時代の「流れ」が大きく動いた
2020.05.31
時代が大きく動きました。

ついに「時代の流れ」が変わったのです。


当ブログにアップしました「香港国家安全法の“代償”」の当日、アメリカにおきましてもトランプは、「香港国家安全法」に関連して、数日前から示唆していたように、“対中国制裁演説”を行ないました。

アメリカは、ついに胆(はら)を決め本気を出したのです。

ところが、昨日から本日(31日)にかけて日本のマスコミは事態を矮小化して報道しています。

いわく、「トランプがWHOとの関係を終わらせると表明」とか「トランプ氏、香港への優遇措置撤廃を表明」といったようにです。

“対中国制裁演説”でトランプが述べたのは、周辺の「WHO」や「香港」に対してではなく、“本丸”の「香港国家安全法」の施行を決めた「中国」に対してです。

それゆえ、トランプは、アメリカ国内の「中国人留学生」、約3,000人に対してビザを発給せずに中国に送り返すといった表明もしています。

彼らは、「留学生」とは名ばかりで、アメリカから技術を盗むために実質上のスパイ任務にあたっているからです。


見方を変えれば、トランプの演説は、中国との直接対決を避けて、「WHO」や「香港」など“外堀”から埋めていく戦略的なやり方にもとれますが、今回はそんな生やさしいものではなく、主敵は「中国」で本気で制裁を表明したものです。

日本のマスコミが、中国や韓国のことを悪く書かない「近隣条項」を言い訳に、トランプが中国との対決姿勢を明確にしたことを書かないのであれば、アメリカはWHOと香港に制裁を加えるだけなのだと国民をあざむくことになり、今後の判断を誤まらせてしまうことになります。


いずれにしても、トランプは、“言うだけ番長”と呼ばれた「オバマ」とは異なります。

トランプは、大統領選の際の破天荒に見える公約を、その後、着実に実行にうつしていることからみても、それは明らかです。

マヌケなオバマは、「シリア政府が国民に対して毒ガス兵器をつかったら攻撃する」といさましく公言しておきながら、実際に毒ガスを使ったことがわかると、「アメリカは世界の警察官ではない」といって逃げたのです。

それは、“司令官”が絶対にやってはいけないことです。

トランプが今般、中国に対して「制裁」を公言した以上、必ず行ないます。

これまでは、一国二制度のもと、本土の中国に対する制裁とは別に、自由な香港に対しては優遇措置があったのですが、トランプは自らのアメリカ企業の痛手を承知で、優遇措置を撤廃し中国本土と同じように厳しく対処していくことを表明したのです。

そうなると、「香港ドル」など、紙くず同然になり、アジアの「国際金融センター」としての立場はもちろん、中国の国際経済の窓口としての役割も“マヒ”し、その役割を果たせなくなっていきます。

人間でいえば、「血液」を止められるようなものなので、今のままでは早晩、中国経済の終わりがみえはじめます。


さて、日本の政治家のみなさま、また経済界や企業家のみなさま、とくに“媚中企業”のみなさまは、どのようにされるのでしょうか?

中国と「一蓮托生」で、日本政府に“反旗”をひるがえしますか?

マスコミともども、アメリカと対決するよう政府にうながしますか?

ムリですよね。

アメリカが自らの経済損失を覚悟したうえで、この地上にあってはならない人類の敵、共産党一党独裁の「中国」への制裁を本気で決めたのです。

自由貿易を維持し利益と生活の安定を得ようとする以上、日本企業も日本国民も、この大きな「時代の本流」から逃れることはできません。


安倍首相また日本政府の決断は決まっています。

なぜなら、“武漢ウイルス”が日本で感染拡大をし、オリンピックも習近平国賓来日も中止が決まったとたん、安倍首相は世界に先駆けて、中国から生産拠点を国内またはほかの国に移す企業に対して、3分の2の援助、大企業でも半分の経費援助を決めたからです。

これまで中国に集中してきた「グローバル・サプライ・チェーン」(世界的供給網)を、国内やほかの国に分散し“再編”を進める方針をいちはやく打ち出したからです。

これには、アメリカをはじめ自由民主主義諸国から、大きな賞賛の声があがりました。

もっとも、日本の親中反日のマスコミがどこまで正しく報道したのかは存じません。


今回、トランプが“対中国制裁演説”を行なった以上、この「時代の流れ」は止められません。

ご判断は皆さまのご自由ですが、今まで中国の出方を親心で様子見して、止め気味にしていた「流れ」が、今般の“武漢ウイルス”はもちろん「香港国家安全法」という名の“国際条約破り”や“自由民主主義破壊”の法案決定によって、溜めていたダムの水を一気に放流するように、「時代の本流」となったことに気づかなければなりません。

これによって親中反日のマスコミは、中共の意を汲んで、あることないこと「プロパガンダ」(政治宣伝)を強めていきます。

“反トランプ”、“反安倍”はもちろん、“日米離間”をはかる「偏向報道」を強めます。

それだけではなく、SNSを利用した「#検察庁法改正案に抗議します」に味をしめて、「#さよなら安倍政権」など、さまざまに仕掛けをしてくることもありえます。

そういった扇動にも注意が必要です。

いずれにしても、日本と日本国民が「時代の本流」に乗るのか、それとも「時代の逆流」に乗るのかで、未来の子供たちの運命も、“繁栄”か、それとも民族抹殺といった“衰退”が決まっていきます。







もっともらしい“ウソ”予告?
2020.05.30
表題の「もっともらしい“ウソ”…」の次には「…をつく池上彰、朝日新聞」と続きます。

かといって、出はじめのころを除いて池上彰の番組は見ていません。

なぜなら、「NGT48山口真帆事件」のさいの“文春オンライン”などと同じように、50%の事実を述べながら、肝心の部分で50%前後の“ウソ”を語るので、信用できないからです。

これは、政治情報に関してはほぼ100%の“ウソ”を書く「朝日新聞」や「中国」などとは異なり、少々、やっかいです。

なぜなら、ほぼ100%が“ウソ”だとわかっていれば、その反対のことをやれば正しく日本や国民に有益になるので分かりやすいのです。

ところが、たとえば「70%の真実と30%のウソ」を我知らずとも信じて語る“宗教”をはじめとし、50%の事実を語りまた報道して「なるほど」と納得させながら、いちばん知られたくない部分に関しては“もっともらしいウソ”をさりげに語りまた報道する池上彰や文春オンラインなどの場合、よくよく考えないとどれが事実でどれがウソなのかを見抜くことが困難になり、騙されやすくなるのです。


一例を挙げます。

ご判断は皆様のご自由です。

好評だったNHKの「こどもニュース」から、池上氏が民放に出はじめ、それまでになかったわかりやすい解説や、臆せずに政治家に切り込むインタビューによって視聴率が上がり、人気もでました。

そのころのことです。

池上彰氏は番組の中で、「憲法は権力を縛るためにある」と語ったのです。

意外な解釈に、うなずいたかたもおられると思います。

ですが、本当でしょうか。

「憲法」は、コンステチューション(Constitution 国体)ともいわれるように、日本国家の根幹をなす最重要の規定です。

彼が、なにをもって“権力”としたのかはともかく、あまりに大雑把で乱暴な言い方に、失礼ながら「コイツはダメだ」と思いました。

一見、知識はもっていますので「なるほど」と思わされることも多いのですが、実は底が浅く、まさに他人の言動や情報でメシを食う軽薄なジャーナリストで“根っこ”がないと勝手ながら感じたのです。

それ以来、いっさい池上氏の番組を見なくなりました。

※当時はまだ事務所にテレビがありました。今はNHKに視聴料を払うのがおかしいのでテレビは置いていません。

簡単なことですが、憲法は“国家権力”にかぎらず、日本全体のあり方を規定し、国民一人ひとりに平等に適用されます。

その憲法で規定されているのは、「主権在民」であって日本の主権者は国民なのです。

この事実を知っていながら、「憲法は権力を縛るためにある」というのは、国民の自由を監視するためにあるといっているのと同じになりますが、そうではなく、憲法には国民の義務とともに「自由と人権」が保証されているのはジャーナリストならずとも誰でも知っています。


池上氏は、いったい何を言いたかったのか。

反日主義者のように“反権力”が意識の根幹になければ、あのような言葉を地上波のテレビで堂々と語ることはないはずです。

つまり、「憲法は権力を縛るためにある」という乱暴ないい方は、「政権」に対しても一方的な言い草ながら、まして主権者たる「国民」に対しても、“共産主義一党独裁的”な発想や思想が根底にあるとしかいいようがありません。


その後、数年が経ってからですが、池上氏に対して学者文化人などから、不評の声があがりました。

それは、池上氏の番組スタッフが、見識をもった学者や文化人に意見を聞いたあと、なんと(学者や文化人の)「名前を出さずに池上彰の考えとして番組で発表してよいか」と確認をとってきたという、複数の人々声でした。

やっぱり、そうだったのか。

もし、池上彰が一流のジャーナリストであれば、他人が取材し研究し得た情報を、自分が取材した情報かのように番組で公表することなどプライドにかけてしないし、実際、あってはなりません。

もっとも、これは数年前のお話で、現在の池上氏がそうだとは確認できていません。


お話は変わります。

今日(5月30日)に池上氏の特番が放送される予定です。

そこでは、「ウイルスに“打ち勝つ”、それは非常に難しいんです」とか、「人間というのはずっとウイルスと闘ってきて、“共存”してきました」とか、どさくさまぎれに、「これからどんどん環境破壊が進み、温暖化が進んだりすると、また未知のウイルスが出てくるかもしれません」などと語ります。

ちょっと待ってよ、池上さん。

歴史的に人類はウイルスに打ち勝ってきたし、新しいウイルスが発生すれば、それもいずれ克服していきます。

なので、ウイルスと“共存”してきたなど、十把一絡げにくくられても、そのつどウイルスは異なり、共存などしていません。

まして、環境破壊や温暖化から、今般の“武漢ウイルス”が発生したわけではないので、それって「池上さん、中国のカゲの代弁者をしてる」って思っちゃいます。

決定的なのは、温暖化による熱帯病などの「病原体」(菌)と「ウイルス」は別物だということくらい知っていると思うので、あ~ぁ、今夜も池上さん“もっともらしいウソ”を語っちゃったな、となりそうですね。

っていうか、まだ番組の放送前だから、わかんないけど…。








香港「国家安全法」の“代償”
2020.05.29
昨日、中国全人代で「香港国家安全法」が可決されました。

正式名称「香港特別行政区における国家安全保護に関する法律制度」は、まだ27年間ほど有効なはずの香港の自由を保障した一国二制度を無視して、自治を認めずに実質上、共産党一党独裁の中国本土と同じにしてしまうものです。

多分、習近平は、世界中から非難される“武漢ウイルス”の失策から目をそらさせ、国内へ指導力を誇示するために無謀にもゴリ押し的に成立させたもようです。

いずれにしても、国際ルールや条約を無視し、今般の“武漢ウイルス”もそうですが、世界人類の生命と安全を考えずに身勝手にも隠蔽し、さらには近隣の国家を“民族浄化”の名のもと、厚顔にもヒトラー以上に民族抹殺にかかる“反人間的”な人権弾圧国家が、この時代、この地上にいつまでも存続してよいものではありません。

このような、現代にあるまじき“無法国家”が、いわゆる民族性“蠍宮”と国体“獅子宮”による「中華思想」と先の双魚宮時代の旧い「共産主義思想」が結びついた中共の本質です。


小国ならいざしらず、世界的な影響力を相応ながらももった大国を中国が自負するのであれば、世界や人類に対する責任の片鱗でももたなければなりません。

日米をはじめとした先進国家は、個々人の自由と権利を守る意識をもって共通の国際ルールのもと、対等かつ平和的に運営しているのですが、それを逆手にとって、ひとり中国のみが“世界制覇”にむけたキバを陰に陽にむきだしにして平和を乱しています。

東西冷戦終結(1989年)後、“パクス・アメリカーナ”(アメリカによる平和)を24年間維持してきたアメリカですが、中国にもかかわり人気先行で無能な“史上最低の大統領”オバマによる「アメリカは世界の警察官ではない(ことに同意する)」と述べたマヌケなひと言から、アメリカはその地位を失いました。

オバマがそう述べた2013年から中国は“アメリカ弱し”とみて今日のようにキバをむき出し、世界覇権にむけて人類を危機に陥れはじめているのです。


宝瓶宮占星学から申し上げますと、民族性“射手宮”、国体“水瓶宮”、現体制“蟹宮”のアメリカは、「世界の自由民主主義を守る」という“天命”をもちます。

そんなアメリカが、その天命を果たせないとき、アメリカの衰退はもちろん世界の自由民主主義の危機がはじまり、人類の未来は“暗黒”を迎えます。

そのさなか、“天命”を受けたかのように泡沫候補として大統領選に立候補し、既存勢力の予想を裏切ってあれよというまに当選し、国際政治に登場したのが“軍隊経験”も“政治経験”もなくシロウトと呼ばれたトランプでした。

当然、当時“クリントン・ニュース・ネットワーク”今では“チャイナ・ニュース・ネットワーク”と呼ばれ揶揄されるCNNをはじめとした親中派マスコミや、日本の反日メディアからは、“非難轟々”のトランプでした。

しかし、宝瓶宮占星学サイトでは、そんなさなかであっても、当初からトランプ大統領に対しては、ホロスコープ(出生天球図)リーディングもさることながら、アメリカがもつ歴史的な“天命”をリーディングできていたことから、自由民主主義の“救世主”とまで称賛しました。

そのトランプは、無法者の覇権国家「中国」を、なんとかまともな先進国の仲間入りをさせ、国際ルールを守る国になるようにさせるため、あれこれ手をつくしてきました。

しかし、中国の習近平独裁政権は、それに応えることなく、さらには今般の“武漢ウイルス”での対応に、ついにトランプも決意を固めたようです。


当然、中国はそのことを知っていますので、「香港国家安全法」もそうですが、もはや隠すことなく、“オレさまが世界でイチバン”とばかりに、近隣諸国へはもちろん世界への対決姿勢をいっそうあらわにしてきた今月5月の現状です。

当ブログのほかの記事にも書いたとおり、第2次「東西冷戦」(米中冷戦)は、ついにその佳境を迎えた昨今です。

仕方ありません。

宝瓶宮占星学サイトでも当ブログでもお伝えしてまいりましたように、今年2020年は9年間続いた「組織運営変革の深化」のディレクションが、そのピークを迎えた年です。

なので、家庭をはじめ国民生活も、お店や会社組織といった組織運営も、当然、国家や国際関係などの組織運営も、根本的な大変革を「次代」をにらんで迫られざるをえないからです。


結局のところ、今般の“武漢ウイルス”によって、すでになかば機能停止に陥りかけているアジアの「国際金融センター」としての香港に、昨日決定した「香港国家安全法」という名の共産党一党独裁国家「中国」の監視や縛りが、具体的には今夏にも適用されると、これまで自由世界と共産中国(中共)をつないできた国際金融都市「香港」の機能が崩壊します。


国際金融組織の大半が逃げるか、機能を最小限にして撤退を図るのみならず、「香港人権民主法」を掲げる国際金融の中心地アメリカが、ついに最後の手を打ち中国経済の息の根を止めかねないためです。

もちろん、急激に追い詰めて戦争にならないように段階的に行なうと思われます。

それでも、習近平は「香港国家安全法」を今般通した理由は、すでに習近平が“裸の王様”状態で、正しく情報があがってこない可能性があることが第1点。

第2点は、すでに「WHO」などにみられるように、世界は中国の言いなりにできると共産国家らしく“幻想”を抱き思い込んでしまっていると考えられること。

さらには、第3点、もはや言っても聞かない独裁者、習近平にイチかバチか無謀な政策をわざと行なわせて、その“失策”をもって永代国家主席の座から引き下ろそうとしている「反対勢力」がいる可能性が見え隠れします。

つまり、結局のところ、“武漢ウイルス”に続く今般の「香港国家安全法」の可決は、一党独裁の中国共産党の“命運”を断つ可能性を含んだ賭けであり、実際、アメリカ次第ではそういった流れに発展していく可能性が高い“断末魔法案”になっています。









日本の“奇妙”な「成功」
2020.05.28
まだ、結果がでたわけではありませんが、感染者数を隠している中国をはじめ、世界中で感染拡大が見られるなか、当初の批判にもかかわらず、日本はうまく対処できています。

むろん“武漢ウイルス”のお話です。


このまま終息に向かうのか、それとも第2波がくるのかはともかく、「ロックダウン」(都市封鎖)もせずに「緊急事態宣言」が解除され抑え込んでいるのは、海外から“奇妙”な「成功」だといった声があがっています。

もっとも、なんでもかんでも安倍政権のせいにしたい「マスコミ」は、日本の対応を評価する海外の賛辞の声をあまり取り上げようとしないのはいつものことで、素直に信じるとバカをみます。

それはともかく、海岸沿いの狭い平野部をメインに、1億人もの密集人口をかかえ、全国的に感染が拡大しやすいのが日本です。

そんな日本にもかかわらず、精度の低いPCR検査数はともかく、“武漢ウイルス”の死亡者数は、結果的に平年の死者数とさほど変わらないという驚異的な状況にあるのです。


これらは、現場の医療従事者の懸命な活動と、正体がよくわからない未知のウイルスに対して、テレビでは見当違いの“ウソ”をならべた専門家やコメンテイターが多かったにもかかわらず、YouTubeなどをみても分かるように、“ウイルス”にかんする動画投稿には、「内閣官房室」が直リンクを自動的に張るなどして“喚起”し、国民に直接の情報共有を広くうながしてきたことの効果も大きいといえます。

政治は、「国民の安全」が現実に保証される結果責任が問われます。

どこまで正しいかわからない観念的な“理論理屈”や“主義主張”や“非難”などではなく、国土や国民主権や国民生活の維持存続が政治の結果としては重要で、現状の“結果”に対して海外からの評価は高いのは事実です。

“武漢ウイルス”の震源地中国などに対する「渡航禁止」は、アメリカよりも1か月以上も日本は遅れ、感染拡大に際しては、海外のように「都市封鎖」もせずに、“ぬるい対処”だと非難されたにもかかわらず、緊急事態宣言からわずか1か月あまりで感染数減少の結果を出したことで、“アンビリバボー”といった驚嘆の声があがっているのです。


今回の記事のテーマは、その理由です。

巷間言われているように、「握手やハグの習慣がない」、「玄関で靴を脱ぐ」、「マスクをする」、{もともと清潔な国民」など、分析がてらさまざまな推測がなされています。

そういった世間一般的な理由はともかく、ここでは根幹の理由についてです。

それは日本人が“遺伝子”としてもっている、国体“水瓶宮”の精神です。

大半の日本人は、「大災害」や「国難」にさいしては、“和、絆、民度”をもって協力し合います。

海外のように暴動を起こしたり、略奪に走ったり、治安を乱すなど、自分のことしか考えないことが日本では起こらないことに、海外の友好国は“称賛”し、敵対大国は“恐怖”をいだきます。

今般の“武漢ウイルス”においても、医療関係者は、“家族や地域のため”に我が身をかえりみずに治療に従事し活動を続けてくれました。

また、非難があるのは承知ですが、先の戦争でも、“国を守るため”また“家族を守るため”、自ら志願して散っていった若者がいたことも事実です。


なぜ、このような奉仕と犠牲の精神すなわち、“和、絆、民度”をもつに至ったのでしょうか。

まず、おテントーさまや大自然を尊ぶ民族性“魚宮”による日本的霊性(古神道)を根底にもつことが挙げられます。

同時に、それを方向づける国体“水瓶宮”によって、“天皇のもとに一つの国家”(統一独立国家)という、いわゆる「天皇制」の“遺伝子”が古来よりあるからです。

近代個人主義によって、ふだんは「そんなの関係ない」とばかりに生活することも多いのですが、「大災害」や今般の“武漢ウイルス”のような未曾有の「国難」に際しては、我知らずとも秘めた“遺伝子”が動きだして危機に立ちむかうのが日本人です。


平時でも緊急時でも、国が滅ぶときは、“内部分裂”が最大の要因の一つとなっていることは歴史の定番です

各自が身勝手な自分の利益のみを追求して行動すれば、国がバラバラになり、危機は確実に増大し、最悪のケースは国もろとも自分も滅びます。

しかし、日本人は、『日本書紀』のバックボーンとなっている天皇のもとに国は一つ、またそこに記されている「以和為貴 無忤為宗」(和をもって貴しとなす、逆らうことなきをむねとなす)といった、いわゆる“和のこころ”を、国難にさいしては呼び覚まされて、我知らずとも発揮していく国民性をそなえています。


このような、“和、絆、民度”をもつことが、結局は、ほかの個人主義オンリーの先進国とは異なり、今般の“武漢ウイルス”の国難に打ち勝ちつつある今日の日本の特徴です。


以前、このブログでも、“武漢ウイルス”は、これからはじまる「精神意識の変革」のディレクションの“予行演習”になっていますと書きました。

ひらたくいえば、「宝瓶宮時代」の“精神意識”となっていく、日本の国体(水瓶宮)に基づいた“和、絆、民度”をこれからは世界の人々が相応ながらも身につけて、新しい時代のバックボーンとしていくことをうながす「星のディレクション」なのです。

そのとき、日本および日本人はその“先駆け”また“お手本”となる使命をもちます。

逆にいえば、そこに時代の流れとともにある“天運”が日本と世界にともなうようになっています。








ついでに「邪馬台国」を問う
2020.05.26
先の「消された九州『邪馬台国』」と「補足:阿毎多利思比孤」のついでに、邪馬台国そのものに触れておきます。


◆ 邪馬台国の“遺跡”

古代支那の歴史書『三国志』(魏志)や、『隋書』、また『旧唐書』を読んでいくと、くだんの「邪馬台国」は、北部九州にあったことがハッキリとわかります。

畿内大和を“邪馬台国”にしたい学者は、よほど読解力がないか、意図的に日本を中国の冊封国家にしたい“曲学阿世”(きょくがくあせい)の徒としか思えません。

かつて、金印が発見された「奴国」をふくむ地域が卑弥呼を和の象徴として共立した「女王国」だったと容易に読めるからです。

なので、卑弥呼が都した「邪馬台国」は、奴国があった北部九州でしかなく、いわゆる“北部九州連合”「倭国」が3世紀に築かれていたのです。

ちなみに、「邪馬台国」の“遺跡”が、吉野ヶ里などのようにみつかることを期待してもムリで、防御にも優れた土地にあったために、その後の歴史においても相応ながら要所として発展し、遺跡のうえに数々の建築物が建てられたり、市街地などとして今日では発展しているためです。


◆ 日本列島の当時の国

「邪馬台国」の比定で注意すべきは、邪馬台国が栄えた3世紀当時、“玄関”である九州からは遠かったために支那の記録には残らなかっただけで、同様に繁栄した国家は、日本列島の各地にありました。

それを、支那の文献に残っているからといって、「邪馬台国」だけしか当時の日本に繁栄した国家がなかったと考えると、とんでもない間違いをします。

そのような視野狭窄におちいると、古代に栄えた遺物や遺跡また記録などが発見されると、「すわ! 邪馬台国か」となんでも錯誤してしまうことが起こります。

そうではないのです。

3世紀前後の当時、邪馬台国以外に栄えた国は、だれでも知っている一例をあげれば、出雲、丹後、阿波、諏訪など、かなりの数の国がありました。

そのなかでも、出雲や阿波は特別で、出雲は独自文化なので「邪馬台国」だと主張する人は少ないのですが、阿波をはじめ四国の場合、「邪馬台国は四国にあった」とかたくなに信じ込む人が多いのです。

それは、阿波には古代ユダヤ支族にもかかわる遺物などがあり、天皇家にもかかわる忌部氏がいるなど、“特別”な国なのですが、それゆえ逆に、「支那の冊封下」にあった「邪馬台国」などでは決してありえません。



◆ “邪馬壱国”(やまいこく)

いまだに「邪馬台国」を“邪馬壱国”(やまいこく)とよぶ人がいます。

結論をいえば、“邪馬壱国”は間違いで「邪馬台国」(やまたいこく)が正しいのですが、俗称“魏志倭人伝”こと『魏志』(倭人条)には、たしかに“邪馬壱国”(やまいこく)と記されています。

それをもって、「邪馬台国はなかった」というのは、歴史の事実を知らない短絡思考です。

日本や支那の学者たちが、『魏志』(倭人条)には“邪馬壱国”(やまいこく)と記されていることを知りながら、なぜ今日に至るまで「邪馬台国」(やまたいこく)と呼び、語り継いできたのかを考えなければなりません。

カンタンです。

当時の学者は誰でも知っていましたが、『魏志』(倭人条)の“邪馬壱国”(やまいこく)こそが例外で、ほかの文献は“魏志倭人伝”のタネ本となった記録もすべてふくめて、「邪馬台国」(やまたいこく)と正しく記されていたからです。

では、それをなぜ“魏志倭人伝”のみ、“邪馬壱国”(やまいこく)と記したのでしょうか。

それは、曲学阿世とまでは申しませんが、“TOP”におもねて史実を曲げて記すことでも知られている著者「陳寿」(233‐297)が、「臺(台)」(たい)という字は、皇帝の“玉座”やその直属の“政務庁”をさすことがあることから、東夷の国(日本)に使うことをはばかり、意図的によく似た「壹(壱)」(い)に変えて記したからだといえます。

もっとも、「臺(台)」であっても、“しもべ”を象わしますので気の回しすぎだったです。

それを知っている当時の学者たちは、ちゃんと「邪馬台国」(やまたいこく)と表記してきました。

そういうことがありまして、二代目女王「台与」(とよ)も、“壱与”(いよ)ではないために、四国と邪馬台国は関係がありません。



◆ 水行20日、水行10日陸行1月

半島の付け根付近にあった「帯方郡」から、邪馬台国」にいたる行程をどのように読むかで所在地が異なります。

平和ボケしてしまうと、「南は東の間違い」だとか、「1月は1日の間違い」だとか、かってな解釈をはじめます。

しかし、昨今の旅行記とは異なり、当時の記録は「軍事偵察」なので、少なくとも重要な方角を東を南に間違えたり、行軍に必要な日数を意図せずに間違えるということはありません。

俗称“魏志倭人伝”に記される行程を、「帯方郡」や一大卒がおかれた「伊都国」から直列に読むか放射状に読むかということですが、直列とともに総括的に併記されています。

帯方郡から女王国(北部九州)の「伊都国」までの前半は行程を直列で記し、諸国を検察する伊都国から国内を紹介する奴国と不弥国までは同様ですが、その後に記される投馬国と邪馬台国は、日数による併記になっています。

つまり、不弥国までは「里程」で記したあと、南に海はないにもかかわらず、急に水行に変わり「日数」で「投馬国まで水行20日、邪馬台国まで水行10日陸行1月」と記されるのは、再度「帯方郡」から何日ほどかかるかを述べなおしたものです。

なので、「水行」のみで行ける投馬国は海に接した海岸沿いにあり、「陸行」が必要な邪馬台国は、河川の上流域でありながらもかなりの内陸部にあります。

この「陸行1月」を、現代人の感覚でとらえると間違います。

当時は、整った道路や照明灯はなく、河川を流れに逆らって遡上したり、草木が生い茂る山道や獣道をとおったり、さらには安全や食料を確保したり、日が暮れないうちに野営の準備をしながら進むことが多いために、港に到着後、直線で60~70kmの距離であったとしても、曲がりくねった道や川沿いを高低さを経ながら進めば、1か月近い日数を要します。

北部九州で、河川の上流域に位置し、防御にも優れ、近隣にひらけた土地がある場所で、“魏志倭人伝”に記されるように北にも南にも接することができ、さらに申し上げますと、徐福などにも由来して支那語が残る可能性が高い地域といえば、「邪馬台国」に比定できる場所は、ほぼ1つしかありません。

比較的に有名な場所の近辺なので、皆さまにもお考えいただきたいのですが、奈辺がありし日の「邪馬台国」です。







補足:阿毎多利思比孤
2020.05.24
戦後日本のマルクス史観に片寄った似非歴史学者の古代日本史また半島や大陸第一主義の近代歴史観は、意図された間違いがあります。

そういった先入観を捨てて、客観的に歴史の事実をみてみましょう。

現代の共産中国が、文化大革命で否定した「古代支那」の文化や歴史書には、両面性がありますが、まだまともな部分もありました。

“中国4000年の歴史”というとき、現代の共産中国(中共)は70年の歴史しかなく、中共はことごとく「古代支那」の文化文明を共産主義思想のもと否定したままなのです。

なので「中国」をどう定義するかにもよりますが、“中国4000年の歴史”というのは真っ赤なウソで、現在の中共と、「古代支那」は大半が異なる民族国家であり文化的にも連続性がありません。

「古代支那」には、まだ正しい歴史を残そうとした「真実」がみられますが、現代の中共は、今般の“武漢ウイルス”の一件をみてもおわかりのとおり、マルクス・レーニン主義(共産主義思想)に毒された“ウソ”の歴史でいろどられています。

戦後、日本の歴史学界も類似で、共産主義思想による“色メガネ”でみた学説にもとづいた歴史教育が行なわれてきました。

ちょうど朝日新聞などの反日マスコミが、半島や中国の“悪どい”側面は報道せずに、日本やアメリカを“批判的”にでっち上げて報道するのと、まったく同じ思想的心理があります。

意図的にそれを行なっているのですが、彼らは共産主義思想による“正義”という誤まったバックボーンを“信仰信条”のようにもつために、その過ちに気づいていません。


以上をご理解いただいたうえで、まだ一面の歴史的真実があった「古代支那」の歴史書を見ていきましょう。


◆『旧唐書』より抜粋

【倭国伝】
倭国は、いにしえの奴国なり。(中略)世々中国と通ず。(中略)その王の姓は阿毎(あめ)氏。

【日本伝】
日本国は倭国の別種なり。
(中略)あるいはいわく、倭国自らその名の雅やからざるをにくみ、改めて、日本となすと。
あるいはいう、日本、ふるくは小国なれども、倭国の地を併せたりと。

※『旧唐書』=618年~907年の唐の記録、945年に奏上。


いかがでしょう。

「倭国」と「日本」は別の国だったと書かれ、事実「倭国伝」と「日本伝」が『旧唐書』には併記されています。

また、倭国は、有名な「漢委奴国王」の金印が福岡(志賀島)から出たことでも知られるように、福岡県北西部に位置した、いにしえの「奴国」だと記録されています。

要は、九州「倭国」が存在したのです。


もうひとつ、時代をさかのぼりますが『隋書』を見てみましょう。

◆『隋書』より抜粋

【倭国伝】
倭国は、(中略)『魏志』にいうところの邪馬台(国に都す)なるものなり。
(中略)名は卑弥呼、よく鬼道をもって衆を惑わす。

開皇20年(600年)、倭王の姓は阿毎、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、号して阿輩雞弥(あほけみ:大王=おおきみ)というもの、使いを遣わし(中略)
「(中略)日出ずれば、理務をとめ、わが弟に委ねんという」

高祖いわく、「これ、はなはだ義理なし」


この7年後、阿毎多利思比孤大王は、再び隋に使いを遣わし、有名な言葉を伝えたことが『隋書』に記されています。

「日出ずる処の天子、書を日没するところの天子にいたす。つつがなきや云々」

※『隋書』=隋 581年~618年の記録。文帝と煬帝の2代で滅亡。


日本をおとしめたい歴史学者が、意図的に間違えて教えてきたことは、「日出ずれば、理務をとめ、わが弟に委ねん」をそのまま非文明的な日本だったので、大化の改新が必要だったというマヌケな解釈です。

なぜなら、次の使者による「日出ずる処の天子」という一文は、“すでに日が昇った”ということからメッセージされたものだからです。

その意味は、九州「倭国」は、“すでに理務(政権)を“弟”にゆずったよ、ごきげんはいかが”という上から目線の「独立宣言」なのです。

それゆえ煬帝は、「蛮夷の書、無礼なる者あり」と怒ります。

ここでいう“弟”というのは、本州「日本国」のことなのです。


前文の高祖文帝が「はなはだ義理なし」と言ったのは、古くから支那の「冊封下」にあって邪馬台国の卑弥呼などさんざん世話になっておきながら、いまさら「日本国」(弟)に政権をゆずるから冊封下から抜けるというのは、「義理がないではないか」と言っていたのです。


このへんの記述は、隋(支那)は、倭国が自分の代で冊封下から抜けるのは不名誉なので、「日出ずれば、わが弟に委ねる」などとワケのわからないことを倭国が言ってきたかのように、ボカした表現で記録していることに気づかなければなりません。

結局、九州倭国王の阿毎多利思比孤は、実の“弟”が本州畿内国「日本」にいたかはともかく、禅譲基盤ができたので、九州「倭国」を小国の畿内「日本国」に“吸収合併”させるカタチで、支那の冊封下から抜け、「統一独立国家大和」を7世紀初期に築くことに成功します。


なぜ、このような外交交渉ができたのかというと、当時の隋は他国との戦いで倭国にまで手がまわらず、実際的にも“滅亡”寸前だったので、日本に攻め入ることはできないと、阿毎多利思比孤は完全に読んでいたからです。

もちろん、かつての“東征”による成果が出て、本州畿内国に「政権基盤」が整ったからでもあります。

それは、『日本書紀』でいう「推古天皇」の御世で、推古女帝はまだ若く傀儡政権で、実質の権力を握っていた「蘇我馬子」の時代なのです。


つまり、蘇我馬子が、九州倭国王、阿毎多利思比孤の実際の“弟”なのか、それとも多利思比孤“本人”なのかはともかく、九州倭国の「歴史書」は、吸収合併後の「蘇我本宗家」に移されていたのです。

『日本書紀』には、蘇我入鹿が中大兄らに弑逆されたクーデター「乙巳の変」のさいに、蘇我氏自身が「歴史書」を燃やしたとしていますが、実際は燃やされたことにして“証拠隠滅”を図り、九州「倭国」の歴史を消し去ったのです。

しかし、九州「倭国」の歴史の一部は、『古事記』や『日本書紀』のなかに、九州「倭国」の出来事としてではなく、古代“大和の歴史”かのように書き換えられて、断片的に残されています。








消された九州「邪馬台国」
2020.05.21
文献などに直接の証拠は記されていません。

ですが、支那の歴史書『三国志』に記される“いにしえの倭国”こと「邪馬台国」が、日本の正史『日本書紀』に記されていないのは事実です。

なぜでしょうか?

宝瓶宮占星学サイトでは、『日本書紀』の“編集方針”の解明から、次のように結論しました。

1、当初からの統一独立国家「日本」とするため。
2、有史以来の万世一系の皇統を記すため。

結果、

3、統一大和政権以外の“国”は記さない。


『日本書紀』は、天武天皇(てんむ てんのう)によって編纂が命じられ、天武崩御後の720年に完成し上奏されます。

その経緯は、天武天皇即位のわずか10年前に、天智天皇(てんじ てんのう)こと中大兄(なかのおおえ)が、朝鮮半島で唐羅連合と戦った「白村江の戦い」(663年)で敗北し、いつ玄界灘を越えて唐が攻め込んでくるかもしれなかった時代があったからです。

敗戦の翌年、急遽、太宰府に「水城」(みずき)を築き、瀬戸内海沿岸に「山城」(やまじろ)を築きます。

しかし、さいわいにして、唐と新羅は仲間割れをし、戦さをはじめたために、唐は逆に日本に使節を送って新羅と組まないようにけん制したこともあって、ことなきをえました。


さらにさかのぼる、512年のことです。

継体天皇は、朝鮮半島南部にあった領土「任那4県」を、仲間内だった「百済」に割譲します。

その百済も、約120年後の630年に滅ぼされて、日本は半島への足場を完全に失いました。

その百済復興をかけて、中大兄が「白村江の戦い」を起こしたわけです。

敗戦後の日本の国内はバラバラで、信望のなかった天智天皇(中大兄)に代わり、大海人皇子(おおあまのおうじ)こと天武天皇による挙国一致の国づくりがはじまります。

その“バックボーン”として、1000年後も皇位争いを起こさないように編纂を命じたのが『日本書紀』です。


その「編集方針」は、有史以来、当初からの統一独立国家「日本」(大和)であり、神武天皇以来、万世一系の皇統による臣民国家であることを明文化して意識統一をはかることでした。

そういった事情があるため、当時からすでに400年以上も前のことながら、魏の冊封下にあった北部九州連合こと「倭国」や「卑弥呼」はもちろん、女王が都する「邪馬台国」のことを記録に残すことはしなかったのです。

もし、記してしまえば、正当性をもった当初からの「統一大和」にならないし、天皇のもと「卑弥呼」のあつかいにも困ってしまいます。

そのため、倭国の名称を消し去り、支那に対しては、“倭”(わ)の音を流用した「大和」と改名したわけです。


一方、北部九州連合「倭国」は、3世紀の卑弥呼以降、一部が東征したものの九州で存続し、俗にいう“九州王朝”こと後期「倭国」として存続していました。

しかし、600年、当時の阿毎多利思比孤(あめのたりしひこ)倭国大王(おおきみ)は、隋に使いをおくって支那の冊封下から離れる旨を告げ、事実上の「独立宣言」をします。

このときの髙祖文帝の言葉が「はなはだ義理なし」でした。

九州倭国大王は、自国を小国だった本州畿内国(大和)に吸収合併させるかたちで、「大和王朝」を7世紀初頭に築きます。

これが名実ともの「統一大和」のはじまりです。

この時点で、冊封下にあった北部九州連合「倭国」も、むろん卑弥呼や「邪馬台国」も、のちの“九州王朝”こと後期「倭国」も、吸収されて消えたのです。


ついでに書くと、『日本書紀』の上奏にあたって消されたものがあります。

7世紀の統一大和の立役者「蘇我本宗家」も、中大兄らによってでっち上げられたクーデター「乙巳の変」(いっしのへん:645年)によって、九州倭国の数々の「歴史書」とともに消されてしまいました。

“聖徳太子”がつくったとされる「冠位十二階」は、倭国の阿毎多利思比孤大王が定めたものであることが、『隋書』を読めばみえてきます。

その意味は、九州倭国大王また蘇我本宗家の功績は、すべて“聖徳太子”という名のもとに置き換えられて記録されていることを物語っています。









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