5/1~5/14 ホロスコープ
2017.04.29
「今週の運勢」(5/1~5/14)の中間日、5/8のホロスコープです。

月の移動は、2週間で6サイン(宮)と大きいので、5月1日0時、5月8日0時、5月14日24時を記しています。

※月のアスペクト・ラインは省略しています。


●当該2週間の中間日2017年5月8日の「ホロスコープ」
※太陽はオーブ(許容度数)10度、それ以外は6度をとっています。






小嶋陽菜の“魔法”の運勢
2017.04.25
宝瓶宮占星学サイトに「小嶋陽菜の“魔法”の運勢」をアップしました。

約11年間のAKB48活動を卒業した“こじはる”こと小嶋陽菜。

今を盛りの指原莉乃ももちろんスゴイのですが、小嶋陽菜も実はカゲの実力者。
このたび芽出たくAKB48を卒業しましたので、ご祝儀記事としてアップです。

小嶋陽菜のホロスコープ(出生天球図)から、オモテ向きの“ほんわか”さとは異なる隠された正体ともいえる“狂気”と、“魔法の運勢”をご紹介してまいります。

ちなみに、前回アップいたしました「サシハラの秘密と転機」に書きましたように、サシハラは来年2018年は「人生の再スタート」となる出直しの転機を迎えていきます。

一方、小嶋陽菜は、来年2018年以降、組織や社会の頂点に昇りかねない「TOP運」の人生期に入っていきます。

ある意味、好対象の二人ですが、どちらも只者ではないのは事実です。



4/24~5/7 ホロスコープ
2017.04.22
「今週の運勢」(4/24~5/7)の中間日、4/30のホロスコープです。

月の移動は、2週間で6サイン(宮)と大きいので、4月24日0時、4月30日0時、5月7日24時を記しています。

※月のアスペクト・ラインは省略しています。


●当該2週間の中間日2017年4月30日の「ホロスコープ」
※太陽はオーブ(許容度数)10度、それ以外は6度をとっています。




「聖徳太子」は創作された 3
2017.04.17
最後に、『日本書紀』の記述から「創作」の証拠をいくつかピックアップしておきます。

祟峻天皇の時代。
仏教をめぐる蘇我氏と物部氏の戦いである「丁未の乱」(丁未の変、丁未の役、物部守屋の変)で、若き日の聖徳太子こと厩戸皇子は、「負けるかもしれない」と思って急遽、戦場で四天王の像をつくります。
そして、勝たせてくれたら「寺塔を建てましょう」と誓願し、勝ったのち「四天王寺」を造ったというお話は有名です。

ですが、当時、厩戸皇子は13歳。そこまでの権力はまだありません。

実は、『日本書紀』には、そのとき、蘇我馬子も勝たせてくれたら「寺塔を建てて三宝(仏・法・僧)を広めましょう」と誓願したと書かれています。
権力もない厩戸皇子が単に「寺塔を建てましょう」と言ったのと、権力を掌握していた蘇我馬子が「寺塔を建てて三宝を広めましょう」と誓願したというのとでは、誰がみても蘇我氏のほうにリアリティーがあります。
なので厩戸皇子こと“聖徳太子”は創作で、ほんとうは蘇我氏のエピソードです。

次に、推古天皇の時代です。
推古元年、すなわち即位してすぐに推古天皇は19歳の厩戸皇子を皇太子に立てて「国政のすべてを任せた」と書かれています。

1、翌2年、皇太子と蘇我馬子に詔して、仏教の興隆を図られます。
2、11年、来目皇子が薨去し、皇太子と蘇我馬子を召されて詔されます。
3、13年、推古天皇は、皇太子と蘇我馬子、および諸王や諸臣に詔されています。
4、15年、皇太子と蘇我馬子は、百寮を率いて神祇を祀り拝します。
5、28年、皇太子と蘇我馬子は、相議って天皇記および国記と多くの本記を記録します。

翌29年に、厩戸皇子は48歳で薨去します。
推古紀には、権威づけのための厩戸皇子のエピソードと、蘇我馬子大臣のリアルなエピソードも、2~3、記されていますが、大半が上述のように「皇太子と蘇我馬子」の併記なのです。
国政のすべてを任された厩戸皇子なのに? ヘンだと思いません?

なので、これもほんとうは蘇我馬子が“摂政”、というか推古は国政のすべてを任せるしかない傀儡(かいらい)だったので、実質は“蘇我大王”(天皇)だったことをあらわしています。

もう一つ、聖徳太子の「十七条憲法」のくだりを書いておきます。

●『日本書紀』から抜粋
(12年)夏4月3日、皇太子は、はじめて自ら作られた十七条憲法を発表された。
【原文】
夏四月丙寅朔戊辰、皇太子親肇作憲法十七條。

もし、厩戸皇子(聖徳太子)がほんとうに摂政であれば、ここはシンプルに「皇太子は十七条憲法を発表された」でよいのです。
しかし、原文、「親肇作」、すなわち「はじめて“自ら”作られた」とわざわざ“ことわり”を入れています。

このように不必要な記述を入れる場合、まず「蘇我馬子が作ったものではない」とメッセージしたいのはもちろんです。
ですが、ほんとうは作者が“聖徳太子”ではないために、太子作かのように念押しの偽装をしているのです。

実際は、蘇我馬子の作(原案)です。
しかし、後年、『日本書紀』編纂の時点で、蘇我本宗家を滅ぼした「中大兄」(天智天皇)の皇孫と「中臣氏」(藤原氏)の子の藤原不比等が権力中枢にいて、編纂にもかかわっているために『日本書紀』には書き残せないのです。
もし書けば、『日本書紀』で「逆賊」に貶められた蘇我氏の「十七条憲法」など、だれも信用しなくなります。
そういうことからも、それは絶対に書けません。

結局、厩戸皇子こと“聖徳太子”を創作して、“聖人”にして“天才”が書いたことにし、このときに『日本書紀』に残された条文ように編纂者が修正を加えたというのが真相です。
そして、第1条「和」をもって貴しとし、第2条あつく「仏・法・僧」を敬い、第3条「天皇の詔」には必ず従うべく信頼性を高め、日本の安定と統一と天皇の維持を図ったわけです。





4/17~4/30 ホロスコープ
2017.04.15
「今週の運勢」(4/17~4/30)の中間日、4/24のホロスコープです。

月の移動は、2週間で6サイン(宮)と大きいので、4月17日0時、4月24日0時、4月30日24時を記しています。

※月のアスペクト・ラインは省略しています。


●当該2週間の中間日2017年4月24日の「ホロスコープ」
※太陽はオーブ(許容度数)10度、それ以外は6度をとっています。




「聖徳太子」は創作された 2
2017.04.14
表題「1」の続きです。

では、なぜ推古女帝の当時、蘇我馬子が実質上、大王として実権を握り、いわゆる“天皇”だったことを『日本書紀』は書けないのでしょうか。

当時の歴史をご存じのかたなら、すぐにご賢察できるはずです。

後日、「天智天皇」となった中大兄が、乙巳の変において馬子の孫の蘇我入鹿を殺害し、蘇我本宗家は途絶えました。

蘇我馬子、蝦夷、入鹿の三代は、実質上の“大王”(天皇)だったにもかかわらずです。

もし、『日本書紀』が、正直にこのことを記せば、隋の冊封体制から日本を独立させ、統一国家の礎を築いた阿毎多利思比狐(あまの たりしひこ)大王(おおきみ)こと蘇我大王家を、中臣鎌子(後の藤原鎌足)とともに中大兄(後の天智天皇)が滅ぼし、いわば後年の天皇が現天皇を殺害して「皇位争い」をしたことになります。

『日本書紀』は、「二度と皇位争いは起こさない」という天武天皇の強い意志のもと、万世一系の天皇の正統性を記すのが骨子(主旨、編集目的)です。

ほかにも理由はありますが、この点からも、蘇我一族が“大王”(天皇)だったことは、『日本書紀』は書くことができません。

しかし、蘇我馬子は、日本の独立と統一の礎を築いた立役者であるばかりではなく、「冠位12階」を定めるなど仏教(学問)の導入と律令国家としての近代化を図り、遣隋使を派遣するなど、隋との対等な関係を築いた功績者です。

そういった功労者の蘇我氏を、権力に執着した中大兄が滅ぼしてしまった以上、正しく記せば、いわゆる臣下が実質上の天皇を「弑逆」し、途絶えさせたことになりますので、けっして『日本書紀』に歴史として残すことはできません。

そこで「聖徳太子」を創作します。
蘇我馬子の功績は「聖徳太子」、すなわち“厩戸皇子”の功績かのように『日本書紀』に記すことで、歴史的事実とのつじつま合わせが可能になります。

推古政権を“厩戸皇子”(皇太子)と“蘇我馬子”(大臣)の2人の総理大臣が仕切ったと書かれているのはそのためです。
実はこの2人、同一人物なので当然です。

「厩戸」というのは“うまやこ”とも読めるように、蘇我馬子“うまこ”を示唆したネーミングになっています。

後世の人は、彼の遺徳を称えたのか、それとも蘇我氏の怨念を鎮めようと美称を奉ったのか、または仏教を日本に根づかせた功績ゆえか、死後50年ほどたって「聖徳太子」と別称するようになりました。

ただし、『日本書紀』に「聖徳太子」という名称は一度も出てきません。
あくまでも「厩戸皇子」または「上宮厩戸豊聡耳太子」(かみつみやの うまやどの とよとみみの ひつぎのみこ)です。


※注)
講談社学術文庫『日本書紀』(下)では、「推古天皇紀」に著者もしくは編集者が立てた小見出しに「聖徳太子の死」とあります。直後の本文にも、たしかに「夜半、聖徳太子は斑鳩宮に薨去された」とあります。ですが、これは間違いです。
『日本書紀』の原文では、「半夜 厩戸豐聰耳皇子命薨于」となっていて“聖徳太子”とはどこにも記されていません。ほかにも、原文に「中大兄」としか書かれていないのに、かってに「中大兄皇子」と書き改めるなど、一般書ならともかく、“学術文庫”としてはおそまつな一面があります。





「聖徳太子」は創作された 1
2017.04.13
かつて教科書で、「聖徳太子」とされ、これまでは「厩戸皇子(聖徳太子)」と改められ、今度ふたたび「聖徳太子」として教えられる人物は、ほんとうに実在したのでしょうか。

聖徳太子は、ご存じのように“厩戸皇子”だと考えられていて、また上宮厩戸豊聡耳太子(かみつみやの うまやどの とよとみみの ひつぎのみこ)としても『日本書紀』に記されています。


では、次のような人物は、ほんとうに実在するのでしょうか。

1、生まれてすぐに言葉をしゃべった。
2、1度に10人の話を聞いても間違えなかった。
3、(誤まらず)先のことまですべて見通した。
4、仏法と儒教の経典をことごとく極めた。
5、19歳で今でいう“総理大臣”になった。

マンガなどならともかく、実際にはありえません。


●参考『日本書紀』原文
生而能言 有聖智 及壯 一聞十人訴以勿失能辨 兼知未然
且習內教於高麗僧慧慈 學外典於博士覺哿 並悉達矣。


実在の天皇紀において、このように「ありえない」ことを『日本書紀』が記すとき、歴史書であると同時にプロパガンダの書でもある性質上、そこにはなんらかの“メッセージ”が込められています。

記事によって異なりますが、共通していえるのは、“事実ではないよ”と訴えていることです。

さらにいえば、この箇所は、理由があって日本書紀に正直には書けないから、“よく考えて真相を知ってね”という意図が込められています。

結局、推古天皇が、その元年に厩戸皇子(19歳)を皇太子に立てて、「国政のすべてを任せられた」という記述は、有能な蘇我馬子が大臣(おおおみ)としても実在する以上、事実ではありえません。

考えてもみてください。

推古が即位してすぐに国政のすべてを皇太子に任せるなら、推古女帝は「いなかった」(傀儡)と書いているのと同じです。

もちろん19歳で国政のすべてを担った“厩戸皇子”こと「聖徳太子」もいません。

なので、実質上、国政をつかさどっていたのは、蘇我馬子大王(天皇)です。
ですが、このことは、どうしても『日本書紀』には記せせない事情があるのです。



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