日本の歴史的な天運
2024.01.23
[建国記念の日特別編2:古代史解明12] ― 日本を救った神剣「草薙剣」 ―


時代の流れとともにある「天運」に守られてきた事例




どなたでも知っている日本の歴史的な経緯をご紹介するだけです。

現在の支那大陸の国家「中華人民共和国」は1949年に建国したばかりで、まだ74年の歴史しかありません。

支那大陸で最も長く続いた国家でも、約300年程度です。

ひるがえって日本は、確実なところをみても7世紀の第38代「天智天皇」(在位668-672)もしくは第40代「天武天皇」(在位673-686)から、約1,400年近い皇統が続く世界最長の国家になっています。

何度が存亡の危機はありましたが、日本は民族性が「魚宮」、国体は「水瓶宮」で象徴されるため、双魚宮時代から宝瓶宮時代へ時代の流れとともにある「天運」によって守られてきました。

その出来事の一例となるご紹介です。



《 壊滅的な大敗北と日本の危機 》

建国記念の日特別編「九州倭国と統一の大倭」に続く第2弾「日本の歴史的な天運」です。

長いのでポイントのみをお届けいたします。

7世紀にはじまった統一大和の最初の危機は、のちに天智天皇(てんじ てんのう)となる「中大兄」(なかのおおえ)による「白村江の戦い」(663:はくすきのえ の たたかい)でした。

九州の海人族をメインに、大挙して朝鮮半島に出向いた日本軍でしたが、唐羅連合の前に壊滅的な大敗北を喫します。

敗因は、元九州倭国のトップが弑逆(しいぎゃく)された「乙巳の変」(645)の首謀者の一人中大兄の思惑に駆り出され、直接には関係のない戦いでもあり、コンセンサスはもちろん大義名分が弱く士気に欠け、指揮系統もあいまいだったからです。


【One Point】 敗戦後“中大兄政権”は、唐と新羅による日本への侵攻を恐れて、防人(さきもり)を配し、また北部九州や瀬戸内海沿いに山城を築きます。

福岡県太宰府には幅60メートルの外堀を持った高さ9m、上部幅25m、全長1.2kmにも及ぶ防塁「水城」(みずき)を築いています。



【ご参考:今も残る史跡「水城跡」】

水城は膨大だったため、約1,400年が経った今でも残滓が残っています。

福岡市から大宰府市を通って日田市(大分県)に至る古代に栄えた「朝倉街道」沿いの史跡がそれです。

西側の一角は、JR鹿児島本線や九州高速道路が通り、東端が朝倉街道です。

大きいので知っていれば一目で分かります。

畑となったお堀跡には、春は菜の花が咲き誇る「水城跡」になっています。




《 戦勝国、唐羅連合の仲互い 》

戦いを主導した中大兄自身はどうかというと、畿内に戻ると、周囲からの怨嗟の中、いつでも逃げられるように琵琶湖畔に“近江京”こと大津宮(おおつのみや)を築いて移っています。

その後、「天皇」(当時は「大王」おおきみ)に就き、権力でもって怨嗟を封殺したかたちです。

それはそれ、日本国には「天運」が働いていたため侵略を免れています。

白村江の戦いに完勝した唐と新羅は、その後、半島支配をめぐって仲間割れを起こし、ついには7年後に「唐・新羅戦争」(670-676)に至る仲たがいをはじめたからです。

日本侵攻どころではなくなっていました。

ちょうど同じころ、日本国内を二分した古代史最大の内戦「壬申の乱」(672)が起きています。

天智亡き後、大友皇子(追諡:弘文天皇:第39代)と、『日本書紀』には中大兄と“兄弟”と記される大海人皇子(おおあま の おうじ)との戦いです。


【One Point】 結果的に皇位をめぐる争いとなった「壬申の乱」ですが、権力亡者の天智やその子:大友皇子よりも、正統な大海人皇子に人心はありました。

大分君(おきだのきみ)らの命をかけた戦いによって、大海人皇子が勝利すると第40代「天武天皇」として即位しています。




《 「草薙剣」のご神威による武家政権 》

天武系の皇統は第48代「称徳天皇」(在位764-770、重祚:第46代孝謙天皇)まで続きます。

天武系天皇の“大権”を面白く思わない藤原摂関家は、「乙巳の変」の首謀コンビの子孫による復活となる天智系皇統を画策し成功しています。

天智天皇の孫にあたる62歳の御しやすい第49代光仁天皇(在位770-781)で、以降、彼らにとって“望月の世”となる平安時代(794-1185)を謳歌しています。

天皇をないがしろにした藤原摂関家は、血の汚れを忌み嫌う「公家政権」でした。

しかし、公家政治も平家の台頭によって終盤を迎え、さらに源頼朝による武家政権「鎌倉幕府」の開幕(1185)によって、以降、日本の独立は堅持されていくことになります。

もし、平安時代のまま公家政権が続いていたら、ヨーロッパにまで攻め込み大モンゴル帝国を築いた「元」によって、日本は滅んでいたでしょう。


【One Point】 鎌倉幕府、第8代執権「北条時宗」(在職1268-1284)の時代に、二度にわたる高麗連合軍による蒙古襲来「元寇」がそれです。

武家政権に移って90年近くが経っていたことから、もともと“武”で象わされることがある九州にも基盤はできていました。



【ご参考:義経が失った「天運」】

平家が滅びたことで、源頼朝による鎌倉幕府が1185年に成立します。

壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼした功績は、鞍馬山で育った源義経にあります。

しかし、彼は兄頼朝の真意に気づくことも、天意を知ることもできませんでした。

戦功や目先の勝敗にこだわる義経は、平家を滅ぼしたとき、幼帝「安徳天皇」の入水とともに、「三種の神器」も壇ノ浦の海に没することを許してしまったのです。

海上に浮かぶ「八咫鏡」と「勾玉」は回収できたものの、肝心の「草薙剣」は見つけることができませんでした。

そればかりか、京に凱旋したとき、神器なしで即位されていた後鳥羽天皇に「八咫鏡」と「勾玉」を渡してしまいます。

当然、天皇は大喜びしますが、これから武家の世を築こうとする頼朝にとって、神剣を失ったうえに“裏切り”でしかありませんでした。

また義経は、武家政権へ新しい時代の「天運」の流れを知るよしもなかったのです。

古い社会通念による“常識”のまま、宝鏡と勾玉を天皇に渡したことが、義経の“運命”を決めることになります。




《 古代「日本」の根底に海人族 》

鎌倉幕府を開いた源頼朝は、神剣「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)が奉斎される熱田神宮の神官(大宮司)の娘:由良御前を母親とします。

“勾玉”で象徴される公家政権から“神剣”のご神威による武家政権の世に移ったことで日本の独立が守られていきます。

戦国乱世の英雄「織田信長」をみても同様です。

2~4万もの兵による今川軍の侵攻を受けて、織田軍はわずか3,000余。

彼が熱田神宮で戦勝を祈願し、桶狭間山で奇跡の勝利をあげたのはご存じのとおりです。

織田家は熱田港を拠点とする貿易で財を築き、のし上がっています。

美濃(岐阜)また尾張(名古屋)は、大海人皇子所縁の地で、海部氏や尾張氏など古代海人族の拠点の一つです。

奈辺に信長が居城とした清洲城もあります。

天運を伴なう古代日本の根底には常に海人族が関わっています。

戦国乱世は、刀鍛冶による鉄の加工技術を発達させ、このことは種子島に伝わった火縄銃の複製はもちろん、西洋を超えた高性能と大量生産を可能にし、植民地支配から日本の独立を守っています。




【One Point】 第14代島主「種子島時堯」(たねがしま ときたか)は、漂着したポルトガル商人から2丁の火縄銃を約2億円で購入しました。

大儲けした彼らが大量の鉄砲を持って再び日本を訪れたとき、高性能な日本製火縄銃に驚き、逆に買って帰ったほどです。



《 新時代のプロトタイプ(原型) 》

世界が武器や軍事技術を高めていった時代に、日本がもし武家政権でなく戦国乱世も訪れず刀鍛冶の技術が発達していなければ。

モンゴル高麗連合軍の襲来「元寇」によって滅ぼされ、またスペインやポルトガルによってインカ帝国や南米をみても分かるように、男性は殺され彼らのDNAが残る植民地となって、皇統も影もカタチもなくなっていたでしょう。

そうならなかったのは、民族性「魚宮」により日本的霊性はもちろん双魚宮時代の宇宙波動による「天運」を伴なっていたからです。

それだけではありません。

天皇のもと国体「水瓶宮」によって、来るべき宝瓶宮時代に向けて世界の模範の民となるべく、「天運」によって守られ文化的にもはぐくまれてきたからです。

今日、冥王星が水瓶宮に本格入宮していくことで、「深層の精神意識の変革」のデレクションとともに、新しい友愛精神(和、絆、民度)を伴ないつつ“ふつう”にすればいいのですが、新時代のプロトタイプ(原型)となっていく時代を迎えています。


【One Point】 「星のディレクション」(運勢変化、時代変化)は、主に「人類歴史」に働いてきました。

しかし、2022年以降は「個々人」がメインで、「深層の精神意識」(霊性、深層心理)の次元拡張(上昇)がお一人ひとり主体的に重要になっていく時代を迎えています。











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