3/27~4/9 ホロスコープ
2017.03.25
「今週の運勢」(2週間)の中間日、4/3のホロスコープです。

月の移動は、2週間で6サイン(宮)と大きいので、3月27日0時、4月3日0時、4月9日24時を記しています。

※月のアスペクト・ラインは4月3日分のみです。


●当該2週間の中間日2017年4月3日の「ホロスコープ」です。
※太陽はオーブ(許容度数)10度、それ以外は6度をとっています。




森友学園 籠池氏の生年月日
2017.03.24
今、政権を騒がせる“変節漢”ともいえる森友学園の籠池泰典氏。

当初、経営する幼稚園で「教育勅語」を園児に唱和させたり、天皇陛下や現政権の応援者のような立場を演じていましたが、森友学園への国有地売却が問題になり、マスコミなどから追及されると、一転、共産党や民進党サイドに立って自民党や政府側を批判するようになりました。

どうも、真意がよくわかりません。

そこで、ネットで出生データを調べて、ホロスコープ(出生天球図)からどのような人物なのかをみてみようと考えました。

すると、まず名前が違いました。
生年月日も「わからない」ことがわかりました。

通名の“籠池泰典”(かごいけ やすのり)は本名ではなく、ほかにも“籠池靖憲”という名前を使っていたり、生年月日が1953年(昭和28年)?年?日となっていたり、1954年(昭和29年)説もあったり…。
社会的な立場にある人物としては、どなたでも感じると思いますが“あやしい”のです。

結局、本名は籠池康博(かごいけ やすひろ)で、香川県生まれということだけわかりました。

これではホロスコープは作成できません。

ところが本日、2017年3月23日、籠池氏の国会証人喚問が行なわれました。

ご存じのように証人喚問でウソをつくと、偽証罪にとわれて罪になります。
ほかのことはともかく、当然、本人を確認する名前と生年月日でウソはつきません。

証人喚問の冒頭、議長から「あなたは籠池康博クンですか」と問われると「はい、そうでございます」と答え、続いて「生年月日、職業をお述べください」とたずねられると、「昭和28年2月7日生まれでございます。森友学園の理事長でございます」と答えました。

生年月日がわかりました。
それだと、水瓶宮18度の太陽です。
その太陽は、水星とドラゴン・ヘッドを合(コンジャンクション=0度)とし、蠍宮11度~23度の月を上方矩(アッパー・スクエア=90度)とします。

ほかにも、牡牛宮12度の木星が下方矩(ロウアー・スクエア=90度)で、獅子宮22度の冥王星と同じく12度のドラゴン・テールを衝(オポジション=180度)とします。
さらに、天秤宮23度の海王星と27度の土星を上三分(アッパー・トライン=120度)としています。

出生時間はわかりませんが、なるほどでした。

ご本人もさほど意識せずに息をするようにウソをつく、虚実入り混じった言動をするタイプになります。



3/20~4/2 ホロスコープ
2017.03.18
「今週の運勢」(2週間)の中間日、3/27のホロスコープです。

月の移動は、2週間で6サイン(宮)と大きいので、20日0時、27日0時、4月2日24時を記しています。

※月のアスペクト・ラインは3月27日分のみです。


●当該2週間の中間日2017年3月27日の「ホロスコープ」です。
※太陽はオーブ(許容度数)10度、それ以外は6度をとっています。




3/13~3/26 ホロスコープ
2017.03.11
「今週の運勢」(2週間)の中間日、3/20のホロスコープです。

月の移動は、2週間で6サイン(宮)と大きいので、13日0時、20日0時、26日24時を記しています。

※月のアスペクト・ラインは3月20日分のみです。


●当該2週間の中間日2017年3月20日の「ホロスコープ」です。
※太陽はオーブ(許容度数)10度、それ以外は6度をとっています。



「邪馬台国」の誤解5
2017.03.10
●宝瓶宮占星学サイトに連載した「占星学と解く日本成立史」と「占星学から解く日本の原点」に書いていない「小ネタ」を随時アップしていくシリーズで、今回は「邪馬台国編-その5」です。


「邪馬台国」から少し脱線しますが、卑弥呼について触れておきます。

卑弥呼もまた「魏志倭人伝」がもたらした大いなる幻想の一つです。

2~3世紀の当時の日本を記した文献が、「魏志倭人伝」しかないのでしかたないのですが、卑弥呼を共立することによって平和が訪れ、また日本人好みの“鬼道”といった衆を惑わす術を使ったこともあって、どこか神秘めいて“英雄”かのように思われています。

違います。

“鬼道”というのは、今でいう「いたこ」と同じです。
要は、死者の霊を自分の体に憑りつかせて、霊言を語る怪しげな自称“霊能者”や“霊媒者”と同じです。

古代には、そういったたぐいの、いわゆる「いたこ」がたくさんいました。
当時、卑弥呼ひとりが“鬼道”につかえていたわけではなく、『日本書紀』を読めば、“神がかり”による託宣のお話は、案外と多く出てきます。

さらにいえば、「卑弥呼=天照大神」とするのも間違いです。

『日本書紀』の性格(編集方針)からして、中国の冊封下にあった「邪馬台国」や、“親魏倭王”の金印を仮授された「卑弥呼」は、ぜったいに出てきません。

なぜなら、独立日本としての「統一大和」が保たれないためです。
この点からも、邪馬台国=畿内国(のちの大和)とするのは、7世紀の大和朝廷は“中国の冊封下”の延長線上にあると主張するのと同じで、明らかに間違いです。

冊封下だった「倭国」は、7世紀初頭に、弟国の「日本」に国をゆずっています。
また、7世紀後半の天武天皇は、「天皇」と号することによって、中国の「皇帝」よりも天神に近い立場に日本国(王)を位置づけました。

結局のところ、「邪馬台国」というのは、北部九州のごく一部にすぎず、女王や天皇を象徴とする和の統治形態は残ったものの、往時の邪馬台国そのものは、卑弥呼の代をもって終わり、男王の傀儡「台与」を立てた政権へと移っています。



「邪馬台国」の誤解4
2017.03.09
●宝瓶宮占星学サイトに連載した「占星学と解く日本成立史」と「占星学から解く日本の原点」に書いていない「小ネタ」を随時アップしていくシリーズで、今回は「邪馬台国編-その4」です。


多くの日本人のなかに古代史における一つの“誤解”があります。

それは、7世紀の統一大和にいたるまで日本はずっと一つの歴史を営んできたという思いです。

江戸時代とくには明治以降は、『日本書紀』や「万世一系」といった歴史観が、なかば強制的に学校教育や社会マスコミの風潮となりましたので、だれもがそのように無意識のうちに思い込んでいます。

つまり、日本は当初から一つの国だったという“刷り込み”です。

それが100%間違いだとはいいません。
日本という国の精神史からみれば、『日本書紀』に流れるバックボーンは、卑弥呼の時代にもつうじ、和を重んじた一つの国を志向していたことに間違いはないからです。

しかし、実際の歴史をみていくと、最後は一つの国に収斂されていく“国体”をもつとはいえ、そのプロセスにおいては、ずっと古代日本が一つの歴史であったとはいえない事実があります。

要は、日本は当初から一つの国だったという“観念”があるために、7世紀の統一大和の源流は2~3世紀の卑弥呼の「倭国」(女王の都「邪馬台国」)しかないと思い込んでいるのです。

そのため、古代の環濠集落跡や宮殿跡または楼観跡など、「魏志倭人伝」に記された可能性のある遺構がみつかると、すぐ「邪馬台国か」とマスコミをはじめ歴史学者の一部や歴史マニアが騒ぎ立てます。

違うのです。

当時、日本にあった卑弥呼の「倭国」(女王の都「邪馬台国」)は、ワン・オブ・ゼムにすぎません。
たとえば「魏志倭人伝」をみても、卑弥呼の「倭国」と争う「狗奴国」という国があったことが記されていますし、海をへだてた東には、同じ「倭種」とよばれた人々がいて、名称は不明ながらいくつかの“国々”が営まれていたことは当然です。

このことがわかると、畿内国(のちの大和)に宮殿跡や前方後円墳などが残るとしても、それが卑弥呼の「邪馬台国」だったということにはなりません。

実際にも、ほかの“国”だったことがわかります。

※ただし、のちには九州(倭国)勢力が大和にも移動しています。




「邪馬台国」の誤解3
2017.03.08
●宝瓶宮占星学サイトに連載した「占星学と解く日本成立史」と「占星学から解く日本の原点」に書いていない「小ネタ」を随時アップしていくシリーズで、今回は「邪馬台国編-その3」です。


さて、先回、名称は「邪馬台国」で間違いがないことを確認いたしました。

その邪馬台国がどこにあったのかは、当時2~3世紀の日本のインフラ状況を考えれば、簡単にみえきます。
要は、交通手段また連絡をはじめとした統治可能範囲の問題です。

どこの国でも、常識ですが国内に道路や橋が整備されるのは、国家が統一されて平和になってからです。
国内で争っているかつての状況下では、道路を整備したり、橋をかけると、ほかの国々からたやすく攻められてしまいます。

たとえば、家康によって日本が統一された江戸時代にあっても、西国から江戸を守るために静岡の大井川には橋をかけませんでした。

また、五街道も現代のように舗装されていないのはもちろんのこと、藩と藩をつなぐ今に残る古道などをみても、一人がとおれるほどのいわゆる「山道」が多かったのも事実です。

ましてや、人口も少なく、獣も多かった邪馬台国の時代に、大軍がとおれるような整備された道はもちろんのこと、道路はないに等しく、せいぜい村落の中にのみ「道」とよべる道ができていた程度です。

そういった事情から、当時の交通手段は、天候まかせ、また風や潮まかせの海そして河川でした。
要は、帆掛け舟がなくはなかったのですが、大半が手漕ぎの船(舟)です。

では、そのような2~3世紀の邪馬台国の時代に、どれだけの兵隊がいれば、どれだけの範囲を支配下におけるでしょうか。

たとえば、畿内国(のちの大和)に、どれだけの兵隊がいれば、東日本はともかくとして、西日本の要衝の国々を支配下におくことができたのか、というお話です。

各地を治めるには、兵の常駐支配か、江戸時代のように「代官所」があって、ことあれば直ちに畿内に連絡がいき、兵を動員して不穏な動きや反乱を治めなければ統治することはできません。

それだけの兵員と動員力また食料や武器などの兵站はもちろん、輸送力や交通手段や連絡手段が、どの範囲に効力を発するまで万全に整っていたのかということです。

それができなければ、「魏」との窓口とされた「伊都国」など北部九州はもちろん、「吉備国」をはじめとした瀬戸内海両岸の国々を治めることができません。

いかがでしょうか。

考えるまでもありません。答えは決まっています。
当時の状況下では、人も多くない畿内国(のちの大和)が、そのように北部九州までも支配下におくことは無理です。

であれば、女王・卑弥呼の「倭国連合」の範囲と位置はみえてきます。

現代人の地理感覚や交通運搬などのインフラによって無条件に考えると、邪馬台国は、九州のはるか南の海の中にあったなどと言い出しますので、あくまでも当時の状況下で考えなければなりません。




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