「習近平」国賓来日の是非
2019.12.29
香港、ウイグル問題があるために、来春(2020年)に控えた中国国家主席「習近平」の国賓来日に“反対”する声が良識的な知識人や言論人からきかれます。

たしかに中国は、いわば“悪の帝国”ですが、だからといって国際情勢をぬきに単純にご判断すると、一般人が言うのはよくても、政治家としては正しくないことがあります。

現実政治とくに国際関係は、“勧善懲悪”のマンガやドラマの世界ではありませんので、対中国だけでなくアメリカや韓半島をふくめて戦略的にとらえ、では今、中国・習近平にどう接するのがベターかを考えなければなりません。

最も考慮すべきは、現段階でトランプが日本を軽視しないようにしておくことが重要です。

どういうことかというと、「対中関税戦争」で中国は弱っています。
なので、習近平にヤケを起こされて日本を標的にされても困るし、またトランプから中国と同様に日本に矛先を向けられても国益に影響します。

韓国をはじめ半島の動きがおかしくなっている今日、中国が半島側に味方しないように、日本側に引きつけておいたほうが今はいいのです。

なので、単純な“勧善懲悪”だけでご判断することなく、時間がかかっても現実に「勧善懲悪」に向かう結果を残していくように、段階的なプロセスや戦略でもって判断し進まなければなりません。

たしかに個人感情では、習近平の国賓来日に反対したい気持ちはよくわかります。

問題は、それが今、外交戦略的にベストの選択なのかということです。

現実の政治は常に複雑で、YESまたNOの2つの選択肢ではなく、あらゆる可能性を考えて危機管理にのぞみ政策を決定する必要があります。

世間では「安倍首相は最近“容共化”している」といった声を聞くことがありますが、これまでの安倍首相の世界戦略や対中対韓の動きをみるに、天才的な外交見地をもたれて動き成果を出しています。

まず、安倍首相が“容共化”などするわけがないのです。

それは、安倍首相に昨今、働いている“タフ”で“強靭な主導力”を発揮できる「星のディレクション」からもわかります。

現在、安倍首相は“現実”がよく見えています。

さらに、アメリカのトランプ大統領に対しても、また中国の習近平主席に対しても、臆することなく日本の平和と安全と繁栄を考えて、彼らをのみ込んでいく“胆力”をもった時期にあります。

日米関係が重要なのは当然なので、安倍首相はそれを堅持する方向で動きます。

かといって、トランプの考えを誰よりもよく知って、将来のトランプの動向をシュミレーションして見抜いているのも安倍首相なので、日本が“捨て駒”にされないように習近平をも巻き込んで動いているところです。

たとえば、トランプから“アメリカ・ファースト”によって、日本に安全保障の準備ができないうちに、いわば見捨てられたりすることがないように、充分に考えています。

それが一見、習近平に近づき“容共化”しているようにみえたとしても、現在の安倍首相は、トランプの向こうを張る“ジャパン・ファースト”にたってトランプを説得し総合的な戦略を判断して、日米同盟の堅持とその存続のために手段(国家戦略)を尽くしているにすぎません。

中国や北朝鮮に無条件に尻尾をふる文在寅政権とは違うのです。

習近平の国賓招聘は、香港問題が起こる前に、そのような国家戦略から決定したのですが、安倍首相はすでにそれを逆手にとった現実的な対応に出ています。

もし、国家間で決めた国賓招聘を今さらやめるといえば、国と国との約束を平然として守らない二流、三流の韓国と同じレベルの国家になってしまいます。

いつまでも“お花見ごっこ”をやっている野党はともかく、国際信義にあつい一流国家の日本政府としては、約束を守ってこそ、継続して国家プレゼンスを高めていくことにつながります。

習近平にしてみれば、日本が国賓として迎えるのをやめるといえば、世界に“赤っ恥”をさらすことになります。

それは感情的には“小気味よい”かもしれませんが、透徹して現実を読んでいる安倍首相は、そのあとも視野に入れて、韓国のようにならず、逆に国賓招聘を活かす方策を思案して対米対中対韓外交を展開しているのです。

その一つが、「香港問題」や「ウイグル問題」に関して、中国・習近平にハッキリとものをいい明確に声をあげたことです。

何よりもメンツを重んじる中国人なので、国賓として招待されている以上、習近平も表立って「反論」するわけにもいかず、アメリカから「関税制裁」を受けて困窮していることもあって、今、日本までも敵に回すことはもちろん、恥をかかされることは避けたいのでイヤでも黙って聞くしかありません。

つまり“国賓”は外交カードになりえるのです。

仮に、国賓招聘をやめるといえばどうなるのでしょうか。

死人の墓を暴いてまでムチ打つ復讐心をもった中国人ゆえに、日本にとっては後々の仕打ちや弊害が大きくなります。

ゆえにベストではないにしても、現実的な戦略としては、やむを得ず継続し、外交カードとして活かすほうが間違っていません。

それが現実の国際政治です。

繰り返しますが、昨今、安倍首相にはたらいている「星のディレクション」は、常人を超えて、世界を動かすリーダーシップが可能になっています。







傍証「本能寺の変」の事実
2019.12.25
宝瓶宮占星学サイトに「傍証「本能寺の変」の事実 ―織田信長のディレクション」をアップしました。

来年2020年、NHKの大河ドラマは明智光秀を描いた「麒麟がくる」だとか。

まるで『龍馬がゆく』のぱくりみたいなタイトルですが、「本能寺の変」をどのように描くのかそこだけは興味があります。

巷間、「なぜ光秀は、信長に謀反を起こしたのか」が疑問とされ、それがわからないために朝廷、元将軍、イエズス会、長宗我部元親などの戦国大名といった黒幕説が取り沙汰されています。

果ては秀吉との共謀説や家康黒幕説などありますが、まだ天下とりの途上で自軍のTOPの信長を排するなど、自ら危地を招くようなものでありえません。

事実は、光秀だけではなく、信長が当時、どのような時期にあって、どのような構想や考えをもっていたのかを知れば、案外と簡単に理由がみえてきます。

その真実を、歴史的な事実とともに可能にするのが、信長の「ホロスコープ」(出生天球図)であり、「本能寺の変」とその直前に信長が受けていた「星のディレクション」のホロスコープです。

当該稿では、そこから「本能寺の変」の事実を明らかにしてご紹介いたします。




ちなみに、下が当時の「織田信長のディレクション」を象わすホロスコープです。







白山比咩大神と菊理媛
2019.12.13
石川県は、大きくわけて、北の「能登地方」と、南の「加賀地方」があります。

北の能登国一之宮は「氣多大社」(けたたいしゃ)で、ご祭神は「大国主命」です。

一方、南の加賀国一ノ宮は「白山比咩神社」(しらやまひめじんじゃ)で、ご祭神は「白山比咩大神」(しらやまひめおおかみ)と「伊邪那岐尊」(いざなぎのみこと)と「伊弉冉尊」(いざなみのみこと)の三柱です。

今回、年末のリーディング等が忙しいなか、まことに申し訳ないのですが、ワケあって両宮にご参拝してきました。

両宮の最大の特徴は、伊勢神宮や熱田神宮など代表的な神社とは異なり、屋根に「千木」(ちぎ)や「鰹木」(かつおぎ)がないことです。

それはともかく、今回は「白山比咩神社」に祀られる「白山比咩大神」(しらやまひめおおかみ)と、一般に同一視されている「菊理媛神」(くくりひめのかみ)について書いてみます。


結論を先に書きますと、神社の由緒からみて「白山比咩大神」と「菊理媛神」は異なります。

ただ昨今は、“両エネルギー”が併存しているとのことです。

菊理媛神をご参拝に多くの方が訪れますので、当然、そうなっていきます。

ご存じのように、古神道は山や岩など「大自然」をご神体とします。

富士山や立山とともに「日本三霊山」のひとつに数えられる「白山」は、ご神体山で、その厳しくもなだらかな山容から、古来よりご祭神を「白山比咩大神」としていました。

崇神天皇7年(紀元前71年)には、遥拝所(まつりのにわ)が現在の「白山比咩神社」があるふもとの手取川そばの「古宮跡」(かつての白山比咩神社)に創建されていました。

そののち、修験者「泰澄」が718年(養老2年)に“白山妙理大権現”を奉祀して開山し、白山修験が中世に隆盛するとともに、白山神社は全国に勧請され広まっていきます。

現在のように、「菊理媛神」を白山のご祭神、すなわち「白山比咩大神」と同一視するようになったのは、何を根拠にしたのか不明ながら平安時代後期、正二位権中納言で歌人の「大江匡房」(おおえのふさふさ:1041年~1111年)が最初だとされています。

熊野三山の奥の宮「玉置神社」の磐座(いわくら)に白山社があって、「菊理媛」が祀られており、さらには三重県側にある「花の窟神社」(ご祭神:伊弉冉尊)に菊理姫も祀られているといいます。

大江匡房がこれらを参考にしたのか、それとも大江匡房が「白山比咩大神=菊理媛神」と同一視することによって、全国に白山比咩大神は菊理媛神だと誤まって広まっていったのかはわかりません。

いずれにしても、『日本書紀』(神代上)の一書(ある書物:異本)には、黄泉の国に帰った伊弉冉尊(いざなみのみこと)を追って、伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)が訪ね、その別れに際してもめたとき、菊理媛神(くくりひめのかみ)が何ごとかを申し上げると、伊邪那岐尊はほめて、未練を残すことなく去っていったことが記されています。

こののち伊邪那岐尊は、「私はひどく汚いところに行ってきた」といって中の瀬で禊ぎ祓いをされ、日本を治めることになる「天照大神」と「素戔嗚尊」(すさのおのみこと)さらには「月読尊」(つくよみのみこと)など九柱の重要な神々をお生みになります。

ここから実際的な日本がはじまっていったわけです。

つまり、菊理媛神の“働き”(パワー)は、「伊邪那岐尊」(いざなぎのみこと)と「伊弉冉尊」(いざなみのみこと)を“縁結び”させたのではなく、逆に“ストーカー”と化した黄泉の国に帰った「伊弉冉尊」と、日本の祖「伊邪那岐尊」の腐れ縁を、上手に切るアドバイスをされた“守り神”だったのです。

昨今の半島と日本の関係をみるとき、まさに伊弉冉尊と伊邪那岐尊の訣別のときのように、「菊理媛神」の働き(パワー)が必要な今日になっています。



※雪の白山連峰と柴山潟(ネットより)








会所山、景行天皇と久津媛
2019.12.02
物心ついたときから見慣れた小高い山(画像ご参照)。


<実家近くの高台から撮影 2019.12.01>

「会所山」と書いて「よそやま」と読みます。

海抜164.3mながらふもとからの実際の高さは60mほどです。

幅約200mほどの川をはさんで実家の目の前に「会所山」がありますので、子どもの頃から毎朝毎夕、気にもとめず目にしてきた山です。

30代の頃に撮影で山頂に登ったことがありますが、会所山(よそやま)が歴史的に由緒のある山だと知ったのは、案外と最近のことで多分10数年ほど前のことです。


『豊後国風土記』には、次のように記されていました。

《原文》
「大足彦天皇 征伐球磨贈於 凱旋之時 (中略) 有神名曰津媛 化而為人参迎 (中略) 久津媛之郡 今謂日田郡者訛也」

《概訳》
大足彦天皇(景行天皇)が球磨贈(くまそ:熊襲)を征伐して凱旋したとき、(中略) 久津媛(ひさつひめ)という神が人の姿で迎えられた。(中略) 久津媛之郡(ひさつひめのこほり)が、今にいう日田郡(ひたのこほり)に訛った」

久津媛(比佐津媛とも)が景行天皇を迎えたのは、景行18年8月(西暦87年)とされています。

この「会所山」のふもとには、応神天皇、比売神、神功皇后の「八幡三神」と、景行天皇また比佐津媛(久津媛)を合祀する「会所宮」(よそみや:会所山神社)があります。

山頂には小さな祠ながら「久津媛神社」があって、弥生時代の甕棺(かめかん)などが出土していることや、山肌が石でおおわれていた痕跡があることなどから、古墳代わりに埋葬されたようです。

地元の歴史家のなかには、「久津媛こそ卑弥呼だ」という人も多く、その傍証とされるのが、会所山のすぐ東の日高(ダンワラ古墳)から出土したとされる重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」(きんぎん さくがん しゅりゅうもん てっきょう)です。

ただし、当地は筑後川の上流なので、卑弥呼の時代に「一大率」がおかれた伊都国とは川筋が異なります。

そのため、個人的には、直線距離でも80km近く伊都国から離れていることもあって、当時、交流は困難なので卑弥呼ではありえません。

さはさりながら、この「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」は、卑弥呼がつかいを送り、鏡をもらったとされる3世紀「魏」の時代の製作であることが確認されています。

それどころか、10年前の2009年に魏の「曹操」の墓が発見され、研究の結果、そこに埋葬されていた「曹操の鏡」と「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が酷似していることが、今年2019年夏に明らかになりました。

鉄鏡は、銅鏡とは格が異なります。

魏の時代、「皇帝」しか金をあしらった鉄鏡は持てず、そのような金の「鉄鏡」が伝世だと考えられるとはいえ、なぜ筑後川のはるか上流の「西国筋郡代」(江戸幕府の4つの郡代の1つ)がおかれた地から発見されたのか。

当地は、古代最古の(ヤマト系)豪族の舘跡が発見されるなど、相応の歴史があるとはいえ、何しろ予算がつかないのか、それとも大陸系の遺物が出ない“纒向(主流)派”の力が働いているのか、なかなか研究の対象にならず、いろんなことが定かになっていません。



● 画像は「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」(きんぎん さくがん しゅりゅうもん てっきょう)









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