魚宮」とする由縁でもあります。

端的には、日本の“大自然”と古代“海人族”(あまぞく)に由来します。


日本は世界でも特異な“大自然”を特徴とします。

茫漠とした“大海”や地形また気候の“多様性”などですが、いずれも「魚宮」の象意です。

逆にいえば、和辻哲郎の『風土-人間学的考察 』(1935)を持ち出すまでもなく、そのような要因や気候によって日本の“民族性”は形成されました。

「縄文時代」や「双魚宮時代」の影響圏また初期のことです。

ただし、このことは科学技術が発展し、即物的な思考がはびこった近現代では、いくぶん気づきにくかったり、ご理解しにくくなっているかもしれません。


占星学からみて、「魚宮」によって“民族性”を象わすことができる日本は、紀元前6世紀ころに「双魚宮時代」の影響圏がはじまった“縄文末期”あたりから「天運」をともなうようになっていきます。

一例を挙げますと、そのことは『日本書紀』にも示唆されています。

真偽はともかく、『日本書紀』に記される日本国は、初代「神武天皇」のご即位にはじまり、「双魚宮時代」の影響圏に入る直前の紀元前660年(紀元節)といわれます。

ちなみに、そののち「双魚宮時代」が正式にはじまるのは、紀元前2世紀(BC171年頃)からです。


占星学による宇宙的な時代区分の「双魚宮時代」や「宝瓶宮時代」などは、「プラトン年」(グレート・イヤー)にもとづきます。

「プラトン年」は、古代ギリシャの数学者であり天文学者でもある「ピッパルコス」(BC190年頃-BC120年頃)によって発見された“春分点歳差”にもとづいて、「地球」の自転軸の傾きが1周する約25,920年(計算値)の周期をもちます。

詳しいお話は「宝瓶宮占星学サイト」をご高覧いただくとして、約2,160年間続く双魚宮時代は、「魚宮」(木星)の象意にもとづく“宗教”(高等宗教)の時代でした。

その影響圏において、「ブッダ」(お釈迦様)が現われ、正式にはじまってのちは「イエス」(キリスト)が現われています。

それによって、東洋では「仏教」、西洋では「キリスト教」が、双魚宮時代の「天運」にのって世界的に広まっていきました。


ちなみに、「ユダヤ教」は少々おもむきが異なります。

ユダヤ教は、双魚宮時代の前、「白羊宮時代」(はくようきゅうじだい)にあたる紀元前2,000年ころのアブラハムをイスラム教とともに“信仰の祖”とします。

その後、奴隷となっていたイスラエルの民をエジプト脱出によって導いたモーセが、シナイ山で神から授かった「十戒」をベースにした「戒律」を重視するのがユダヤ教です。

「戒律」は、魚宮の象意に基づいた“信仰”(宗教)というよりも、「牡羊宮」の象意に基づいた“行動規範”(ルール)だからです。

事実、「世界3大宗教」といえば、仏教、キリスト教、そして7世紀に成立したイスラム教で、ユダヤ教は含まれていません。


それはともかく、魚宮(木星)の象意にもとづく「双魚宮時代」は、1846年に海王星が発見されると、共鳴星が「海王星」に変わっていきます。

以降、海王星の象意にもとづいて、“神秘主義”(スピリチュアリズム)が盛んになり、「木星」の“世界宗教”から、「海王星」の“新興宗教”や怪しげな“カルト宗教”が隆盛をきわめていきます。

海王星が発見された1846年は、幕末の孝明天皇がご即位された年で、黒船来航の7年ほど前にあたります。

この江戸時代末期から明治にかけては、日本でも新興宗教がよく使われる表現をすれば“雨後のたけのこ”のように誕生していきました。


お話はもどりますが、日本でも相応に宗教の影響はさけられなかったものの、むしろ縄文時代や双魚宮時代の初期においては、「魚宮」のもう一方の象意、“大自然”や“海人族”の影響が日本では顕著でした。

代表的には“大自然”を崇敬する原始神道(太古神道)です。

お天道様や宇宙万物を“八百万の神々”として崇め、大自然そのものを“信仰”の対象として大切にしました。

それは、日本列島が大自然に恵まれ、畏敬の対象でもあったからです。


一方、大自然とも関係しますが、3~4万年ほど前に「スンダランド」をはじめ各地から海流に乗って古代日本列島に船でやってきて、住み着いた“原初日本人”がいました。

彼ら初代“海人族”や双魚宮時代の初期に日本にやってきた幾多の“海人族”らは、日本原住の“大山族”とともに『日本書紀』には「山幸彦と海幸彦」として象徴されています。

近年は単一民族と考えられてきた日本人ですが、太古また「双魚宮時代」の初期あたりまでは、周辺の島や陸から船で渡ってきた海人族らを交えた“他民族国家”でした。

それは、世界でも珍しいほど多くのDNAが入り混じっていることからも科学的に明らかです。

このような“多様性”や“他民族”を受け入れ、日本化していく(清濁併せ呑む)“感化力”は、12サイン(宮)の最後を飾る「魚宮」の象意に通じます。


もう少し書いておきましょう。

周囲を海に囲まれ、南北に細長い島国であることから、南からの暖流と北からの寒流が混じる豊かな漁場を抱えるのが日本列島です。

のみならず、4つのプレート上に位置することから、3,000メートル級の山々が背骨のようにそびえ、必然的に豊かな大自然と豊富でキレイな水に恵まれました。

四方の海からの水蒸気をふくんだ風が高山によって上昇し、大量の雨や雪を降らせるためです。

それは四季の移り変わりや、狭いわりには海抜の変化が激しい地形ゆえに、多種多様な植生や生き物の派生を可能にしました。

そのような“大自然”が残っていた当時は、山海の“食料資源”に恵まれていたのです。


結果的に、「衣食足りて礼節を知る」ではありませんが、縄文時代や上古は、土地や食料を求めて争う必要がありませんでした。

また、余暇も生まれたことから、お互いの役割分担や助け合いをはじめ、創意工夫による「縄文文明」の形成が可能になったのです。

結局のところ、“大自然”の恵みをはじめ、「木星」の象意による寛容な“海人族”のメンタリティーは、トータルで「魚宮」の“民族性”をはじめ、“日本的霊性”を生み出していきます。

かぎられた陸地とは異なり、大海原では大陸のように土地や食料を求めて争う必要がありません。

海に出れば、「舟」を我が家として“自由気まま”な暮らしが可能で、船影に魚が寄ってきますし、随時の雨を溜めておけば飲料水にも困りません。

そんなこんなで、現代人が思う以上に豊かで平和的な暮らしが可能な古代日本列島でした。


「双魚宮時代」以前、またその初期に、上述のような「魚宮」の象意にもとづいた“大自然”や、原住の大山族と“海人族”の融和によって形成されたのが日本の“民族性”です。

それは、その後の「双魚宮時代」において、日本の「天運」のメインストリームとなっていきます。


一方、日本の“国体”は、「水瓶宮」によって象わされますが、そこに起因する「天皇」もまた、大自然の豊穣と、国民の安寧を祈る祭祀長が原点です。

それは邪馬台国の「ひみこ」(霊巫女:霊媒師)を共立して、倭国大乱を終わらせ「平和」をもたらした故事にも由来します。

もっとも、マルキシズム(共産主義)の歴史学者は、「天皇」を武力で民を支配する“権力者”に仕立てようとしますが、それは一時的な例外の“大王”にすぎません。

むしろ、“海人族”にもかかわって平和主義者というのが「本流」です。

そのような「天皇」にかかわる「水瓶宮」の“国体”は、のちの「宝瓶宮時代」にそなえて、双魚宮時代の「天運」を維持し補強するものになってきた事実があります。














天皇と「日本の天運」その2
2021.03.15
 
● 「天運」の変遷を解くカギ 「中大兄」の出自


歴史学者が“根本的”にあえて間違えている「中大兄」(なかのおおえ:天智天皇)に関してです。

問題は、その出自です。

7世紀後半に即位された「天武、持統、文武」の親孫三代(第40~42代)の天皇によって、確固とした“万世一系”の基盤が築かれました。

万世一系の皇統は、天武系が第48代「称徳天皇」(しょうとくてんのう)で終わったあとも、天智系へと変わり、今日まで受け継がれています。

なぜかというと、宇宙この世界の根本法則「基本三数」(数理法則)にそって成立したからです。

簡潔にいえば、「基本三数」は一体不可分の「1数=意志」「2数=実体」「3数=関係」の3(4)数によって成り立ちます。

天武天皇の“意志”(1数)が、持統天皇の“実体”(2数)によって、孫の文武天皇への譲位へと藤原不比等のサポートもありつつ内外の“関係”(3(4)数)によって、皇位継承(万世一系)の「基本三数」が『日本書紀』とともに成立したのです。

「基本三数」が整うと、6(7)数、そして“宇宙森羅の最小象徴数”12(13)数へと「基本三数の二段構造」また「基本三数の基本三数展開」によって順次、発展展開していくようになっています。


それはともかく、天武系の皇統が「称徳天皇」で終わったあとも持統天皇の父親の第38代「天智天皇」の孫で、すでに年老いていた“酔いどれ”の第49代「光仁天皇」から天智系の皇統がはじまります。

このへんの経緯は、不比等まではともかく、その子の藤原四兄弟(いずれも病没)以降の“謀略”とも思える思惑が働いており、自らは天皇につかずとも外戚として天皇を意のままに操ろうと動いてきた歴史があります。

いずれにしても、天智系の皇統は続きましたので、天智天皇こと「中大兄」に対しては、御用学者はもちろん、その出自の秘密を暴くことはできませんでした。

なぜなら、戦前戦中は、皇室に対する「大逆罪」や「不敬罪」に問われたからです。

それは戦前戦中にとどまらず、戦後も昭和天皇が尊敬する人物として「天智天皇」を挙げられたために、決して“悪く”は書けないという配慮や忖度が続いたといます。


そのため、「天智天皇」(中大兄)と「天武天皇」(大海人皇子)に対する評価は、歴史上の事実とは異なって“逆転解釈”が起きてきました。

天智と天武の実状は省略させていただきますが、中大兄と大海人皇子を“実の兄弟”とするのはかわいいほうで、両者の母「宝皇女」(たからのひめみこ:斉明天皇)が高向王(たかむくおう)と離別する前に生んだ「漢皇子」(あやのみこ)が、大海人皇子ではないかとするトンデモ解釈さえ散見できます。

つまり、“弟”の大海人皇子(天武天皇)のほうが、宝皇女の連れ子だという解釈です。

ふ~ん…。

兄ではなく、弟のほうが“連れ子”なのね。ばかじゃないの…。


『日本書紀』は、大海人皇子の出生年を明らかにしていません。

ですが、中大兄は、3人もの自分の娘を“義弟”の大海人皇子に嫁がせています。

鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ:持統天皇)と、大田皇女(おおたのひめみこ:持統の実姉)、そして大江皇女(おおえのひめみこ)です。

とくに、大田皇女と鸕野讃良皇女は、姉妹同時に大海人皇子に嫁いでいます。

3人めの大江皇女は、10代後半で大海人皇子に嫁ぎ、壬申の乱のときには3歳になる長皇子(ながのみこ)が生まれていました。

さらにもう一人、新田部皇女(にいたべのひめみこ)も天智崩御(壬申の乱)後に天武天皇の後宮に入っています。

計4人もの娘が“弟”に嫁いでいるのです。

なぜでしょうか。


実は、中大兄のほうが宝皇女の連れ子だったからです。

父親はほんとうに「高向王」なのか誰なのかもわからず、母が舒明天皇と再婚したため、のちに“義弟”となった本来の嫡子(跡継ぎの皇子)の「大海人皇子」にとりいる必要があったからです。

なぜなら、“野心家”の中大兄は、母の舒明天皇との再婚によって、タナボタ式に天皇(大王)への可能性が出てきたからです。

個人的な心象では、まず“義兄”の自分が舒明天皇のあとをついで天皇(大王)に即位し、次に“義弟”の大海人皇子に譲る密約があったと考えています。

そのプランにそって、中大兄は天皇に即位する可能性のある人々を何人か殺害しています。

結局、大海人皇子に娘たちを嫁がせたのは、緊密な姻戚(身内)関係を結ぶことによって、天皇への道を開こうとしたものです。


また、中大兄が“義兄”であることは、『日本書紀』の呼称からもみえてきます。

通常、“大”がつくほうが長男(大兄)で、“中”は次男(中兄)になります。

では、「中大兄」と「大海人皇子」はどうでしょうか?

もし、中大兄が舒明天皇の長男であれば、単に“大兄”と呼ばれたはずです。

しかし、『日本書紀』は、大兄は大兄でも「中大兄」と、“皇子”の尊称もつけずに記録しています。

一方、「大海人皇子」は、凡海(おうしあま)ではなく、長男につける“大”の字をもって、ちゃんと大海人皇子と記録されています。

なぜなら、“弟”の大海人皇子が、本来は舒明天皇の嫡男(跡継ぎ)であって、中大兄は舒明天皇の子ではないからです。


それゆえ、大海人皇子は、天智天皇の子「大友皇子」(明治3年追諡:弘文天皇)との壬申の乱に勝利し、天皇に即位されたとき、自らの正統を明らかにし、“千年のちも二度と皇位争い(内戦)を起こさない”と誓い、過去の歴史と自らの正統性を示すべく『古事記』と『日本書紀』の編纂を命じています。

『古事記』については、また別の秘密がありますが、機会があれば後述いたします。


しかし、結局は、ご存じのように藤原氏の“遠謀”もあって、天智天皇の子「志貴皇子」(しきのみこ)の子、第49代「光仁天皇」へと皇統はうつっていきます。

以降、天智系の皇統が続くことになるのです。


さて、大海人皇子は、壬申の乱にあたって「伊勢」を遥拝しています。

なぜ、伊勢を遥拝されたのかは重要なヒントです。

ですが、ご説明は長くなるので省略し、壬申の乱に勝利したのち「伊勢神宮」の改築(増築)にとりかかり、その遺志を継いだ持統天皇によって、今日のような「大神宮」に生まれ変わっています。

持統天皇は、周囲の反対を推し切り、「伊勢神宮」に何度かご行幸をされていますが、のちの天皇は誰一人として伊勢にお参りをされていないのはご存じかもしれません。

ところが、そのような天智系の皇統が1,200年あまりも続いたのち、御一新後に、「明治天皇」が初めて「伊勢神宮」をご親拝されているのです。

さらには、皇祖を「天照大御神」(あまてらすおおみかみ)と改められました。

『日本書紀』に記される皇祖は「高皇産霊尊」(たかみむすびのみこと)です。

源頼朝公にはじまる武家政権になってからは、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ:草薙剣)で知られる「素戔嗚尊」(すさのおのみこと)また「大国主大神」(おおくにぬしのおおかみ)も崇められてきました。

明治の国家神道は、ご祭神を正式に決める際、伊勢派(天照大御神ほか)と出雲派(大国主大神)とで論争が起きましたが、結論はでず、結局は明治天皇のご勅裁によって「天照大御神」に決定します。


不思議に思われませんか?

武家政権が終わり、明治天皇になって、突如、天武天皇が遥拝し、その正妃の持統天皇が大神宮に改修した「伊勢」(天照大御神)が正式のご祭神となったのです。

「伊勢」(天照大御神)をないがしろにした天智系の天皇は、結局、公家政権の藤原氏の意のままに操られ、鎌倉幕府を開いた源頼朝公の武家政権へと日本の「命運」は託されることになりました。

そのような武家政権を開いた「源頼朝公」の母は、三種の神器のひとつ「草薙の剣」が祀られる「熱田神宮」の大宮司家の娘「由良御前」(ゆらごぜん)です。

実際、熱田神宮の西門前にあった「熱田大宮司」(藤原家)の別邸が、頼朝公の生誕の地と伝わっています。

現在は「誓願寺」になっていますが、当時は井戸はなく、別邸に池があり、その水を産湯につかったようです。


次回は、伊勢を遥拝した天武天皇とは異なり、天智系は“正統”ではなかったゆえに、日本の「天運」は半減しました。

にもかかわらずそれを補い、日本の「天運」を維持した源頼朝公(熱海神宮:草薙の剣由縁)にはじまる武家政権と、明治天皇ご即位によって「天運」が還るまでをお届けいたします。













天皇と「日本の天運」その1
2021.03.13
 
● 双魚宮時代と宝瓶宮時代の「天運」をもつ日本


“占星学”からみたときに、日本は「天運」を抱く国家で、アメリカは“世界の自由民主主義を守る”「天命」をもつ国家です。

なぜなら、日本の“民族性”は「魚宮」で、“国体”は「水瓶宮」だからです。

理由は、後述いたします。

一方、アメリカは、“民族性”は「射手宮」で“国体”は「水瓶宮」、現体制は「蟹宮」ゆえに、占星学からみると、否応なく自国を守るのと同時に世界の自由民主主義体制を必然的に守らざるをえない「天命」をもつ国家になっています。

今回は、天皇と「日本の天運」がテーマなので、アメリカのご説明は省略させていただきます。


ただ、実際のエピソードをひとつご紹介させていただきます。

シリアが毒ガス兵器か何かを使って自国民を虐殺していたときのお話です。

オバマ元米大統領は、そんなシリア問題に関して、結局「アメリカは世界の警察官ではない(との考えに同意する)」と発言しました。

たしかオバマ政権の第2期で2013年9月頃だったと存じます。

そのとき「宝瓶宮占星学サイト」に「オバマは“まぬけ”です」とすぐに書きました。

それは、建国以来の「天命」を放棄したとき、アメリカだけでなく自由民主主義世界の衰退がはじまるからです。


事実、「アメリカ弱し」(オバマは言うだけ番長)とみた中国は、その後、次第に「傍若無人」な態度をとりはじめ、東アジアをはじめ世界の自由民主主義の危機を引き起こし、一昨年のピークに至っています。

幸い、宝瓶宮時代の「天運」をもった日本は、第二次安倍政権が誕生し、地球儀外交やセキュリティー・ダイアモンド構想によって中国の封じ込めに動き、アメリカはトランプ政権が誕生し、世界の自由民主主義を守る「天命」を回復しつつあります。


それはともかく、宇宙的な「人類歴史区分」からみたとき、次のようにいえます。

約2,000年ほど前(厳密には紀元前171年頃)から「双魚宮時代」(そうぎょきゅうじだい)が正式にはじまりました。

双魚宮時代というのは、「魚宮」(木星→海王星)が共鳴サイン(宮)です。

それから約2,160年後(計算値)、今から32年ほど前の1989年に人知れず“宝瓶宮時代のビッグバン”が起こり、「歴史パラダイム」(宇宙波動)が大きく変わっていきました。

宝瓶宮占星学サイトや当ブログをご一瞥のかたならご存じのかたも多いと思いますが、かつての双魚宮時代の「対立二元論」から、宝瓶宮時代(ほうへいきゅうじだい)の「共鳴関係論」へと、人類の歴史パラダイムは変化し、正式に宝瓶宮時代がスタートしました。

現在の2021年は、宝瓶宮時代の“社会体制”に移行していく「イン・ジ・アクエリアス」の過渡期にあります。

ちなみに、宝瓶宮時代ののち、1989年から約2,160年後になりますが、「磨羯宮時代」(まかつきゅうじだい)にうつっていきます。

それまでは「水瓶宮」(天王星)を共鳴サイン(宮)とする時代が続きます。


さて、詳しいお話は省略させていただきますが、「魚宮」の“民族性”にともない、大自然のめぐみを受けて、“お天道さま”を拝し、巨岩や由緒ある山をご神体として崇める“古神道”の日本は、双魚宮時代と共鳴して「天運」をともなってきました。

その具体例は、後日、当シリーズで掲載することがあると存じます。

これが、建国以来、一度も日本が国を失うような侵略をされてこなかった理由です。

さらに、祭祀(女性)と同時に、為政者(男性)を立てた古代の「ヒメヒコ制」もそうですが、女王ヒミコを共立することによって、長い争い(倭国大乱)を終わらせ、平和的に“各国”(豪族ら)による“合議制”をとってきたのが日本列島の九州にあった「倭国」(北部九州連合:邪馬台国連合)です。

この“統治パターン”は、のちの東遷とともに、畿内国を中心とした“大和”(大倭)に踏襲され、女王の代わりに「天皇」による平和的な統治へと、「宝瓶宮時代」を先取りしたかのように全国規模で展開されていきます。

例外はありますが、天皇は「君臨すれども統治せず」という“祭祀”(祈り)と“権威”の存在であって、西洋の“専制君主”のように「権力」をもって国民を押さえ込む存在ではないからです。

このあたりの「天皇」と「国民(国家)」の関係は、“一神教”の西洋人には理解しにくいかもしれません。

今後の「宝瓶宮時代」は、個人の「自由」や「個性」(才能)や「友愛精神」(和、絆、民度)が、漸次、世界的に発揮されていく社会に移行していきます。

それは、古来より、日本人が“モットー”としてきた形態でもありました。

このことが双魚宮時代の影響圏がはじまった縄文時代末期から、正式に双魚宮時代に入った弥生時代にかけて2,000年以上も前に“国づくり”が行なわれ、天皇(祭祀長)をシンボルとした合議制(稟議制)ゆえに、“国体”を「水瓶宮」とするゆえんです。

ちなみに、初代「神武天皇」のご即位(旧暦1月1日)を現在のグレゴリオ暦になおすと、2月11日(建国記念の日:水瓶宮)になります。

その真偽は不明だとしても、“和の象徴”たる「天皇」のもとに、だれもが“平等”という形態こそが日本の“国体”「水瓶宮」の原点になっています。


厳密には、多々ご意見があると存じますが、“支配/被支配”の対立二元論の「双魚宮時代」にあって、その影響はのがれえませんが、比較的ながら日本は庶民の自由が“国体”の「水瓶宮」によって守られてきた国家です。

ちなみに、「魚宮」の“民族性”は、お上(かみ)を尊(たっと)び、敬いしたがう国民性をもたらしています。


信長秀吉の安土桃山時代も徳川政権下の江戸時代も、商人をはじめ庶民主導の文化が花開いてきたことは、お上から“百姓は国の宝”とされ、第一次産業従事者や商人がとうとばれてきたことからもそれがいえます。

もっとも、そのような真の歴史を隠して、“支配層による搾取の歴史だった”と教えるのがマルクス史観(共産主義史観)の歴史学界や学校教育またそれに汚染されたマスコミです。


さて、日本の「天運」を支える天皇は、確実にいうなら『日本書紀』に記される7世紀の第40代「天武天皇」が壬申の乱を経て決意された「1,000年後も皇位争いをなくそう」とされた“意志”を基本に、その正妃の第41代「持統天皇」、そして孫の第42代「文武天皇」への“譲位”による三代の継承によって、藤原不比等の尽力とともに“万世一系”は定着していきます。

大海人皇子(おおあまのおうじ)こと「天武天皇」のご即位は、673年です。

以後、天智天皇の皇女であり、天武天皇の正妃となった鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)こと「持統天皇」、そしてその皇子「草壁皇子」の子「文武天皇」へと天武系の皇統は第48代「称徳天皇」(しょうとくてんのう)までつづきます。

それ以降は、天智系へと皇統が変わります。

日本の「天運」継承は、ここで分散されますが、それもまた結果的に日本の“天運”だったといえます。

詳細は後述いたします。


このことをひもとき、現在の「天皇」を語るには、どうしても天智系皇統の原点、中大兄(なかのおえ)こと「天智天皇」に触れなければなりません。

はっきりと書きますと、正統だった大海人皇子(天武天皇)に対して、『日本書紀』からみえてくる中大兄(天智天皇)は、“兄弟”であっても「義兄弟」です。

当時の出自は、正統性が疑える立場だったことが読みとれます。

その証拠のひとつに、7世紀前半、実質上の“大王”(天皇)だった蘇我家を倒した「乙巳の変」(645年)以降、668年まで23年の長きにわたって中大兄は、天皇につくことができませんでした。

結局は、母の「斉明天皇」がご即位されてのち、その崩御によってようやく「天皇」にご即位される道が開かれたのです。

それゆえ、『日本書紀』に記される中大兄の諡号(しごう)は、「天命開別天皇」(あめみこと ひらかすわけの すめらみこと)と申し上げます。

早いお話が、“天皇への道を開いた別系統”の天皇といえる諡号です。

このあたりの事情と日本の「天運」の変遷の秘密は、次回以降、お届けいたします。













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