昨今のクオリアルな動き
2023.02.14
[概要編] ― 宇宙波動エネルギーの実際 ―


現実に先んじて「エネルギー宇宙」は準備を進めていく



お気づきの方も多いと存じます。

激しく変化しつつある昨今の「両世界」の動きです。

ここでいう両世界とは、時空を超越した「エネルギー宇宙」と、地上の現実社会といった「物理宇宙」をさします。

「え、エネルギー宇宙だって!?」、それについてはおいおいご説明させていただくとして、昨今のクオリアル宇宙(両世界)の動きは、何やら“面白い”ことになっています。

信じられないという方もいらっしゃると存じますので、眉にツバをつけて(w)ご高覧ください。

要点のみですが、現在は約2,160年ぶりにパラダイムシフトが進行中であるというご認識に立たれると、何かしら見えてくるものがあるかと存じます。





≪クオリアルな動き:10項目≫

昨年2022年から、今年2023年3月までの主な「クオリアル」な時系列順の動きです。

1、「深層の精神意識の変革」のデレクションのはじまり。

2、新時代の「宇宙波動エネルギー体」が立ち上がる。

3、新しい「エネルギー運営体制」の整備。

4、宗教的「対立二元論」(天国/地獄など)の解放。

5、安倍元首相銃撃事件。

6、古い海王星による“欺瞞組織”の地上からの一掃。

7、イーロン・マスク氏によるツィッター改革。

8、一般人(認知プロファイリング探偵ら)による「Colabo問題」などの追及。

9、土星の魚宮(影響圏を含む)入宮と「建国記念の日」における転換。

10、「新しい霊性意識の覚醒」(目覚め)のディレクションの始まり。
※2009年以来の「双魚宮時代のリバイバル」のディレクションが一段落。


【One Point】 上述の10項目は、時系列順で、すべてつながっているものです。

「エネルギー宇宙」と「現実社会の出来事」は、相応のタイムラグを伴ないながらも、共鳴関係によって関与し合っているためです。






≪概説その1:ディレクション≫

ここからは、10項目それぞれについて概説を申し述べます。

ただし、項目9と項目10につきましては、時期をみて後述させていただきます。

前後の項目の関係性を、随意ご推察されながらご一瞥くださると、いろいろと見えてくるものがあるかと存じます。


1、「深層の精神意識の変革」のデレクションのはじまり…2021年12月

すでにご存じの方も多いように、トランシットの冥王星が山羊宮25度を通過して、水瓶宮の影響圏に入ることによって「深層の精神意識の変革」のデレクションがはじまりました。

2012年から始めた「数理法則とクオリアル・ワールド」(伝授講座)をご受講された方は、信じる信じないはともかくご存じのとおりです。

また、今年2023年3月から始まる「新しい霊性意識の覚醒」(目覚め)のディレクションにつきましても、同じく伝授講座でお伝えしておいたとおりです。

両ディレクションは、今後20年前後続く今世紀のメイン・ディレクションとなる重要なものです。

われ知らずとも、深層の精神意識(霊性、深層心理)の変革と次元拡張がもたらされていくため、社会的にも個人的にも覚醒をうながす出来事が起こることになります。


【One Point】 既存の現代占星術に“未来予測”といった占い概念はあっても、「基本三数」による数理プロセスに基づいた「星のディレクション」(運勢変化、時代変化)といった現実の概念はありません。




≪概説その2:エネルギー宇宙≫

2、新時代の「宇宙波動エネルギー体」が立ち上がる…2022年1月

見えざるエネルギー宇宙の出来事ですが、旧来の“神さま”といった概念は、新たに「宇宙波動エネルギー体」が生じ立ち上がりましたので、発動していくに及んで、いずれ退場していかれることになります。

たとえば、新しいCEOや役員が着任したようなもので、実際に働きはじめることによって、既存の組織の方針や方向性、すなわち世界の波動エネルギーの様態が変わっていくことになります。

3、新しい「エネルギー運営体制」の整備…2022年3月頃

エネルギー宇宙における新しい「運営体制」が発足しました。

良識を持たれたお一人ひとりと、今後は時空を超越して見えざるネットワーク的な共鳴関係が結ばれていきます。


【One Point】 現代物理科学は、人類を“物質”という狭い「檻」(おり)に閉じ込めてしまいました。

一方で、近代スピリチュアリズムは、逆に現実や物質を無視した観念世界へと逃亡を図っているかのようです。




≪概説その3:逆転の動き≫



4、宗教的「対立二元論」(天国/地獄など)の解放…2022年6月~8月

どの宗教というのではなく、教義や教理一般によって「地獄に落ちる」などと恐怖心をあおる“地獄概念”がエネルギー宇宙の世界では解放されました。

5、安倍元首相銃撃事件…2022年7月

現実世界の出来事ですが、上述のすべてにかかわって起きたものです。

そのため、この事件は著名な過去の事例でいえば、イエスの十字架と“復活”といった“一粒の麦”の譬えのように、その後の世界を大きく変えていったエポック・メイキングな意味を持ちます。

同時に「新しいエネルギー運営体制」が整っていくことになるようです。

分かりやすく申し上げますと、安倍元首相亡き後、“安倍イズム”の遺志を受け継ぐ良識ある人々に時空を超越して広がっていくことになります。

6、古い海王星による“欺瞞組織”の地上からの一掃準備…2022年10月

海王星の古い象意“まだ見ぬ理想”や“欺瞞”によって、日本の社会一般や世界に厄災をもたらす人々や組織また国家は、かつてのような双魚宮時代末期の「天運」に守られることがなくなっていきます。

新しいエネルギー宇宙とクオリアルな波長が合わなくなるために、次第に居場所がなくなっていくことが起こります。




7、イーロン・マスク氏によるツィッター改革…2022年11月

誰もが知る現実の出来事ですので、ネット民であれば多くの方々が体験的にご存じのとおりです。

マスク氏の「民の声は神の声」といった考えは、“神”という比喩はそれとして、エネルギー宇宙をはじめとした時代の流れに沿っています。

また、美しい国日本や開かれたインド太平洋といった自由民主主義を維持し継続し守ろうとした安倍元首相の考えにも一致するものです。


【One Point】 現実の事象や出来事といった表面だけを見ていても分からないことは山ほどあります。

ですが、見えない宇宙波動エネルギーのリーディングを含めて、エネルギー宇宙の動きをクオリアルに見ていくことで、真相に近づくことができます。



【ご参考:自由と「星のディレクション」】

個々人は自由な意志を持ちます。

そのため、「星のディレクション」(運勢変化、時代変化)を受け入れてご参考にされることも、またスルーされることもご自由です。

「星のディレクション」というのは、宇宙太陽系の星の動きを「基本三数」また「宇宙波動エネルギー」を伴なって解釈する「ホロスコープ」からリーディングできるものです。

フリーな自由精神は、いわゆる“魂”の成長に欠かせないものなので、最終的には自己の責任に委ねられています。

それはそれとして、国民大衆や社会全体の総意として、時代的な「星のディレクション」は、その方向に動いていくことが歴史の常です。




5≪各項目の概説その4:新時代への転換≫

8、一般人(認知プロファイリング探偵ら)による「Colabo問題」などの追及…2022年11月

宝瓶宮時代は、個々人の主体的な意識や責任の時代です。

微力でも個々人の良識や行動が集積されて、社会に安定と平和をもたらす大きなうねりに紆余曲折を経ながらもなっていく時代です。

9、土星の魚宮(影響圏を含む)入宮と「建国記念の日」の転換…2023年1月25日&2月11日

10、「新しい霊性意識の覚醒」(目覚め)のディレクションの始まり…2023年3月13日
※2009年以来の「双魚宮時代のリバイバル」のディレクションが一段落。

上記、9、と10に関しましては、「魚宮」に入宮していく土星のディレクションと、「魚宮」を去っていく海王星という対照的なディレクションにかかわります。

“妄想”から“現実”へ宇宙波動エネルギーの転換がもたらされますので、後日、ページを改めてご説明をさせていただきます。


【One Point】 現代物理科学が範疇外とすることもあって、科学的には否定されかねない分野ですが、宇宙の根幹法則「基本三数」を伴ない、時空を超越した「エネルギー宇宙」の実在は「量子もつれ」をみても明らかです。

地上社会だけでなく、両世界によって宇宙と人類歴史や社会また人生の真相が視野に入ってまいります。









伝授講座:追加のお知らせ
2022.06.24
 
伝授講座:追加のお知らせ
― 【QW講座19】&【QW講座20】 ―



◆過去に「伝授講座」ご受講の皆さまへ WEB版に2講座を追加しました◆ 



これまでに「伝授講座」ご受講の皆さまへ

「WEB版伝授講座」(数理法則とクオリアル・ワールド伝授講座:2019年版)に、次の2講座を追加しました。

1、
【QW講座19】解説編その5:ホロスコープと人の成長プロセス Part1 ver2206

2、
【QW講座20】解説編その5:ホロスコープと人の成長プロセス Part2 ver2206
PDF 【QW講座20-図】ホロスコープと人の成長プロセス ver2206


内容は、「数理法則」に基づいた人間の成長プロセスをホロスコープを用いてご説明したものです。

拡大してもきれいなPDFも付いています。

ホロスコープに詳しくないかたも分かりやすいと存じます。

※ホロスコープを用いてご説明した「【QW講座14】解説編その2:数理法則と宇宙創成プロセス Part1」&「【QW講座15】解説編その2:数理法則と宇宙創成プロセス Part2」と対をなす「人間の成長プロセス」です。


【WEB版伝授講座URL】

以前お知らせいたしました当該ページのURLが分からないかた、またなくしたかたは、ご受講当時のお名前にて「鑑定&お問い合わせ」(フォームメール)からご一報くだされば、無料でお知らせいたします。

なお、当方のメアド「sei@aqast.net」は使えません。

当該講座の追加アップのご連絡を事情によって受けとられていないかたは、お手数ですがよろしくお願い申し上げます。









クオリアル生活-試論
2022.03.27
 
クオリアル生活-試論
― 個性的で満足な日常の暮らし ―


◆「自分に合ったよいものこそ毎日使うものに」



「クオリアル生活」、広告のキャッチコピーみたいですね。

かつてのパルコ、西武百貨店のコピー、物質的充足のみならず、精神的にも文化的にも満足のいく生活を提案した「おいしい生活」(1982)のような。

いろんな生活があってもいいのですが、宝瓶宮時代のクオリティーで現実的な生活を少しイメージしてみました。

お遊びの息抜き記事とお考えください。



≪個性や状況に応じて≫

ご自身の生活や人生です。

他人とは異なるご自分に応じた生活様式になると存じます。

いずれにしても、今の時代や、ご自身の周囲の状況、また地域や社会に根付いた現実的な生活になるのは当然でしょう。

そこで、宝瓶宮時代の「クオリアル生活」の一例をイメージしてみました。

個性や状況に応じたアレンジは必要です。

まったく違う生活でもかまいません。

「クオリアル生活」ですから。

10人いれば10種類の「クオリアル生活」、千人いれば千通りの「クオリアル生活」があって当然です。

逆に、宝瓶宮時代は「こうしなければならない」といった押し付けはありません。

「共鳴関係論」と「友愛精神」(和、絆、民度:人類愛)がベースにあるのが「クオリアル生活」です。



≪大阪あるある≫

「これ、なんぼやと思う? 300円やで、お買い得やろ?」

なんて、引き合いに出して申し訳ありませんが、トラ柄の服を自慢したりします。

いいんですよ。

自分の着たいものを、お値打ち価格で買えるなら、それも「クオリアル生活」です。

使わないと分かっているものを安いからというだけで購入する人はいないですよね。

ですが、よく使うかどうかわからないのに、安売りしていたので購入する人がまれにいたりします。

それで結果的に満足できるものであればいいのです。

ただ一般的に、「安売り」には安く売らなければならない理由があったりします。

現代日本にはさすがになくなったと思いますが、1回使っただけで壊れるものだったり、1回洗っただけで縮んだり色落ちして着られなくなる粗悪品などです。



≪高品質な“粗悪品”≫

次に、ご参考に逆パターンをみてみましょう。

仮に、友人の結婚式などに着ていくために、奮発して高価な服を買ったとします。

当然、ご自分によく似合ういい服で満足なのですが、高価なので1回着ただけでずーっと箪笥の肥やしになっているケースです。

着崩したくないので、ふだんは着ないでとっておいて、そのまま、いつしかご自身の体形が変わってしまったり、年齢とともに着れなくなったりしたとします。

これも、1回使っただけなので、上述の粗悪品と同じです。

それって「クオリアル生活」ですか?

着ないけど持っているという「満足感」や「安心感」はあります。

しかし現実にそっているとはいえません。

いずれ着なくなるのなら、似合ういい服なので、買ったときに多く着こなしたほうがいいと思いません。

そのほうが「クオリアル生活」です。



≪ブランドという他人の価値≫

さらに逆のパターンです。

ブランド品にこだわって購入するというのはどうでしょう?

価値観は人それぞれですから、ステイタスだというのならそれも否定はいたしません。

それがあるうちは“心に余裕”ができたり、“自慢できたり”しますものね。

ただし、極論すれば、他人による“持ち物の価値”なので、本質的にみて、自分自身の価値が上がったわけではありません。

物や高価や安価をとわず「価格」に踊らされてしまえば、やはり上述の「大阪あるある」と同じパターンになります。

むしろ高価な“ブランド”という他人の価値に依存したぶんだけ、「クオリアル生活」とは真逆ではないでしょうか?

ブランド品を身につけて褒められるのと、トラ柄の服を見せながら「これ安かったんやで」というのとは同じようなものです。

高い安いは両極ですが、「価格」に価値をおいている点で同じレベルだからです。



≪常用のクオリティ-≫

どのパターンが良いとか悪いとか言っているのではありません。

お好きにされていいのですが、いくつかのパターンをご紹介してみました。

最後にもう一つ。

毎日のように使うものだから、ご自分の個性やセンスに合って、品質やデザインも満足できて、安全で体や健康を害さないものを買って常用にしよう。

お値段は高すぎれば手が出せませんが、高くても買えればそれでよし。

まれに安いお値打ち価格のものもあったりします。

それなら、なおさら結果的にいいかも。

クオリティーだし、実際的だし、個性にも合って、満足できる普段使い。

このパターンはどうでしょう?

相応のクオリティ-があって、日常生活に使えて、独自の個性にも合う。

日々満足できませんか?

さらにいえば、ご自身のライフスタイルによって、周囲の人々を相応にでも楽しくできたり、勇気づけることができれば、なおよいでしょう。

かってな推測ですが。


※「クオリアル生活:試論」でした。

初回は分かりやすいように、“物品”にたとえてみました。

次回は、打って変わって「深層心理編」です。









天皇と「日本の天運」特別編
2021.05.08
 
● 「太平洋戦争」と「大東亜戦争」の結末
 

天皇と「日本の天運」の“特別編”をお届けいたします。

先の“敗戦”に関して、誤解されるかたがいらっしゃるかもしれないと思ったからです。

次のような“誤解”です。


“明治天皇の御世になって、天皇のもとに「日本の天運」は復活したというけれど、ではなぜ太平洋戦争で日本は負けたのか”


戦後GHQのプロパガンダ(政治宣伝)にダマされず、実際のところを申し上げますと、先の戦争で日本は“2つの戦争”を戦いました。

太平洋を舞台にしたアメリカとの「太平洋戦争」と、東アジアを舞台にした西欧列強との「大東亜戦争」です。

結論的には、アメリカとの「太平洋戦争」には“負けた”ともいえますが、西洋列強の植民地となっていた東アジア諸国は、「大東亜戦争」によって、次々と独立を勝ちとりました。

日本は、“戦争目的”を達成していたのです。


当時、「日本」(とタイ)を除く東アシアの国々は、西洋列強の「植民地」下にあり、次は「日本!?」という切迫した危機的状況にありました。

それを防ぐには、アジア人(黄色人種)として、ともに西洋列強を駆逐し、近隣諸国の「近代化」と「友邦化」をすすめるしか、当時の人種偏見の状況下では、なかったといえます。

いわゆる「大東亜共栄圏構想」がこれにあたります。


しかし、東アジア解放のための“正義の戦争”を日本が行なったとすると、いろいろとマズイために、戦後のGHQは、“大東亜戦争”という言葉を使うことを禁止しました。

そして、「太平洋戦争」と総称するように言論統制をしたまま今日にいたります。

日本が真珠湾を攻撃をして、やむをえずアメリカとの「太平洋戦争」の火ぶたを切らざるをえなかった“根本”には、このような「西洋列強によるアジア蚕食」(植民地化)がありました。

要は、オモテ向きアメリカとの「太平洋戦争」には“負け”ましたが、「大東亜戦争」の“戦争目的”は達成していたことから、一方では戦争に“勝って”いたのです。


それでも“負け”は“負け”だというかたがいらっしゃるでしょう。


では、以下のことを考えてみてください。

まずは、占星学から時代の「天運」をもつ日本が、なぜ「アメリカ」に“負け”ざるをえなかったのか、ご説明しておきます。


日本もアメリカも“国体”を「水瓶宮」とします。

終戦から44年後に正式に「宝瓶宮時代」(ほうへいきゅう じだい)を迎えることから、“宇宙プログラム”は両国とも“勝者”とするしかありませんでした。

日本もアメリカも歴史的に重要な国家だからです。

アメリカは、占星学からみたときに、“世界の自由民主主義体制を守る”という「天命」をもちます。

なぜなら、建国以来、“民族性”を「射手宮」とし、“国体”を「水瓶宮」とし、“現体制”を「蟹宮」とするからです。

この“解釈”は長くなりますので、かってながら省略させていただきます。

そのため、日本とアメリカがやむをえず戦うことになった先の大戦においては、44年後に訪れる「宝瓶宮時代」のベースとなる“自由民主主義体制”これを“守る”「天命」をもつアメリカを、ここで負けさせるわけにはいきませんでした。

当時、自由民主主義に敵対する共産主義の国家「ソ連」が台頭していたからです。

米ソ両国とも当時は「連合国側」であり戦争当事者でもあったことから、もしアメリカが負ければ、それはソ連が世界を牛耳り、“世界共産化”という人類破滅の危機を招くことになるからです。

それゆえ、「天命」をもつアメリカを勝利させ、「天運」を有する日本を、アメリカの軍事力によってソ連の侵略から“庇護”するとともに、“経済”を優先させることで、来るべき「宝瓶宮時代」に向けた日本の復興を図ったのです。

実際、終戦間際や、敗戦時、また占領下の日本を巡る出来事をみると、そのように解釈しなければ説明がつかないことが起きています。


ご参考に書いておきますと、江戸時代の“現体制”は「武家諸法度」などによって「乙女宮」でした。

そのため、江戸時代は“武家社会”ではあるものの「お役人(官僚)的幕藩体制」でした。

江戸時代が終わり、明治から終戦までの日本の“現体制”は、「大日本帝国憲法」などによって「射手宮」でした。

「射手宮」は、“海外”や“拡大”などを象わします。

そのため、明治の御一新によって、海外の西洋に追いつき追い越せと「近代化」を推しすすめてきました。

近代化が成功すると、当時の世界植民地化の国際情勢をかんがみて、“日本防衛”と“アジア解放”にむけた「海外進出」を図っていきます。

台湾や朝鮮半島など近隣諸国の「近代化」を推し進めたのは、その一環です。

もっとも、このことが西洋列強や“民族性”「射手宮」のアメリカとの競合を招いたのは、避けられない時代の趨勢でした。

「日露戦争」に勝った日本は、白人国家から“警戒心”を抱かれていたからです。


いずれにしても、当時は、欧米列強による「植民地」の時代でした。

そのような状況下にあって、双魚宮時代(そうぎょきゅう じだい)最後の「世界的な対立二元論」のピークを星はもたらします。

先進国が「連合国」側と「枢軸国」側とに分かれて戦うことになります。

そのような、“世界覇権のディレクション”によって起きたのが「第二次世界大戦」です。


ドイツ第三帝国のポーランド侵攻による西欧戦線にはじまった「第二次世界大戦」は、劣勢に立たされたイギリスがアメリカに参戦を求めます。

ところが、ルーズベルト米大統領は、「非戦」を公約にかかげて当選していたために、自ら参戦することができませんでした。

一方、ドイツもアメリカとの直接の戦争は避けていました。

そこで、ドイツやイタリアと「三国同盟」を結んでいた日本がターゲットになります。

どうしても「参戦」したいルーズベルトは、日本を追い込んでいきます。

石油も物資も止められ、このまま座して待てば、国が滅ぶしかない日本は、真珠湾奇襲攻撃によって「太平洋戦争」に踏み切ります。

それはそうなのですが、あくまでも日本の主眼は、東アジアから西洋列強を追い出して、アジア諸国の“解放”と“友邦化”による日本の「国家存続」にありました。


重要なことは、戦争には“戦争目的”があることです。

その根幹は、“国体の護持”であり、国家の永続的な“維持発展”です。


たしかに、日本は、「天命」をもつアメリカとの「太平洋戦争」には負けざるをえませんでしたが、東アジアを戦場とした「大東亜戦争」においては、“東アジアの解放”という「戦争目的」を達成しています。

「白人にはかなわない」と思っていたアジア諸国の人々は、またたくまに西洋列強を駆逐していく、“神のごとき日本兵”をみて、自分たちもやれると勇気をもち、次々と独立をしていきました。

そればかりではなく、戦後の日本は、アメリカの軍事力のもとで、“国体の護持”と“国家の維持発展”を成し遂げたのはご存じのとおりでしょう。


では、欧米はどうでしょうか。


西洋列強は、戦争には“勝った”ものの「アジア植民地」をすべて失うことになります。

また、ソ連もアメリカも、さらなる“世界覇権”を競って、その後44年間もの長き「東西冷戦」に突入していくことになります。

その間、日本は、「天運」によって、またたくまに経済復興を成し遂げると、“ジャパン・アズ・ナンバーワン”と呼ばれるほど、一時はアメリカをしのぐ発展を遂げています。


さて、最後に東西両陣営の盟主国「米ソ」のTOPの評価をご紹介して終わります。


1989年のことです。

約2.160年(計算値)続くことになる現在の「宝瓶宮時代」が正式にはじまった年です。

アメリカの「レーガン大統領」とソ連の「ゴルバチョフ大統領」は、「東西冷戦の終結」(米ソ冷戦の終結宣言)にむけて、地中海のマルタ島で会談をします。

そのさい、「東西冷戦」のはじまりとなった先の「第二次世界大戦」において、“真の勝者”はどの国かというお話になりました。

二人の大統領がそろって挙げたのは「日本」でした。


アメリカもソ連も、世界各地の“東西代理紛争”と“軍拡競争”とによって、経済的に疲弊していました。

また、多大な犠牲者を出したドロ沼の「ベトナム戦争」などをみても、あまりにも大きな代償を長きにわたり払ってきていたからです。

逆に「日本」は、“戦争目的”を達成したばかりか、戦後はアメリカの軍事力に守られて、平和と経済的な繁栄を手にしていたのです。


終戦後、しばらくは“世界覇権のディレクション”が続いていましたので、次の仮説も重要です。


もし、日本が「太平洋戦争」に勝っていたら…。

当然、1945年で戦争は終わることはありません。

次は、植民地を失ったものの本体は残っていた「西洋列強」による反転攻勢や、ドイツのモスクワ侵攻を下した「ソ連」の日本への南下といった、いずれの国々をも相手に、“世界覇権”をかけた第2ラウンドの戦いが続くことになります。

物資に不足していた日本は、国家が滅びるか、ソ連に占領されるまで戦争を遂行せざるをえなかったでしょう。

なぜなら、日本が「戦争や~めた」と言っても、“世界共産化”をもくろむソ連は、決して日本を攻めることをやめないからです。


以上のようなことから、天皇とともにある「日本の天運」は、“敗戦”のようにみえる先の戦争においても、絶妙な“天業”でもって、たしかに働いていたことがわかるでしょう。



【ご参考】

1、
「水瓶宮」を“国体”とする日米両国は、「水瓶宮生まれ」(太陽)のルーズベルト米大統領の“策謀”によって「太平洋戦争」を戦わざるをえなくなりました。

2、
その占星学的な理由は、当時、「水瓶宮」の対宮=「獅子宮」に「冥王星」が入宮し、トランシット(運行)しはじめたために、“世界覇権のディレクション”がもたらされたからです。

3、
“国体”を「水瓶宮」とする日米両国と、“両極端”の象意をもつ冥王星の「獅子宮」への入宮またトランシットは、「牡牛宮生まれ」(太陽)の“昭和天皇”の御世でした。

そういうこともありまして、歴史的な大役を果たされた昭和天皇は、「東西冷戦の終結」と「宝瓶宮時代」が正式にはじまった、1989年(1月7日)に崩御されたのは、単なる偶然とはいえないようです。

4、
結果、戦後の日本においては、新「憲法」をはじめ、「サンフランシスコ講和条約」によるGHQの占領下からの脱却によって、“現体制”を「牡牛宮」として新たにスタートすることになりました。

「牡牛宮」の代表的な象意は、“日常生活の安全と快適性”です。たとえば“衣食住”(ファッション、グルメ、インテリア)などのアメニティー(快適な環境)などを象わします。

この“現体制”もあって、「宝瓶宮時代」にむけて“家電製品”などにみられるように、快適な生活環境が花開いて今日に至っています。













※5月10日、一部追記補足を行ないました。
天皇と「日本の天運」その7
2021.04.07
 
● 約1,000年続いた天智系皇統と異なる「明治天皇」


天皇と「日本の天運」の最終回です。

「日本の天運」を半減させたまま、約1,000年続いたのが天智系皇統でした。

これを補い、日本を守ってきたのが“草薙剣”由来の源頼朝にはじまる「武家政権」です。

その武家政権も、最後の将軍 徳川慶喜が「大政奉還」を行なったことで、“天皇の大権”が明治に復活していきます。

このことは「明治天皇」が天智系から決別したことによって、半減していた「日本の天運」が天武天皇による“原点”へと戻っていきました。

どういうことでしょうか。


「宝瓶宮時代」(ほうへいきゅう じだい)が正式にはじまる約120年ほど前のことです。

ちなみに、占星学でいう宇宙的な時代区分の一つ、「宝瓶宮時代」が正式にはじまったことが、なぜわかるのかというと、約25,920年(計算値)の周期をもつ“春分点歳差”と、当時の特異な“星の配置”、さらには世界の各分野で人知れずに起きたパラダイム転換の出来事からリーディングできます。

今年2021年から32年前、平成元年(1989年)のことでした。

この年の1月7日に昭和天皇が崩御されています。

つまり、日本では「宝瓶宮時代」の正式なはじまりとともに「平成元年」を迎えたのです。


なぜ、このような一致の現象が起きたのか。

約2,000年ほど前の「双魚宮時代」(そうぎょきゅう じだい)の初期に、日本では「魚宮」の“民族性”のもと、「水瓶宮」で象わすことができる“国体”が定まっていきました。

これが「日本の天運」の“萌芽”となっていきます。

簡単にいえば、人類歴史の流れと軌をいつにする、“民族性”「魚宮」と“国体”「水瓶宮」の“古代国づくり”がおこなわれたことに由来します。

たとえば、“君臨すれども統治しない”「天皇」のように、支配しない「大国主大神」(≒饒速日命:にぎはやひ の みこと)による“古代国づくり”などによってです。

ちなみに、“大国主”(おおくにぬし)というのは、固有名詞ではなく、“国づくり”を行なうなどして、最初に国の主(ぬし)となった人物を意味します。

なので、全国各地の国邑(こくゆう)ごとに、“大国主命”また“大国魂命”(おおくにたま の みこと)がいてもいいのです。

その大もととなった人物が「大国主大神」です。

具体的には、遠賀川河口域に発祥した日本の「稲作」を、自分たちだけのものとはせず、「病気治療の方法」や「鳥獣や昆虫の災いを除くまじないの法」とともに、全国に広めた「大国主大神」(『日本書紀』「神代」では“大已貴神”:おおあなむちのかみ、「神武天皇紀」では“饒速日命”にあたります)による“古代国づくり”でした。

このことが、一部に例外はありますが、卑弥呼のように“祭祀王”の共立による“合議的共同体運営”といった「水瓶宮」で象わすことができる“国体”の形成につながっていきます。

左翼の言葉を借りていえば“天皇制”です。

ですが、そこに共産主義でいう“支配”や“搾取”の概念は含まれません。

“臣民一体”であり、「和」や「絆」や「民度」による国家運営を意味します。

そういうことがありまして、人類歴史における「双魚宮時代」→「宝瓶宮時代」への移行は、古来よりの「日本の天運」(命脈)と共鳴したのです。

それゆえ、「宝瓶宮時代」の正式なはじまりとともに、天皇の代替わりによる「平成」の御世に移行する出来事が起こりました。


それはともかく、今から150年ほど前の「明治天皇」は、1,000年近く続いた天智系皇統から、なぜ離れたといえるのでしょうか。

また、「明治天皇」によって「日本の天運」が、なぜもとに戻ったといえるのでしょうか。

これまでの当シリーズのなかに“根拠”は書いておきました。

繰り返しになりますが、「日本の天運」の“萌芽”は、縄文晩期から弥生初期にかけて、“古代国づくり”をおこなった「大国主大神」(≒饒速日命)にあります。

さらには、7世紀に『古事記』と『日本書紀』の編纂を命じた「天武天皇」によって、「日本の天運」は確立していきました。

このような“日本の原点”を、忌避してきたのが「天智系皇統」です。


第38代「天智天皇」から10代後の第49代「光仁天皇」(天智天皇の孫)にはじまり、幕末の第121代「孝明天皇」まで、約1,000年近く天智系皇統は続きます。

天智系に皇統が変わることよって、「日本の天運」は半減し、“命脈”を保つことに黄信号がともりました。

それを補い、諸外国による数々の侵略から守ったのが、「草薙剣」を祀る熱田神宮の大宮司家の娘 由良御前を母にもつ「源頼朝」にはじまる武家政権でした。

もし、「武家政権」がこの時期にできていなければ、日本は侵略されて滅びていたか、植民地にされていたかもしれません。

そのように「日本の天運」を補ってきた武家政権も、約700年続いたのち、「大政奉還」(明治維新)によって終わっていきます。

そのとき、ご即位されたのが「明治天皇」です。

後述しますが、「明治天皇」が天智系と訣別し、“古代海人族”や「天武天皇」につうじる“日本の原点”に立ち返ったことで、「日本の天運」は復活していきます。


そのことを列記する前に、かんたんな事例を挙げておきます。


かつて「中大兄」(天智天皇)は、“民族性”「魚宮」と“国体”「水瓶宮」の日本らしくなく、半島に出兵し、「白村江の戦い」を起こしました。

結果は、ご存じのように壊滅的な犠牲と歴史的大敗北を喫しました。

一方、「明治天皇」は、“日本の原点”に立ち返ったことで、大国を相手にした「日清戦争」と「日露戦争」ともに勝利されます。

中大兄(天智天皇)に「日本の天運」がともなわなかった理由は、当シリーズの中でお伝えしたとおりです。

しかし、「明治天皇」は逆でした。

天武天皇が、7世紀に「近代律令国家 大和」を築いていったのと同様に、明治天皇の御世は、アジア諸国に先駆けて“富国強兵”や“殖産興業”など「文明開化」を推し進めて、「近代国家 日本」の建設を成し遂げます。

それは、当時、世界を支配していた白人国家も一目おくものでした。


さて、最終的なご判断は皆さま各位に委ねますが、「明治天皇」が「日本の天運」を半減させた天智系皇統とどう訣別し、どのように“日本の原点”に立ち返って「日本の天運」を引き継いでいったのか、以下、そのいくつかをご紹介いたします。



1、「天皇」号の復活

はじめて「天皇」号をもちいたのは、第40代「天武天皇」でした。

その天武系の皇統が、藤原氏の策謀によって第48代「称徳天皇」で終わり、天智天皇の孫の第49代「光仁天皇」から天智系皇統が続いていくことになります。

天武天皇、持統天皇、文武天皇の3代(+不比等)の「基本三数」3(4)数によって確立した「万世一系」は、天智系(実状は藤原氏の傀儡)にうばわれます。

さらには、光仁天皇から3代のちの第52代「嵯峨天皇」からは、仏教式に「院」号がもちいられることになります。

「○○天皇」ではなく、「○○院」と称されるようになったのが、天智系皇統(院統)です。


そして、ときは幕末。

光仁天皇から70代のちの第119代「光格天皇」(傍系)は、この「院」号を廃止して、本来の「天皇」号に戻しました。

さらには、途絶えていた「新嘗祭」を復活させています。

その3代のちが、第122代「明治天皇」です。

明治天皇からは、かつての「神道祭祀」と「宮中行事」が本格的に復活していきます。

私たちは、天皇が「神道」にもとづいて継承されてきたと思っていますが、天智系皇統の御世は、神道よりも「仏教」が優先され、神仏習合はもちろん、天皇の「即位式」でさえも、主な宮中行事はことごとく仏教式で行われてきました。

そんな皇統(院統)に「日本の天運」などともなうはずがありません。

それが元の「神道」に戻ったのは、150年ほど前の「明治天皇」からです。



2、天智系が遷都した「平安京」

明治天皇になって“平安京”(京都)から、「東京」へと遷都がおこなわれます。

天智系に皇統が替わった第49代「光仁天皇」は、現在でも最高齢記録となる61歳でご即位され、“酔いどれ”でした。

藤原氏が利用するために御輿にかついだだけの天皇です。

次の第50代「桓武天皇」のとき、それまでの「平城京」(奈良)から“都”を長岡京(784年)さらには「平安京」(京都)へとうつします。

794年のことです。

ここから「明治維新」(1686)まで、京都を御所とする天智系の皇統(院統)が続きます。

つまり「京都」は、天智系の“都”なのです。

その“都”を、明治天皇は捨てて、「東京」に遷都しました。

たてまえとしては、京都も、東京も、両方を都とする“奠都”(てんと)とされましたが、結果的に江戸城跡を「皇居」とし、首都機能も移転して「遷都」がおこなわれたわけです。


ここに天智系の“都”は、「明治天皇」によって約900年の歴史に幕を下ろしました。



3、「崇徳院」の解怨と帰還

日本の三大怨霊の代表格は、“讃岐院” 改め「崇徳院」です。

要は、第75代「崇徳天皇」のことです。

なぜ、“讃岐院”とよばれたのかというと、都から讃岐に配流(はいる)になったからです。

しかし、“讃岐院”は、激しい怨みをいだいたまま崩御され、都に「祟り」が起きたために、おそれられて「崇徳院」と呼ばれるようになりました。

配流になった崇徳天皇(讃岐院)は、自分の舌を噛み切り、その血で義理の父であり兄の「後白河院」へ、「日本国の大魔縁となり、皇をとって民とし、民を皇となさん」と呪詛を書き記して、壮絶な崩御をされたといいます。

その真偽はともかく、ほどなくして“平民”だった平家が天皇をしのいで隆盛を極め、さらには平家を滅ぼした源頼朝が、「鎌倉幕府」を開幕します。

崇徳天皇(讃岐院)の呪いどおりに、平民だった武士が天皇にとってかわり、天下を治めるようになったのです。

そういった厄災が100年毎につづき、崇徳天皇の“祟り”と恐れられるようになっていったという事実があります。


ちなみに、「崇徳」という諡号(しごう)ゆえに、“崇高”で“徳”の高い素晴らしい天皇と解釈すると間違います。

事実は異なります。

“崇高”で“徳”があるといった「言霊」で呼ぶことによって、怨霊として祟らないように鎮めようとしているのです。

このような諡号の例は、案外と多くあります。


たとえば、第10代「崇神天皇」もそうです。

“古代国づくり”を最初におこないながらも、“国ゆずり”をせざるをえなかった実質の“初代天皇”です。

「祟(たた)り」を鎮めるために、よく似た字面の「崇(あが)める」という字をもちいて、鎮魂をはかり、“崇神天皇”という「漢風諡号」(しごう)を定めたものです。

具体的には、「大国主大神」(『日本書紀』では「大已貴命」また「饒速日命」)をさします。

いずれも、“国ゆずり”をしたことが『日本書紀』に記されている人物です。

ほかにも、第16代「仁徳天皇」や殺害された第32代「崇峻天皇」がいます。


ですが、いちばん有名なのは「聖徳太子」でしょう。

「聖徳太子」と呼ぶから、“聖”なる“徳”があったと考えるのは早計です。

事実は、法隆寺の法要「聖霊会」(しょうりょうえ)での「蘇莫者」(そまくしゃ)にかかわります。

7世紀初頭に日本(倭国)の独立と近代化をすすめながらも、孫(入鹿)を中大兄と中臣鎌子に暗殺され、自らの功績は“厩戸皇子”(うまやど の みこ)のものとして『日本書紀』に記された人物で、「蘇我馬子」(蘇我本宗家)を意味します。

その怨霊を鎮め、祟らないように、当時の人々は、才能もなかった厩戸皇子ではなく、蘇我氏を意味して「聖徳太子」と呼んだのです。

なので、“聖徳太子”そのものは実在しません。


お話をもとに戻します。

明治天皇は、孝明天皇が崩御された半月後に皇位を受け継ぐ「践祚」(せんそ)をされました。

しかし、践祚はなされていたものの、2年近く即位はなさらず、「崇徳院」が崩御された讃岐に勅使を派遣しています。

崇徳院の命日にあたる8月26日に「宣命」(せんみょう)が読み上げられ、謝罪を行なったうえで、日本国へのご加護と、御霊の京都へのご帰還を願っています。

崇徳天皇をお祀りする「白峯神宮」を京都に創建したうえでのことです。

その翌日、1868年8月27日に「明治天皇」は東京で「ご即位」されます。

徹底して「崇徳院」を嫌い、讃岐に配流(はいる)にしたのちも、見向きもせず、崇徳院の願いを退け続け、仏教にのめりこんだ第77代「後白河院」の後始末をするかたちでの、「明治天皇」のご即位でした。

天智系皇統の不始末に“ケジメ”をつけたうえで、京都を離れ、東京でご即位をされたのです。



4、「伊勢神宮」へのご親拝

さて、メインです。

私たち日本人は、今でこそ皇祖神を「天照大御神」とし、「伊勢神宮」を崇敬しています。

ところが、天智系天皇は、誰一人として「伊勢」に行幸されていません。

むしろ、伊勢も、天照大御神をも、忌避してきたのが「天智系皇統」です。


なぜでしょうか。

少し伊勢のいわれを書いておきます。

「壬申の乱」にさいして、「大海人皇子」(天武天皇)は、隠棲先の吉野から本陣をおく不破の関に向かう途中、「伊勢」を遥拝されています。

なぜ、わざわざ「伊勢」を遥拝されたのでしょうか。

これは重要なので、後述いたします。

当時は、小さな祠(ほこら)だった伊勢を、「壬申の乱」の戦勝もあって、天武天皇は大きくして末永く祀ろうとされます。

その遺志を受け継いだ正妃の「持統天皇」は、今日のように「伊勢神宮」を大きく立派に建て直されます。

さらには、永く続くように20年ごとの「式年遷宮」を定めています。

そういうことがありまして、天智天皇の皇女でもある「持統天皇」は、何度か伊勢に行幸をされています。

ところが、まわりの人々は、持統の伊勢行幸に反対しているのです。

理由は、天智系皇統(藤原氏)が仏教を優先するようになったこともありますが、伊勢に祀られる「天照大御神」は、天武天皇とは関係があっても、天智系の祖「天智天皇」とは関係がなく、むしろ敵対視さえしていたからです。


ちなみに、そんな天智系皇統に対して、“民族性”「魚宮」の一般庶民はやはり違いました。

上述の崇徳天皇や平家の時代に、元武士(佐藤義清)だった西行法師は、行脚で伊勢を訪れ、有名な次の歌を詠んでいます。


 「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」


また、江戸時代には、伊勢神宮へ集団参詣する「お蔭参り」(おかげまいり)が次第にさかんになっていきます。

当時は、貴賤や貧富の別なく「一生に一度は伊勢参り」といわれるほどでした。

そういった庶民の気運にもかかわらず、天智系天皇は、伊勢を無視し続けました。

そして、約1,000年ぶりにそれを破り、伊勢神宮をご親拝されたのが「明治天皇」です。


さて、大海人皇子(天武天皇)は、なぜ当時は小さな祠(ほこら)でしかなかった伊勢を知っていたのでしょうか。

また、「壬申の乱」にさいして、なぜ遥拝をされたのでしょうか。

答えは次のとおりです。

天武天皇は「大海人皇子」と呼ばれたように、出自は“海人族”(あまぞく)にかかわります。

九州に端を発した“古代海人族”は、出雲、丹後(元伊勢)、尾張へと拠点を広げます。

その尾張“海人族”が、荒波の太平洋へ出るさい、航海の安全を願って自分たちの先祖神を祀った「伊勢」を遥拝していたことが第一点です。

たとえば、古くからの漁港や港の入口付近には、今でも漁業や航海の安全を願う地元の神社が多くみられます。

尾張で養育された「大海人皇子」は、それゆえ伊勢の存在をご存じでした。


また、尾張“海人族”の海部氏は、天の橋立を参道とすることでも知られる元伊勢こと「籠神社」(このじんじゃ)に残る国宝「海部氏系図」に、その始祖が記されています。

「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひの みこと」こと「始祖 彦天火明命」です。

歴史上の秘密は、『日本書紀』「神武天皇紀」によると、「神武東征」以前に大和を治めていたのは、同じ天孫族で、最初に“国づくり”をおこなった「饒速日命」(物部氏の祖)でした。

つまり、男性神「天照大御神」です。

“海人族”の祖の一人で、元来からのご祭神です。

なぜ、このことが隠されたのかというと、藤原不比等が『日本書紀』の編纂に関与したからです。

記述の中にヒントを残しつつも、二重三重に交錯させることで、どの族統なのか、また男性か女性かもわかりにくくしてしまいました。

不比等は、「持統天皇」(和風諡号:高天原広野姫天皇 たかあまのはら ひろのひめの すめらみこと)を「天照大神」になぞらえさせるため、“女性神”とも読めるようにしたのです。

事実は、平安時代に伊勢神宮に奉納された「天照大神」の装束一式は、ほとんどが男性用の衣装と記されています。

さらに、祇園祭の岩戸山の御神体「天照大神」も、男性の姿で描かれています。

なぜ、女性神と読めるように記したのかというと、実在の「天照大御神」(男性神)を消し去るのと同時に、持統天皇から「孫」の文武天皇への譲位に神話的な裏付けをもたせて正当化をはかるためです。

神代(かみよ)において、高天原の皇祖「高皇産霊尊」(たかみむすひの みこと)と「天照大神」は、葦原中国(あしはらの なかつくに)の君主として、「孫」の「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)を天孫降臨させました。

つまり、持統天皇を「天照大神」にみたてて、孫の「文武天皇」への譲位の裏付けとしたのです。

もっとも、それもあって、「万世一系」は定着していくことになります。


「壬申の乱」にさいして、大海人皇子が伊勢を遥拝した理由は、“国ゆずり”をして追われた身なので、当時は小さな祠ながら伊勢に祀られる「天照大御神」(饒速日命)が、かつては“大和”を治めていたからです。

それゆえ、天智天皇の皇子「大友皇子」と“大和”の覇権をかけて「壬申の乱」を戦わざるをえない事態になったとき、かつて大和を治めていた“先祖神”「天照大御神」(饒速日命≒大国主大神)の霊威にあずかるべく遥拝されたのです。


伊勢神宮に祀られる「天照大御神」が、“海人族”にかかわることは、三種の神器「八咫鏡」(やたのかがみ)が、「舟形」の容器に入れられて安置されているといわれていることからも、ご理解できるのではないでしょうか。

逆にいえば、それまで一度も伊勢に行幸されなかった天智系の天皇に対して、はじめて伊勢をご親拝された「明治天皇」は、実際か霊統かはともかく、“古代海人族”にかかわっている可能性さえでてきます。

付記しておきますと、“反天皇”の左翼系ジャーナリストや、“反日”の半島系作家などが、「悪意」をもって作話師まがいに語る「明治天皇」の出自に関する“ウソ”は別として、奈辺には相応に複雑なご事情があるようです。



5、皇祖神「天照大御神」

もうひとつ書いておきます。

明治になって「国家神道」が立ち上がります。

そのさいに、神殿の「ご祭神」をどうするかという論争が神道界で起きました。

1880年~1881年のことです。

『古事記』に記される「天之御中主神」と「高御産巣日神」と「神産巣日神」の造化三神に加えて、「天照大御神」の四柱を祀るのか、それとも出雲派が推す「大国主大神」を加えて五柱を祀るかということです。

論争は紛糾し、結論はでませんでした。

そこで「明治天皇」の勅裁を仰ぐことが提案されます。

結果、「天照大御神」のみを皇祖神とし、ほかは「歴代天皇」と「天神地祇」をご祭神とすることが決まりました。

ここでも「明治天皇」は、天智系が徹底的に無視した「天照大御神」を選ばれています。

それゆえ、今では皇祖神は「天照大御神」となっています。

ちなみに、『日本書紀』の「神代」(下)で記される皇祖は「高御産霊尊」(たかみむすひの みこと)です。

それはともかく、実際の歴史である「日本の天運」の“原点”からみて、最初に平和的な“古代国づくり”を行なった男性神「天照大御神」を皇祖とするのは、間違っていません。

実際は岩倉具視(いわくら ともみ)が、上述に関与した可能性が考えられなくもありません。

ですが、「明治天皇」によって来るべき「宝瓶宮時代」にむけた「日本の天運」が復活していくことになったことは、事実であり変わりません。



6、追記:国歌「君が代」

書き忘れたので追記しておきます。

明治になって先進諸国にならい、「国歌」が定められました。

ご存じ「君が代」です。

だれもが知るその歌詞は、『古今和歌集』に“読み人知らず”として採録されていたものですが、ほとんど同じ元歌があります。

それは博多湾東端の志賀島(しかのしま)にある「志賀海神社」(しかうみ じんじゃ) でおこなわれる“山ほめ祭”で詠じられる神楽歌です。


 「君が代(だい)は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりて こけのむすまで…」


この歌が旅芸人によってひろまり、『古今和歌集』への採録になったといわれています。

「志賀海神社」というのは、『日本書紀』でも活躍する「綿津見三神」(わたつみ さんしん)を祀る“古代海人族”の神社です。

“古代海人族”の「安曇族」(あずみぞく)が当初、拠点としたのが、1世紀(西暦57年)に奴国(なこく)の使者に後漢の光武帝がさずけたとされる「金印」(漢委奴国王)が発見されたこの志賀島で、志賀海神社は、全国の“綿津見神社”また“海神社”の総本社になっています。

伊勢に祀られる皇祖神「天照大御神」が、“古代海人族”にかかわる祖神で、明治天皇以来の日本の国歌も知ってか知らずか、“古代海人族”の神楽歌を元歌として作曲されていることは、単なる偶然ではなさそうです。


「双魚宮時代」の“古代国づくり”による“民族性”「魚宮」と、“国体”「水瓶宮」にもとづく「日本の天運」のはじまりと、太古日本列島の成り立ちが、“古代海人族”にかかわってもたらされているために、ある意味、当然のことなのかもしれません。
















                               天皇と「日本の天運」:完
天皇と「日本の天運」その6
2021.03.31
 
● 日本国が守られてきた「日本の天運」の変遷


天皇と「日本の天運」のメインとなる“天運の変遷”をお届けいたします。

おおむね、次のようになります。


1、萌芽期

「日本の天運」の「萌芽期」は、双魚宮時代のはじまりと期を一(いつ)にします。

紀元前の縄文時代末期から弥生時代にかけて行なわれた「大国主大神」(また饒速日命)による“古代国づくり”がそれです。

占星学からみれば、この時期に「魚宮」で象わされる日本の“民族性”が形成され、また「水瓶宮」で象わされる日本の“国体”が形成されました。

前者は、世界でも珍しい日本列島の豊かな“大自然”に由来します。

後者は、「大国主大神」(または饒速日命)による「遠賀川式土器」(おんががわしきどき)とともに全国に普及した「稲作」による“支配”しない“古代国づくり”をベースにします。

「稲作」を自分たちだけのものにとどめず、全国に普及させ、彼らは“おんがさま”と呼ばれることになります。

のちには「大神さま」という漢字が当てられますが、“古代国づくり”を行なった「大国主大神」は、『日本書紀』では「大已貴神」(おおあなむちのかみ)として記されています。


さらに、「水瓶宮」で象わされる日本の“国体”は、「魚宮」で象わされる“民族性”にもかかわって、共立的統治形態「ヒメヒコ制」に由来します。

「ヒメヒコ制」が歴史書に明記された一例は、“倭国大乱”を収めた倭の女王「ひみこ」の共立が挙げられます。

鬼道につかえる「ひみこ」を権力をもたない“祭祀王”に「共立」(推戴)することによって、各国の覇権争いを避け、宝瓶宮時代につうじる“合議的連合体の運営”(共和制)が導入されます。

この体制は、一部に例外はありますが、“君臨しても統治しない”水瓶宮で象わされる「天皇」を推戴した「大和」(大倭)の“プロトタイプ”(原型)ともなっていきます。



2、確立期

結局のところ、「日本の天運」は、人類歴史の流れにそった「魚宮」の“民族性”と「水瓶宮」の“国体”によってもたらされています。

このような天運が確立したのは、第40代「天武天皇」の御世です。

占星学からみても、日本の“民族性”を象わす魚宮の共鳴星「海王星」と、同じく“国体”を象わす水瓶宮の共鳴星「天王星」が、“生活”や“定着”をあらわす現実サイン(宮)で、天武天皇の御世の後半から崩御まで足かけ8年近くもスムーズに関係性を結ぶ「三分」(トライン=120度)をとりつづけました。

直前の7世紀初頭に、邪馬台国の流れをくむ九州倭国の「阿毎多利思比孤」(あめの たりしひこ)大王( おおきみ)が、シナの冊封下から離れるかたちで、本州畿内国(日本)と合併し統一大和(大倭)となり、「日出処の天子」として隋(シナ)の煬帝(ようだい)に対して“日没処の天子”と呼び、「ご機嫌いかが」と事実上の“独立宣言”をしています。

その後、天武天皇が、7世紀終盤に“統一独立国家”「大和」を構築するわけです。

なぜなら、ご即位直前の中大兄(天智天皇)の時代に、実質の大王家だった蘇我本宗家を滅ぼした「乙巳の変」(645年)、また半島へ出兵した「白村江の戦い」(663年)での大敗北、そして古代最大の内戦「壬申の乱」(672年)が起きたからです。

このような国内外の危機にさいして、天武天皇は「1,000年ののちまでも皇位争いを起こさない」と平和を誓い、早急に国家をまとめて建て直し、近代日本(律令国家)を築く決意をもたれます。

これによって、天武の正妃、第41代「持統天皇」から、二人の孫の第42代「文武天皇」への譲位(697年)が行なわれ、“万世一系”と「日本の天運」が確立していきます。


その理論的バックボーンとなったのが、天武が編纂を命じた『古事記』であり、また『日本書紀』(720年)でした。

重要なのは、天武が自らの正統性を示すために編纂を命じた『古事記』が、なぜ推古天皇で終わっているのかということです。

そのお答えは、推古女帝の御世に、本州畿内国と合併したことで「九州倭国」の歴史がに幕を閉じたからです。

つまり、本来『古事記』に記されていたのは、天武の(先祖の)出自となる“九州海人族”(あまぞく)また“九州倭国”にかかわる歴史でした。

『古事記』に大国主命の“出雲神話”が記されるのも、出雲の降りた素戔嗚尊(すさのお の みこと)が「高天原」を出自とし“九州海人族”にかかわるからです。

実際、『古事記』には、「汝命は海原を知らせ」(治めよ)と命じられたことが記されています。

また、“大国主大神”にかかわり、遠賀川河口域(九州北部)に発祥した「稲作」を全国に伝えた“おんがさま”こと「饒速日命」(にぎはやひ の みこと:物部氏の祖、男性神「天照大御神」)による“古代国づくり”を記すことで、大和を治める自らの立場の正統性を記そうとされたからです。

それまでの天智ら“大王”(おおきみ)とは異なるために、天武は初めて「天皇」号をもちいます。

もっとも、『古事記』後に上奏された『日本書紀』は、太古からの“統一独立国家”をコンセプトとして「大和一国史」として記しました。

そのために九州倭国の歴史をはじめ、出雲国も阿波国もや全国各地の国邑の歴史も、全部“大和”に組み込まれて消されたことを知っておかなければなりません。


お話はもどりますが、前述の3つの争い「乙巳の変」「白村江の戦い」「壬申の乱」は、すべて中大兄(天智天皇)がかかわっています。

「乙巳の変」は、実質の大王家だった蘇我入鹿(そが の いるか)を、『日本書紀』に記される“大極殿”などではなく、蘇我入鹿の首塚あたりで中大兄と中臣鎌子が不意打ちにしたものです。

また、蘇我本宗家を滅ぼし、蘇我氏が所有していた九州倭国の「歴史書」を、蘇我氏が自ら火をつけたことにして抹殺しています。

入鹿暗殺の動機は、「九州倭国」と「本州畿内国」の主導権争いです。

しかし、このような“事実”は、『日本書紀』に記されることはありません。

なぜなら、当初からの“大和一国史”として記されたこともありますが、中大兄がのちに「天皇」にご即位されたからです。

くわえて、「藤原」の姓をたまわった中臣鎌子(藤原鎌足)の子、藤原不比等が『日本書紀』の編纂に多大な影響力をもったためです。

ちなみに、ご参考までに書いておきますと、『日本書紀』編纂の総裁をつとめた「舎人親王」(とねり しんのう)は、天武の皇子ですが、なぜ「舎人」(使用人)と記されるのかといえば、不比等のほうが知恵も働き、実質的に権限をもっていて、なかば“パシリ”だったからです。


そういう事情がありまして、『日本書紀』は蘇我本宗家を“悪者”として描きました。

事実は、蘇我氏こそ7世紀初頭に日本の独立をもたらし、大和の近代化をすすめようとした先覚者です。

その実績によって、合併後、統一大和の実質の“3代大王”(蘇我馬子→蝦夷→入鹿)に就いていたわけです。

しかし、そうとは書けない『日本書紀』は、蘇我氏を推古女帝の「大臣」(おおおみ:首相)として描き、同時に蘇我氏の偉大な功績は、“架空”の「聖徳太子」こと実在の可能性が残る厩戸皇子(うまやど の みこ)の業績として記しました。


いずれにしても、蘇我氏を滅ぼし、調子づいた中大兄は、半島に大挙出兵の命令を九州海人族らに出し、結果「白村江の戦い」で壊滅的大敗北を喫します。

それゆえ、多大な犠牲者をだした当時の日本は、唐羅連合(唐と新羅)にいつ攻め込まれてもおかしくない国家存亡の危機に陥っていたのです。

幸いなことに「日本の天運」ゆえか、白村江の戦いに勝った唐羅連合は、ほどなくして仲間割れを起こしています。

日本に攻め込む余裕がなくなり、唐は日本に使節団を送って逆に新羅をけん制する作戦にでました。


アウトラインでご紹介いたしましたが、中大兄に「日本の天運」がともなわず、なぜ日本を危地に陥れることになったのかはあきらかです。

占星学からいえば、「日本の天運」のもとにとなった“民族性”「魚宮」も“国体”「水瓶宮」も、“他国に攻め込む”といった象意はもちません。

「天運」に反すれば、当然、天運はともなわないからです。

さらには、中大兄は正統な“皇子”ではなく、「日本の天運」を引き継ぐ立場にありませんでした。

事実、巷間言われる“中大兄皇子”という表記は、『日本書紀』にはいっさいありません。

「中大兄」と書き捨てです。

なぜなら、中大兄の出自にかかわる「高向王」(たかむくおう=おおきみではない)や「漢皇子」(あやのみこ)というネーミングで、『日本書紀』自らが示唆しています。

言葉には“魂”が宿るとされていた当時、中大兄の“出自”にかかわる人物を「高向王」や「漢皇子」と記したのは、“高”や“漢”が高句麗など半島系や大陸系を意味し、帰化一族を示唆するからです。

ちなみに、「漢皇子」と“皇子”の号で『日本書紀』に表記されるのは、高向王が大王(天皇)だったからではなく、母の宝皇女(たからのひめみこ)こと斉明天皇がのちにご即位されたために、さかのぼって“皇子”と表記したもので本来は“漢王”です。

ただ、それだとシナの「漢」の王と間違えますしね。

結局、中大兄は、その強すぎる“権力欲”からみても、「魚宮」の“民族性”をもち「水瓶宮」の“国体”をもって「和」を尊んだ天武天皇や原住日本人らしくなく、半分しか「日本の天運」を受けていないことがわかります。



3、減退期

さて、「天武天皇」の皇統は、藤原氏の策謀もあって、第48代「称徳天皇」で終わります。

古来の物部系の「道鏡」への禅譲も邪魔されてかなわず、結局、天智の孫の第49代「光仁天皇」に皇統が移っていきます。

770年のことです。

光仁天皇は、現在でも最高記録となる61歳の高齢でご即位されました。

なぜかというと、藤原氏がそれまで皇位にあった天武系ではなく、最も操りやすい酒びたりの「白壁王」(光仁天皇)を選んだからです。

ここから「日本の天運」は減退期に入ります。

実際、天武が行なった皇親政治は終わり、平安時代(794年~1185年)に藤原道長が“望月の世”を歌ったように、ひとり藤原家のみが栄華を極め、庶民はもちろん天皇でさえも置き去りにされて、藤原摂関家による政治が行なわれていくことになるためです。


さらに、日本に「天運」をもたらした“古代神道”ではなく、天智天皇にはじまる天智系の皇統は、藤原氏によっては「泉涌寺」(せんにゅうじ:仏寺)に祀られ菩提寺となります。

そればかりか、天皇家の主な宮中行事も、仏教式に変わっていきます。

天皇の即位式も、密教儀式の「即位灌頂」(そくいかんじょう)が取り入れられ、天武天皇が定めた「天皇」という号ではなく、仏教式に「○○院」と院号で称されるようになります。

藤原氏が、実質の政権を握った奈良時代後期~平安時代また武家の鎌倉時代中頃にかけてそのように変わっていったのです。

つまり、もはや“天皇”ではなくなったのが天智系の皇統です。


そこに「日本の天運」などともなうはずもなく、半減した時代が続きました。

長く続いた院号が、もとの天皇号に戻るのは、幕末の「光格天皇」によってです。

その後、明治の「御一新」によって、現在のように古来の神道に全面的に戻っていきます。

この一時からみても、当時の「日本の天運」の“減退”は明らかでした。

インドで発祥し、日本で新たな「大乗仏教」に変わったとはいえ、日本の「天運」は仏教にあるのではなく、大自然を崇敬した縄文時代の太古神道に源泉があるからです。

大自然を敬う祭祀から天皇が離れていくと、「日本の天運」は半減していきます。

光格天皇は、明治天皇の3代前にあたり、嫡系ではなく傍系天皇ですが、途絶えていた「新嘗祭」をはじめ朝廷儀式の復旧に努めるなど、天運復活のさきがけともなっています。



4、武家政権による「日本の天運」

そんな“天運の減退”を補ったのが、源頼朝(みなもと の よりとも)にはじまる武家政権でした。

なぜなら、源頼朝の母「由良御前」(ゆらごぜん)は、「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)を祀る「熱田神宮」の大宮司家の娘だったからです。

「八咫鏡」(やたのかがみ)と同様に、古代日本の“国づくり”に関わるもう一つの神器「草薙剣」の霊威が、天智系皇統に代わって、「日本の天運」を補っていくことになります。

ちなみに、もともとの“神器”は「八咫鏡」と「草薙剣」の二種です。

「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)が加わり“三種の神器”となるのは、持統天皇から孫の文武天皇への皇位継承からで、“万世一系”が確立してからです。

先入観なく『日本書紀』を読めば、歴代天皇紀からそのことがわかります。

持統天皇までは「八咫鏡」と「草薙剣」、加えて天皇印こと「御璽」による皇位継承が記されています。


お話を戻して、幕府を開くには、名目上とはいえ天皇から「征夷大将軍」の勅許(ちょっきょ)をえることで可能になります。

鎌倉幕府を開いた源頼朝も、以後、「将軍」(征夷大将軍)として天下を治めていくことになります。

これは最後の将軍「徳川慶喜」が、天皇への「大政奉還」(1867年)を行ない征夷大将軍を返上するまで続きます。


では、なぜ双魚宮時代と宝瓶宮時代に「天運」をもつ日本は、武家政権に変わったのでしょうか。

その後の国際情勢をみればわかります。

もし、のちの世までも天皇をないがしろにした藤原氏の公家政権が続いていたら、日本は外国に侵略され滅びた可能性があるからです。

のちの世の度重なる外国からの侵略を、武家政権ゆえに防ぐことができました。

だれもが知るところを挙げれば代表的には次の3つです。

1、
鎌倉時代の中期に2度にわたる「元寇」(1274年、1281年)です。

2、
次に、安土桃山時代のキリスト教の宣教に名を借りた「日本侵略」の意図もそうです。

しかし、嵐にあって種子島に漂着したポルトガル人から伝わった鉄砲(1543年)を、優れた刀鍛冶の技術によって、あっというまに量産し、当時、最強の軍事国家になったのが戦国時代の日本です。

それゆえ、武力侵略はむずかしいと判断したことが、宣教師の記録に残されています。

そのため彼らは、キリスト教への改宗“洗脳”によって侵略をすすめる作戦に変えたのです。

その意図を見破ったのが、禁教令を出した天下人秀吉でした。

「バテレン追放令」(1587年)がそれです。

また、家康も、だれよりも宗教(一向一揆)の怖さを身をもって体験していたゆえに、2代将軍秀忠によって 「キリスト教禁止令」(1612年)を発布し、宗教の名を借りた侵略から日本は守られることになります。

一般の信徒は“純粋”でも、宗教は「政治」に利用されるのが人の世の常です。

3、
さらには、幕末も同様です。

欧米諸国の植民地政策から、武家政権ゆえに日本を守ることができました。

一方、アヘンによって大儲けをしつつ、相手国を衰退させ、植民地化しようとするイギリスに対して、清国は阿片戦争(1840~1842年)まで起こしますが、敗北して香港を割譲することになります。

幸い、日本は武家政権でしたし、何よりも水戸黄門こと徳川光圀(みつくに)の「大日本史」編纂に端を発する「水戸学」によって、将軍よりも天皇を“君主”と仰ぐ「尊皇思想」が幕末にかけて高まっていました。

なぜなら、光圀の誕生(1628年)直後、翌々1630年から「宝瓶宮時代」の影響圏に入ったからです。

水瓶宮を“国体”とする日本にとって、国体の象徴である天皇の「復権」のはじまりを意味します。


これにより、欧米が開国をせまった幕末には、天皇を守り外国を討つ「尊皇攘夷」の気運が高く、諸外国も容易に手出しはできない状況が生じていました。

また、「水瓶宮生まれ」(太陽)の徳川家康が開幕した江戸時代は、長く平和が続いたことで、庶民の文盲率は低く、武士は高い教養とモラルを身につけていたことも重要です。

極東の小さな“未開の島国”と思って侵略と植民地を企図した欧米は、日本の「武力」と「文化」に一目おかざるをえませんでした。

もっとも、こういうお話は、マルクス史観の日本の歴史学者や戦後の日教組による学校教育またマスコミは隠すのがふつうです。

彼らが妄信する「共産主義思想」に合わないためで、歴代政権は一方的な“支配者”でなければならず、庶民から“搾取”する悪人であり、そのように思い込んで歴史を曲げて解釈するためです。

“共産主義”華やかりしころの戦後教育やマスコミ報道によって、知らずに“洗脳”されていると、違和感を感じることがあってもおかしくありません。


いずれにしても、武家政権ができることで日本は守られます。

これは、正統の「天武天皇」(八咫鏡)や“古代国づくり”を行なった「大国主神」(草薙剣)に代表される「日本の天運」の一端です。



5、明治天皇による「日本の天運」の復活

さて、重要なことを書かなければなりません。

「大政奉還」による“御一新”によって、「日本の天運」を補ってきた源頼朝の鎌倉幕府以降の武家政権は終わります。

しかし、「明治維新」は、天智系皇統までも“御一新”したようです。

でなければ、「日本の天運」が天皇に戻ることはありません。


左系の反天皇学者や、某国系の反日ジャーナリストが、どういおうと、明治天皇以降、皇統は天武天皇の“古代海人族”による「日本の天運」へと戻ったようなのです。

その証拠は簡単です。

正統ではない中大兄(天智天皇)が、百済復興の名目で他国に戦争をしかけて歴史的大敗をしたことは、「日本の天運」をお持ちでないことを証明しています。

その後の天智系天皇の御世をみても、藤原氏に乗っ取られ、意のままに操られたこともその証左です。

また、草薙剣にかかわる源頼朝が、「武家政権」を樹立し、天智系皇統に代わって「日本の天運」を補ってきたのも事実です。

“好戦的”だった天智天皇に反して、明治大帝は天武天皇が確立した「日本の天運」を引き継ぐ天皇らしく、平和を願う大御心をおもちでした。

その御世において、大国と近代戦を戦うことになった「日清戦争」にも「日露戦争」にも勝利し、後者はとくに“奇跡的”ともいえる勝利をおさめました。

ロシアに対する日本の勝利は、ご存じのかたも多いように歴史上はじめて、有色人種が白人国家を打ち負かしたものです。

ロシアに苦しめられていた国々から喝采を浴びると同時に、世界を支配し意のままにしてきた白人に抑圧されてきたアジアやアフリカの国々の人々に希望を与えることになったのはご存じのとおりです。


この出来事は、結果的に欧米の警戒心を強め、大東亜戦争(太平洋戦争)を招きます。

しかし、日本の“大義名分”が、「アジアの解放」と「各国の独立」につながったのは事実です。

つまるところ、明治以降の一連の出来事は、お互いに対等な国家や個々人の社会を築く「宝瓶宮時代」を迎えるベースとなっていきます。


長くなりましたので、次回「最終回」にて、「明治天皇」にかかわる「日本の天運」をお届けいたします。














天皇と「日本の天運」その5
2021.03.28
 
● “神武東征”の実在のモデルと古代海人族の拠点“瀬戸内東端”


先回は、日本の「天運」の原点が実質の初代「大国主大神」の“古代国づくり”にあることをお伝えいたしました。

賛否はあると存じます。

ですが、大国主大神は物部氏の祖「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてるくにてるひこ あめのほあかり くしたまにぎはやひ の みこと)につうじ、本来の男性神「天照大御神」にあたります。

もっとも、『日本書紀』は、神武以前の“古代国づくり”を史実をもとに記しながらも、いろいろと「交錯」させたり「名前」を別名にしてわかりにくくしています。

それゆえ「天照大神」も最後は女性神として描かれました。


初代「神武天皇」は、同じ天孫族の「饒速日命」から“国”をゆずり受けます。

それは物部氏の祖であると「神武天皇紀」にも記されているのは先回のべたとおりです。

つまり、“神武東征”以前に“古代国づくり”が行なわれていました。

“古代国づくり”は「稲作」に端を発します。

どちらかといえば、個々に狩猟や採取を行なっていた縄文生活から、決まった土地を必要とし、集団による「稲作」の弥生生活によって“国づくり”がはじまったといえます。

考古学からみれば、日本の稲作発祥の地とされる北部九州の「遠賀川」(おんががわ)河口付近から大量に見つかった「遠賀川式土器」がそれです。

弥生初期(早期)に近畿中部はもちろん青森にまで遠賀川式土器が広まっていったことを考えると、北部九州に発祥した物部氏の祖「饒速日命」(≒大国主大神)が稲作を日本全国へ伝え、“古代国づくり”を行なった可能性が高くなります。

もちろん、一人とはかぎらず、子孫や弟子たちをふくめた総称です。

ちなみに、“大国主”という呼称も、最初にその国邑(こくゆう)をつくり、主(ぬし)になった人物を意味しますので、各国邑に“大国主”がいたりして一人とはかぎらず、それらの元祖といえる最初に「稲作」を伝えた人物を「大国主大神」と申し上げます。

つまり、饒速日命と称される人物が“大国主大神”であってもおかしくないのです。


さて、「神武天皇」は、“実在のモデル”をベースに、『日本書紀』が“初代”として記したもので、古代よりの「皇統の正当化」をはかったものです。

その神武に、物部氏の祖「饒速日命」が“国ゆずり”を行なって帰順したと『日本書紀』に記されている以上、国づくりは一朝一夕には行なえませんので、以前から「大国主大神」(≒饒速日命)による“古代国づくり”が行なわれていたことになります。


ということから、“二重構造”で記されている『日本書紀』のタネあかしをしておきます。

初代「神武」は名目上の“元祖”として、編纂がはじまった7世紀に考案されました。

では、実際の元祖“天皇”(大王)はだれでしょうか。

『日本書紀』に第10代「崇神天皇」(すじん てんのう)として記されています。

和風諡号(しごう)では「御間城入彦五十瓊殖天皇」(みまき いりひこ いにえ の すめらみこと)です。

つまり、『日本書紀』では神武以前に「大已貴神」(おおあなむち の かみ)として記され、少彦名命(すくなひこな の みこと)とともに“国づくり”を行なった、別名「大国主大神」になぞらえることができます。

「神代」(上)一書に、「大国主神は、大物主神とも、また国作(くにつくり)大已貴命ともいう」と記されているとおりです。

『日本書紀』は、皇統を示す“プロパガンダ”の部分以外は、案外と史実を正直に記そうとしています。

なので、第10代天皇であるにもかかわらず、「御肇国天皇」(はつくに しらす すめらみこと=初めて国を治めた天皇)と「崇神天皇」を記しています。

最初に“古代国づくり”を行ない治めていた「大国主大神」(≒饒速日命)にあたります。


では、“神武東征”の「実在のモデル」となった人物はだれでしょうか?

複数います。

ですが、「天皇」では一人しかいません。

神武と同じ九州出身です。

「筑紫の蚊田(かだ)でお生まれになった」と『日本書紀』に記されています。

蚊田は人々から「宇瀰」(うみ)と呼ばれ、現在の福岡県糟屋郡宇美町になります。

さらに四男の神武と同じ“第四子”と記されています。

初代神武による“東征”を『日本書紀』は記しましたので、「実在のモデル」となったのちの世の天皇は、東征ではなく、九州からの“大和帰還”として記されています。


『日本書紀』に詳しいかたならご存じでしょう。

神功皇后に抱かれた第15代「応神天皇」です。

もっとも、生まれた翌年(神功2年)に“大和帰還”と記されていますので、実際に先頭に立って東征したのは、住吉三神(住吉大神)の導きを受けた「武内宿禰」(たけのうちすくね)です。

天皇以外では「武内宿禰」こそが神武東征の“実在のモデル”で、「神功皇后」と赤児の「応神天皇」を旗頭に「北部九州連合」を率いて東遷しました。

武内宿禰は3世紀の伊都国王(いとこくおう)または狗奴国王(くなこくおう)で、“邪馬台国連合”こと北部九州連合「倭」の男王だった人物に重なります。

『日本書紀』を読むかぎり、そう解釈をできる書き方をしているのです。


なぜかというと、興味深いことに「神功皇后紀」には邪馬台国が記された「魏志倭人伝」に言及した箇所があります。

神功皇后39年に、「倭の女王(ひみこ)が魏に難斗米(なしめ)を遣わした」ことが記されています。

このことから、『日本書紀』は神功皇后を3世紀中頃の人物として描いたことがわかります。

なので、成人した応神天皇のご即位は、3世紀後半になります。

ちなみに、東遷の翌3年に初代“神武”の和風諡号にもある「磐余」(いわれ)で都をつくったと記されています。

この東遷と磐余でのご即位が、神武東征の“実在のモデル”と考えれば、武内宿禰をはじめとした応神の「九州倭国」の勢力が、3世紀末に畿内国(大和)に政権を打ち立てたことになります。

実際、3世紀末あたりに纒向など畿内の考古学的な様相が一変しているのです。

ここでは本旨からズレますので詳しくは述べません。


お話は、一見、とびますが、古代イスラエルのソロモン王の船団は、3年に1度海外遠征から帰国しています。

イスラエルに航海の術(すべ)はありませんので、隣国のレバノンに拠点をおき、父ダビデ王とも仲がよかった航海術に長けた交易集団「フェニキア」とともに行なったもので、栄華をきわめたソロモン王の要請によって、金銀宝石や珍品また鉄などの鉱物を求めて遠征したことが『旧約聖書』に記されています。

かの船団は、約半年間をかけて古代日本に来ています。

なぜなら、日本は屈指の「火山国」なので、狭い国土ながら当時は金銀宝石や鉱物資源に恵まれていたからです。

ソロモン王は、紀元前10世紀頃の人物ですが、砂漠をさまよった古代イスラエルの民からすれば、水がキレイで食料も豊富な日本は、『旧約聖書』にも記される“約束の地”(理想郷)にみえたことでしょう。

そんなこんなで、北イスラエル王国また南ユダ王国が滅びた紀元前8~7世紀頃に、ごく一部ですが日本に渡来し移住してきたことが考えられます。

それが瀬戸内を進んだ“神武東征”の時代設定になったといえなくもありません。


一方、国内においては、北部九州から饒速日命また大国主大神が畿内中部をはじめとした本州に稲作を伝えています。

さらに3世紀には『日本書紀』に記されるように、「武内宿禰」に率いられた神功皇后と乳児の応神天皇が“大和帰還”と呼ばれる「東征」を行なっています。

このように、「大国主大神」(饒速日命)しかり、物語の初代「神武天皇」しかり、実質の初代「応神天皇」(武内宿禰)しかり、いずれも九州を出自とした古代国づくりが行なわれたのが日本です。

が、もう一人、先祖を九州“海人族”(あまぞく)にもつ天皇がいます。

『古事記』や『日本書紀』の編纂を命じた第40代「天武天皇」です。


九州“海人族”の一部は、日本海流に乗って「出雲」「丹後」へと移動し、天武の時代は「尾張」にも拠点をかまえていました。

古代イスラエルとフェニキアの船団もそうですが、この九州“海人族”が初期に拠点としたのが、瀬戸内海の東端です。

そこは波が穏やかな瀬戸内にありながら、日本海に出て行くこともできれば、太平洋にも出て行くことができる“T字路”にあたる海路の要衝だからです。

なぞの“ケベスの火祭り”が残る「国東半島」(くにさき はんとう)の奈辺で、現在の大分県にあたります。

伊勢神宮を左手にみて伊勢湾の最奥部にすすむと、名古屋近隣に現在「海部郡」(あまぐん)があります。

一方、日本最大の断層「中央構造線」が走る豊予海峡の大分県側に、昭和まで「海部郡」(あまべぐん、あまのこおり:北海部郡と南海部郡)がありました。

大海人皇子(天武天皇)が、7世紀に大友皇子(追諡:弘文天皇)と「壬申の乱」(じんしんのらん)を戦ったとき、大海人皇子に味方して多大な戦果を挙げ、最後に生死をかけた決死の瀬田橋の単独突撃によって勝利を決めたのも、「大分君稚臣」(おおきだのきみ わかおみ)でした。

また、大分君恵尺(おおきだのきみ えさか)も功臣として天武天皇に仕えています。

つまり、大分(豊の国=豊前、豊後)が天武(大海人皇子)の出自にかかわる“古代海人族”の初期の拠点でもあったからです。


さらに、天武の出自にかかわるもうひとつのエピソードをご紹介しておきます。

天武系の皇統が途絶える最後の「称徳天皇」(しょうとく てんのう)の御世に、「道鏡が皇位に就くべし」という託宣を行なったのも、国東半島の付け根にある「宇佐神宮」(宇佐八幡宮)でした。

これも奈辺が天武天皇の先祖にかかわる地(海)だったからです。


天武(大海人皇子)が「壬申の乱」に勝って、皇位についたのち、自らの「正統性」を示そうとされたのが『古事記』であり『日本書紀』でした。

それによって、1,000年ののちも皇位争いをなくし、先の「乙巳の変」(蘇我本宗家の滅亡)や「白村江の戦い」また「壬申の乱」が起きた国内外情勢のなか、“平和”で確固とした自主独立の“統一独立国家”「大和」を築こうとされたゆえの編纂命令でもありました。

このような第40代「天武天皇」の御心(意志)は、その正妃、第41代「持統天皇」と孫の第42代「文武天皇」への譲位による「万世一系」の確立とともに、以後、「日本の天運」を担っていくことになります。


占星学からみて、日本の“民族性”「魚宮」の共鳴星「海王星」と、日本の国体”「水瓶宮」の共鳴星「天王星」が、天武天皇の御世に崩御までの約8年間近くも、スムーズに象意の関係をむすぶ「三分」(トライン=120度)をとり続けていました。

このような「星のディレクション」のもと、近代律令国家の成立と今日に続く「日本の天運」は“確立”していったのです。

天武天皇が、“出雲神話”が記される『古事記』を稗田阿礼(ひえだのあれ)に誦(よ)み習(なら)わさせたのも、最初の“国づくり”が「大国主大神」(また物部氏の祖「饒速日命」)にあって、そこに「日本の天運」の原点があるからです。

事実、今日の「宝瓶宮時代」につうじる大国主大神による支配しない“国づくり”は、当時の双魚宮時代にあって日本の「天運」の“萌芽”ともなっています。

『古事記』は、天武天皇(大海人皇子)の出自にかかわっているのですが、詳しくは次回、いよいよ「日本の天運」の本題となる変遷とともに述べてまいります。













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