欽明天皇後の皇統問題
2019.05.31
今回は、「補足」のための裏付け記事です。
一般的ではないお話と思いますので、ご興味のないかたはスルーされてください。
「『日本書紀』と万世一系」の記事でふれましたように、「欽明天皇」(第29代)~「天智天皇」(第38代)の皇統には“操作”がなされています。
理由は次の2点です。
第1の理由は、この時期、「九州倭国」と「畿内大和国」が統一合併して“統一独立国家大和”「日本」が誕生していますが、そのことを記せない『日本書紀』は、両方の皇統(王統)を一つにつなげたからです。
第2の理由は、統一後の7世紀前半は、実質は「蘇我氏三代」が大王に就いていたのですが、これも記すことができないために、“天皇”(大王)でなかった皇族(王族)を“万世一系”として記したからです。
『日本書紀』によると「欽明天皇」(第29代)の皇子4人が、6世紀後半に次々と皇位に就いています。
敏達天皇(第30代)、用明天皇(第31代)、祟峻天皇(第32代)、推古天皇(第33代)がそうです。
しかし、次の4つの疑問がわいてきます。
1、
欽明天皇が本当に4人の天皇を生んだ父親なのか。
『日本書紀』は、欽明天皇の「即位年」も「崩御年」も明らかにしていません。
…4人の皇子の父親とするために、欽明天皇の年齢を記せなかったようです。
●『日本書紀』 「欽明天皇」紀より抜粋
「欽明天皇は即位された。年はまだ若干(そこばく)であった。」
「天皇はついに大殿に崩御された。時に年、若干。」
2、
『神皇正統記』などほかの記録をみると、欽明天皇の4人の皇子は年齢の幅がひらきすぎており、それぞれの記録で出生の順番さえ異なります。
3、
敏達天皇と推古女帝は“兄妹”で、しかも“夫婦”、なぜか中2代をおいて即位しています。
…[参考] 舒明(夫)皇極(妻)、天武(夫)持統(妻)の夫婦天皇の場合は、連続しています。
4、
皇子が4人も即位されながら、その子どもたちがだれ一人として皇位に就いていないことです。
これらは何を意味しているのでしょうか。
用明天皇と推古女帝は、(本来の)和風諡号(しごう)を「橘豊日天皇」(たちばなの とよひの すめらみこと)と「豊御食炊屋姫天皇」(とよみけ かしきやひめの すめらみこと)と申し上げます。
いずれも、“豊”がつくことから九州倭国系の天皇(大王)また出自です。
敏達天皇は、「渟中倉太珠敷天皇」(ぬなくらの ふとまたしきの すめらみこと)と申し上げることから、畿内大和国系の天皇(大王)です。
祟峻天皇は、「泊瀬部天皇」(はつせべの すめらみこと)と申し上げますが、“合併に反対した”ことから馬子に殺された大王です。
祟峻のあとをついだ推古女帝は、天皇(大王)らしくない諡号(おくりな)から、馬子の傀儡(かいらい)か名ばかりの“天皇”です。
推古の和風諡号は上述いたしましたように、“豊御食炊屋姫 天皇”なのですが、まるで“飯炊き女”相当で、天皇号としては軽すぎるのです。
『日本書紀』は、4人の天皇を欽明天皇の皇子として一つにつなげたために、“聖徳太子”と誤解される厩戸皇子の父「用明天皇」の在位は、わずか2年半、「祟峻天皇」もわずか5年で、しかも蘇我馬子に殺されているわけです。
ところが、「天皇(大王)を殺した」にもかかわらず、馬子がお咎めをうけた記録はありません。
それどころか、次の推古女帝の御世に「大臣」(おおおみ=首相)に就いたと記されています。
なぜかといいますと、蘇我馬子は「九州倭国」と「畿内大和国」を合併させ、統一独立国家大和「日本」を誕生させた功労者で、統一後、大和において実権をにぎっていた実質の大王だったからです。
そのため、祟峻を殺しても、お咎めをうけることはなく、必然的に、祟峻後、即位したと記される“推古女帝”は、権力者蘇我馬子の傀儡(かいらい)にすぎず、もしくは馬子が大王だったことを隠すために、『日本書紀』がつくりあげた“天皇”です。
推古の出自は、用命天皇の同母妹、額田部皇女(ぬかたべの ひめみこ)です。
ということから、推古女帝が蘇我馬子を“大臣”(おおおみ=首相)に就けたと記していることも、19歳になったばかりの厩戸皇子に“国政”をすべてを任せられた(摂政)というのも、さらには厩戸を“皇太子”(ひつぎのみこ)に定められたいうのも、この時代に「皇太子」という制度はまだなったということをふくめて、ありえないお話です。
結論的に書きますと、推古女帝の御世というのは、「蘇我馬子」が大王でした。
次の舒明天皇の御世は、馬子の子「蘇我蝦夷」が大王です。
さらに、最後の皇極天皇の御世は、蝦夷の子「蘇我入鹿」が実際の大王でした。
ですが、そうとは書けない『日本書紀』は、この事実を糊塗(こと)して、乙巳の変(645年)による“大化の改新”を創作し、中大兄(天智天皇)と中臣鎌子(藤原鎌足)の功績としたのです。
それゆえ、『日本書紀』上奏後は、藤原氏が「望月の世」を迎えていきます。
次回に書きますが、上述の「舒明天皇」(第34代)と「皇極天皇」(第35代)というのは“叔父と姪”で、また“夫婦”と記されています。
この2代の天皇(大王)を、敏達天皇の皇子でまったく詳細が『日本書紀』に記されていない「押坂彦人大兄皇子」(おしさかの ひこひとの おおえの みこ)につなげたために、天智天皇(第38代)にいたる蘇我氏との世代関係が合わなくなっています。
平安時代になって、淡海三舟(おうみの みふね)が、現在使われているように漢字2文字の漢風諡号を定めました。
その際に、宝皇女(たからの ひめみこ)こと「天豊財重日足姫天皇」(あめとよ たからいかしひ たらしひめの すめらみこと)を、“皇極天皇”としました。
“極”には、月極(つきぎめ)駐車場といったように月ごとに“終わる”という意味があります。
ゆえに「皇極」というのは、“皇位が終わった”ことをあらわす諡号です。
事実、“皇極天皇”をもって、馬子、蝦夷、入鹿の「蘇我三代天皇」(大王)は終わりをむかえ、“九州倭国王家”と言い換えてもいいのですが、蘇我本宗家は滅んでいます。
『古事記』が「推古女帝」で終わっているのも、このような理由があるからです。
一般的ではないお話と思いますので、ご興味のないかたはスルーされてください。
「『日本書紀』と万世一系」の記事でふれましたように、「欽明天皇」(第29代)~「天智天皇」(第38代)の皇統には“操作”がなされています。
理由は次の2点です。
第1の理由は、この時期、「九州倭国」と「畿内大和国」が統一合併して“統一独立国家大和”「日本」が誕生していますが、そのことを記せない『日本書紀』は、両方の皇統(王統)を一つにつなげたからです。
第2の理由は、統一後の7世紀前半は、実質は「蘇我氏三代」が大王に就いていたのですが、これも記すことができないために、“天皇”(大王)でなかった皇族(王族)を“万世一系”として記したからです。
『日本書紀』によると「欽明天皇」(第29代)の皇子4人が、6世紀後半に次々と皇位に就いています。
敏達天皇(第30代)、用明天皇(第31代)、祟峻天皇(第32代)、推古天皇(第33代)がそうです。
しかし、次の4つの疑問がわいてきます。
1、
欽明天皇が本当に4人の天皇を生んだ父親なのか。
『日本書紀』は、欽明天皇の「即位年」も「崩御年」も明らかにしていません。
…4人の皇子の父親とするために、欽明天皇の年齢を記せなかったようです。
●『日本書紀』 「欽明天皇」紀より抜粋
「欽明天皇は即位された。年はまだ若干(そこばく)であった。」
「天皇はついに大殿に崩御された。時に年、若干。」
2、
『神皇正統記』などほかの記録をみると、欽明天皇の4人の皇子は年齢の幅がひらきすぎており、それぞれの記録で出生の順番さえ異なります。
3、
敏達天皇と推古女帝は“兄妹”で、しかも“夫婦”、なぜか中2代をおいて即位しています。
…[参考] 舒明(夫)皇極(妻)、天武(夫)持統(妻)の夫婦天皇の場合は、連続しています。
4、
皇子が4人も即位されながら、その子どもたちがだれ一人として皇位に就いていないことです。
これらは何を意味しているのでしょうか。
用明天皇と推古女帝は、(本来の)和風諡号(しごう)を「橘豊日天皇」(たちばなの とよひの すめらみこと)と「豊御食炊屋姫天皇」(とよみけ かしきやひめの すめらみこと)と申し上げます。
いずれも、“豊”がつくことから九州倭国系の天皇(大王)また出自です。
敏達天皇は、「渟中倉太珠敷天皇」(ぬなくらの ふとまたしきの すめらみこと)と申し上げることから、畿内大和国系の天皇(大王)です。
祟峻天皇は、「泊瀬部天皇」(はつせべの すめらみこと)と申し上げますが、“合併に反対した”ことから馬子に殺された大王です。
祟峻のあとをついだ推古女帝は、天皇(大王)らしくない諡号(おくりな)から、馬子の傀儡(かいらい)か名ばかりの“天皇”です。
推古の和風諡号は上述いたしましたように、“豊御食炊屋姫 天皇”なのですが、まるで“飯炊き女”相当で、天皇号としては軽すぎるのです。
『日本書紀』は、4人の天皇を欽明天皇の皇子として一つにつなげたために、“聖徳太子”と誤解される厩戸皇子の父「用明天皇」の在位は、わずか2年半、「祟峻天皇」もわずか5年で、しかも蘇我馬子に殺されているわけです。
ところが、「天皇(大王)を殺した」にもかかわらず、馬子がお咎めをうけた記録はありません。
それどころか、次の推古女帝の御世に「大臣」(おおおみ=首相)に就いたと記されています。
なぜかといいますと、蘇我馬子は「九州倭国」と「畿内大和国」を合併させ、統一独立国家大和「日本」を誕生させた功労者で、統一後、大和において実権をにぎっていた実質の大王だったからです。
そのため、祟峻を殺しても、お咎めをうけることはなく、必然的に、祟峻後、即位したと記される“推古女帝”は、権力者蘇我馬子の傀儡(かいらい)にすぎず、もしくは馬子が大王だったことを隠すために、『日本書紀』がつくりあげた“天皇”です。
推古の出自は、用命天皇の同母妹、額田部皇女(ぬかたべの ひめみこ)です。
ということから、推古女帝が蘇我馬子を“大臣”(おおおみ=首相)に就けたと記していることも、19歳になったばかりの厩戸皇子に“国政”をすべてを任せられた(摂政)というのも、さらには厩戸を“皇太子”(ひつぎのみこ)に定められたいうのも、この時代に「皇太子」という制度はまだなったということをふくめて、ありえないお話です。
結論的に書きますと、推古女帝の御世というのは、「蘇我馬子」が大王でした。
次の舒明天皇の御世は、馬子の子「蘇我蝦夷」が大王です。
さらに、最後の皇極天皇の御世は、蝦夷の子「蘇我入鹿」が実際の大王でした。
ですが、そうとは書けない『日本書紀』は、この事実を糊塗(こと)して、乙巳の変(645年)による“大化の改新”を創作し、中大兄(天智天皇)と中臣鎌子(藤原鎌足)の功績としたのです。
それゆえ、『日本書紀』上奏後は、藤原氏が「望月の世」を迎えていきます。
次回に書きますが、上述の「舒明天皇」(第34代)と「皇極天皇」(第35代)というのは“叔父と姪”で、また“夫婦”と記されています。
この2代の天皇(大王)を、敏達天皇の皇子でまったく詳細が『日本書紀』に記されていない「押坂彦人大兄皇子」(おしさかの ひこひとの おおえの みこ)につなげたために、天智天皇(第38代)にいたる蘇我氏との世代関係が合わなくなっています。
平安時代になって、淡海三舟(おうみの みふね)が、現在使われているように漢字2文字の漢風諡号を定めました。
その際に、宝皇女(たからの ひめみこ)こと「天豊財重日足姫天皇」(あめとよ たからいかしひ たらしひめの すめらみこと)を、“皇極天皇”としました。
“極”には、月極(つきぎめ)駐車場といったように月ごとに“終わる”という意味があります。
ゆえに「皇極」というのは、“皇位が終わった”ことをあらわす諡号です。
事実、“皇極天皇”をもって、馬子、蝦夷、入鹿の「蘇我三代天皇」(大王)は終わりをむかえ、“九州倭国王家”と言い換えてもいいのですが、蘇我本宗家は滅んでいます。
『古事記』が「推古女帝」で終わっているのも、このような理由があるからです。
怨霊「聖徳太子」の真相
2019.05.23
「聖徳太子」は、実在か、それとも架空か?
結論的にいえば、「聖徳太子」そのものは意図ある“創作”です。
『日本書紀』は、その偉大な功績を「厩戸皇子」(うまやどのおうじ)かのように描き、実在の“功労者”を秘匿したというのが、複雑ですがことの真相です。
ご説明してまいります。
「聖徳太子」をどのように定義するかにもよりますが、一般に言われている聖徳太子は、『日本書紀』に記された厩戸皇子のイメージの拡大像なのですが、それが“間違い”で真の“聖徳太子”とされるべき人物は、別にいるということです。
『日本書紀』によって、「厩戸皇子」は“聖人”かのように脚色されました。
推古紀には「生まれてすぐに喋った、聖なる知恵があった」(原文:生而能言、有聖智)などとありますが、生まれてすぐに言葉を話すなど、脳科学的にありえないことです。
これらは、厩戸皇子のお話が「ウソ」であるとわかるように、『日本書紀』が“意図的”に掲載したエピソードで、『日本書紀』にはよくみられます。
別の意図としては、すでに後世の作(改ざん)として知られている「十七条憲法」を、“素晴らしい人がつくったもの”として信じ込ませるものともいえなくもありません。
聖徳太子が“架空”である絶対的な根拠は、『日本書紀』のなかに「聖徳太子」という名称が1度も出てこないことです。
もっとも、市販されている現代語訳『日本書紀』のなかには、原文は「厩戸豊聡耳皇子命」としか書いていないにもかかわらず、かってに「聖徳太子」と訳している書籍があります。
それはともかく、厩戸皇子が生存したとされるのは、574年~622年です。
一方、『日本書紀』の上奏は720年で、没後、100年ほどが経っています。
100年も経っていれば、歴代天皇が「諡号」(しごう、おくりな)で記されているように、『日本書紀』も同じように「聖徳太子として知られている」など、諡号で紹介された一文があってもおかしくないのです。
ちなみに、「諡号」というのは、「貴人や高徳の人に死後おくる名前」のことです。
それがないというのは、『日本書紀』ののちに「聖徳太子」ができたということです。
「万世一系」や「蘇我氏」に関すること以外は、なるべく史実にそって記そうとしている『日本書紀』ゆえに、聖徳太子がいたのなら、「聖徳太子」と明記しているはずです。
ですが、さすがに『日本書紀』も、架空ゆえに厩戸皇子と記すのが精一杯でした。
ちなみに、推古女帝の時代に、隋に国書をおくった男王「アメノタリシヒコ大王」を聖徳太子とする説がありますが、たいていは勘違いで、厩戸皇子でもありません。
なぜなら、アメノタリシヒコ大王は「筑紫」(北部九州)にいたからです。
『隋書』には、アメノタリシヒコ大王の国を「阿蘇山あり」と書いています。
『新唐書』にいたっては、ハッキリと「筑紫城に居す」とまで記しているのです。
なので、「アメノタリシヒコ大王」というのは、大和王権と合併する“直前直後”の「九州倭国王」にほかなりません。
では、『日本書紀』は、なぜ厩戸皇子なる人物を偉人に仕立てあげる必要があったのでしょうか。
それは、『日本書紀』の目的と編集方針をみれば明らかです。
『日本書紀』は、紀元前の初代「神武天皇」の東征以来、“大和一国王朝”として描いてきました。
それゆえ、3世紀の「卑弥呼」も「邪馬台国」も大和ではないので記されていません。
当然、卑弥呼由来の「九州倭国」や「九州倭国王」の存在も、またその功績も記すことはしません。
『隋書』に記されているアメノタリシヒコ大王の「冠位十二階」も、大和王朝が定めたものにする必要があったのです。(結果論)
それゆえ、厩戸皇子の名を借用し、または創作し、「冠位十二階」や「十七条憲法」を制定した聖人として描いたのです。
つまり、あえて書きますと、「聖徳太子」と称えられるべきは、1世紀の奴国、また3世紀の女王国以来の「九州倭国」を、シナ大陸の冊封体制から離脱させ、“日出る”とともに“弟”の「畿内国」(大和)に“政務を委ね”、「統一独立国家日本」を誕生させた天孫「アメノタリシヒコ大王」こと九州倭国王なのです。
ちなみに、「アメノタリシヒコ」という呼称は、“天より垂(降)りし日子”という意味で、天孫降臨した一族の子孫をあらわします。
紀元前(『日本書紀』の記述)に九州から「神武」が東征し、饒速日命(にぎはやひのみこと)から禅譲された「畿内国」(大和)からみれば“兄”にあたるわけです。
そのように、7世紀初頭に「九州倭国」と「畿内大和王権」を併合させて、“日出る国”(日本)が誕生しますが、その直後は「主導権争い」がくすぶっていました。
それが、のちの天智天皇こと「中大兄」と、のちの藤原鎌足こと「中臣鎌子」が、主導権を取り戻すべく実質上の大王家だった「蘇我本宗家」を滅ぼした「乙巳の変」(645年)です。
しかし、因果は巡ります。
政権奪取に成功した天智天皇の子 大友皇子(追諡:弘文天皇)は、政権基盤を確立すべく、のちの天武天皇こと「大海人皇子」と「壬申の乱」(672年)を戦いますが、負けて、結局は、天武天皇による古来の皇統が復活します。
その詳しいお話をここで書く余地はありません。
いずれにしても、藤原鎌足の子で『日本書紀』編纂にもかかわった藤原不比等(ふじわらのふひと)は、父と中大兄が弑逆した「蘇我本宗家」の偉大な功績を記すことはできず、「推古女帝」と摂政「厩戸皇子」による功績に書き換えたわけです。
ですが、後世のなかには、蘇我一族の功績だと知っている人もいますので、当時の風潮のなか、厩戸皇子ならぬ「聖徳太子」と命名して、その遺徳をたたえ、さらには鎮魂を行なったのです。
これが真実の「聖徳太子」です。
聖徳太子ゆかりの法隆寺で行なわれる「聖霊会」(しょうりょうえ)では、そのクライマックスに突如、“怨霊”としての「蘇莫者」(そばくしゃ)が登場し、これを厩戸皇子が笛を吹いて慰めるという演目が、いつからか行なわれています。
これは、ゆえなく滅ぼされた蘇我氏の御魂を鎮めるためのものです。
蘇莫者というのは、“蘇(よみがえ)る莫(な)き者”すなわち“蘇我氏”をあらわしています。
結論的にいえば、「聖徳太子」そのものは意図ある“創作”です。
『日本書紀』は、その偉大な功績を「厩戸皇子」(うまやどのおうじ)かのように描き、実在の“功労者”を秘匿したというのが、複雑ですがことの真相です。
ご説明してまいります。
「聖徳太子」をどのように定義するかにもよりますが、一般に言われている聖徳太子は、『日本書紀』に記された厩戸皇子のイメージの拡大像なのですが、それが“間違い”で真の“聖徳太子”とされるべき人物は、別にいるということです。
『日本書紀』によって、「厩戸皇子」は“聖人”かのように脚色されました。
推古紀には「生まれてすぐに喋った、聖なる知恵があった」(原文:生而能言、有聖智)などとありますが、生まれてすぐに言葉を話すなど、脳科学的にありえないことです。
これらは、厩戸皇子のお話が「ウソ」であるとわかるように、『日本書紀』が“意図的”に掲載したエピソードで、『日本書紀』にはよくみられます。
別の意図としては、すでに後世の作(改ざん)として知られている「十七条憲法」を、“素晴らしい人がつくったもの”として信じ込ませるものともいえなくもありません。
聖徳太子が“架空”である絶対的な根拠は、『日本書紀』のなかに「聖徳太子」という名称が1度も出てこないことです。
もっとも、市販されている現代語訳『日本書紀』のなかには、原文は「厩戸豊聡耳皇子命」としか書いていないにもかかわらず、かってに「聖徳太子」と訳している書籍があります。
それはともかく、厩戸皇子が生存したとされるのは、574年~622年です。
一方、『日本書紀』の上奏は720年で、没後、100年ほどが経っています。
100年も経っていれば、歴代天皇が「諡号」(しごう、おくりな)で記されているように、『日本書紀』も同じように「聖徳太子として知られている」など、諡号で紹介された一文があってもおかしくないのです。
ちなみに、「諡号」というのは、「貴人や高徳の人に死後おくる名前」のことです。
それがないというのは、『日本書紀』ののちに「聖徳太子」ができたということです。
「万世一系」や「蘇我氏」に関すること以外は、なるべく史実にそって記そうとしている『日本書紀』ゆえに、聖徳太子がいたのなら、「聖徳太子」と明記しているはずです。
ですが、さすがに『日本書紀』も、架空ゆえに厩戸皇子と記すのが精一杯でした。
ちなみに、推古女帝の時代に、隋に国書をおくった男王「アメノタリシヒコ大王」を聖徳太子とする説がありますが、たいていは勘違いで、厩戸皇子でもありません。
なぜなら、アメノタリシヒコ大王は「筑紫」(北部九州)にいたからです。
『隋書』には、アメノタリシヒコ大王の国を「阿蘇山あり」と書いています。
『新唐書』にいたっては、ハッキリと「筑紫城に居す」とまで記しているのです。
なので、「アメノタリシヒコ大王」というのは、大和王権と合併する“直前直後”の「九州倭国王」にほかなりません。
では、『日本書紀』は、なぜ厩戸皇子なる人物を偉人に仕立てあげる必要があったのでしょうか。
それは、『日本書紀』の目的と編集方針をみれば明らかです。
『日本書紀』は、紀元前の初代「神武天皇」の東征以来、“大和一国王朝”として描いてきました。
それゆえ、3世紀の「卑弥呼」も「邪馬台国」も大和ではないので記されていません。
当然、卑弥呼由来の「九州倭国」や「九州倭国王」の存在も、またその功績も記すことはしません。
『隋書』に記されているアメノタリシヒコ大王の「冠位十二階」も、大和王朝が定めたものにする必要があったのです。(結果論)
それゆえ、厩戸皇子の名を借用し、または創作し、「冠位十二階」や「十七条憲法」を制定した聖人として描いたのです。
つまり、あえて書きますと、「聖徳太子」と称えられるべきは、1世紀の奴国、また3世紀の女王国以来の「九州倭国」を、シナ大陸の冊封体制から離脱させ、“日出る”とともに“弟”の「畿内国」(大和)に“政務を委ね”、「統一独立国家日本」を誕生させた天孫「アメノタリシヒコ大王」こと九州倭国王なのです。
ちなみに、「アメノタリシヒコ」という呼称は、“天より垂(降)りし日子”という意味で、天孫降臨した一族の子孫をあらわします。
紀元前(『日本書紀』の記述)に九州から「神武」が東征し、饒速日命(にぎはやひのみこと)から禅譲された「畿内国」(大和)からみれば“兄”にあたるわけです。
そのように、7世紀初頭に「九州倭国」と「畿内大和王権」を併合させて、“日出る国”(日本)が誕生しますが、その直後は「主導権争い」がくすぶっていました。
それが、のちの天智天皇こと「中大兄」と、のちの藤原鎌足こと「中臣鎌子」が、主導権を取り戻すべく実質上の大王家だった「蘇我本宗家」を滅ぼした「乙巳の変」(645年)です。
しかし、因果は巡ります。
政権奪取に成功した天智天皇の子 大友皇子(追諡:弘文天皇)は、政権基盤を確立すべく、のちの天武天皇こと「大海人皇子」と「壬申の乱」(672年)を戦いますが、負けて、結局は、天武天皇による古来の皇統が復活します。
その詳しいお話をここで書く余地はありません。
いずれにしても、藤原鎌足の子で『日本書紀』編纂にもかかわった藤原不比等(ふじわらのふひと)は、父と中大兄が弑逆した「蘇我本宗家」の偉大な功績を記すことはできず、「推古女帝」と摂政「厩戸皇子」による功績に書き換えたわけです。
ですが、後世のなかには、蘇我一族の功績だと知っている人もいますので、当時の風潮のなか、厩戸皇子ならぬ「聖徳太子」と命名して、その遺徳をたたえ、さらには鎮魂を行なったのです。
これが真実の「聖徳太子」です。
聖徳太子ゆかりの法隆寺で行なわれる「聖霊会」(しょうりょうえ)では、そのクライマックスに突如、“怨霊”としての「蘇莫者」(そばくしゃ)が登場し、これを厩戸皇子が笛を吹いて慰めるという演目が、いつからか行なわれています。
これは、ゆえなく滅ぼされた蘇我氏の御魂を鎮めるためのものです。
蘇莫者というのは、“蘇(よみがえ)る莫(な)き者”すなわち“蘇我氏”をあらわしています。
『日本書紀』と万世一系
2019.05.21
今回は、信じられないかたには、“疑義”提起になると存じます。
『日本書紀』は、統一独立国家「大和」を出発するための“万世一系”を記したものです。
超ロングスパンでみれば、相応の紆余曲折はあったものの、令和の今上天皇にいたるまで、最初に日本の大半に影響をおよぼし、ゆるやかな“大国主連合”を築いた大王につづく万世一系で間違いはありません。
もともと『日本書紀』は、すべての豪族や氏族を大王(天皇)からの分家として“大和一民族”による独立をうたっているからです。
その象徴は、明治天皇以降、「天照大神」が皇祖とされますが、『日本書紀』に記されている(本来の)皇祖は、神代紀(下巻)の冒頭にあるように「高皇産霊尊」(たかみむすひのみこと)です。
それは、天孫降臨の記述をみても明らかです。
『日本書紀』の本文には、高皇産霊尊による瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨が記されています。
一方、今日、一般に信じられている天照大神による瓊瓊杵尊の“三種の神器”をともなった天孫降臨は、一書(あるふみ=異説)のうちの1つの説として記されているにすぎません。
このあたりは、『日本書紀』編纂責任者(舎人親王:天武天皇の皇子)の真摯な姿勢が垣間見えます。
ちなみに、一書の「天孫降臨神話」は、持統天皇(第41代)の御世に藤原不比等のアイデアで付加したもののようです。
持統天皇こと「高天原広野姫天皇」(たかまのはら ひろのひめの すめらみこと)から、“孫”の文武天皇(第42代)こと「倭根子豊祖父天皇」(やまとねこ とよおほぢの すめらみこと:25歳で崩御)への譲位をスムーズにはかるために、『日本書紀』は、高天原の天照大神から、“孫”の瓊瓊杵尊への天孫降臨神話を創作したのです。
明治以降、皇祖が「天照大神」に定められるとともに、この一書のお話は本文のように思わされています。
ここでは長くなるので、その経緯にはふれません。
万世一系を定めた天武天皇(第40代)以降、ほどなく天智系天皇の御世に変わったとはいえ、万世一系が連綿と続いてきたのは事実です。この詳細にもふれません。
問題は、6世紀から7世紀にかけてです。
継体天皇(第26代)にはじまり、安閑、宣化の2代をへて、欽明天皇(第29代)以降、天智天皇(第38代)にいたるまでの皇統は、かなりの操作がなされています。
理由は、次の2点からです。
第1点、宣化天皇(第28代)において、蘇我氏が登場し、いきなり今でいう“首相”に相当する大臣(おおおみ)に就きました。
第2点は、7世紀がはじまる前後、九州倭国(兄)は、畿内大和王権(弟)に政務を委ね、実質の「統一国家」を誕生させたことです。
この直後、『隋書』に記されるように、アメノタリシヒコから煬帝に「日出処の天子、書を日没処の天子にいたす…」と国書が送られました。
つまり、卑弥呼由来の九州倭国は、シナ大陸からの冊封体制からはなれ、「日本」という日出る国とともに統一独立国家として新生したのです。
これが欽明天皇の皇子ら4人が次々と皇位に就いた、と記述されるウラの事情です。
皇位に就いた4人の皇子のうち、敏達天皇(第30代)と推古天皇(第33代)は“兄妹”であり“夫婦”だと記されています。
ありえません。
なぜ、このように記されたのかというと、九州倭国の「大王」と大和王権の「大王」を“万世一系”として直列につなげたためです。
また、推古以降も7世紀前半、実質の大王家となった蘇我三代王家(馬子、蝦夷、入鹿)を、「皇子」ではなかった中大兄が、「乙巳の変」(645年)で弑逆しましたが、この前後の皇統も万世一系にするために作為がみられます。
蘇我氏三代王権を「天皇」として記すことはできないからです。
これらが、本来の皇統にもどったのは、大海人皇子(おおあまのおうじ)こと「天武天皇」からです。
大海人皇子は、古来からの正統で、中大兄は天皇の皇子ではありません。
宝皇女(たからのひめみこ:日本書紀では“皇極天皇”と記されている)の連れ子なので、『日本書紀』には「皇子」とは記されていません。
天武天皇は、それゆえ天智天皇の皇子(追諡:弘文天皇 第39代)と「壬申の乱」(672年)を戦い、勝利したのち、自らの皇位の正統性を残すとともに、二度と皇位争いを起こさないように『日本書紀』の編纂を命じたのです。
日本史の真相がここにあります。
詳細は、いずれ書くことがあるかもしれませんが、今回はここまでです。
『日本書紀』は、統一独立国家「大和」を出発するための“万世一系”を記したものです。
超ロングスパンでみれば、相応の紆余曲折はあったものの、令和の今上天皇にいたるまで、最初に日本の大半に影響をおよぼし、ゆるやかな“大国主連合”を築いた大王につづく万世一系で間違いはありません。
もともと『日本書紀』は、すべての豪族や氏族を大王(天皇)からの分家として“大和一民族”による独立をうたっているからです。
その象徴は、明治天皇以降、「天照大神」が皇祖とされますが、『日本書紀』に記されている(本来の)皇祖は、神代紀(下巻)の冒頭にあるように「高皇産霊尊」(たかみむすひのみこと)です。
それは、天孫降臨の記述をみても明らかです。
『日本書紀』の本文には、高皇産霊尊による瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨が記されています。
一方、今日、一般に信じられている天照大神による瓊瓊杵尊の“三種の神器”をともなった天孫降臨は、一書(あるふみ=異説)のうちの1つの説として記されているにすぎません。
このあたりは、『日本書紀』編纂責任者(舎人親王:天武天皇の皇子)の真摯な姿勢が垣間見えます。
ちなみに、一書の「天孫降臨神話」は、持統天皇(第41代)の御世に藤原不比等のアイデアで付加したもののようです。
持統天皇こと「高天原広野姫天皇」(たかまのはら ひろのひめの すめらみこと)から、“孫”の文武天皇(第42代)こと「倭根子豊祖父天皇」(やまとねこ とよおほぢの すめらみこと:25歳で崩御)への譲位をスムーズにはかるために、『日本書紀』は、高天原の天照大神から、“孫”の瓊瓊杵尊への天孫降臨神話を創作したのです。
明治以降、皇祖が「天照大神」に定められるとともに、この一書のお話は本文のように思わされています。
ここでは長くなるので、その経緯にはふれません。
万世一系を定めた天武天皇(第40代)以降、ほどなく天智系天皇の御世に変わったとはいえ、万世一系が連綿と続いてきたのは事実です。この詳細にもふれません。
問題は、6世紀から7世紀にかけてです。
継体天皇(第26代)にはじまり、安閑、宣化の2代をへて、欽明天皇(第29代)以降、天智天皇(第38代)にいたるまでの皇統は、かなりの操作がなされています。
理由は、次の2点からです。
第1点、宣化天皇(第28代)において、蘇我氏が登場し、いきなり今でいう“首相”に相当する大臣(おおおみ)に就きました。
第2点は、7世紀がはじまる前後、九州倭国(兄)は、畿内大和王権(弟)に政務を委ね、実質の「統一国家」を誕生させたことです。
この直後、『隋書』に記されるように、アメノタリシヒコから煬帝に「日出処の天子、書を日没処の天子にいたす…」と国書が送られました。
つまり、卑弥呼由来の九州倭国は、シナ大陸からの冊封体制からはなれ、「日本」という日出る国とともに統一独立国家として新生したのです。
これが欽明天皇の皇子ら4人が次々と皇位に就いた、と記述されるウラの事情です。
皇位に就いた4人の皇子のうち、敏達天皇(第30代)と推古天皇(第33代)は“兄妹”であり“夫婦”だと記されています。
ありえません。
なぜ、このように記されたのかというと、九州倭国の「大王」と大和王権の「大王」を“万世一系”として直列につなげたためです。
また、推古以降も7世紀前半、実質の大王家となった蘇我三代王家(馬子、蝦夷、入鹿)を、「皇子」ではなかった中大兄が、「乙巳の変」(645年)で弑逆しましたが、この前後の皇統も万世一系にするために作為がみられます。
蘇我氏三代王権を「天皇」として記すことはできないからです。
これらが、本来の皇統にもどったのは、大海人皇子(おおあまのおうじ)こと「天武天皇」からです。
大海人皇子は、古来からの正統で、中大兄は天皇の皇子ではありません。
宝皇女(たからのひめみこ:日本書紀では“皇極天皇”と記されている)の連れ子なので、『日本書紀』には「皇子」とは記されていません。
天武天皇は、それゆえ天智天皇の皇子(追諡:弘文天皇 第39代)と「壬申の乱」(672年)を戦い、勝利したのち、自らの皇位の正統性を残すとともに、二度と皇位争いを起こさないように『日本書紀』の編纂を命じたのです。
日本史の真相がここにあります。
詳細は、いずれ書くことがあるかもしれませんが、今回はここまでです。
持統天皇 御製歌の意味
2019.05.18
だれもが知っている有名な「万葉集」の御製歌です。
春過ぎて夏来(きた)るらし白たへの衣(ころも)乾(ほ)したり天(あめ)の香具山 (万1-28)
詠み人は、万世一系を定めた天武天皇(第40代)の妃、持統天皇(第41代)です。
歌の解釈は人それぞれにあります。
基本的に自身の“器”にあわせて解釈をしますので、ヘタに解釈すると底が知れてしまいます。
いくつか解釈例をご紹介します。
1、
一般的には、持統天皇が帝都藤原京のすぐ近くにある香具山を臨んで、新しい季節の到来を詠んだ歌だとされ、香具山は高さ百メートル余りの低い山なので、山腹に白い衣が干されているのが、すぐにそれと理解できたのであろうと解釈されます。
2、
また、謀略的な解釈としては、詳細は省きますが、「政権奪取に成功した、してやったり」と詠んだ一首であるというのも目にしたことがあります。
3、
さらには、凡庸な解釈ですが、持統天皇自らが女官らとともに洗濯をして、夏になって水がひんやりして…と愛が感じられる歌であるというのもありました。
いずれでもいいのですが、「万葉集」を単なる歌集ととらえると間違います。
とくに天皇クラスになると、そこには歴史や当時の政治色が秘められているのです。
編者とされる大伴家持らも、その歌意を見抜いて選出しています。
持統天皇のこの御製は、字面のまま受けとると、当たり前すぎて“歌”になりません。
そうではなく、当時を映した深い意味が込められています。
今でこそ万世一系は当たり前ですが、完全に定着をさせたのは、知る人ぞ知る持統天皇の功績です。
皇太子草壁皇子が若くして薨御されたため、のちの持統天皇こと鸕野讚良(うののさらら)皇后は、自ら皇位に就いて、孫(草壁皇子の皇子)に譲位し何がなんでも皇位を継承させることによって、万世一系を根づかせようとしました。
それゆえ、神代からの“万世一系”を記した『日本書紀』は、持統天皇から文武天皇への譲位で終わっています。
この一首は、孫の文武天皇へのスムーズな譲位を願って詠んだものです。
「春」から「夏」に当たり前のように季節が変わるように、持統天皇(春)から孫の文武天皇(夏)へ、即位のときの麻の麁服(白妙の衣)を着せたいものだ(ほしたり)という歌意です。
それゆえ単なる香具山ではなく、山頂に国常立神を祀る天孫由縁の「天の香具山」と詠んだわけです。
持統天皇が異常なほど珂瑠皇子(かるのみこ)こと「文武天皇」(第42代)への譲位にこだわったのは、当時の人であれば常識的なお話です。
夫、天武天皇の遺志を実現して、二度と皇位争いを起こさないよう「日本の礎」(万世一系)を築きたいという願いと決意が込められた一首です。
「春過ぎて夏来るらし白たへの衣乾(欲)したり天の香具山」
春過ぎて夏来(きた)るらし白たへの衣(ころも)乾(ほ)したり天(あめ)の香具山 (万1-28)
詠み人は、万世一系を定めた天武天皇(第40代)の妃、持統天皇(第41代)です。
歌の解釈は人それぞれにあります。
基本的に自身の“器”にあわせて解釈をしますので、ヘタに解釈すると底が知れてしまいます。
いくつか解釈例をご紹介します。
1、
一般的には、持統天皇が帝都藤原京のすぐ近くにある香具山を臨んで、新しい季節の到来を詠んだ歌だとされ、香具山は高さ百メートル余りの低い山なので、山腹に白い衣が干されているのが、すぐにそれと理解できたのであろうと解釈されます。
2、
また、謀略的な解釈としては、詳細は省きますが、「政権奪取に成功した、してやったり」と詠んだ一首であるというのも目にしたことがあります。
3、
さらには、凡庸な解釈ですが、持統天皇自らが女官らとともに洗濯をして、夏になって水がひんやりして…と愛が感じられる歌であるというのもありました。
いずれでもいいのですが、「万葉集」を単なる歌集ととらえると間違います。
とくに天皇クラスになると、そこには歴史や当時の政治色が秘められているのです。
編者とされる大伴家持らも、その歌意を見抜いて選出しています。
持統天皇のこの御製は、字面のまま受けとると、当たり前すぎて“歌”になりません。
そうではなく、当時を映した深い意味が込められています。
今でこそ万世一系は当たり前ですが、完全に定着をさせたのは、知る人ぞ知る持統天皇の功績です。
皇太子草壁皇子が若くして薨御されたため、のちの持統天皇こと鸕野讚良(うののさらら)皇后は、自ら皇位に就いて、孫(草壁皇子の皇子)に譲位し何がなんでも皇位を継承させることによって、万世一系を根づかせようとしました。
それゆえ、神代からの“万世一系”を記した『日本書紀』は、持統天皇から文武天皇への譲位で終わっています。
この一首は、孫の文武天皇へのスムーズな譲位を願って詠んだものです。
「春」から「夏」に当たり前のように季節が変わるように、持統天皇(春)から孫の文武天皇(夏)へ、即位のときの麻の麁服(白妙の衣)を着せたいものだ(ほしたり)という歌意です。
それゆえ単なる香具山ではなく、山頂に国常立神を祀る天孫由縁の「天の香具山」と詠んだわけです。
持統天皇が異常なほど珂瑠皇子(かるのみこ)こと「文武天皇」(第42代)への譲位にこだわったのは、当時の人であれば常識的なお話です。
夫、天武天皇の遺志を実現して、二度と皇位争いを起こさないよう「日本の礎」(万世一系)を築きたいという願いと決意が込められた一首です。
「春過ぎて夏来るらし白たへの衣乾(欲)したり天の香具山」
令和特別トークイベント報告
2019.05.13
東京皇居前ホテルでのトークイベントが終わりました。
宝瓶宮占星学からのトークテーマは「天皇と数理法則-日本占星学」です。
日本歴史のメインストリーム「天皇史」のポイントを、「数理法則」の基本三数「3(4)数」から解き明かしてお話しました。
「宝瓶宮時代のビッグバン」(1989年)にはじまる「平成」(上皇:平成の天皇)の時代、そして今月(2019年5月)から新たにはじまった「令和」(今上天皇:令和の天皇)の時代が、どのようなものになるのかのヒントです。
内容は、一般公開するには深すぎるので書けません。
明治の御一新から「天皇」も日本の「国体(コンステレーション:憲法ではない)のあり方」(日本の国体そのものは変わりません)も、大きく変わりました。
「大正」「昭和」と経て昭和天皇の崩御とともに、人類歴史的には「宝瓶宮時代」がはじまり、日本では「平成」がはじまりました。
「水瓶宮」で象わされる“国体”をもつ日本にとって、このことは偶然ではないのです。
ちなみに、明治から「天皇」と「国体のあり方」が変わったといっても、反日親韓&親北で、“天皇制”に反対する共産党員をふくむ(鹿島某,松重某、鬼塚某など)の「陰謀論」ではありません。
れっきとした「数理法則」からのお話です。
元祖日本の“天皇”(大王、主)からみた場合、明治天皇は大きくは「3数」の立場になるために、内外などの「2方向の関係性」をもつことになるということをふくめた内容です。
ちなみに、大きく1数は「元祖天照大御神」(男性神:天照坐皇大神)、2数は「天武天皇」で、3数の「明治天皇」(2方向性)をふくめて日本の国体の本流となっています。
もっとも、イベント的には、見えない世界をふくめて新たな「令和」の時代の日本をスタートしていくためということのようです。
宝瓶宮占星学からのトークテーマは「天皇と数理法則-日本占星学」です。
日本歴史のメインストリーム「天皇史」のポイントを、「数理法則」の基本三数「3(4)数」から解き明かしてお話しました。
「宝瓶宮時代のビッグバン」(1989年)にはじまる「平成」(上皇:平成の天皇)の時代、そして今月(2019年5月)から新たにはじまった「令和」(今上天皇:令和の天皇)の時代が、どのようなものになるのかのヒントです。
内容は、一般公開するには深すぎるので書けません。
明治の御一新から「天皇」も日本の「国体(コンステレーション:憲法ではない)のあり方」(日本の国体そのものは変わりません)も、大きく変わりました。
「大正」「昭和」と経て昭和天皇の崩御とともに、人類歴史的には「宝瓶宮時代」がはじまり、日本では「平成」がはじまりました。
「水瓶宮」で象わされる“国体”をもつ日本にとって、このことは偶然ではないのです。
ちなみに、明治から「天皇」と「国体のあり方」が変わったといっても、反日親韓&親北で、“天皇制”に反対する共産党員をふくむ(鹿島某,松重某、鬼塚某など)の「陰謀論」ではありません。
れっきとした「数理法則」からのお話です。
元祖日本の“天皇”(大王、主)からみた場合、明治天皇は大きくは「3数」の立場になるために、内外などの「2方向の関係性」をもつことになるということをふくめた内容です。
ちなみに、大きく1数は「元祖天照大御神」(男性神:天照坐皇大神)、2数は「天武天皇」で、3数の「明治天皇」(2方向性)をふくめて日本の国体の本流となっています。
もっとも、イベント的には、見えない世界をふくめて新たな「令和」の時代の日本をスタートしていくためということのようです。