幻想の卑弥呼と正統の台与
2017.08.03
昨今、いくつかの番組などで、「卑弥呼」または「邪馬台国」を目にします。
そこで学者さんなどが“諸説”を語ります。

そのとき、ほぼ共通していえるのは「卑弥呼」を“英雄”かのように語っていることです。
残念ながら日本にとっては“英雄”かどうかは半分半分です。

もう少し具体的に申し上げますと、卑弥呼というのは、たしかに「倭国大乱」によって女王に共立されました。
しかし、その一方で、今の中国すなわち当時の「魏」からみれば、“親魏倭王”の金印を卑弥呼に仮授したことなどからわかるように、東夷(東の蛮族)の傀儡政権の女首長にすぎません。

つまり、魏からみれば“蛮族の傀儡王”で、逆に私たちの日本すなわちのちの「統一大和」からみれば、当時の事情はともかく、正しくいえば“売国奴”です。
それが倭の女王“卑弥呼”の客観的な立ち位置です。

その証拠に、万世一系の天皇を描いた『日本書紀』には“卑弥呼”のヒの字もでてきません。

当たり前です。
7世紀はじめ、当時の九州倭国王「阿毎多利思比狐」(あめのたりしひこ)は、倭国の政務を「日本」(畿内国)に委ねることで、隋の冊封体制から離れました。
要は、日本国として独立融合したのです。

そのため7~8世紀の統一大和は、魏の傀儡政権だった卑弥呼を、独立国をうたう『日本書紀』に残すわけはありません。

そういう実情があるにもかかわらず、大国主の王族の墓だった畿内の「箸墓古墳」を“卑弥呼の墓”という学者や歴史マニアがいます。

当時、九州「倭国」と同時に、出雲また畿内などに本州「大国主連合」が成立していました。
考古学的にいえば“銅鐸文化圏”がそれです。

そういった歴史的事実を知ってか知らずか、「邪馬台国は畿内」だったと主張することの意味は、それが事実に反しているのはもちろんのこと、日本が中国の冊封体制下にあった“属国”だったと主張しているに等しいことです。

残念ながら、「魏志倭人伝」に記される卑弥呼の倭国は、今の福岡県の西3分の2程度の地域です。
それだと大陸にくらべて、あまりに小さいので、戦略上、28宿7曜にもとづいて距離や日数などの数字を約7倍にして記録しました。
なにしろ“白髪三千丈”と記すこともある民族です。それくらいの偽造は朝メシ前です。

それはともかく、そんな卑弥呼に敵対したのが狗奴国王です。

彼は結局、卑弥呼亡き倭国を手中に治め、13歳の「台与」(とよ)を傀儡として“2代目女王”に立て、北部九州連合「倭国」を完全に掌握します。

その後、大人になった「台与」を旗印に3世紀末に大和(畿内)に東征し、“銅鐸文化圏”を滅ぼしてのちの日本国(畿内国)の礎となります。
ここに倭の女王“卑弥呼”の立場と、日本国(畿内国)の象徴女王となった“台与”の大きな立場の違いがあります。

それゆえ『日本書紀』には、伝統的に“とよ”(豊)という名前のつく歴代天皇(大王)の和風諡号が多くみられます。


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