ジャパニーズ俳句論
2022.05.28
 
[情感と自由] ジャパニーズ俳句論
― 日本独自の感性と大衆文化 ―



◆「大自然の四季への共感性と崇敬が生んだ五七五



日本独自の文化「俳句」(Haiku)にはドのつく素人です。

ヤボを承知でアストロロジーの観点から切り込んでみたいと思います。

芭蕉、素堂の著名な句はいかがでしょうか。





≪英訳が困難な俳句≫

俳句を英語に訳すのはたいへんなようです。

直訳すると『百匹のカエル』というタイトルの本があります。

「ONE HUNDRED FROGS」(‎ Weatherhill; New版 1995/5/1 Paperback 128頁)です。

日本の俳句を代表する芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」の英訳集だそうです。

早いお話が、英語で表現しづらいので、100種類ものさまざまな英訳文があるのでしょうか。


【One Point】 気になるかたは英訳文をタグってみてください。

上述の本は、4,000円(税込)ほどでネットから購入できると思います。

なぜ、そういった英訳文にしたのかを読まれたり考えることで、逆にジャパニーズ俳句を理解できるかもしれません。



≪日本人が感じる風情≫

「古池や 蛙飛び込む 水の音」

日本人なら何かを感じとれる風情がある松尾芭蕉(1644-1694)の五七五の十七音です。

ですが、英語はそうはいきません。

いちいち主語がどうの、定冠詞がこうの、単数形か複数形かなど、ロジカルな言語なので、五七五を単に英語にしても、それがどうしたのとなります。

「古い池があって、蛙が飛び込んで、水の音がしました…」で、それがなにか? って感じでしょう。

虫の鳴き声は、世界的には日本のように情緒を感じるものではなく、騒がしい雑音に聞こえるといいます。

蛙が飛び込んで水の音がしたからといって、そこに心が動かされることはないようです。


【One Point】 ですが、このジャパニーズ俳句の代表作は、外国人の興味をひくようです。

どこがいいの? といったようにミステリアスだからでしょう。

理解不能な異文化をクールにとらえて、賛否はともかく自分なりに咀嚼(そしゃく)しようとする習慣をもつからでしょうか。



≪禁断の季重なりの秀逸≫

もう一つの例をご紹介しましょう。

「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」

有名な句ですが、少し俳句を知っていれば、なにこれ? となりそうです。

「青葉」も「ホトトギス」も「カツオ」も季語で、俳句には 「季語は1つ」というのが基本的には常識なので、季重(きがさ)なりがひどすぎるということになりかねないからです。

でも、芭蕉とも近い山口素堂(1642-1716)のこの句は、それがいいんですよね。

日本人なら何となくでも感じるのではないでしょうか。

四季折々の楽しみが五感に染み込んでいるからです。

青葉が美しい季節になったよね…視覚、杜からはホトトギスの麗しい鳴き声が聞こえるし…聴覚、海からは新鮮な初ガツオが食せる…味覚、よい季節が来た…肌感、って感じでしょうか。


【One Point】 ヤボ、野暮、やぼったい解説はやめましょう。

何をどう感じるのかは、それぞれの好みや知識また見識に応じて、ご自由に楽しめばいいのです。

この句に興味をもってもいいし、もたなくてもいい。

大自然に八百万もの神々がやどる多様性の日本ですから。



≪魚宮と水瓶宮の精神性≫

そうですね。

日本は、四季折々に大自然の美しい変化を体験することができます。

旬の食彩を日常生活で共通して体感できる環境にあって、大自然を大切にしてきた日本的霊性が根底にあるからです。

宝瓶宮時代のアストロロジー通称:宝瓶宮占星学では、古来から日本人は、魚宮に象徴される「民族性」をもち、水瓶宮で象わされる「国体」をもつ国家です。

魚宮の象意によって、時空を超えた日本的霊性や豊かな情感をもちます。

さらには、天皇のもとで臣民平等の自由や対等的な精神意識をわれ知らずとも心のどこかに持つ国家体制が日本です。

五七五で短く切り取った俳句は、そのほうが、それぞれの感覚で自由に解釈できるということでしょう。


【One Point】 さらに戦後の日本は「現体制」が日常生活や、安全で快適性を追求する牡牛宮に変わりました。

日常を詠んだ俳句は、いっそう心にフィットするようになったのです。

江戸時代からの識字率の高さも、五七五の楽しみに関係しているといえます。



≪カワズは求愛したのか?≫

最後に、上掲の句に独自解釈を加えておきます。

「古池や カワズ飛び込む 水の音」は、恋愛などをふくめた情感を暗喩しているようです。

周囲の川や海で泳ぐことが自由にできた時代は、告白に成功したり、逆に失恋したりしたときに、古来からのみそぎではありませんが、水に飛び込むということがあって、ドラマでもよく描かれたりします。

また、かつて1985年に阪神が初めて日本一になったとき、ファンが道頓堀にジャンプするという現象が起きたのも、優勝が嬉しいからで、似たようなものです。

理論理屈で考える必要はありませんが、カワズが飛び込んだのは悲喜こもごもどちらでもいいし、それとは関係なくごくふつうに池に飛び込んだととらえてもかまいません。

また、由緒がどこまである古い池かもどちらでもよく、たまたま古い池だったというのでもいいし、自由な情緒と理性的精神で解釈が可能な五七五だからこそ、日本的だといえます。


【One Point】 お気づきでしょうか。

日本は時代的にみて最先進国です。

お話は変わるようですが、アストロロジーと占星術は異なり、前者は宝瓶宮時代に通じて客観的な理論をともなう理性的精神があり、後者はかつての双魚宮時代に通じて主観的な占いで情緒的です。



【独自の英訳に挑戦】

俳句も英語もシロウトなのですが、それなりに独自の英訳にチャレンジしてみました。

お笑いください。

―― Ancient pond, Affectivity frog diving and sound of vibes. ――

個々人の自由な解釈に任せればよいという観点から、必要以上に説明せずに、Ancient:往古といった歴史的な池にして、どこにでもいる frogではなく、Affectivity frog と、ジャパニーズ俳句らしく情緒をもった蛙にしてみました。

最後は、スラングで申し訳ありませんが、大ヒット曲「The Sound of Silence」をもじって、波紋も想起させるであろう vibes. と外国向けに締めました。

ふつうに sound. で締めてもいいし、 in heart. でもよかったのかもしれません。









“宿痾”と友愛精神の絆
2021.10.09
 
さてさて、不思議といえば不思議ですが、当たり前といえば当たり前のお話です。


眞子様をはじめ、芸能人の結婚また離婚がマスコミ沙汰になっています。

芸能人といえば一般に“美男美女”が多く、また周囲からもチヤホヤされることもあって、人間であればどうしても“わがまま”や“自己本意”になりがちではないでしょうか。

そんな芸能人が結婚すると、夫また妻が自分の思いどおりにならず、また思い描いたようにはいかないため、やがて「離婚」に至ることが多いのです。

なのですが、離婚したカップルから次のような声が聞かれることがあります。


「結婚しているときよりも、お互いがオープンになれている感じ」

「離婚して何かがいきなり変わった」

「もっとこうやって楽に考えればよかったねみたいな」


といったように、離婚することによって、かえってフランクにお互いに接することができるようになったというケースです。

上述は、DVなどを告白し、芸能人の夫と離婚した元AKB48で“不動のセンター”といわれた前田敦子(30)の告白です。

離婚したほかの芸能人も似たようなことを語っていました。

離婚してわだかまりがなくなり、ふつうに接することができるようになったと。


たぶん、話題の眞子様も同様だと思います。

今は、“反対されるほど恋は燃え上がる”といった状態です。

きっと過度な期待を相手に抱いていることでしょう。

ですが、もしご結婚されればその反動もあって、“破局”また“離婚”の二文字がソーラーチャートからリーディングできます。

結局、結婚また夫婦という関係は、過去の“宿痾”(しゅくあ)もあって、どうしても「夫は自分のもの」「妻は自分のもの」といった“所有観念”や“支配/被支配”の想いが無意識に起きやすいのです。

結果、時代がら、自分の思いどおりにならない夫また妻に不平不満を抱くことになります。

いさかいや挙句はDVへ昂じると、我慢の限界をこえて「離婚」に至りやすくなります。


そんな夫婦も、離婚してしまうと、もとの“他人”に戻ります。

そうなると、縛る必要がなくなるため、つまり“自分のもの”といった所有観念がなくなり、ふつうに一人の(好みだった)異性として接することができるようになるようです。

それが、上述の前田敦子をはじめ離婚した人がいう「離婚して何かがいきなり変わった」という心理状態でしょう。


当方のお客様で、「夫婦カウンセリング」を営むかたも言っていました。

職業上、知りえた秘密にあたりますので、詳細は書けませんが、夫婦といえども“あかの他人”とは申しませんが、ふつうに一般の(好ましい)異性として接したほうがよいようです。

要は、古い双魚宮時代の「対立二元論」によって、“好き/嫌い”の感情や“支配/被支配”といった古くからの“宿痾”(しゅくあ)で接する時代ではないのです。

宝瓶宮時代の新たな「共鳴関係論」によって、お互いに自由な意志を持った一人(個性体)として、夫婦や結婚関係を営むほうが、時代の流れにそって、天運(運勢)がともないやすくなるためです。

眞子様も束縛しない「友愛精神」(和、絆、民度)でもって、接することが必要ではないでしょうか。

絶対とはいいませんが、宝瓶宮占星学からはそういえます。








JOMON/RINGOMUSUME
2021.03.03
 
「青森の縄文遺跡群」のイメージソング『JOMON』のご紹介です。

YouTubeに今年2021年2月10日にアップされていましたので、すでにご視聴のかたもいらっしゃると思います。

日本の原点「縄文文明」がテーマで単純に面白いとおもいました。

青森のご当地スター、いまや全国区でみかける「王林」(おうりん)をリーダーとする「RINGOMUSUME」(りんご娘)が「三内丸山遺跡」などで撮影した「青森縄文遺跡群」のPRムービーです。


*バックは夜の三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)

https://www.youtube.com/watch?v=_k_KFMJhU1M

●「青森の縄文遺跡群」イメージソング『JOMON』PR MOVIE

本日現在:103,020 回視聴 アップ日:2021/02/10
チャンネル:「JOMON AOMORI みんなでめざそう世界遺産!」



【ご参考】…説明欄の内容です。
2021年の世界文化遺産登録をめざす北海道・北東北の縄文遺跡群。その中央に位置する青森県が、県内8つの縄文遺跡(※)を舞台に「青森の縄文遺跡群」のイメージソングを制作。王林(おうりん)率いるRINGOMUSUME(りんご娘)が、縄文からインスピレーションを得た現代的衣装に身を固め、縄文遺跡を舞台に歌とダンス、遺跡の空撮や出土品など圧倒的な映像美で縄文遺跡の魅力を伝えます。
縄文と現代をシンクロしながら展開する、時空を超えた新感覚のPR MOVIEは、MVとしても見応えのある本格派。「青森の縄文遺跡群」とRINGOMUSUMEの世界を目指すコラボレーションをぜひご覧ください。

※特別史跡 三内丸山遺跡(青森市)、史跡 小牧野遺跡(青森市)、史跡 大森勝山遺跡(弘前市)、史跡 是川石器時代遺跡(八戸市)、史跡 田小屋野貝塚(つがる市)、史跡 亀ヶ岡石器時代遺跡(つがる市)、史跡 大平山元遺跡(外ヶ浜町)、史跡 二ツ森貝塚(七戸町)













「老子」と時代遅れの「孔子」
2021.02.18
 
ふと思いついて書いてみる、どうでもいいお話です。

よく対比されることがある“人気”の「孔子」と、“弱者の思想”などと勘違いされる難解な「老子」のお話です。

ちなみに“子”(し)というのは、「先生」というほどの意味で、「孔子」といえば“孔先生”、“老子”といえば“老先生”ということになります。

『孫子の兵法』で有名な「孫子」というときも同じです。

日本では、孔子の「儒教」の教えが案外と“ハートフル”に定着しています。

お隣の半島国も、「自分たちは儒教の国だ」と自慢することがあるのですが、単に身分や上下関係を明確にするための“型式”だけの儒教なので、中身はありません。

要は、どちらの年齢や学歴や身分や持ち物が立派で、上か下かといった“マウント”をとるためのものといってもあながち過言ではないのです。

もっとも、最近の若い世代の状況はよく知りません。


一方、儒教発祥の地「シナ」(中国)ではどうなのでしょうか。

どちらかというと、儒教は定着すらしておらず、最近になって“孔子”の名を悪用して「孔子学院」を日本やアメリカをはじめ世界で広めてきました。

中国語や中国文化を広めるといった名目なのですが、実状は“スパイ活動”の拠点の一つになっているのはもはや知られた事実になっています。

それでも“利権”に絡んでやめられないのが日本の大学なのかもしれません。


いずれにしても、かつて孔子は、自分の教えを王侯に伝え、仕官(しかん=雇ってもらうこと)しようとしたのですが、すべての王侯から相手にされませんでした。

生き馬の目を抜く支那(中国)においては、「忠孝」(君に忠、親に孝)といったようなことを説いても、前者は出世のための名目にすぎず、後者は当たり前すぎて「儒教」の教えは理想的な観念論(机上の空論)同様で、実用性がなかったといえます。


ところが、これに目をつけたのが、300年近い天下泰平の世を開いた「徳川家康」でした。

部下が主君を弑逆(しいぎゃく)してなりかわる「下克上」の乱世を終わらせ、天下を平らかに保つには、下克上は「悪」であり、一所懸命に主君に仕え殉ずることが美徳であるという、上下関係を固定する規範をとりいれることを家康は考えました。

そこで目をつけたのが「儒教」です。

儒教を推奨した家康は、寺子屋でも子どもの頃から「子曰く…」(先生がおっしゃるには…)などと、「五常」の“仁、義、礼、智、信”といった徳性や、「五倫」“父子、君臣、夫婦、長幼、朋友”の関係を維持し、社会ルールを守ることを教えてきました。

この“規範”によって、徳川将軍家には、だれも反抗できなくなり、天下泰平の世を築く“思想的バックボーン“となったのです。


もっとも、歴史は皮肉です。

天下の副将軍家「水戸藩」で編纂された『大日本史』によって、日本国の最高の君は「天皇」ということになりました。

これが広まると、幕末には水戸藩から養子に行った最後の将軍「徳川慶喜」さえ、天皇にはむかって“逆賊”になることを恐れ、「大政奉還」を行なうことになります。

日本には、“民族性”「魚宮」による日本的霊性のバックボーンがありました。

なので、本来、無駄な争いは好まず、儒教の規範を“ハートフル”に受け入れることができました。

なぜなら、徳川政権下の“現体制”は「武家諸法度」などによって、“役人”や“官僚制度”を象わす「乙女宮」だったからです。

「乙女宮」は、「魚宮」の対宮に位置し、要は“民族性”にない明確な規範(ルール)を徳川政権が“現体制”としてもたらしたので、宝瓶宮時代の影響圏に入っていた当時の「双魚宮時代」においては、うまくマッチしました。


しかし、宝瓶宮時代が正式にはじまると、儒教は長続きしません。

なぜなら、老若男女のだれもが自由で平等(対等)に、各自の個性を発揮できる社会に、漸次、なっていくからです。

若いからといって侮れないのです。

むしろ、既成概念にとらわれない若い感性や情熱ゆえに、“天才”とみまごう独自の個性の発揮が可能になるのが「宝瓶宮時代」です。

その点では、孔子の「儒教」は、もはや時代遅れです。


一方、ここで詳しく書く余地はありませんが、むしろ「老子」の本来の教えのほうが、今後の宝瓶宮時代にはふさわしいのです。

識者の中には、誤まって老子を“弱者の思想”と説く人がいます。

勘違いです。

彼は、宇宙この世界の道理を見抜いて「無為自然」を説きました。

それも、庶民に向けてではなく、王侯貴族に対して「無為自然」を説いたことを知らなければなりません。


「無為自然」というのは、やや極論になりますが、為政者(王侯貴族)は何もせずに自然のままに任せておけは、世の中は大乱なく治まっていくという天の道理を説いたものです。

身分や学歴や地位を重んじる「儒教」とは正反対です。

そういった、老子の教えに反して、支那はもちろん現状は、学歴はあっても私利私欲をもった日本の官僚や為政者(王侯貴族)が、あれやこれやと小賢しく、こまごまと対処するので、そこかしこに矛盾が生じるのです。

老子は、お酒の銘柄にも採用された「上善如水」で知られています。

この“上善は水の如し”という道理もそうですが、「大国を治むるは小鮮を煮るが如し」とも述べています。

“小鮮”というのは魚のことですが、小魚にかぎらず魚は何度もひっくり返して焼いたり、いじりまわすと、身が崩れて見た目も悪くなりますし、うまみもにげてしまいます。

同様に、あまりいじらないことが「国」を治めるコツだと説いたのです。


いわば、大和民族(縄文人)が古来から大事にしてきた大自然を敬うことです。

自然のまま大切にすれば、水や山海の食料に恵まれた豊かな日本列島では、争いが起きなかった“古神道”の時代に共通します。

老子の「無為自然」というのも似たような意味です。

ただ、庶民に対して「無為自然」を述べたのではなく「為政者」(王侯貴族)に対して述べました。

“無為”=あえて何かをしようとせず、“自然”=大衆の働きのままに農作や漁業に任せておけば、それがもっともよく世の中が治まる道だと。

そのように宇宙この世界の奥深い道理を“玄の玄”によって説いたのです。


これからはじまる「宝瓶宮時代」の“実体社会”もこれに類似しています。

国民の一人ひとりが“主人公”となり、自由な個性の発揮が可能となる友愛社会(和、絆、民度)の社会に、漸次、むかっていきます。

「宝瓶宮時代」は、かつての双魚宮時代のように「支配/被支配」の社会ではなく、「共鳴関係論」の世界になります。

なので、国民の主体性に任せて、お上は必要以上にやらないほうがよい時代になっていきます。

逆にいえば、国民一人ひとりの“自覚”が必要な時代です。

それが、今後の「精神意識の変革(覚醒)」のディレクションともなっています。












「仲秋の火星」が見れる
2020.10.07
計算上では、昨日10月6日に地球に最接近した「火星」です。

ですが、見ごろは太陽と火星が衝(オポジション=180度)をとるこれからになります。

牡羊宮23度を逆行中の「火星」と、本日7日に天秤宮13度に至った「太陽」は、宝瓶宮占星学がとる許容度数(オーブ)10度では、いよいよ今日からが衝(180度)に入ります。

いわば、火星の“満月”です。


最接近の昨今うえ満月状態なので、夜中の12時ごろだと天頂付近にひときわ輝く“赤い星”が、太陽の光を反射してよく見えるようになります。

ちなみに、ジャストの衝(180度)は、10月14日~15日頃です。

火星は自らの共鳴サイン(宮)の牡羊宮22~21度で、太陽は天秤宮21~22度をトランシット(運行)中です。

といっても、月とは異なり動きは遅いので、10月中旬前後で天候が良い日であればおすすめです。


今月1日は「仲秋の名月」だったように、空気も澄んできれいな日が多い秋の昨今なので、「仲秋の火星」を愛でるのもよいかもしれません。


もっとも、占星学からいえば、そうノンビリもしていられないかもしれません。

天秤宮の「太陽」と牡羊宮の「火星」の衝(180度)に対して、山羊宮の「木星&冥王星&土星」のそうそうたる星が軸となって「T矩」(Tスクエア=90・90・180)をとる昨今ともなるからです。

なかなかの“TOP争い”や“対立”が、日本のみならず世界でも繰り広げられる星の配置です。

とくに、17日の「新月」の前後1週間~10日は、個人的にもご注意しましょう。

これにかかわるホロスコープ(出生天球図)をもたれている場合は、上述のT矩(90・90・180)に「月」が加わるからです。

「太陽&月」の合(0度)と「火星」との衝(180度)に、上述の「木星&冥王星&土星」を軸に影響力のあるT矩(90・90・180)T矩(90・90・180)が形成されます。

なので、“事件”や“事故”にも注意が必要な10月中旬です。

田舎道では動物たちが道に飛び出すなど、交通事故を起こしやすくなります。


といったこともあって、比較的、気分にゆとりをもって「仲秋の火星」とシャレ込めるのは、人によっては今だけかもしれません。














おつかれさまでした。
2020.08.29
 
安倍首相の辞任に関する「つぶやき」です。


アメリカは、もはや“変わる”ことはありません。

21世紀の地上に存在してはならない「中共政権」を、アメリカは自由民主主義国家や自由を求める中国人民と協力して潰す方針を変えないでしょう。


憂国の士、安倍首相は、そのような道筋が整ったことを見据えて、昨日8月28日に辞任を表明しました。


さらには、次の首相が決まるまで、政務を続行するとのべ、“政治空白”(スキ)をつくらないようにしたのです。


8年前、「民主党“素人”政権」は、日本をメチャクチャにしました。

なぜなら、国家運営の経験もノウハウもなく、“弁証論”(理屈)でしかない理想的共産主義に影響された党員と、どこぞの国の出身かわからない“反日党員”が多かったからです。

現在のお隣の文在寅政権のように、自国を“弱体化”させて、共産主義革命を起こしやすくすることが目的かのようでした。

実際的にも、「民主党“おぼっちゃま”政権」は、革命を遂行する“気概”や“実力”すらなく、結局は “縦割り”の弊害で知られる各省庁の言うなりに操られ、有効性のある政策はできなかったのです。

そんな“負の遺産”をかかえての再登場となった課題山積の「第2次安倍政権」でした。


当時のアメリカから誤まって“修正主義者”のレッテルを貼られていた安倍首相は、結果を急ぐことなく、できる範囲から着実に日本の建て直しをすすめ、「トラスト」(信用)を失った外交の修復を図りました。

そして、予想もしなかった「自由民主主義国家の結束」という救国の“防衛体制”を、日・米・豪・印・欧と幅広く築いたのです。

それは、自由民主主義の雄「アメリカ」のトランプ大統領も動かしました。


中国の「不法な手段」と「人権無視」また独裁的な「世界覇権」の野望の本質を、ついに見抜いたアメリカは、“武漢ウイルス”や“香港国安法”などの敵失もあって、今年2020年、世界の政治、経済、軍事のシステムから、中共を切り離す決定をし、日本をはじめ自由民主義諸国に連携を呼びかけたのです。

もし、日本の経済界が、血迷って中国側につけば、いずれ中国もろとも世界経済から日本は切り離されます。

なぜなら、世界経済2位と3位の国であっても、アメリカは世界通貨「ドル」の決定権を持っていますので、最終的には抗うことはできないのです。


日本の「反日マスコミ」は、例によって報道しないのですが、安倍氏の人気と評価は、自由世界では驚くほど高いものになっています。

いまや世界の“鼻ツマミ”になった「中韓」しか見ない反日マスコミや、ユニクロなどの一部経済界は、昨今の時代の動きが正しく見えていないのでしょう。

もはや「反日マスコミ」は、未来を誤まらせるものでしかありません。


安倍首相の辞意表明にあたって、ここぞとばかりにコキおろす“心無い”記事をみかけます。

だいたいは「半島系」のマスコミ人やジャーナリストに扮した「中共の工作員」です。

もしくは、何でも反対の隠れ共産主義者です。

そんな記者やメディアやエセ革命家は、テイクノートして以降は“フェイク・ニュース”しか流さないのでアクセスしないことにしています。


常識的な日本人であれば、“反日勢力”に囲まれたなかで、稀有な“世界的リーダーシップ”をみせた安倍首相には、よくぞここまでやってくれた、「お疲れ様でした」と考えるはずです。

残された課題はまだあるのですが、すべてを安倍首相一人に負わせるのは本来の姿ではありませんし、“酷”というものです。


病状が治まれば、三度めの登板があるのかどうかはともかく、今後は国民の一人ひとりが、“良識”と“民度”をもって動くときです。

国民が主権者なので、それが本来の姿です。


占星学的にみても、時代の「天運」は、もはや“独裁”や“支配”にあるのではなく、個々人の“自由”と“民度”にともなってはたらく時代がはじまっています。

そんな「精神意識の変革」の「星のディレクション」(運勢変化)の時代は、目前です。









日本の“奇妙”な「成功」
2020.05.28
まだ、結果がでたわけではありませんが、感染者数を隠している中国をはじめ、世界中で感染拡大が見られるなか、当初の批判にもかかわらず、日本はうまく対処できています。

むろん“武漢ウイルス”のお話です。


このまま終息に向かうのか、それとも第2波がくるのかはともかく、「ロックダウン」(都市封鎖)もせずに「緊急事態宣言」が解除され抑え込んでいるのは、海外から“奇妙”な「成功」だといった声があがっています。

もっとも、なんでもかんでも安倍政権のせいにしたい「マスコミ」は、日本の対応を評価する海外の賛辞の声をあまり取り上げようとしないのはいつものことで、素直に信じるとバカをみます。

それはともかく、海岸沿いの狭い平野部をメインに、1億人もの密集人口をかかえ、全国的に感染が拡大しやすいのが日本です。

そんな日本にもかかわらず、精度の低いPCR検査数はともかく、“武漢ウイルス”の死亡者数は、結果的に平年の死者数とさほど変わらないという驚異的な状況にあるのです。


これらは、現場の医療従事者の懸命な活動と、正体がよくわからない未知のウイルスに対して、テレビでは見当違いの“ウソ”をならべた専門家やコメンテイターが多かったにもかかわらず、YouTubeなどをみても分かるように、“ウイルス”にかんする動画投稿には、「内閣官房室」が直リンクを自動的に張るなどして“喚起”し、国民に直接の情報共有を広くうながしてきたことの効果も大きいといえます。

政治は、「国民の安全」が現実に保証される結果責任が問われます。

どこまで正しいかわからない観念的な“理論理屈”や“主義主張”や“非難”などではなく、国土や国民主権や国民生活の維持存続が政治の結果としては重要で、現状の“結果”に対して海外からの評価は高いのは事実です。

“武漢ウイルス”の震源地中国などに対する「渡航禁止」は、アメリカよりも1か月以上も日本は遅れ、感染拡大に際しては、海外のように「都市封鎖」もせずに、“ぬるい対処”だと非難されたにもかかわらず、緊急事態宣言からわずか1か月あまりで感染数減少の結果を出したことで、“アンビリバボー”といった驚嘆の声があがっているのです。


今回の記事のテーマは、その理由です。

巷間言われているように、「握手やハグの習慣がない」、「玄関で靴を脱ぐ」、「マスクをする」、{もともと清潔な国民」など、分析がてらさまざまな推測がなされています。

そういった世間一般的な理由はともかく、ここでは根幹の理由についてです。

それは日本人が“遺伝子”としてもっている、国体“水瓶宮”の精神です。

大半の日本人は、「大災害」や「国難」にさいしては、“和、絆、民度”をもって協力し合います。

海外のように暴動を起こしたり、略奪に走ったり、治安を乱すなど、自分のことしか考えないことが日本では起こらないことに、海外の友好国は“称賛”し、敵対大国は“恐怖”をいだきます。

今般の“武漢ウイルス”においても、医療関係者は、“家族や地域のため”に我が身をかえりみずに治療に従事し活動を続けてくれました。

また、非難があるのは承知ですが、先の戦争でも、“国を守るため”また“家族を守るため”、自ら志願して散っていった若者がいたことも事実です。


なぜ、このような奉仕と犠牲の精神すなわち、“和、絆、民度”をもつに至ったのでしょうか。

まず、おテントーさまや大自然を尊ぶ民族性“魚宮”による日本的霊性(古神道)を根底にもつことが挙げられます。

同時に、それを方向づける国体“水瓶宮”によって、“天皇のもとに一つの国家”(統一独立国家)という、いわゆる「天皇制」の“遺伝子”が古来よりあるからです。

近代個人主義によって、ふだんは「そんなの関係ない」とばかりに生活することも多いのですが、「大災害」や今般の“武漢ウイルス”のような未曾有の「国難」に際しては、我知らずとも秘めた“遺伝子”が動きだして危機に立ちむかうのが日本人です。


平時でも緊急時でも、国が滅ぶときは、“内部分裂”が最大の要因の一つとなっていることは歴史の定番です

各自が身勝手な自分の利益のみを追求して行動すれば、国がバラバラになり、危機は確実に増大し、最悪のケースは国もろとも自分も滅びます。

しかし、日本人は、『日本書紀』のバックボーンとなっている天皇のもとに国は一つ、またそこに記されている「以和為貴 無忤為宗」(和をもって貴しとなす、逆らうことなきをむねとなす)といった、いわゆる“和のこころ”を、国難にさいしては呼び覚まされて、我知らずとも発揮していく国民性をそなえています。


このような、“和、絆、民度”をもつことが、結局は、ほかの個人主義オンリーの先進国とは異なり、今般の“武漢ウイルス”の国難に打ち勝ちつつある今日の日本の特徴です。


以前、このブログでも、“武漢ウイルス”は、これからはじまる「精神意識の変革」のディレクションの“予行演習”になっていますと書きました。

ひらたくいえば、「宝瓶宮時代」の“精神意識”となっていく、日本の国体(水瓶宮)に基づいた“和、絆、民度”をこれからは世界の人々が相応ながらも身につけて、新しい時代のバックボーンとしていくことをうながす「星のディレクション」なのです。

そのとき、日本および日本人はその“先駆け”また“お手本”となる使命をもちます。

逆にいえば、そこに時代の流れとともにある“天運”が日本と世界にともなうようになっています。








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