逆説の邪馬台国-論評編
2021.02.28
「三数思想」によるこれまでにない“邪馬台国論”は、当ブログに連載した「逆説の邪馬台国」シリーズをご参照ください。
ここでは多彩な「邪馬台国論」について、かってに論評してみます。
邪馬台国の所在論争は、代表的には「近畿説」「四国説」「九州説」くわえて「北陸説」など多々あります。
このなかで、比定地が分かれるのは「九州説」です。
たとえば、次のようにです。
1、九州王朝説で知られる「古田説」(『「邪馬台国」はなかった』)。
2、“朝倉”をメインとする「安本説」(『「邪馬壹国」はなかった』)。
3、“瀬高”(旧山門郡)とする「長浜説」。
4、古代史は豊前(豊国)で起きたとし福岡県の“田川”とする「福永説」。
など、それぞれ多数あります。
ですが、通称「魏志倭人伝」のみならず、陳寿が参考にした“原典”が残る『翰苑』(かんえん)や、古代シナの各正史、また3世紀前後の考古学を含めた史跡や、当時のインフラ状況など、「多彩な観点」から鋭意検証していくと、案外と答えはしぼられてきます。
それを、「魏志倭人伝」の記述が(1字1句)100%正しいとしたり、考古学だけにたよったり、1つ2つの歴史資料に偏って“最終結論”などとすると、ほかのデータを捨象してしまい、事実がみえなくなります。
ちなみに、“邪馬台国”の原点(馬臺)が記される『翰苑』は、唯一、福岡の「太宰府天満宮」に叙文と第30巻のみが残ります。
賢明な皆さまのご意見があるのは承知で、以下、かってに論評してみました。
●畿内説
「畿内説」の勘違いは、あえていえば3世紀末以降の“邪馬台国”を、2~3世紀の纏向(まきむく)だとして、意図的にこじつけているといってもよく、卑弥呼の時代ではありません。
なぜなら、2~3世紀末頃までの奈良盆地は、“饒速日命”(にぎはやひ の みこと)や“大国主命”(おおくにぬし の みこと)によるいわゆる「本州大国主連合」の“集会地”だったとおおむねながらいえるからです。
※『日本書紀』の「神代」(かみよ)また初代「神武天皇紀」に記される「大国主命」また「饒速日命」と表記することで系譜を明らかにしました。
その事由は、『日本書紀』に秘められた“史実”(年代:二重構造)を見抜けはご理解できます。
●四国説
四国は、日本の“原点”にもかかわる古い歴史や由緒また遺跡などが集中するために、それを「2~3世紀の“邪馬台国”だ」と信じ込んでおられるかたが多いのです。
ですが、それは「日本」また「天皇」にたいする冒涜につながりかねないことを悟らなければなりません。
『日本書紀』をよく読めばわかりますが、“統一独立国家”を主題に記されています。
ところが、卑弥呼のいわゆる“邪馬台国連合”は、呉(ご)につうじる「狗奴国」(くなこく)の侵略から守るためもあったとはいえ、魏(ぎ)の冊封下にあった“属国”といえる立場だったからです。
つまり、畿内説や四国説は、日本全体(大和)が古代シナの“属国”だったという、誤った理解を我知らずとも主張していることになります。
そうではなく、阿波国をはじめとした四国は、日本独自の“縄文文化”を引き継いでいるのであって、“邪馬台国”のようなシナの冊封下にあった“属国”とは根本的に文化基盤が異なります。
日本古来の純粋伝統を残すのが、四国や阿波国といっても過言ではありません。
●北陸説
記紀に記される北陸(越前)また近江を出身とする“天皇”といえば、「男大迹王」(おほど の おおきみ)こと「継体天皇」で知られます。
ところが、継体天皇は、5世紀まで半島南端部にあった邪馬台国以来の倭国の“領地”を、6世紀初頭に百済(くだら)に割譲しています。
その百済が滅ぼされ、復興するために「中大兄」(なか の おおえ:のちの天智天皇)は、豪族らを無理やりに出兵させた「白村江の戦い」で、大敗北を喫することになります。
その結果、太宰府市の「水城」(みずき)に大防塁などを築くわけです。
それはともかく、邪馬台国の当時から半島南端部に領地があったことは、「魏志倭人伝」などからも読みとれます。
その領地を、いともかんたんに百済に割譲した継体天皇の「北陸」が、かつての邪馬台国とは思えません。
重要な先祖の土地をかんたんに譲ることができたのは、北陸が「邪馬台国」とは関係がなかった証拠です。
●九州説
次に比定地が多い問題の「九州説」です。
★古田説
かつて『「邪馬台国」はなかった』という書籍を上梓した、九州王朝説で知られる古田氏は、後年、あのタイトルは編集者が(売らんかなのために?)プッシュしたものと述べています。
通称「魏志倭人伝」の著者「陳寿」(ちんじゅ)以前も以後も、古代シナの歴史家たちは、正しく“臺”(台)の字をもちいて歴史書に「邪馬台国」と記しており、ときには「邪靡堆」とも記しています。
そういうこともあって、「邪馬壹国」(邪馬壱国)という表記のほうが、陳寿の“偽造”です。
ただ、古田氏の“九州王朝”という名称はともかく、「九州倭国」は6世紀末まで間違いなく存在していました。
本州の「日本国」(畿内国)とは別に、日本列島には九州「倭国」など複数の国邑(こくゆう)が存在していたのです。
にもかかわらず、“統一独立国家”を掲げた「『日本書紀』史観」に惑わされると、日本には大和一国しかなかったと思い込み、正しい歴史がみえなくなります。
大陸の「歴史書」のすべてが正しいとはいいませんが、7世紀初めに小国「日本」に自ら合併することを仕向けた「九州倭国」は、それによってシナの冊封下から離脱することに成功しました。
それが、九州倭国王「阿毎多利思比孤」(あめ の たりしひこ)大王(おおきみ)が隋の煬帝(ようだい)に607年に送った「日出る処の天子…」という、名実ともの「日本独立宣言書」です。
合併後は一時「大倭」と称し、それがのちに「大和」(やまと)に変わります。
シナの歴史書には、「その王(倭国王)の姓は阿毎氏」(あめ、あま)と記され、“いにしえの倭王”は「筑紫城に居す」とも記されています。
畿内説の学者らは、これらを無視するどころか、意図的に“偽書”として封印するなどして、大和こそが“邪馬台国”だと主張することによって、日本を中国の属国とする“歴史的根拠”にしています。
★安本説
福岡県朝倉(夜須:「天の安河」の“やす”)説をとるのは、古田氏に反論し、『「邪馬壹国」はなかった』を著した安本氏です。
事実、「邪馬壹国」(邪馬壱国:やまいこく)というのは、陳寿の“愛国心?”によるねつ造で、邪馬台国などのように「臺」(台)で呼ぶのが歴史記録からも正解です。
安本氏は、かつての朝倉郡にあった現・筑前町(旧三輪町)の「大已貴神社」(おおなむち じんじゃ:地元では「おんがさま」「おおみわ じんじゃ」)を中心とした朝倉市周辺の地名が、類似の位置関係で奈良の三輪山をご神体とする「大神神社」(おおみわ じんじゃ、おんがさま)を中心に、“大和朝倉”の地名など、周辺に多々同じ地名があることから、“邪馬台国東遷説”を述べました。
ただ、私見では、それが本当に3世紀末の“邪馬台国”だったのか、それとも「九州倭国」が「日本国」と合併した6世紀末~7世紀初頭に、“倭国東遷”によるものだったのか、疑問は残ります。
もっとも、「魏志倭人伝」に記される邪馬台国「7万戸」を信じるなら、筑後川周辺域の筑紫平野を一つにまとめた“邪馬台国連合”しかありえませんので、その“都”が東端の朝倉近辺にあったというのは、納得できなくもありません。
★長浜説
“邪馬台国”は「山門」(やまと)であり、現・みやま市の「瀬高」(旧山門郡)だったとする長浜説は、江戸時代の新井白石が先鞭をつけた説ながら、最近、信奉者がみられます。
ですが、「魏志倭人伝」の記述と矛盾するために、決定的に誤りです。
旧山門郡は、有明海沿岸部(当時の海岸線はもう少し内陸部にありました)に位置し、熊本とのほぼ県境にあるために、「邪馬台国」に比定するのは非合理的です。
この地域なら、魏志倭人伝に記される当時は困難だった「陸行1月」(河川を含む)をとる必要がなく、九州西岸を南下して、天草あたりからUターンするように有明海に入り込めば、船で直接いけます。
もし、呉とつうじる「狗奴国」(熊本県菊池界隈)があり、危ないために九州北岸から陸行1月をかけるしかなかったとしても、やはり「魏志倭人伝」の記述に矛盾します。
なぜなら、邪馬台国の北に「伊都国」(いとこく)や「奴国」(なこく)また「不弥国」(ふみこく)があったと記されるのはともかく、邪馬台国の南に「旁余の諸国」(20か国ほど)があったと記されていることとマッチしません。
“邪馬台国連合”に属さず敵対していた「狗奴国」は、旧山門郡と丘陵(山)をはさんで隣接しており、南にあったと記される「旁余の諸国」が存在できないからです。
また、敵国との最前線に“女王の都”をおくことは、非常識でしかありえません。
平和な江戸時代の朝鮮通信使ではあるまいし、地理や地政学、また当時のいつ戦乱が起こるかわからない時代状況を理解していない“平和ボケ”した解釈です。
★福永説
『古事記』また『日本書紀』に記される古代の出来事を、ほぼすべて豊前(豊国)界隈で起きたとし、筑豊の田川を“邪馬台国”とする福永説に関しては、省略させていただきます。
地元に迎合した荒唐無稽な部分が多いためですが、一部に事実が含まれるのは認められます。
*
さて、他人さまの論評ばかりで「おまえはどうなんだ」といわれそうです。
当ブログの「逆説の邪馬台国」シリーズをご一瞥(いちべつ)ください。
結論的には、攻められにくい河川の上流域に立地し、古くからの歴史的要衝にあり、地政学的条件をそなえた“権威”ある「邪馬台国」(都)ゆえに、卑弥呼を女王に共立できました。
近辺には、後年、「大宰府政庁」(太宰府市)が置かれたり、『新唐書』にいにしえの倭王は「筑紫城に居す」と記され、“筑紫”の地名が残る「筑紫野市」にかけての宝満山(ほうまんざん)の山裾をメインとした地域で、南は朝倉にいたる「筑後平野」の北東部奈辺が、もっとも矛盾が少なく、「魏志倭人伝」の記述をはじめ、ほとんどの整合性がとれます。
此地は、北は博多湾にそそぐ「御笠川」(みかさがわ)の上流域であり、南は有明海にそそぐ筑後川の支流「宝満川」(ほうまんがわ)の上流域でもあるために、福岡平野と筑後平野をつなぐ古来より交通の要衝でした。
両河川を遡上しなければならない攻めにくい上流域にあるというだけではなく、山や丘陵が迫り、防衛にも適した豊かな土地です。
「魏志倭人伝」の記述どおり、北は御笠川によって「伊都国」や「奴国」や「不弥国」にいたり、南は宝満川と筑後川によって、筑後平野にひろがる「旁余の諸国」にいたり、穀倉地の朝倉などをかかえる「台地」部もある“馬臺”と呼べる場所です。
隣接する天山(あまやま)には、徐福につうじる「童男丱女岩」(どうなん かんじょ け いわ)が残るなど、古代シナ語や大陸の情報が伝わっていてもおかしくない地域です。
さらに付記すれば、「白村江の戦い」に負けた翌664年に築かれた巨大な防塁「水城」(みずき)ですが、その下層には倭の五王の時代の5世紀(430年頃)の防塁跡があり、さらに最下層部には卑弥呼の時代の3世紀(240年頃)の防塁跡も確認されています。
このことは、後年7世紀に「大宰府政庁」が築かれるはるか以前から、近辺に重要な“都”があったことを意味します。
つまり、奈辺は、地政学的にも要衝ゆえに、その後も次々と歴史的“都”(都市)が築かれたり、今日も「太宰府天満宮」をはじめ太宰府市街地が広がっています。
歴史的に役目を終え、忘れ去られていたゆえに掘れば、まだ何かがでてくる可能性がある「纒向」とは異なるのです。
前述の「大已貴神社」がある筑前町(旧三輪町)に隣接する「筑紫野市」や「太宰府市」は、古来より連続的に“都”(都市、市街地)です。
また、貿易港「博多湾」を抱える黒田藩と九州一円を治めた江戸幕府直轄地の天領「日田」(ひた)をつなぐ、九州一のにぎわいをみせた市場通り「朝倉街道」の中継地としても、江戸時代をふくめ繁栄していました。
そのために、相次ぐ開発によって3世紀の遺構はすでに破壊され、考古学的な証拠は発掘されにくく“邪馬台国”の痕跡の発見は、ほぼ困難になっているといえます。
逆にいえば、“当たり前”すぎて、あまり人口に膾炙(かいしゃ)されてこなかった地域です。
宝瓶宮時代の「三数思考」
2021.02.25
これからの時代の思考法についてです。
新しい宝瓶宮時代は、過去とは思考形式を変えなければなりません。
時代のシステムが、具体的に異なっていくためです。
占星学から申し上げますと、“対立二元論”を歴史パラダイムとした「双魚宮時代」(そうぎょきゅう じだい)から、“共鳴関係論”による「宝瓶宮時代」(ほうへいきゅう じだい)へとすでに宇宙波動は変わっています。
それが実体的になっていく時代(社会)へと突入したためです。
今年2021年1月下旬から「精神意識の変革(覚醒)」のディレクションの影響圏に入ったので、今後はだれでも徐々にその“精神意識”(心理、霊性)ここでいう「思考形式」を変えていく必要が生じるためです。
ご興味があったり、ご納得されるかたのみ、以下ご高覧ください。
“対立二元論”というのは、これまで約2,160年間(計算値)の「双魚宮時代」を規定してきた歴史パラダイムです。
要は、“心と体”や“魂と肉体”、“来世と現世”また“天国と地獄”といった「二元論」によって世界やものごとは分類され、“宗教と科学”によって判断され、社会は動いてきました。
たとえば、約2,000年前にはじまり、その後の人類歴史に大きな影響を与えた「キリスト教」などの宗教もそうです。
ものごとを“神とサタン”や“善と悪”また“信仰と不信仰”など「二元対立」によって価値判断をしてきたのです。
さらに申し上げますと、政治体制では、たとえば“神”によって選ばれたとする「専制君主」などによって、“支配/被支配”の身分制度をはじめとした上下関係で運営することが常識だった時代です。
これは、ピラミッド型組織の典型である「カトリック」(旧教)などもそうです。
これらは、「宝瓶宮時代」の影響圏に入る1630年前後(ガリレオなどの時代)まではそうでした。
しかし、これ以降、「双魚宮時代」にありつつも徐々に「宝瓶宮時代」の影響が浸透してきます。
宗教世界では、「カトリック」(旧教)に対して、「プロテスタント」(新教)が生じます。
ピラミッド型支配体制や押し付けられた教義からのがれて、直接、“神”や“イエス”につながろうとする“信教の自由”を掲げます。
それによって、イギリスからのがれて建国されたのが、当初、「ピューリタン」(清教徒:プロテスタント)によって建国理念を掲げた「アメリカ」です。
一方、政治的には、「専制王権」による圧制や不平等から、個人の権利や自由を求めた「市民革命」が、イギリスやフランスで生じます。
これらはやがて紆余曲折を経つつも、今日の「自由民主主義体制」を形成していきます。
それはそうなのですが、人々の思考型式は、いぜん“善か悪か”や、“○か×か”、また“吉か凶か”といった「対立二元論」のままなのです。
なぜなら、学校教育やマスコミなどの社会が古い体制のまま続いているからです。
もっとも、その要因は、“資本家 vs 労働者”といった「階級闘争」を“必然”の道理としてあおる「共産主義思想」(マルキシズム)が、人知れず大衆に“不満”を抱かせ、“社会不安”をあおり、あわよくば“共産主義革命”をいまだに志向しているからです。
すくなくとも、一部「野党」の議席を必死で維持しようとしています。
そのほかにも、「儒教思想」によって、いつまでも“身分”にこだわり、たとえば半島の隣国が盛んなのですが、“ランク付け”や“順位付け”をして「マウント」をとろうとする古い文化もその一つです。
とくに隣国の影響が大きい、いまや落ち目の某アイドル・グループや、テレビ局など一部マスコミに巣食うそれらの人々によって、その影響や傾向は、案外と今なお色濃くみられます。
しかし、人知れず起きた1989年の“宝瓶宮時代のビッグバン”によって、宇宙波動は“共鳴関係論”の歴史パラダイムに変わりました。
その宇宙波動は、“十月十日”(とつきとおか)の期間を経て、いよいよ出産のための“陣痛”の時期に入ったのが、今年2021年1月下旬からです。
そのため、今後は2~3年の“誕生”にむけて、実際の「共鳴関係論」に進んでいきます。
そうなるほど、私たちの思考形式も遅くないうちに、“対立二元論”から「共鳴関係論」へと変わっていかなければなりません。
でないと、いつまでも“善か悪か”や、“○か×か”や、“吉か凶か”といった単純な“二元対立”でご判断していると、新しい時代の「事実」や世界の「真実」を見抜けなくなります。
そればかりか、“出産”が近づくにつれて時代の流れにとり残され“バカ”になるならまだしも、時代の「運勢」を失っていくことが起こりかねません。
急には変われないまでも、既存の“学校教育”や“マスコミ報道”また“バラエティー番組”などの善悪やランク付け発想は“サブ”にしていくことをおすすめいたします。
ということで、本題です。
まずは、“対立二元論”の発想や思考からの脱却についてです。
ここでは「共鳴関係論」の考え方の入口となる「三数思考」(クオリアル・シンキング)を入門編としてご紹介いたします。
詳細は、今後の時代をみすえて、すでに2012年からお届けしています「数理法則とクオリアル・ワールド」(伝授講座)により、「基本三数」(数理法則)による宇宙この世界の創成プロセスと存在様相また共鳴関係をご紹介しています。
まずは、次のようにとらえることからはじめられるとよいでしょう。
「クオリアル・シンキング」(Quareal Thinking)の入門となる「三数思考」の概容です。
たとえば、ここに1つの選択肢があるとします。
それを、“A”か“B”か、また“採用”か“不採用”かといった二者択一で単純にご判断するのが「対立二元論」の思考法です。
もはや過去のものとなった観念的な思考型式です。
今後の「共鳴関係論」では、まず次のようにとらえます。
入門なので単純に書きます。
まず、“A”か“B”かではなく「三数思考」3(4)数によって、第三の“C”の選択肢が必ず「ある」ととらえます。
“採用”か“不採用”かではなく、たとえば“留保”や“試用”またそれ以外に“採用も不採用もしない”といった選択肢が「ある」ことを念頭におきます。
白か黒かではなく、“あいまい”な幅広いグレーゾーンといった選択肢があります。
また、モノクロ以外の多様な“色彩”や“模様”が「ある」といった発想をします。
前者の「対立二元論」は、“0”か“1”か「ON/OFF」で計算していくこれまでのコンピューターと同じです。
後者の「共鳴関係論」は、“あいまい”な部分を残して計算していく今後の量子コンピューターに似ています。
さらには、「宝瓶宮時代」が進んでいくと、量子を超えた“波動コンピューター”が出現すると考えています。
宇宙この世界や人類をつらぬく“共鳴波動”によって、瞬時に“答え”ならぬ“道”が導かれるようになっていく可能性があります。
いずれにしても、まずは既存の「対立二元論」の思考や考えから脱却されることです。
それが必要で、ほかの思考形式でもかまいません。
ここでは「基本三数」によって、“第3の道”やいずれでもない“第4の選択肢”を考慮していくことを手はじめにおすすめいたします。
このような「三数思考」(クオリアル・シングング)に慣れていくと、“悩み”も少なくなり“可能性”が大きく広がります。
さらには“自由”な発想ができるようになり、新しい時代のとらえ方が漸次、見えてくるでしょう。
答えは1つではなく、波動共鳴によって“無限”に生じていきます。
そこに至るまでに、まずは“二者択一”の発想ではなく、複数のお答え、すなわち第3の選択肢があり、第4の道もあることが考えてみましょう。
さらには、課題や問題そのものにとらわれず、そこから離れた“解決法”さえも広がる時代になっていきます。
※後日、入力ミスをはじめ、言い回しや表現を見直します。
「老子」と時代遅れの「孔子」
2021.02.18
ふと思いついて書いてみる、どうでもいいお話です。
よく対比されることがある“人気”の「孔子」と、“弱者の思想”などと勘違いされる難解な「老子」のお話です。
ちなみに“子”(し)というのは、「先生」というほどの意味で、「孔子」といえば“孔先生”、“老子”といえば“老先生”ということになります。
『孫子の兵法』で有名な「孫子」というときも同じです。
日本では、孔子の「儒教」の教えが案外と“ハートフル”に定着しています。
お隣の半島国も、「自分たちは儒教の国だ」と自慢することがあるのですが、単に身分や上下関係を明確にするための“型式”だけの儒教なので、中身はありません。
要は、どちらの年齢や学歴や身分や持ち物が立派で、上か下かといった“マウント”をとるためのものといってもあながち過言ではないのです。
もっとも、最近の若い世代の状況はよく知りません。
一方、儒教発祥の地「シナ」(中国)ではどうなのでしょうか。
どちらかというと、儒教は定着すらしておらず、最近になって“孔子”の名を悪用して「孔子学院」を日本やアメリカをはじめ世界で広めてきました。
中国語や中国文化を広めるといった名目なのですが、実状は“スパイ活動”の拠点の一つになっているのはもはや知られた事実になっています。
それでも“利権”に絡んでやめられないのが日本の大学なのかもしれません。
いずれにしても、かつて孔子は、自分の教えを王侯に伝え、仕官(しかん=雇ってもらうこと)しようとしたのですが、すべての王侯から相手にされませんでした。
生き馬の目を抜く支那(中国)においては、「忠孝」(君に忠、親に孝)といったようなことを説いても、前者は出世のための名目にすぎず、後者は当たり前すぎて「儒教」の教えは理想的な観念論(机上の空論)同様で、実用性がなかったといえます。
ところが、これに目をつけたのが、300年近い天下泰平の世を開いた「徳川家康」でした。
部下が主君を弑逆(しいぎゃく)してなりかわる「下克上」の乱世を終わらせ、天下を平らかに保つには、下克上は「悪」であり、一所懸命に主君に仕え殉ずることが美徳であるという、上下関係を固定する規範をとりいれることを家康は考えました。
そこで目をつけたのが「儒教」です。
儒教を推奨した家康は、寺子屋でも子どもの頃から「子曰く…」(先生がおっしゃるには…)などと、「五常」の“仁、義、礼、智、信”といった徳性や、「五倫」“父子、君臣、夫婦、長幼、朋友”の関係を維持し、社会ルールを守ることを教えてきました。
この“規範”によって、徳川将軍家には、だれも反抗できなくなり、天下泰平の世を築く“思想的バックボーン“となったのです。
もっとも、歴史は皮肉です。
天下の副将軍家「水戸藩」で編纂された『大日本史』によって、日本国の最高の君は「天皇」ということになりました。
これが広まると、幕末には水戸藩から養子に行った最後の将軍「徳川慶喜」さえ、天皇にはむかって“逆賊”になることを恐れ、「大政奉還」を行なうことになります。
日本には、“民族性”「魚宮」による日本的霊性のバックボーンがありました。
なので、本来、無駄な争いは好まず、儒教の規範を“ハートフル”に受け入れることができました。
なぜなら、徳川政権下の“現体制”は「武家諸法度」などによって、“役人”や“官僚制度”を象わす「乙女宮」だったからです。
「乙女宮」は、「魚宮」の対宮に位置し、要は“民族性”にない明確な規範(ルール)を徳川政権が“現体制”としてもたらしたので、宝瓶宮時代の影響圏に入っていた当時の「双魚宮時代」においては、うまくマッチしました。
しかし、宝瓶宮時代が正式にはじまると、儒教は長続きしません。
なぜなら、老若男女のだれもが自由で平等(対等)に、各自の個性を発揮できる社会に、漸次、なっていくからです。
若いからといって侮れないのです。
むしろ、既成概念にとらわれない若い感性や情熱ゆえに、“天才”とみまごう独自の個性の発揮が可能になるのが「宝瓶宮時代」です。
その点では、孔子の「儒教」は、もはや時代遅れです。
一方、ここで詳しく書く余地はありませんが、むしろ「老子」の本来の教えのほうが、今後の宝瓶宮時代にはふさわしいのです。
識者の中には、誤まって老子を“弱者の思想”と説く人がいます。
勘違いです。
彼は、宇宙この世界の道理を見抜いて「無為自然」を説きました。
それも、庶民に向けてではなく、王侯貴族に対して「無為自然」を説いたことを知らなければなりません。
「無為自然」というのは、やや極論になりますが、為政者(王侯貴族)は何もせずに自然のままに任せておけは、世の中は大乱なく治まっていくという天の道理を説いたものです。
身分や学歴や地位を重んじる「儒教」とは正反対です。
そういった、老子の教えに反して、支那はもちろん現状は、学歴はあっても私利私欲をもった日本の官僚や為政者(王侯貴族)が、あれやこれやと小賢しく、こまごまと対処するので、そこかしこに矛盾が生じるのです。
老子は、お酒の銘柄にも採用された「上善如水」で知られています。
この“上善は水の如し”という道理もそうですが、「大国を治むるは小鮮を煮るが如し」とも述べています。
“小鮮”というのは魚のことですが、小魚にかぎらず魚は何度もひっくり返して焼いたり、いじりまわすと、身が崩れて見た目も悪くなりますし、うまみもにげてしまいます。
同様に、あまりいじらないことが「国」を治めるコツだと説いたのです。
いわば、大和民族(縄文人)が古来から大事にしてきた大自然を敬うことです。
自然のまま大切にすれば、水や山海の食料に恵まれた豊かな日本列島では、争いが起きなかった“古神道”の時代に共通します。
老子の「無為自然」というのも似たような意味です。
ただ、庶民に対して「無為自然」を述べたのではなく「為政者」(王侯貴族)に対して述べました。
“無為”=あえて何かをしようとせず、“自然”=大衆の働きのままに農作や漁業に任せておけば、それがもっともよく世の中が治まる道だと。
そのように宇宙この世界の奥深い道理を“玄の玄”によって説いたのです。
これからはじまる「宝瓶宮時代」の“実体社会”もこれに類似しています。
国民の一人ひとりが“主人公”となり、自由な個性の発揮が可能となる友愛社会(和、絆、民度)の社会に、漸次、むかっていきます。
「宝瓶宮時代」は、かつての双魚宮時代のように「支配/被支配」の社会ではなく、「共鳴関係論」の世界になります。
なので、国民の主体性に任せて、お上は必要以上にやらないほうがよい時代になっていきます。
逆にいえば、国民一人ひとりの“自覚”が必要な時代です。
それが、今後の「精神意識の変革(覚醒)」のディレクションともなっています。
麒麟がくる「本能寺の変」
2021.02.14
「本能寺の変」の背景を「ホラリー・ホロスコープ」からリーディングします。
9年ほど前の2012年に「宝瓶宮占星学」サイトにアップしたのですが、今回は少し“設定”をかえてみました。
“変”が起きた「天正10年6月2日」は、ユリウス暦だと1582年6月21日です。
この4か月後の10月5日からグレゴリオ暦に変わりました。
お使いの「ホロスコープ作成ソフト」で、「1582年10月5日」と「同年10月15日」の星の配置が「同じ」であれば、ユリウス暦とグレゴリオ暦を自動変換しているソフトになります。
その場合、たとえば「ウィキペディア」どおりの年数を入力して問題はありません。
それはともかく、今回はユリウス暦6月21日の午前4時40分でホロスコープを作成しました。
盆地の京都では、朝日は昇っていないものの日の出直前の時刻で、「敵」と「味方」の区別ができるくらいの黎明(れいめい)だったと存じます。

ちなみに、大河ドラマ「麒麟がくる」がちょうど1週間前に「本能寺の変」を放送し無事、最終回をむかえました。
明智光秀の動機をどのように描くのか、興味があったのですが、常識どおり「単独説」でした。
連載中も、相応にドラマ上の演出はあったものの「織田家ナンバー2」の光秀の立場をちゃんと描くなど、史実に近いスタンスをとっていたといえます。
本能寺の変の「ホラリー・ホロスコープ」も、宝瓶宮占星学サイトに掲載した2012年と変わらず「単独犯行」を示していました。
光秀は、信長に代わって“天下”というか、「TOP」を狙っていました。
ただし、想定外の“誤算”が生じることが示唆されています。
そんなリーディングの“結果”をまとめますと、大きくは次のようになります。
1、光秀の明確な“意志”による「単独犯行」。
2、“変”の主な原因は「信長」自身にあり。
3、“衝動”もあるが「計画的な犯行」である。
4、「内通者」が本能寺にいた。
5、信長に代わって「権力」の奪取を考えた。
6、光秀の計画に「事実誤認」があった。
7、信長殺害の成功と遺体の“喪失”。
以下、簡単にご説明しておきます。
1、単独犯
上掲の「ホラリー・ホロスコープ」は、これ以上ないほど明確な「単独犯行」を示しています。
代表的には、ASC(Ascendant アセンダント=上昇点)「蟹宮」の共鳴星「月」がASC(上昇点)に合(コンジャンクション=0度)をとっていることです。
のみならず、「水星」や「太陽」などを交えて五重合(クインティプル・コンジャンクション=0度)また第1ハウス(室)での「大会合(ステリウム)を形成しているためです。
これらは光秀の「信長殺害」への強い“意志”を象わしています。
さらにいえば、“犯行の動機”を象わすIC(Imum Coeli イムン・コエリ=天底:北中点)「乙女宮」の共鳴星「水星」が、ASC(上昇点)に合(0度)であることも単独犯行を象わします。
ほかに「火星」や「土星」の配置も光秀自身による「下克上」を読みとることができます。
要は、ナンバー2がナンバー1の信長を排斥して、自らTOPに立とうとしたのが「本能寺の変」です。
理由は、もはや織田家“ナンバー2”として自分を引き立ててくれる信長ではなくなったからです。
そんなこんなで、光秀のメンツが保てないことが心因としては大きいでしょう。
2、原因は信長自身
ASC(上昇点)に合(0度)の「太陽」もそうですが、DES(Descendant ディセンダント=下降点)「山羊宮」の共鳴星「土星」が、「本能寺の変」の“原因”は信長自身であることを象わしています。
ターゲットの“信長”を象わすDES(下降点)の共鳴星「土星」は、“光秀”の意志を象わすASC(上昇点)を含む五重合(0度)に上三分(アッパー・トライン=120度)をとっているからです。
なぜ、そうなるのかは長くなるので省略させていただきます。
これらは、「本能寺の変」は信長自身が招いたものだということです。
“変”を知ったときの信長の「是非もなし」という言葉は、光秀に対する自身の“むごい”仕打ちを自覚していたからでしょう。
3、計画的犯行
光秀は緻密な実務家だったといわれます。
上掲のホロスコープでも、“動機”を示すIC(北中点)が“完璧性”を象わす「乙女宮」であること、また、その共鳴星の「水星」が、ASC(上昇点)にジャストの合(0度)であることにもそれがあらわれています。
本能寺の変は、光秀の「緻密な計画的犯行」でした。
4、内通者がいた
“事件の現場”を象わすMC(Medium Coeli メディウム・コエリ=天頂:南中点)は、「魚宮」であることから“宗教施設”(本能寺)が事件の現場だったことは間違いありません。
重要なのは、魚宮の共鳴星「海王星」が“光秀”を象わす「月」と合(0度)をとっており、MC(南中点)に下三分(120度)であることです。
これは“本能寺”側に光秀に情報などを提供した「内通者」がいたことを象わします。
当夜、信長が間違いなく本能寺に宿泊していることなどを知らせた人物です。
断定はいたしませんが、それは“女性の宗教関係者”だった可能性が高いようです。
5、権力の奪取
重要なことは、「本能寺の変」が“謀反”や主君への“裏切り”とはかぎらないことです。
これらは、信じにくいかもしれませんがのちの世でつくられた“印象操作”です。
戦国乱世の当時は「下克上」は当たり前(常識)でした。
光秀を信頼していたゆえの信長の油断があったのです。
のちに天下をとった秀吉は、光秀の“手柄”をうばい、“悪人”に仕立て上げました。
続く徳川政権は、序列(身分)を重視する“支配思想”ともいえる「儒教」によって、天下泰平を維持するために普及させ、「忠孝」(君に忠:お家大事)を基本モラルとし、“反逆”は武士にあるまじき振る舞いと定めました。
それゆえ光秀は、「主君信長を裏切った“反逆者”」としてのイメージが、のちの世に定着していったのです。
さらには、“三日天下”となった実状とともに、これらは光秀を“二流の人物”かのように印象づけることになりました。
光秀の誤まったイメージは、今なお、現代人にも定着しています。
つまり、「光秀ごときが独りで信長に反逆できるはずがない、きっと“黒幕”がいるに違いない」とかってに憶測してしまうのです。
違います。
信長が「天下人」だとすると、光秀はそれを支えた“天下人ナンバー2”なのです。
少なくともそう自負していました。
「自分がナンバー1でもおかしくない」と…。
「麒麟がくる」は、光秀のイメージを、少しは払拭したのでしょうか。
お話を戻しますと、ASC(上昇点)を含む五重合(0度)が、「冥王星」を上方矩(アッパー・スクエア=90度)としていることが、それを象わしています。
この「冥王星」は、光秀の“意志”が「社会的な権力」(テッペン)をとることにあったことを示しています。
6、「事実誤認」と 7、“喪失”
最後に、「本能寺の変」が最終的に成功しなかったことについてです。
光秀らしく、“緻密に計画し実行”したのは事実です。
しかし、それは光秀なりの“完璧性”でした。
天下国家からみたとき、“事実誤認”や信長に関する“喪失”(ミス)をともなうことが、上掲の「ホラリー・ホロスコープ」には象わされています。
“光秀”を象わす「月」に合(0度)の「海王星」もそうです。
また、光秀と同時に“信長”を象わす「太陽」に衝(オポジション=180度)で、DES(下降点)に合(0度)の「ケレス」もそうです。
歴史の結末を知った立場からいえば、光秀の“事実誤認”は、秀吉の「中国大返し」を予測できなかったこともその一つでしょう。
また、ターゲットの信長の“遺体”を見つけられなかったこともそうでしょう。
いずれにしても、DES(下降点)に下三分(120度)で、同時にIC(北中点)に上三分(120度)の「火星」は、“信長殺害”(自害)の成功を象わしています。
にもかかわらず、“目的”(ターゲット)を象わすDES(下降点)に合(0度)の星が、「ドラゴン・ヘッド」や「ケレス」では、いくぶん“現実性”や“有効性”に欠ける結果が示されています。
ちなみに、なぜ秀吉は「中国大返し」を成功させたのでしょうか。
それは、戦時においては、つねに情報が重要なので、状況に変化があった場合、ただちに第一報が届けられるようにしておくのは“常識中の常識”だったからです。
次に、秀吉の性格からいえば、京から信長さまをお迎えするにあたって、「道」の整備や周辺の警備、また「兵糧」など兵站(へいたん)を準備しておいたことが、「中国大返し」に役立ったという説が有力です。
秀吉は、6月7日夕~9日朝まで姫路城に2泊もとどまっています。
それは、さらなる「情報収集」が必要だったからで、このまま進軍しても大丈夫なのか、その確認と諸所への根回しが必要だったからでしょう。
秀吉も100%の情報はつかんでいなかったのです。
結局、光秀最大の“誤算”(事実誤認)は、諸将の協力をえられなかったことです。
逆に秀吉は、「人たらし」と呼ばれる性格等によって、周囲の勢力を巻き込むことに成功し、明智軍が待つ「天王山」に進軍しています。
信長に忠実で、作戦の遂行と自身の「メンツ」を実務的に優先した光秀と、相手を持ち上げ自分をさげすんで「人心」をとらえた秀吉の日頃の行ないの差が、最後の勝敗を決めたといえます。
光秀最大の“事実誤認”が、そこにあったのです。
対馬の「和多都美神社」
2021.02.11
「建国記念の日」の関連で、“豊玉姫”に関する記事です。
初代「神武天皇」がご即位された紀元前660年の旧暦元日を、現在のグレゴリオ暦になおすと2月11日とされます。
これが、かつての「紀元節」、現在の「建国記念の日」なのはご存じのとおりです。
さて、『日本書紀』に記される「神武天皇」(神日本磐余彦天皇:かむやまと いわれびこの すめらみこと)の“母親”は、「玉依姫」(たまよりひめ)です。
“父親”の「彦波瀲武兎鷀草葺不合尊」(ひこなぎさたけ うがや ふきあえずの みこと)からみれば、「玉依姫」は“妃”と同時に“叔母”にあたります。
どういうことかというと、葺不合尊の母親の「豊玉姫」は、「玉依姫」の“姉”だからです。
ちなみに、葺不合尊の“父親”は、山幸彦(やまさちひこ)こと「彦火火出見尊」(ひこほほでみのみこと)です。
なので、初代「神武天皇」からみれば、「彦火火出見尊」と「豊玉姫」は“祖父母”にあたります。
同時に“母親”の「玉依姫」の“姉”でもあるために、「豊玉姫」は“伯母”にあたる関係です。
ややこしいですよね。
この“両玉姉妹”の父は、『日本書紀』(神代:下)では、「海神」(わたつみ)と記されています。
彦火火出見尊は、兄の“海幸彦”こと「火闌降命」(ほのすそりの みこと)に借りた釣針を探して、「海神の宮」に漂りつき、そこで釣針を見つけた縁で、海神の娘「豊玉姫」と結ばれました。
こまかなお話はともかく、「竜」となった姿で葺不合尊の出産を見られた豊玉姫は、育児を妹の玉依姫に委ねて、「海神の宮」に帰ってしまいます。

※昨年2019年の台風によって、海中の第1鳥居は現在、倒壊したままです。
本題です。
北部九州から大陸や半島につうじる玄界灘(げんかいなだ)の要衝に「対馬」(つしま)が位置します。
「対馬国一宮」は、現在、「豊玉姫命」を主祭神とし、合殿を「彦火火出見尊」「葺不合尊」「宗像神」「道主道命」とする「海神神社」(かいじんじんじゃ)とされています。
海神神社は、明治3年の一時期、“和多都美神社”(わたづみじんじゃ)と称されました。
実際の「和多都美神社」は、対馬の「豊玉町仁位(にい)」にあって、海中に続く鳥居が、その美観とともに有名です。
「和多都美神社」のご祭神は、神武の祖父母「彦火火出見尊」と「豊玉姫」です。
実は、こちらが「対馬国一宮」ではないかとされ、“論社”の一つになっています。
「和多都美神社」のウラに磐座(いわくら)があって、“豊玉姫の墳墓”(御陵)のご案内が記されています。
一般には、ここは“墳墓”ではなく、“古い斎場”だとされています。
なぜなら、幕末の対馬藩士で号を“楽郊”(らっこう)と称した中川延良の『楽郊紀聞』に、和多都美宮司に聞いたお話として、「豊玉姫命を仁位の高山に葬った」という記録が残されているからです。

※和多都美神社のウラにある「豊玉姫の墳墓」(御陵)この先は「海宮山」。
いずれにしても、豊玉町仁位でお亡くなりになられたのであれば、奈辺が「海神の宮」である可能性が高いでしょう。
事実、和多都美神社には、“龍宮伝説”が残されています。
今では、“仁位の高山”がどの山なのか不明だそうです。
有力とされるのは、和多都美神社の南方850mほどに位置し、烏帽子岳展望所がある「烏帽子岳」(標高176m)ではないかとされています。
しかし、私見では、“豊玉姫の墳墓”でお参りすると、烏帽子岳だとお尻をむけてしまうことになるために、ありえないでしょう。
そうではなく、和多都美神社のウラ手から入って東北に位置する「海宮山」(標高110mほど)が“仁位の高山”ではないかと考えられます。
“豊玉姫の墳墓”でのお参りは、「海宮山」にむけてすることになるためです。
なので、和多都美神社のウラの“墳墓”は、本来“遥拝所”だったのではないでしょうか。
こういう事例は多くみられます。
山頂や中腹など遠方に「ご神体」や「元宮」また「陵墓」などがあるために、それを望む山裾などの近場に“拝殿”や“遥拝所”が設けられて、“お参り”できるケースです。
事実、“豊玉姫の墳墓”にむかってお参りすると、200mほど先に「海宮山」が位置します。

※和多都美神社の境内、手前の三本鳥居は比較的最近とされ、満潮時にはここまで海水がきます。
複雑な入り江を有する浅茅湾(あそうわん)の北深部、「仁位浅茅湾」に位置する「和多都美神社」は、今でこそ車や観光バスで行けます。
つい最近の昭和40年代になって道路ができたからです。
それまでは、船でしか行くことができない“隠れ家的”な「海宮」でした。
もっとも、対馬においては、古来より船こそが交通手段だったので、道がない入り江の奥は、敵にみつからず、侵入されにくい安全な場所だったといえます。
「仁位浅茅湾」の奥のさらに東の入り江に佇んでいるのが「和多都美神社」です。
海中に第1と第2と2つの鳥居があり、水際に第3鳥居があり、陸に第4第5と2つの鳥居があって、合計5つもの鳥居が本殿にむかって一直線に並んでいます。
これも、初代「神武天皇」の祖父母「彦火火出見尊」と「豊玉姫」をご祭神とし、豊玉姫の御陵が残る由緒ある海宮だからかもしれません。
※付記
『日本書紀』を仔細に読んでいくと“歴史”の二重・三重構造がみえてきます。
たとえば、初代「神武天皇」の“実在のモデル”が、後世の記録に名前を変えて記されているといったことです。
当然、“実在のモデル”の母親や祖母(当記事における伯母でもある「豊玉姫」)にあたる女性も、『日本書紀』の「人代」などからみえてきます。
対馬の「住吉神社」は、『日本書紀』の「神代」に“神武天皇の父親”として記される「彦波瀲武兎鷀草葺不合尊」をご祭神としていますが、そこからも推測が可能です。
一般に「住吉神社」は、“住吉大神”こと「筒男三神」(つつのおさんじん)をご祭神としますが、住吉は“墨江”(すみのえ)とも呼ばれ、“黒殿”(くろどん:黒男)とも称される「武内宿禰」(たけのうちの すくね)にかかわり、本来のご祭神ではないかともくされています。
「神武天皇」の父「葺不合尊」が“神代”における名称で、“人代”においては別の名称の“天皇”や「武内宿禰」にかかわるとすれば、『日本書紀』に3世紀の出来事として記録される「神功皇后」の三韓征伐のおり、ともに対馬を経由して進軍したゆえに、なんらかの由緒が対馬に残るのは当然でしょう。
つまり、3世紀の女性として『日本書紀』に記される「神功皇后」が、もし邪馬台国の2代目女王“台与”(豊)に比定できるとすれば、それは、いろんな伝承から“神代”に記される“豊玉姫”また“玉依姫”とも重なることになります。
ここでは“疑問”にとどめ、こまかな論拠は省略させていただきます。
機会があれば、壮大な『日本書紀』のカラクリを、まとめて提起することがあるかもしれません。
2月の「星のディレクション」
2021.02.07
アメリカをはじめ今月2021年2月の「星のディレクション」をご紹介いたします。
平たくいえば、星の動きによる今月の“特徴”(出来事)です。
大きくは、次の2点になります。
1、水瓶宮の「土星」と牡牛宮の「天王星」の正矩(ジャスト・スクエア=90度)。
2、山羊宮の「冥王星」と牡牛宮の「火星」の正三分(ジャスト・トライン=120度)。
後者は、正しくは魚宮の「ケレス」を頂点とする「火星」と「冥王星」の小三角(ミニ・トライン=60・60・120)が一時含まれます。

で、この星の配置が何を意味するのかということです。
かんたんにいえば、次のようになります。
1、“パラレル・ワールド”と新たな“国体”
昨年末以来、「土星」と「天王星」の矩(スクエア=90度)が続いています。
そして、今月2月18日前後には、コンマ単位でジャストの正矩(90度)が形成されます。
ただし、1度差以内を正矩(90度)とした場合、本日2月7日前後~来月3月3日前後までの1か月弱がこの“ピーク”の期間になります。
なぜ、「前後」と表記したのかというと、星の度数は「ホロスコープ作成ソフト」によって微妙に誤差があるためです。
というか、どの「天文暦」(エフェメリス)をもちいてプログラミングしているかなどにもよって、惑星の位置には微妙な差異が生じるためです。
それはともかく、水瓶宮の「土星」と牡牛宮の「天王星」の矩(90度)がもたらす「星のディレクション」は端的には、現実社会における“パラレル・ワールド”(並行世界)を象わします。
たとえば、“オモテ”の動きと“ウラ”の動きといったように、異なる動きが同時に生じます。
世界的にもそうですが、とくに「水瓶宮」を“国体”とする「日本」や「アメリカ」などに顕著となる動きだといえます。
ここで“国体”というのは、それぞれの「国家」は宝瓶宮占星学でいう“民族性”“国体”“現体制”の3つのサイン(宮)で象わされる、というときの“国体”のことです。
詳しくお知りになりたいかたは、宝瓶宮占星学-9雑考編「日本は何座宮?」をご参照ください。
この「土星」と「天王星」の矩(90度)は、土星が「水瓶宮」に入宮した昨年2020年12月下旬あたりからはじまりました。
かんたんにご説明しておきます。
「土星」は“誤魔化すことのできない現実”を象わします。
それゆえ、基本的には「現実」の出来事を象わすことになります。
その土星が「水瓶宮」に位置し、水瓶宮の共鳴星「天王星」と矩(90度)、正確には下方矩(ロウアー・スクエア=90度)とするために、“現実”とは異なる“改革”(異端的)な動きが同時に起きる「星のディレクション」がもたらされます。
「アメリカ大統領選挙」に関していえば、“バイデン大統領(仮)”やマスコミ側の動きと、「第45代トランプ大統領」やネット側の一部の動きが、“同時並行的”(パラレル)に生じていくといったことです。
すべての国がそうだというわけではなく、「水瓶宮」の象意をもった国家においては、そのような“オモテ”の動きと“ウラ”の動きが生じやすくなります。
【水瓶宮にかかわる“再スタート”】
さらに申し上げますと、「牡牛宮」をトランシットする「天王星」は、日本やアメリカにおいては、“国体の再スタート”を意味する「星のディレクション」ともなります。
“新たな国体”の可能性です。
「天王星」が「牡牛宮」をトランシット(運行)していく昨今の約9年間の時期は、そういった“出来事”が生じてもおかしくない“宇宙波動”の期間になります。
少し、補足説明をしておきます。
占星学(術)を“学んだ”かたから、次のような批判や疑問が起きそうです。
「ちょっとまて。
天王星の公転周期は84年ほどだ。
なので天王星は、84年に1度の割合で「牡牛宮」をトランシットする。
であれば、“国体”は84年ごとに変化し、“再スタート”することになるのか。
ありえないだろ。」
たしかにそうですね。
ふだんなら…。
しかし、“風の時代”といった「あやふや」なご理解をされていると見抜けないのですが、32年ほど前に「宝瓶宮時代」(ほうへいきゅうじだい)が正式にはじまりました。
ちなみに、「水瓶宮」もそうですが、「宝瓶宮」の“はじまり”と、夜空の「みずがめ座」の“範囲”(位置)は関係がありません。
「双魚宮時代」や「宝瓶宮時代」といった“占星学的な時代区分”は、「プラトン年」(グレートイヤー)を12等分した「プラトン月」(グレートマンス)によって規定されるものだからです。
また、「宝瓶宮時代」の到来は、プラトン年が発見された2,000年以上も前に、数学者で天文学者でもある「ヒッパルコス」の時代から知られた正式名称です。
英語では、「Aquarium Age」または「The Age of Aquarius」と呼称されます。
加えて、「宝瓶宮占星学」は1989年前後の「星の動き」などから、この年、正式に「宝瓶宮時代」が“はじまった”ことをお伝えしています。
多くの分野の「社会変化」からもそれは確認済みで、歴史的な「パラダイム・シフト」が、約2,160年(計算値)ぶりに起きたことを、2005年から「宝瓶宮占星学」サイトを立ち上げてご指摘してまいりました。
過去の“西洋占星術”も必然的に「宝瓶宮時代」の“新しい占星学”に変わっていくことに気づいたからです。
いずれにしても、「宝瓶宮時代のビッグバン」が1989年に人知れず起きました。
以降、約2,160年間(計算値)続くことになります。
さて、柔軟な思考をされるカンの良いかたなら、お気づきかもしれません。
「宝瓶宮時代」がはじまって、はじめて下方矩(90度)の「牡牛宮」を「天王星」がトランシットしていくのが、2018年(令和元年)~2026年の約9年間です。
なので、“国体”を「水瓶宮」とする「日本」や「アメリカ」などにおいては、“国体の再スタート”のディレクションとして働くことになります。
ふだんとは異なるのです。
ちなみに、“国体”ではなく、“民族性”や“現体制”を「水瓶宮」とする国家においても、それ相応の“新たなスタート”がもたらされることになります。
“占断”や“リーディング”を行なうとき、単に星の動きや配置を読むだけでは、歴史的な出来事ほど片手落ちになりかねません。
一例ですが、「宝瓶宮時代」の“象意”(方向性)といった“上位ディレクション”を頭のかたすみにおいておかないと、どこかズレた占断やリーディングになりかねません。
これは事実です。
さらにいえば、「宝瓶宮時代」を正しく知るには、さらにその上位のディレクションといえる「宇宙的な人類歴史の方向性」をご理解されておくことが必要です。
宝瓶宮時代の宇宙観=「数理法則とクオリアル・ワールド」がそれです。
2、“軍事作戦”のピークと終了
次に移ります。
すでに当ブログでもお伝えしてまいりましたように、「火星&天王星」の合(0度)が先月1月7日前後から続いていました。
それ以前は、「火星」は自らの共鳴サインの「牡羊宮」を半年以上にわたってトランシットしていたのです。
「火星」は、“行動”や“戦闘”また“軍事”にかかわります。
それが、半年以上も共鳴サイン(宮)の「牡羊宮」を運行し、その象意を強めていました。
その火星が次の「牡牛宮」に入宮すると同時に、今度は“改革”を象わす「天王星」と合(0度)をとり、“軍事行動”による“改革”などのディレクションへと移ります。
この合(0度)は、2月3日前後に終わりましたが、引き続き2月14日前後からは、より強力な「冥王星」との三分(トライン=120度)に入ります。
山羊宮の「冥王星」と牡牛宮の「火星」のコンマ単位での正三分(ジャスト120度)は、今月2月24日前後です。
これが、どのような「星のディレクション」を象わすのかというと、“両極端”になりますが“軍事作戦のピーク”であり、また“軍事作戦の終了”ともなります。
最悪は、“核攻撃”を意味する可能性もあります。
ですが、このディレクションの途中から、魚宮の「ケレス」を頂点とした「火星」と「冥王星」の小三角(ミニ・トライン=60・60・120)が形成されていくことから、その可能性は少なくなりそうです。
結局、今月は“軍事作戦のピーク”にむかっていくと同時に、小三角(60・60・120)によって逆に“軍事作戦の終了”を象わすことになるのではないでしょうか。
タイムスケジュールは、今月24日前後をピークとして、平常的に許容度数(オーブ)6度の場合、3月8日前後まで続く三分(120度)です。
一方、ケレスによる小三角(60・60・120)は今月2月22日前後から形成されます。
これらの“軍事行動”は、前述のディレクション“パラレルワールド”の期間内です。
なので、軍事作戦の性質上からも、また前述からも“別世界”の出来事や大半は“水面下”の出来事になる可能性が高いでしょう。
【中国再出発への転換】
もう1つ、重要な「星のディレクション」がこれらの星の動きにかかわっています。
それは、影響圏をふくめて2006年から続く「組織運営の変革のディレクション」です。
このディレクションは、“世界的な運営態勢の変革”をもたらすものです。
とくに「天秤宮」を“現体制”とする「中国」(中共)においては、“現体制の出直し”がもたらされるものになっています。
さらには、昨年末より「水瓶宮」をトランシット(運行)しはじめた土星と木星をはじめ、今月2月の「水瓶宮」での大会合(ステリウム)も、中国にとっては「蠍宮」で象わされる“民族性”の「新たな再出発」のディレクションとなることを意味します。
まだ、あります。
天王星が「牡牛宮」をトランシットしている期間中において、土星と木星が「水瓶宮」をトランシットしはじめたことの意味は、本来の「中国」らしい“国体”への“転換期”となるディレクションを意味します。
詳しくは、「水瓶宮による中国再出発」(2020年11月30日)の記事内容をご参照ください。
以上、2月の特徴となる上述のような「星のディレクション」のご紹介でした。
同時に、2023年~2024年まで続く、2006年以降の「組織運営の変革のディレクション」が“総仕上げ”に入っていく、今年2021年以降の残り2~3年間になっています。
「2018大統領令」2.1発動
2021.02.04
「2018大統領令」というのは、トランプ大統領があらかじめ選挙不正を見越して署名しておいた正式名称「合衆国選挙への外国からの干渉に対する特定制裁発動に関する大統領令」のことです。
この「2018大統領令」の発動が、2月1日に可能になりました。
「2018大統領令」には、次のようにスケジュールが定められています。
まず、「アメリカ大統領選挙が終了してから45日以内に外国の干渉があったかを評価し、その関係者また支援した外国政府を特定するものとします」(概意)と書かれています。
これが、選挙の昨年11月3日から45日後の12月18日までのお話です。
つぎに、その「評価と情報を受け取ってからさらに45日以内に当該選挙に関して、評価する報告書を提出するものとします」(概意)と書かれています。
それが、昨年12月18日から45日後の本年2月1日です。
つまり、「アメリカ大統領選挙」に外国政府などからの干渉があった場合、最長で2月1日以降に「2018大統領令」の発動が可能になります。
「2018大統領令」によれば、外国に関与して選挙不正を行なった人(個人&組織)に対して、“国家反逆罪”の適応が可能になり、「死刑」または「全財産没収」などを行なえることになります。
ここからアメリカの動きを見ると、現在、“パラレル・ワールド”の中にあることがみえてきます。
日本でもマスコミで報道されるオモテの“バイデン大統領”(仮)の動きと、“ウラ”で展開されている「第45代トランプ大統領」(継続)の水面下の動きです。
具体的には、アメリカ国防軍による“大量逮捕”が“秘密裏”に行なわれています。
もはや“陰謀論”と呼ぶことが「陰謀」であって、オモテの“架空”(フェイク)の動きと“法律”に基づいたウラの動きが激しくしのぎを削りあっている現状です。
ここで、疑問が生じると存じます。
なぜ、トランプ大統領が「現職」のままなのか、また「2018大統領令」の発動が可能なのか?
その解答は「反乱法」にあります。
「トランプ大統領」は、どんなに不利な状況になろうとも、あくまでも「憲法」を遵守して動いています。
「アメリカ軍」(国防総省)も同じです。
アメリカ軍がどちらに付くかは、“バイデン”が「憲法」による“正規の大統領”かどうかで判断できます。
ですが、「米国防総省」はいまだに機密情報へのアクセスをバイデン陣営に許可していません。
つまり、“バイデン”を「アメリカ軍最高司令官」としてその指揮下に入っていないのです。
これは、“バイデン大統領(仮)”を法によって選出された正規の大統領として認めていないことを意味します。
また、アメリカ軍をはじめ公式の米国政府機関のツイッター・アカウントは、トランプ大統領のアーカイブをフォローしているものの、“バイデン政権(仮)”のものはフォローしていないようです。
当然です。
1月6日、仕組まれた「米国議会乱入襲撃事件」が起きたとき、トランプ大統領は「平和的に帰宅するように人々に何度も呼びかけた」のです。
具体的には、次のような文言です。
「どうか議会警官と警察を支援してくれ。
彼らはわが国側の人々だ。平和にしてくれ。皆さんに議会議事堂で平和な対応でいることをお願いする。
暴力を起こしてはならない。我々は法と秩序のもとの党だ。法と警察に敬意を示してくれ。
あなたの苦しみがわかる。あなたが傷ついたのを知っている。選挙は盗まれた。大勝したと皆知っている。とくに反対側もだ。
しかし、今は家に帰るべき。
平和である必要がある。法を守り、警察に敬意を示してくれ。だれもケガをしてほしくない。たいへんなときだ。
あんなことが起きて、われわれから盗まれた。私とあなたと国からだ。不正選挙だったが、彼らのワナにおちいるな。
我々は平和でなくてはならない。家に帰ってくれ。
あなたを愛している。あなたはとても大切だ。反対側の連中は、いかにわれわれをひどく扱ったと知っている。私はあなたがどう感じているか知っている。
家に帰ってくれ。平和に家に帰ってくれ。」
しかし、ツイッター社はこの投稿をすぐに削除しました。
のみならず、トランプのアカウントを12時間凍結し、そのまま削除してしまいました。
なぜでしょうか。
この「平和に家に戻るように」という呼びかけは、「反乱法」の発令に必要な“条件”だからです。
マスコミは“反トランプ”なので、当然、そのような報道はしません。
トランプ陣営も必要以上の“社会混乱”は招きたくないからでしょう。
ですが、トランプ大統領は、1月10日に「反乱法」に署名したといわれています。
事実、署名直後、トランプはカリフォルニア州の「ぺルドルトン海兵隊基地」に大統領専用機で飛んでいます。
この「反乱法」の発動は、なにを意味しているのでしょうか。
大統領が「反乱法」に署名し発動した以上、そのあいだは「署名した大統領が変わることはない」という法的事実があります。
なので、今もトランプは「第45代アメリカ大統領」にとどまっています。
ただし、もはや“グアンタナモ収容所”となった「ワシントンDC」のホワイトハウスにトランプ大統領はいません。
“バイデン大統領(仮)”も、とっくにいないのです。
ちなみに、トランプはフロリダ州パームビーチの「マール・ア・ラーゴ」を拠点として“軍事会議”などを行なっています。
ご存じのように“バイデン大統領就任式”がTV報道されましたが、当ブログでの「ホロスコープ・リーディング」どおり、リアリティーがなく“バイデン大統領(仮)”でしかありません。
なぜなら“就任式”自体が、ハリウッド式にCG技術を駆使して創作された“映画”(録画)で、“フェイク”であることが、もはや数々の証拠から明らかになっているからです。
当然、「米国防総省」が認可した州兵とフェンスで「ワシントンDC」を包囲していますので、1月20日の“就任式会場”のようすを知っています。
そこで報道された式典は行なわれておらず、正式には就任していません。
それゆえ、今もトランプ大統領を「アメリカ軍最高司令官」として「米国防総省」は動いているのです。
そのもとで、2月1日に「2018大統領令」が正式に発動したようです。
「2018大統領令」によって、外国政府の関与のもとに“不正選挙”にかかわった人(個人&組織)の“大量逮捕”が、すでに国内外をとわず水面下ですすんでいます。
非公開の「軍事法廷」(即決)によって“国家反逆罪”が成立すれば、「死刑」や「全財産没収」が行なわれます。
どこまで表面化するかはともかく、“大波乱”(嵐)の2月になりそうです。
当然、俗称“ディープステート”などバイデン側の残党による必死の“抵抗”もありえるでしょう。
ですが、世界最強のアメリカ軍に“抵抗”しても、結局は「罪」を重くするだけです。
世界で相次ぐ政府要人の辞職や内閣解散もそうですが、2月2日に突如発表されたアマゾン創業者ジェフ・ベゾスCEO(57)の退任も、マスコミ発表とはウラハラに、上述に関連する“事情”があったのでしょう。
昨今、アメリカで起きている“おかしな状況”(実際の出来事)を細かくひろっていくと、マスコミが報道しないだけで、すでに「反乱法」や「2018大統領令」が発動されていることがわかります。
社会不安を与えないように、“水面下”で軍事作戦が展開されているのです。
たぶん、マスコミもある程度は知っていると思いますが、不利なことは“報道しない自由”なのか、最後まで公表しないでしょう。
そのようにとらえていくと、「星のディレクション」からみても、“すべて”のつじつまがあいます。
念のために付記しておきますと、「信じる、信じない」は皆さまのご自由です。
IMO(In My Opinion:私の意見)は、法の範囲内でだれでも自由だからです。
気になれば、皆さまがご自分で納得できるかどうか調べてみることが重要です。
それが「宝瓶宮時代」の自立した“人格”の確立につながっていきます。