激変の7世紀/天智と天武
2023.09.19
[古代史解明6] ― 後編:統一大和の危機と新生 ―


日本の原点を築いた天武と持統そして不比等の尽力



前編「激動の7世紀/日本の原点」の続きです。

九州倭国王「阿毎多利思北孤」(あめのたりしひこ)大王が企図し、隋の冊封下から離脱して畿内国と合併して実現した統一独立国家「大和」でした。

しかし、その立役者:蘇我本宗家は「乙巳の変」(645年)によって滅び、政権奪取に成功した中大兄(なかのおおえ)ことのちの天智(てんじ)天皇と中臣鎌子こと藤原鎌足(かまたり)ですが、天智の世とその皇子(追諡:弘文天皇)の7世紀後半に建国後、最大の危機を迎えることになります。

「白村江の戦い」(663年:天智2年)の大敗北と、古代最大の内乱「壬申の乱」(672年:天武元年)です。

ですが、内乱に勝利した大海人皇子(おおあまのおうじ)こと天武(てんむ)天皇によって、今日の日本の「天運」の礎が築かれていきます。



《 兄弟ではない天智と天武 》

『日本書紀』は、天智天皇を「兄」とし、天武天皇を「弟」として描いています。

ありえません。

天智天皇(中大兄)は、万世一系の定着に最重要人物となる持統(じとう)天皇(在位:690~697年)こと鵜野讃良皇女(うのの さららの ひめみこ)をはじめ、3人の娘を天武天皇(大海人皇子)に嫁がせています。

持統天皇の和風諡号は「高天原廣野姫天皇」(たかまのはら ひろのひめの すめらみこと)です。

この意味は、『日本書紀』神代(下)に記される“葦原中国(あしはらの なかつくに)の君主”(祖)として天孫降臨させた瓊瓊杵尊(ににぎの みこと)の祖母:高天原の「天照大神」になぞらえらているのです。

事実、持統天皇は伊勢の神宮を今日のように立派にしたばかりか孫の文武(もんむ)天皇(和風諡号:倭根子豊祖父天皇=やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと)に譲位することに命をかけ、藤原不比等(ふじわらの ふひと)の尽力もあって、天武の遺志に応えて「万世一系」の定着に成功しています。

さて、お話を戻します。

天智と天武が兄弟でない理由は、天武天皇こと大海人皇子が“正統”で、天智天皇こと中大兄は“傍流”だったゆえに、王統に食い込むために3人もの娘を大海人皇子に嫁がせたようです。


明日香村にある八角五段築成の天武/持統天皇の合葬陵(檜隅大内陵、野口王墓古墳)


【One Point】 仮に『日本書紀』が創作したように、天智と天武が兄弟だったとしても、父親が異なります。

中大兄は宝皇女(のちの斉明女帝)の連れ子になります。

早いお話が、天智と天武を兄弟としなければ「万世一系」の皇統が成り立たないための創作です。




《 『日本書紀』編纂の狙いは中央集権化 》

『日本書紀』には、どうしても譲れない“編集方針”がありました。

1)古来からの統一独立国家「大和」であること。

2)同じく神代(かみよ)からの「万世一系」の皇統であること。

やむをえないこの2つの創作以外、『日本書紀』の記述は案外と真面目で、律儀に史実を記そうと努力しています。

『日本書紀』編纂の最大の狙いは、天皇のもとに海外に対抗しうる中央集権による統一独立国家の構築です。

そのため、大和朝廷によるプロパガンダ(政治宣伝)の書だともいえます。

たとえば、つくられた“聖徳太子”によって「和をもって貴きとなす。逆らう事なきを旨とせよ」という十七条憲法が創作され、当時の緊迫した国際情勢下で近代的な律令国家への道をめざしたのです。


【One Point】 「白村江の戦い」で唐羅連合に大敗北をした中大兄の時代、国家の危機を迎えます。

ですがほどなくして、唐と新羅は仲間割れを起こして戦争をはじめています。

日本に侵攻する余裕はなくなり、逆に敵方に付かないように使者を送ってきます。




《 つくられた「聖徳太子」の実像 》

さて、太子信仰による強烈な反対意見があると承知しますが、『日本書紀』に記された「聖徳太子」は創作です。

情報が発達していない当時の人々を太子の超人伝説でダマせても常識的に考えればありえませんし、誇張だったとしても限度を超えています。

このような常識を超えた表現は、『日本書紀』の随所にみられます。

なぜかといえば、正しい歴史を記そうとして案外と律儀なところがある『日本書紀』は、それは事実ではなくやむをえない“創作”であることを伝えようとしているのです。

“聖徳太子”を創作せざるをえなかった理由は、統一大和を建国した蘇我馬子の偉大な業績を『日本書紀』に残すわけにはいかず、太子伝説をつくって逆に倒すべき“悪者”にしたかったからです。

逆に言えば、それほど蘇我馬子は傑出した人物でした。


【One Point】 「聖徳太子」という呼び名は今から80年ほど前、戦後につくられたものです。

古代の文献には出てきません。厩戸豊聰耳皇子(うまやどの とよとみみの みこ)にしても、一族もろとも集団自決したことにされ、完全に抹消されています。




《 真実が分かる『日本書紀』の記述 》

事実上、『日本書紀』の重要部分を仕切った藤原不比等の手前、彼の父が弑逆(しいぎゃく)し、滅ぼした蘇我本宗家なので、その偉大な功績は記せません。

また、神代からの由緒ある統一独立国家「大和」一国史とする必要があるため、九州倭国の実在を記すこともできないのです。

ですが、いつの世も正しく評価する人はいます。

編纂に携わったのは、当時、最高クラスの知識人たちです。

天武の皇子で編纂の総裁となった「舎人親王」(とねりしんのう)も、また『日本書紀』編纂メンバーの中にも、蘇我氏の真相を知る人はいたでしょう。

新田部皇女を実母とする舎人親王は、自らの身の安全を図って政治とは一線を画し、歌人として生き、異母:持統天皇の覚えがめでたい不比等のイエスマンとなって「舎人」(とねり:使用人)と揶揄(やゆ)されるほどでした。

彼は、事実と異なる出来事を『日本書紀』に記さざるをえないときは、真実の歴史を推測できるように、あえて尋常ならざる表現をして、読む人が疑問を抱くようにしています。

実際は、天才:不比等もそれを分かっていて許容したのかもしれませんし、逆に不比等自身がそう仕向けたのかもしれません。


【One Point】 ちなみに、“聖徳太子”(蘇我馬子)ゆかりの四天王寺で4月22日に毎年行われる「聖霊会」(しょうりょうえ)での舞楽に「蘇莫者」(そまくさ)があります。

もとは唐楽ですが、“莫(な)きものにされた蘇我氏”をかけているかのようです。




《 “権力”の天智と“祭祀”の天武 》

さて、お話を天智と天武に戻します。

支配欲また権力欲の強い中大兄(天智)は、次々と政敵(ライバル)となる皇子らを殺害しています。

大海人皇子(天武)は正反対で、「壬申の乱」で敵方に付いた臣下を許しています。

また、乱後の「吉野の盟約」では、后:鵜野讃良皇女と自らの子供たちだけでなく、天智天皇の皇子皇女ら(大友皇子の兄妹)を両腕に抱き、千年のちまでも二度と皇位争いの殺し合いをしないことを誓っています。

ほかにも、日本と国民の安寧と繁栄(五穀豊穣)を願い、天皇自ら日々の祭祀の役割を果たすなど、今日に通じる「和の象徴」として、日本人の民度のもととなる精神意識を体現しています。

古来、日本が“民族性”を「魚宮」とし“国体”を「水瓶宮」として「天運」に守られてきたのは、そのような天武天皇と、伊勢の神宮を今日のように立派にし、また孫:文武天皇への譲位による「万世一系」を体現した持統天皇の果たした役割は、欠くことができません。


【One Point】 宝瓶宮時代(ほうへいきゅうじだい)を迎え、世界的に発展していく「天運」を持つ日本の原点は激変の7世紀にあります。

統一大和を企図した、蘇我馬子(阿毎多利思比孤)をはじめ、天武天皇、持統天皇、藤原不比等らの功績が大きいのです。











激変の7世紀/日本の原点
2023.09.17
[古代史解明5]― 前編:統一大和の誕生 ―


日出ずる処の天子は九州倭国王だった蘇我馬子!



「日本」の謎を解くカギは7世紀にあります。

蘇我氏、中大兄(天智天皇)と天武天皇、持統天皇や文武天皇、藤原不比等と「基本三数」よろしく3(4)数の人物によって、激変の7世紀に日本の原点「統一大和」が建国されています。

天武(てんむ)天皇、后の持統(じとう)天皇、孫の文武(もんむ)天皇、そして藤原不比等(ふじわらの ふひと)によって、事実上の「万世一系」の皇統が定着していったからです。

卑弥呼の共立に続く「水瓶宮」で象徴される日本の“国体”のはじまりです。

日本の古代史を知るよすがとなる『古事記』(712年)も『日本書紀』(720年)も実質、7世紀の激変によって編纂されています。



《 支那の冊封下から離れる 》

「えーっ、うそーっ」という「天運」にかかわる史実を記します。

誤った「日本書紀史観」や既存の古代史とは異なります。

古代中国の史書と照合すれば分かることですが、かつては九州が「倭国」で、本州(畿内大和)は「日本」でした。


倭の女王卑弥呼が都とした「邪馬台国」にほぼ隣接する位置にあった「大宰府政庁」(元倭国の首都:模型)

古代の文化や文明は海を渡って西からもたらされたため、当時は九州倭国が先進国で大国でした。

ただ、残念なことがあります。

金印「漢委奴国王」や、「親魏倭王」の邪馬台国の卑弥呼で知られるように、九州倭国は大陸支那(China:チャイナ)の冊封下にあったのです。

ただし、これからお話する7世紀の「統一大和」の起源は、九州倭国“兄”が支那(当時は隋)の冊封下から離れて、東の小国畿内国“弟”に自ら吸収合併されるカタチではじまります。


【One Point】 このことを企図し実行に移した天才政治家が九州倭国王「阿毎多利思北孤」(あめのたりしひこ)大王です。

隋が高句麗との戦争で動けないことを見抜き、初代文帝に“弟に政務を譲る”と冊封下から離れる旨、仁義をきります。




《 隋の高祖「文帝」への仁義 》

文帝に仁義をきった第1回遣隋使は『日本書紀』に記されていません。

当然です。

九州倭国からの遣隋使ですし、邪馬台国をはじめ九州倭国が実在したことなど、神代(かみよ)からの統一大和で万世一系だったとする『日本書紀』に記すことなどできません。

それは、隋の文帝側も同様です。

1世紀の奴国(なこく:現在の博多界隈)の時代から冊封下にあった倭国が、自らの代で離脱するなど、メンツを重んじる支那ゆえ、そのような不名誉なことを正確に残すことはありません。

「倭王は天をもって兄となし、日をもって弟となす。天いまだ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聞き、跏趺(かふ)して座す。日出ればすなわち理務を停め、我が弟に委ねんという」とワケの分からないことを倭王が言いだしたかのように『隋書』に残されています。


【One Point】 この一文に対する学者の曲解はともかく、実際は“弟:畿内国「日本」に兄:九州「倭国」を譲り、隋の冊封下から離れる”という意味です。

このときの文帝の言葉は(これまでお世話になっておきながら)「はなはだ義理なし」と『隋書』に記されています。




《 日出ずる処の天子の「独立宣言」 》

当時、隋は高句麗との戦争中で旗色はよくありません。

「倭国まで敵に回すわけにはいかない」と東アジアの国際情勢を読み切った九州倭国王「阿毎多利思北孤」大王の作戦勝ちです。

文帝に仁義をきった倭国王は、「九州倭国」を当時は小国の「畿内国」に自ら吸収合併させるカタチで隋の冊封下から離れ、統一独立国家「大和」(日本)を建国します。

当然、文化面でも軍事面でもダントツに優勢だった九州倭国の阿毎多利思北孤が、統一大和の政権をそのまま担ったのは想像にかたくありません。

直後に彼は、隋の2代目煬帝(ようだい)に第2回遣隋使を送ります。

それが、有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致すつつがなきや」という煬帝を激怒させた、隋と対等な立場での事実上の独立宣言書です。


【One Point】 2世紀に卑弥呼を女王に共立して「倭国大乱」をおさめ平和がもたらされたように、『日本書紀』に初の女性天皇として記される「推古女帝」を統一大和に際して立てています。

賢い阿毎多利思比孤は、大臣(おおおみ:首相)として実権を握っています。




《 元九州倭国王の蘇我本宗家の滅亡 》

「乙巳の変」(いっしのへん:645年)は政権奪取のクーデターです。

「無謀? ホラリー乙巳の変」をご参照ください。

人望/実力/見識ともにあった統一大和の実質上の初代大王:蘇我馬子(そがの うまこ)はともかく、三代目の蘇我入鹿(そがの いるか)になると、実力はあっても横暴が目立ち、人望が損なわれます。

「中臣鎌子」(藤原鎌足:かまたり、不比等の父)とのちの天智(てんじ)天皇となる「中大兄」(なかのおおえ)は、蘇我入鹿を弑逆(しいぎゃく)し、蘇我本宗家を滅ぼし政権奪取に成功します。

そののち、孝徳天皇(在位:645~654年)をはじめ、彼らが行なったとされる“大化の改新”は、阿毎多利思北孤こと蘇我馬子の仏教立国による近代化政策を受け継いだものです。

東アジア情勢の緊迫を見抜いた蘇我馬子(阿毎多利思比孤)は、日本列島を早急にまとめた独立国家を築かないと、いつ大陸の属国になってもおかしくないことを見抜いていたのです。


【One Point】 蘇我本宗家が滅んでも、緊迫した東アジア情勢は変わりません。

統一独立国家「大和」の構築が急がれ、中央集権化が権力欲の強い中大兄(天智天皇)らのもとで進んでいくことになります。

本来の「天命開別天皇」(あめみこと ひらかすわけの すめらみこと)という和風諡号がそのことを示唆しています。




《 九州倭国の歴史を記した『古事記』 》

詳細は次回「激変の7世紀/天智と天武」で述べるとして、九州倭国の歴史書だった『古事記』に触れておきます。

一般に『古事記』は、国内向けで、『日本書紀』は漢文表記ゆえに国際向けと解説されています。

結果的にそういえますが、事実は天武天皇が稗田阿礼(ひえだの あれ)に誦習(しょうしゅう)を命じた『帝紀』や『旧事』などの撰録(せんろく)で、本来は統一大和成立までの「九州倭国」の歴史書でした。

現存の『古事記』は、統一大和の『日本書紀』に合わせて改編されていますが、それでも『古事記』が畿内国と合併した際のまま、「推古女帝」で終わっていることが証左の一つです。

もし、国内向けなら尚のこと『日本書紀』と同様に、持統天皇による孫:文武天皇(在位:697~707年)への譲位で終わっていなければ意味がありません。

もっとも、「統一大和」の合併前の前身は先進国:九州倭国ともいえますので、今はなき“古事記”(『帝紀』『旧事』)には、奴国をはじめ卑弥呼や九州倭国の歴史が描かれていたはずです。


【One Point】 中央集権による統一独立国家「大和」を早急に構築するには、神代からの「統一国家」であり「万世一系の天皇」のもとにある由緒を“ウソ”でも周知させなければなりませんでした。

畢竟(ひっきょう)、邪馬台国も卑弥呼も九州倭国も、『日本書紀』に記すことはできず、抹殺せざるをえなかった奈辺(なへん)の事情をご理解ください。











消された倭の五王の正体
2023.05.03
[半島の倭国] ― 乙巳の変が意味するもの ―


日本書紀史観に陥ると見えなくなるよ「倭の五王」



「空白の4世紀」だそうです。

その前の3世紀は、通称「魏志倭人伝」(『三国志』魏書)に記される倭の女王「卑弥呼」の時代でした。

一方、5世紀は、大陸の宋(420-479 劉宋:南朝)の歴史を記した『宋書』(513年頃成立)に官位を求めて朝貢(ちょうこう)した「倭の五王」(讃、珍、済、興、武)が記されています。

この「倭の五王」がどの歴代天皇に当たるのか、仁徳天皇だの雄略天皇だのと推論がなされているのはご存じのとおりでしょう。

ですが「日本書紀史観」から真相が見えてくることはありません。



≪統一独立国家と万世一系≫

以下の記述は『日本書紀』と大陸の正史『隋書』や新旧『唐書』をふまえて“史実”を明らかにしたものです。

『日本書紀』の記録が“事実”だと信じる「日本書紀史観」に基づいて、どの天皇が「倭の五王」なのかという詮索とは異なり、にわかには首肯できないかもしれません。

ですが、客観的な事実は、3世紀の倭の女王「卑弥呼」も、5世紀の「倭の五王」も、6世紀末~7世紀初頭の倭王「阿毎多利思北孤」(あめの たりしひこ)も、『日本書紀』に記されることは決してないために正体が明かされることはないのです。

なぜなら、『日本書紀』は統一独立国家「大和」と「万世一系」を主軸に編纂されているためです。

この編纂方針に反する史実はすべて闇に葬ったのが、『日本書紀』の日本書紀たる所以です。


【One Point】 畿内大和国「日本」以外に国家の存在が記されることは決してありません。

それゆえ「天皇」以外の倭王の存在も、また正体も記されることは絶対にありません。





【ご参考:『後漢書』抜粋:倭国王「帥升」】

【原文】
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國極南海也 光武賜以印綬 安帝永初元年 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見

【読み下し】
建武中元2年(577年)、倭の奴国、貢ぎを奉げて朝賀す。使人は自ら大夫と称する。(奴国は)倭の極南海なり。光武帝は賜うに印綬を以ってす。
安帝の永初元年(107年)、倭国王の帥升等、生口180人を献じ、願いて見えんことを講う。



≪葬られた倭の歴代王≫

『日本書紀』を仔細に読めばわかりますよ。

「アレ? 何かヘンだな?」という箇所が案外と散見できるのです。

一方、大陸や半島の記録が正しいとはかぎりませんが、『日本書紀』と照らし合わせて辻褄合わせをしていくと、案外と史実が見えてきます。

1世紀の奴国王「帥升」(すいしょう)、3世紀の倭の女王「卑弥呼」(ひみこ)、5世紀の倭の五王「讃、珍、済、興、武」、6世紀末~7世紀初頭の倭王「阿毎多利思北孤」(あめ の たりしひこ)。

大陸の正史に倭王らが「朝貢」した記録はあっても、統一独立国家「大和」(日本)の正統性を記した『日本書紀』に、当然ですが九州倭国の倭王らが朝貢した記録が残されることは、いっさいありません。

なぜでしょうか?

7世紀以降の統一大和「日本」こそが、日本列島古来からの唯一の国家とする日本書紀史観によって、古(いにしえ)の九州倭国や丹後王国また国譲りにかかわる四国阿波王国由来の史実は、完全に消されているからです。


【One Point】 だって困りますもん。

『日本書紀』に「天皇」以外の大王の正当性を記せば「壬申の乱」(672)のような内乱が起きかねません。

また中大兄による「白村江の戦い」(663)に勝利した「唐」や「新羅」が内乱に乗じて攻めてくれば、日本が滅びかねないためです。



【ご参考:『魏書』抜粋:倭の女王「卑弥呼」】

【原文】
其國本亦以男子為王 往七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆

【読み下し】
その国、もとまた男子を以って王となす。とどまること7、80年、倭国乱れて、相攻伐すること年を経たり。
すなわち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。鬼道につかえ、よく衆を惑わす。




≪倭王「阿毎多利思北孤」≫

もう少し書いておきます。

『日本書紀』で倭王の存在が決して語られることがないのは、ご理解いただけたと存じます。

日本書紀史観に陥ると史実が見えなくなるのですが、一方、大陸の歴史には「倭王」の存在が残されています。

たとえば、「漢委奴国王」の金印で知られ『後漢書』に記される1世紀の奴国王「帥升であり、3世紀に「親魏倭王」の金印を仮綬されたと「魏志倭人伝」(『魏書』)に記される「卑弥呼であり、『宋書』に記される5世紀の倭の五王「讃、珍、済、興、武」であり、『隋書』に記される6世紀末~7世紀初頭の倭王「阿毎多利思北孤」です。

彼らは大陸国の皇帝に「朝貢」してきた九州倭国の王たちです。

ただし、最後の「阿毎多利思北孤」のみ様相が異なります。

『隋書』によると1回めの朝貢では「夜が明けると政務を弟に譲る」と仁義をきり、畿内大和国「日本」との合併後と思われる2回めの記録では「日出ずる処の天子」と自らを名乗り、ときの隋王煬帝(ようだい)に“対等だよ”と宣言しているのです。

当然、煬帝は「蛮夷の書、無礼なる者あり。二度と奏上するな!」と激怒しています。

真相は『隋書』にも『日本書紀』にも残されることはありませんが、九州倭国は大陸の冊封下から離れて、畿内国「日本」に吸収合併される体(てい)で、統一国家大和として独立したからです。


【One Point】 倭王「阿毎多利思北孤」の作戦勝ちです。

隋の国力が衰えていたことを見抜いて、自らの九州倭国を小国の弟国「日本」に吸収合併させるかたちで、隋の冊封下から離れ、独立を果たした見事な外交戦略です。





【ご参考:『随書』抜粋:「阿毎多利思北孤」】

【原文】
開皇二十年 倭王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 (中略) 使者言 倭王以天為兄 以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟

【読み下し】
開皇20年、倭王の姓は阿毎(あめ)、あざなは多利思北孤、号して大王というもの、使いを遣わして王宮の門にいたらしむ。(中略)
使者は言う、「倭王は天を以って兄となし、日を以って弟となす、天がいまだ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺して坐す、日出ずれば、すなわち理務を停め、我が弟に委ねんという」と。




≪クーデター「乙巳の変」≫

結局、統一独立国家「大和」(日本)は、7世紀初頭に九州倭国自らによる捨て身の合併によって誕生しています。

それまでの「九州倭国」の歴史を記したのが本来の“古事記”(ふることのふみ)です。

その証拠に『古事記』は、合併時の第33代「推古女帝」で終わっています。

もちろん、現在残っている『古事記』は、『日本書紀』に準じて後日、書き直された改訂版です。

それゆえ、『日本書紀』よりも新しい記述があるなど、“偽書説”が唱えられるのはそのためです。

では、九州倭国の歴史記録はどこに消えたのでしょうか。

『日本書紀』によれば、中大兄と中臣鎌足が起こした政権奪取のクーデター「乙巳の変」(645年:いっしのへん)の翌日7月11日、蘇我本宗家の滅亡とともに『天皇記』(帝記)と『国記』を残して蘇我氏が所有していたすべての記録は焼かれたと記されています。

ウソですよ。そんなに都合よく『日本書紀』の編纂に必要な『天皇記』と『国記』のみ炎の中から拾い上げられて残ることはありません。


【One Point】 蘇我入鹿(そがの いるか)の父蝦夷(えみし)も弑逆(しいぎゃく)され、九州倭国の歴史記録は“焼失”という隠滅が行なわれたようです。

蘇我本宗家は半島にも領土を広げた九州倭国王の出自で、畿内国「日本」との合併後は事実上の大王だったといえます。




≪古来より朝鮮半島は倭国≫

最後に、朝鮮半島は6世紀まで全土ではありませんが「倭国」でした。

『後漢書』に、奴国は「倭の極南海なり」(原文:倭國之極南界也)という記述があります。

また「魏志倭人伝」(『魏書』)には、倭の「北岸狗邪韓国に到る」(原文:到其北岸狗邪韓國)と記されています。

両書の意味は同じで九州北部と朝鮮半島に「倭国」はまたがっていて、その南端=南岸(極南界)が「奴国」(なこく:福岡市周辺)で、北岸が半島南端の「狗邪韓国」(くやかんこく:倭国の領土)だという記述です。

1世紀の「奴国」の時代も、3世紀の「邪馬台国」(倭)の時代も、また4世紀末~5世紀初頭の出来事を記した「好太王碑」(広開土王碑:現中国の吉林省)にも見られるように半島北部にまで九州倭国の勢力は及んでいました。

「倭の五王」は、半島をほぼ勢力下においたために、“朝鮮半島の王”として支配権を認めるよう「宋帝」に上申したのですが、結局、王権は認められず「安東大将軍」に封じられるに留まっています。


【One Point】 というわけで「倭の五王」が『日本書紀』に記されることはありません。

唯一の例外は、半島から関東まで勢力を広げた倭王「武」こと、大泊瀬幼武天皇(おおはつせ わかたけ の すめらみこと:雄略天皇)のみは『日本書紀』も「天皇」として記さざるをえなかったようです。



【ご参考:『新唐書』抜粋:筑紫城に居す】

【原文】
其王姓阿毎氏 自言初主號天御中主 至彦瀲 凡三十二丗 皆以尊爲號 居筑紫城 彦瀲子神武立 更以天皇爲號 徙治大和州

【読み下し】
其の王の姓は阿毎(あめ)氏。
自ら言う、初めの主は天御中主と号し、彦瀲(ひこなぎさ)に至るまでおよそ三十二世、皆「尊」(みこと)を以って号となし、筑紫城に居す。
彦瀲の子、神武立ち、あらためて天皇を以って号となし、治を大和州にうつす。

※解説
この記述は、神武東征の出発地が、本来の「日向」こと“筑紫城”があった九州北部の筑紫(福岡県また筑紫平野界隈)だったことを表わしています。
しかし、それだと機内「大和国」の天皇の出自が、九州倭国だったことが知られてしまいます。
720年の『日本書紀』完成後、同8世紀の大和朝廷は、現在の宮崎県を「日向」に地名を変更しています。
そのため8世紀以降は、日向といえば南九州と思われてきました。









邪馬壹国ではなかった!
2023.04.20
[邪馬台国] ― 4.29「昭和の日」特別記念 ―


卑弥呼が都とした記事の真贋を見抜く1stステップ



俗称「魏志倭人伝」では女王「卑弥呼」が都とした“邪馬壹國”(やまいちこく:原文ママ)が記されています。

にもかかわらず、一般的には邪馬台国(やまたいこく:邪馬臺国)と呼ばれています。

“邪馬壹國”(邪馬壱国)という表記は「魏志倭人伝」どおりなので一見、正しいかのように思われがちです。

ですが事実は逆で、そのように表記した記事や動画は信ぴょう性に欠けるものにならざるをえません。

本日、牡羊宮29度、牡牛宮直前の日蝕&新月で、9日後の4月29日「昭和の日」の特別記念として上記の真相に触れておきます。



≪“邪馬壹国”ではなく邪馬台国≫

「昭和の日」は、かつては「天皇誕生日」と呼ばれ昭和天皇の誕生日でした。

3世紀末に成立した通称「魏志倭人伝」(『三国志』)の著者、晋の著作郎「陳寿」は、倭の女王「卑弥呼」が都としたところを“邪馬壱国”(やまいちこく、原文:邪馬壹國)と記しています。

で、歴史家や古代史研究者は、もとよりそんなことはご存じです。

にもかかわらず、なぜ「邪馬台国」(やまたいこく)と呼んできているのでしょうか?

歴史書の記述は、“文献批判”などといった言葉を用いるまでもなく、他の記録などと照合してどこまで正しいのか真偽を確認する作業が必要なのは基礎中の基礎だからです。

その結果「邪馬台国」が正しいと結論づけられ、事実、『梁書』(629年成立)倭の条や『北史』(659年成立)の倭国伝などでは邪馬台国と正しく記されています。


【One Point】 ということから、“邪馬壹国”(邪馬壱国)と表記する記事や動画は基礎的な確認作業が不十分なので、根拠の乏しい個人的な憶測や思い込みによって表わされています。

では、なぜ「邪馬台国」なのか根拠を述べておきます。




≪馬臺を以って都を建てる≫

かつて『邪馬台国はなかった』(1971、朝日新聞社)という書籍が出版されました。

高名な歴史研究家の著作で、ご本人は後日「あれは出版社(編集者)が勝手につけたものだ」と述べておられました。

その意味は、売らんかなのために、あえてセンセーショナルに奇をてらった題名にされたもので暗に間違い(極論)だと認めているのです。

事実、調べれば分かるのですが、陳寿が「魏志倭人伝」を記述するために参考にした記録や史書には「馬臺を以って都を建てる」と記されています。

古来は“馬臺”であった都を陳寿が“邪馬壹国”と記したのは、東夷(東の未開人の意)の倭人に“中央官庁”や“朝廷”を意味する「臺」(うてな:台)の字を用いて表記するのを厭ったからでしょう。

東夷の国ゆえ貶める意味で頭に「邪」の文字を付けて、「邪馬臺」とするにとどまらず、さらに臺(台)の字を似ている壹(壱)の字に変えて“邪馬壹國”(邪馬壱国)としたものです。


【One Point】 “邪馬壹国”が正しいと信じ込んでいる人々に多いのですが、卑弥呼に続く二代目女王も、台与(臺與:とよ)ではなく“壱与”(壹與:いよ)すなわち伊予(愛媛県)の関連だと妄想し「邪馬壹国四国説」を信じ込んでいるようです。



【ご参考:壹與(いよ)ではなく臺與(とよ)】

古来の史料には正しく「臺與」(とよ)と記されています。

陳寿は、本文に書いたような理由から「臺」の字を用いるのを厭い、邪馬臺国と同様に臺與を“壹與”に変えて「魏志倭人伝」に記しています。

「邪馬壹国四国説」を信じ込んでいる人は検証が浅く、日本古来の“四国阿波王国”と2~3世紀の卑弥呼や台与の邪馬台国を混同し、錯乱しているようです。

なぜなら、阿波徳島の古代国づくりのほうが古く由緒があり、日本独自の誇れるものになっているからです。

第一、時代が異なります。

大陸の冊封下にあった九州倭国(首都:伊都国、女王の都:邪馬台国)と、のちの大和に通じる四国に由来する古代阿波徳島を中心とした国づくりは別物です。


■忌部神社(御所神社:徳島県美馬郡つるぎ町)



≪7世紀に誕生した統一大和≫

古代日本の原点となる国づくりは、卑弥呼や台与の3世紀の邪馬台国よりも、“四国阿波王国”と呼べる阿波徳島の歴史のほうが古く由緒があります。

経緯は複雑なのですが、7世紀の統一大和の拠点となった畿内国の由縁は、忌部氏でも知られる阿波や四国にあって、卑弥呼を女王として共立した九州北部の倭国とは別の系統です。

当時、大陸の冊封下にあった奴国(博多周辺)や倭国(女王の都:邪馬台国)が、もし四国であれば、国譲りして建国された畿内大和国(日本)は、そのまま大陸の属国という口実を中国に与えることになりかねません。

そうではなく、九州倭国と畿内大和国(日本)は、6世紀まで別々で、大陸の正史『旧唐書』(くとうじょ:945年成立)には倭国伝と日本伝が別々に記されていることからもそれが分かります。

統一後の7世紀の『日本書紀』(720年奏上)の記述をうのみにして、日本は古代から単独の“統一独立国家”だったとする「日本書紀史観」を信じ込んでおられる方は、当記事の内容を“騙り”だとお感じになられるでしょう。


【One Point】 『日本書紀』は初めて「天皇」号を用いた7世紀の大和朝廷を、日本国統治の正統とする意図で編纂されたものです。

辻褄の合わない記述を客観的に種々照らし合わせていくと史実が見えてきます。


【ご参考】

九州から寺院や塔が大和に移転されたのも、九州倭国を大和畿内国に“吸収合併”という名目で、大和移転による乗っ取り併合に等しく、端緒は九州倭国王「阿毎多利思北孤」(あめのたりしひこ)の画策です。



【ご参考:】「阿毎多利思北孤」の正体

『隋書』には次のように記されています。

【原文】俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌

【読み下し】倭王(俀)の姓は阿毎(あめ)、字は多利思北孤(たりしひこ:多利思比孤)、号は阿輩鷄彌(あほけみ、大王:おおきみ)という。

『隋書』開皇20年(600年)の遣隋使の記録です。

『日本書紀』では女帝推古天皇の時代に当たるため、男王と記される「阿毎多利思北孤」は“聖徳太子”のことだとするのが一般的な解釈ですが、太子は大王ではなく摂政なので、こじつけともいえる間違いです。

当時の倭国は、北部九州(と半島南端)で、畿内大和国は『旧唐書』では「日本」と記される別の国でした。

次の607年と608年は小野妹子で有名な遣隋使で「日出処の天子、書を日没処の天子に致す恙なきや…」という一文が有名で、これは九州倭国と統一大和の合併報告であり、大陸国の冊封下から離れた“独立宣言”でもあります。


『旧唐書』「日本伝」の冒頭には次のように記されています。

【原文】日本國者倭國之別種也以其國在日邊(以下略)

【読み下し】日本国は倭国の別種なり。その国は日辺にあるをもって(以下略)

意味は、九州倭国の東に日本国があり、同じ倭人の国だと記されています。

当初からの「統一独立国家大和」だったというのは『日本書紀』のプロパガンダで、史実は7世紀初頭に九州倭国と畿内大和国(日本)が合併して統一独立国家大和が誕生しています。




≪偽りの“大化の改新”≫

『日本書紀』の記述は、史実をベースにしつつも、意図的なプロパガンダ(政治宣伝)を兼ねた歴史書です。

当時は国内外ともに危機的な状況にあって、早急に諸国の豪族やその祖神を天皇と大和政権のもとにまとめ、受け入れつつ統合することで唐や新羅の侵攻に備える必要がありました。

そのため、壬申の乱(672年)に勝利した天武天皇(てんむ)の皇子:舎人親王(とねり しんのう)を日本書紀編纂の総裁に担いで、中臣鎌足の子:藤原不比等の天才的な知恵を交えて、統一独立国家「大和」の基盤形成と、第41代持統天皇から孫の文武天皇への「万世一系」の定着を主軸に歴史編纂がなされています。

美しい「日本書紀史観」を信じ込むことは悪いことではありませんが、史実は別というご認識は必要だというお話です。

史実は、九州倭国王「阿毎多利思北孤」こと蘇我氏が、当時は小国で“弟分”にあたる畿内大和国日本に九州倭国を吸収合併させるかたちで大陸の冊封下から離れ、仏教文化とともに統一大和の実質上の大王(天皇)として7世紀前半の政務を司っています。


【One Point】 畿内大和国から見れば、外様の“蘇我政権”を面白く思わなかったのは当然です。

“中大兄”(天智天皇)と“中臣鎌足”(藤原鎌足)は、大極殿で3代目蘇我大王入鹿を殺害し、政権奪取となる「乙巳の変」(645年)を起こしています。



■石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村)


≪創られた“聖徳太子”信仰≫

蘇我氏三代が実質的な大王(天皇)で統一独立国家に数々の功績を残したことは、『日本書紀』には絶対に書くことができません。

藤原不比等にとって父鎌足の名誉を損ないかねないお話でもあることから、横暴があったのは事実でしょうが蘇我氏を徹底的に悪者に仕立て上げて乙巳の変の弑逆クーデターを正統化するしかありません。

その後の歴史は、およそご存じのとおりです。

重要なことは、カゲから『日本書紀』の編纂に携わった不比等は、蘇我氏による「仏教導入」を含めた「冠位12階」の制定など近代化の功績を、父鎌足が中大兄とともに弑逆した蘇我大王家の業績と記すわけにはいかず、架空の人物「聖徳太子」こと“厩戸豊聡耳皇子命”(うまやと の とよとみみ の みこ の みこと)の功績として『日本書紀』に記したことです。

事実、聖徳太子の本名とされる“厩戸皇子”の名は、古代の文献には見られず、なんと巷間、聖徳太子が定めたとされる「冠位12階」は、603年の『日本書紀』に記された制定よりも早く、九州倭国王阿毎多利思北孤が最初に隋に使いを送った600年の項にすでに記録が残されています。

ちなみに「万世一系」は、第40代天武天皇の発案(意志)で、その妃第41代持統天皇が定着実現(実体)に命をかけ、両天皇の皇子舎人親王と直臣藤原不比等による理論化(関係性)となる歴史書『日本書紀』によって今日まで存続しています。


【One Point】 なぜ万世一系が奇跡的に続いているのかというと、宇宙この世界の根幹法則「基本三数」にのっとっているからです。

相応の紆余曲折はあっても「天運」を伴ないつつ継続しているのはそれゆえです。



【ご参考:『隋書』に記された冠位12階】

第1回遣唐使は開皇20年(600年)に九州倭国王「阿毎多利思北孤」が派遣したものです。

そこには『日本書紀』の制定よりも早く、冠位12階が次のように記されています。

【原文】 内官有十二等 一曰大徳 次小徳 次大仁 次小仁 次大義 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定数

【読み下し】 内官に12等あり、(中略)、員に定数無し。

「徳仁義礼智信」の順番で、一方『日本書紀』は「徳仁礼信義智」の順です。

ですが、儒教の徳目を用いた冠位12階なのは同じで、九州倭国での内官制度を合併後の統一大和でもそのまま用いていたのです。









瀬織津姫の実像
2023.02.23
[隠匿] ― 最初の国づくりを支えた姫神 ―


なぜ瀬織津姫は『日本書紀』から隠されたのか



正体不明ゆえにスピリチュアル界隈でもアレコレと取り沙汰されています。

直観や霊視などの主観は、ご自由なのでかまいません。

ですが、古代に実在したナゾの神「瀬織津姫」(せおりつひめ)とは?

『古事記』や『日本書紀』には登場しませんが、神道の「大祓詞」に登場し、また日本最古の歴史書で偽書の「ホツマツタヱ」に記され、『倭姫命世記』に補記されています。

天皇誕生日記念「伊勢神宮と倭大国魂神社」の補足記事です。



≪天照大神と瀬織津姫≫

記事をアップした翌日、なぜか「瀬織津姫」に関するコンテンツにアクセスしました。

なんで? と思いつつみていくと、伊勢に祀られる天照大神との関連に気づきました。

「これゆえか!」と思いました。

伊勢に祀られている歴史上に実在した天照大神について「伊勢神宮と倭大国魂神社」で取り上げたからでしょう。

『日本書紀』に記される“神話上”の「天照大神」のお話ではありません。

そういえば、かつて伊勢神宮を訪れたとき次のようなことがありました。


【One Point】 当サイトで以前、ナゾの神「瀬織津姫」の正体に触れたことがあります。

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の祓ぎはらいによって最初に生まれた「八十枉津日神」(やそ まがつひ の かみ)として『日本書紀』に出てきます。

「禍いの神」ゆえ、忌避されるよう仕向けられていたのです。



≪荒祭宮と多賀宮≫



伊勢神宮は、ご存じのように天照大神を祀る内宮と豊受大神を祀る下宮とがあります。

下宮の別宮(わけのみや)「多賀宮」(たかのみや)をご参拝したときです。

個人的には何も感じませんでしたが「剣」と「巻物」を授けられたと言われたのです。

もちろん実際の剣や巻物ではありません。

ですが、これは“真実を見出して明らかにする”といったような意味が認められます。

それはともかく、下宮の「多賀宮」にも内宮の「荒祭宮」にも鳥居がありません。

さらに多賀宮は、外宮のご祭神豊受大神を祀る本殿よりも小高い丘の上に位置している特別な別宮になっていました。

なぜかといえば、内宮の荒祭宮に祀っていた八十枉津日神を天照大神の荒魂とし、下宮を造営した際に本来のご祭神を多賀宮に遷したからのようです。


【One Point】 鳥居がないということは、重要な意味を持ちます。

内宮全体または下宮全体の鳥居が対応し、内宮や下宮のご祭神と同等ということになります。

それゆえ、荒祭宮も多賀宮も第一別宮に位置づけられており、天照大神や豊受大神と同格のお立場を意味することになります。




≪『日本書紀』の作為≫

伊勢神宮が今日のように立派にご造営される前、歴史上の天照大神と瀬織津姫は小さな祠に祀られていました。

それが第40代天武天皇のご発意を受け、后の第41代持統天皇によって立派に造営されたとき「御正宮」に天照大神をお祀りし、背後の第一別宮「荒祭宮」に瀬織津姫を分祀されたようです。

ただし、直後に編纂された『日本書紀』にとっては不都合でした。

なぜなら、持統天皇を「天照大神」になぞらえ、孫の第42代文武天皇を天照大神の孫=天孫降臨の瓊瓊杵尊になぞらえることで、女帝から孫への皇位継承の正当性の根拠とする意図があったからです。

つまるところ「万世一系」の定着です。

そのため、天照大神を“女性神”と解釈できるようにしたほうが説得力が増しスムーズです。

そういった事由がありまして、後年、下宮の造営に際して『日本書紀』の影響もあって荒祭宮の瀬織津姫をご遷座することによって、隠匿が図られました。

結果、荒祭宮のご祭神は現在、天照大御神の荒御魂(あらみたま)とされています。


【One Point】 最初に国づくりを行なった天孫の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)こと伊勢の天照大神と瀬織津姫は、御正宮とそのすぐ背後の荒祭宮にそれぞれ祀られていたことから、ご夫婦だったといえます。



【ご参考:宮崎県「速川神社」のご由緒】

宮崎県の西都市に速川神社があります。

ご祭神は、祓戸大神こと瀬織津姫です。

伝承によれば、天照大神の命を受け瀬織津姫が瓊瓊杵尊に伴なって、南下し当地を訪れた際に、速川の瀬で急流に足を取られて亡くなります。

その際に、瓊瓊杵尊が小さな祠を建立して御霊を鎮めたのがはじまりとされます。

速川神社自体の創建は、つまびらかではありません。



≪「アワの歌」が記される≫

神話上の「天照大神」ではなく、実在の天照大神こと饒速日命と瀬織津姫がご夫婦と推理できたところ、なんとその記録が残されていることが分かりました。

日本最古の歴史書とされる一方で、偽書とされる「ホツマツタヱ」です。

そこにはアマテル神と呼ばれる天照大神は男神で、12人の妻を持ち、瀬織津姫は正妻だと書かれているというのです。

ホツマツタヱが記される原文の古代文字を、現代の約50音にそのまま当てはめて読めるとはとうてい思えません。

もし、そのまま一音一音読めるなら、逆に相応の時代になってつくられた偽書ということが確実になります。

さらには、七五調の「アワの歌」と呼ばれる現代に通じる48音で構成された歌が掲載されているそうです。

これに及んでは、勝者の歴史書『日本書紀』に反発して、国譲りをさせられた側すなわち最初に国づくりをした神々を出自とする海人側またあわ四国側の人物による後世の歴史書です


【One Point】 『日本書紀』もそうですが、歴史は勝者の視点から記されます。

敗者の海人側また四国側が自分たちの歴史を世に知らしめようと残したものが「ホツマツタヱ」でしょう。

一面の事実はあっても、全体的な視点に欠けるために全部が正しいとするのは間違いです。




≪倭姫命世紀と瀬織津姫≫

『日本書紀』や「ホツマツタヱ」の記述はともかく、実際に伊勢の地に祀られていたのは、丹後や尾張に拠点を置いた海人族の祖であり、最初に国づくりを行なった天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(饒速日命)です。

実在の天照大神になります。

「神武天皇紀」からも分かるように、国譲りをした饒速日命は同じ天孫系です。

その饒速日命の妻が瀬織津姫で、通称天照大神と一緒に伊勢に祀らたものの、後年、秘匿されて“ナゾの神”と言われるようになったものです。

鎌倉時代の中期に編纂された『倭姫世紀』(やまとひめ の せいき)には、次のような記述があります。

◇荒祭宮一座〔皇太神宮荒魂、伊弉那伎大神の生める神、名は八十枉津日神なり〕
一名、瀬織津比咩神、是也、御形は鏡に座す。【別宮・荒祭宮】

つまり「荒祭宮」のご祭神は、八十枉津日神で、またの名を瀬織津姫といい、そのご神体は鏡だと記されています。


【One Point】 直観や霊視などでなく、また偽書とされる「ホツマツタヱ」に記されているからでもなく、歴史的な事実と記録とをプロファイリングして検証した結果です。

上述のように、最初に国づくりを行なった海人族の祖「饒速日命」(天照大神)の正妻が瀬織津姫ということになります。









伊勢神宮と倭大国魂神社
2023.02.21
[天皇誕生日記念] ― 驚愕の大どんでん返しが起きた ―


天照大神も倭大国魂神も皇祖ではなかったが…



双魚宮時代の末期は「海王星」の象意“誤認”や“欺瞞”などに基づいて、驚くほど多くの誤解や勘違いが発生しています。

“〇〇で当然”と思われているケースが多いのですが、ここでは「伊勢神宮」と「倭大国魂神社」を取り上げてみます。

明治天皇のご裁可によって、皇祖神は「天照大神」(あまてらす おおみかみ)と定められました。

ですが『日本書紀』が720年に奏上されて以降、庶民は異なりますが、天照大神は幕末まで歴代天皇からはむしろ疎んじられ忌避されていました。

歴史的な事実はそういうことで、皇祖神ではないものの、日本の「祖神」といえるご存在です。



≪皇祖でなかった天照大神≫

皇祖神は、天照大神ではありませんでした。

『日本書紀』神代(下巻)の冒頭に「皇祖の高皇産霊尊(たかみ むすひ の みこと)は…」とハッキリと書かれています。

『日本書紀』によると、高皇産霊尊の娘と、天照大神の子の天忍穂耳尊(あめ の おしほみみ の みこと)が結婚し、天孫降臨された「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)が誕生します。

後年、皇祖の親戚となりましたが、もともとは別の系統です。

また、天照大神は「女性神」のように思われていて卑弥呼と同一視されることがありますが、「LGBT」でもなくれっきとした男性神です。


【One Point】 『日本書紀』が、なぜ「女性神」とも解釈できるように記述したのかというと、編纂当時の第41代持統天皇(高天原広野姫天皇)から、孫の文武天皇(天之真宗豊祖父天皇)への皇位継承によって万世一系を確立させるためです。



【ご参考:『日本書紀』がつくった中性神「天照大神」】

『日本書紀』は、なぜ「天照大神」を女性神と読めるようにしたのでしょうか。

ポイントは次のとおりです。

「天照大神」→孫の「瓊瓊杵尊」の天孫降臨による天皇家の正当性。

「持統天皇」→孫の「文武天皇」への皇位継承による万世一系の正当性。

女性の持統天皇を「天照大神」になぞらえ、孫の文武天皇への皇位継承をスムーズに行なうことで、念願の万世一系の定着を図るためです。

両天皇の和風諡号(しごう)をみれば明らかです。

もう一つは、卑弥呼(大日「霝の下に女」貴)をはじめ、素戔嗚尊との誓約(うけい)や各地の豪族の祖神を神話上の「天照大神」に習合させて、日本を一つにまとめるためです。



≪伊勢を遥拝した天武天皇≫



天照大神が皇祖神ではなかったもう一つの理由をご説明いたします。

大和の支配をかけた古代最大の戦い「壬申の乱」(じんしんのらん:672年)に際し、のちの天武天皇(天渟中原瀛真人天皇)こと大海人皇子(おおあま の おうじ)は、隠棲先の吉野から東国へ向かう途中、伊勢を遥拝します。

当時の伊勢は小さな祠がある程度にすぎません。

「壬申の乱」に勝利した天武天皇の発意によって、后の持統天皇が今日のように立派な伊勢神宮に造りかえ、式年遷宮まで行なうようにしたものです。

ところが、歴代天皇は立派になった伊勢神宮を以後、誰一人としてご親拝していないのです。

天照大神が皇祖神であれば、ありえないお話です。

明治になって初めて明治天皇が伊勢神宮をご親拝されました。


【One Point】 歴代天皇が盛んに熊野詣をした記録はあっても、伊勢を訪れなかった主な理由は、次の2つです。

1つは天照大神が皇祖神ではなかったこと。

もう1つは、神仏習合によって天皇は「院号」を名のるなど、神道よりも仏教に帰依していたからです。




≪実在の天照大神とは≫

では、歴史的な実在の天照大神とはどなたなのでしょうか。

最初に国づくりを行ない、『日本書紀』の記述では初代「神武天皇」に国譲りをし、実際的には実質上の初代である第10代「崇神天皇」(御間城入彦五十瓊殖天皇)に国譲りをされた天孫系の祖です。

『日本書紀』神代(上巻)をみてみましょう。

伊弉諾尊(いざなぎ の みこと)が、黄泉の国に葬られた伊弉冉尊(いざなみ の みこと)のもとから帰ってきて、祓(みそ)ぎはらいをされて左目を洗ったときに生まれたのが「天照大神」とされています。

それに先駆けて、伊弉諾尊と伊弉冉尊が最初に国生みをしたときに、天下の君たるものとして生んだ“日の神”が「大日靈貴」(おおひるめ の むち:「靈」の巫の部分は女)です。

のちに高天原に送り上げられたり、「一書に天照大神という」とも記されていることなどから「天照大神」と混同されていますが、その正体は、通称「魏志倭人伝」に記される卑弥呼(ひみこ)です。

神話上の「天照大神」は中性神ですが、歴史上の天照大神は男性で、卑弥呼は女性なのでまったくの別人です。


【One Point】 伊勢に祀られていた天照大神は、最初に国づくりを行なって大和を治めていた天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あまのほのあかり くしたま にぎはやひ の みこと)と申し上げます。




≪大洋航海祈願の原伊勢≫

天武天皇こと大海人皇子は、伊勢に海人族の祖が祀られていることを知っていました。

尾張に拠点を構えていた海人族とのつながりが深いためで、伊勢湾の入り口に祖神を祀って大洋航海に際し、当時は小さな祠だった“原伊勢”に安全を祈願していたのでしょう。

最初に国づくりをし、かつて大和を治めていたので、大和の支配権をかけた「壬申の乱」に際して、大海人皇子は伊勢を遥拝しました。

結局、『日本書紀』においては高皇産霊尊が「皇祖」と記され、歴史的には国譲りを行なった敵対側の天照大神だったことから、歴代天皇が伊勢をご親拝することはありませんでした。

一方、庶民は、古代の国づくりにおいて、最初に国を治めた主という意味をもつ“大国主”こと別称:天照大神が、病気の治療を含めて、いろいろと教え助けてくれた祖神でもあるために、何気に感じていたようでお伊勢参りを行なっています。

ちなみに、『日本書紀』に記される「天照大神」というのは、当時の国家分裂と他国からの侵攻の可能性という危機的な国情から、天皇のもとに臣民一体の挙国一致体制を図り、統一独立国家「大和」を建国するために、全豪族らが崇拝できる象徴となる習合神です。


【One Point】 『日本書紀』は、古代の歴史書であると同時にプロパガンダ(政治宣伝)の書です。

編纂に際して、レトリックを駆使して万世一系を確立させたカゲの編者:藤原不比等は天才ですが、藤原本家を古来から天皇家とともにある由緒ある家柄として描いています。




≪四国の倭大国魂神社≫



初代神武天皇と並んで、「御肇国天皇」(初めて国を治めた天皇)と記される第10代「崇神天皇」がいらっしゃいます。

その天皇紀に不思議な記述があります。

宮殿に祀っていた「天照大神」と「倭大国魂神」(やまと おおくにたま の かみ)の神威に不安を覚え、ほかに移すことにしたというのです。

倭大国魂神は、いわゆる最初に国々をまとめられた各地の大国主(大国魂)のトップともいえるお方です。

天照大神も倭大国魂神も天皇家ゆかりであれば、その「ご神威」を喜びこそすれ、不安を覚える必要はないはずです。

真相は、崇神天皇の御世に事実上の“国譲り”が行なわれ、結果的に天照大神は伊勢に、倭大国魂神は四国に戻して鎮魂し、大神神社(おおみわじんじゃ:大物主神)を拝殿として三ツ鳥居によって、それぞれを祀るようにしたものと考えられます。

ちなみに、東京都府中市に大国魂大神を祀る「大国魂神社」がありますが、そちらではなく四国に戻して祀られた延喜式に記される「倭大国魂神社」のほうです。


【One Point】 明治以降、最初に国づくりを成し遂げた天照大神が明治天皇のご裁可によって皇祖神に定められたということは、国譲りの前の日本の原点に戻ったという仕儀です。

日本のルーツいわば霊統に宝瓶宮時代に向けて驚愕の大どんでん返しが起きたことを意味します。



【ご参考:四国:本家本元の事実と勘違い】

ご参考に書いておきます。

最初の国づくりに四国は重要な拠点でした。

ただし、万世一系の皇統を記した『日本書紀』に四国が出てこないことからもお分かりのように、天皇家に国譲りをした側なので忘れ去られていくことになります。

徳島の阿波忌部氏をみてもお感じの方がいらっしゃるかもしれませんが、その無念の魂の叫びが今日にも残っているようです。

四国にかかわる歴史研究家や好事家の多くは、無意識にそのことを感じとっているのです。

そのため、古代の発祥や所在などに関して、ウリジナルならぬ「我こそが本家本元!」いった“反発”や“恨み”、また純朴な人柄ゆえに“思い込み”が強く、自己主張をされることがみられます。

四国は歴史的に由緒ある土地柄なので、その後の歴史的事実やご認識を混同し、国づくりの過去と現状との勘違いがみられます。









失われたアークの行方
2022.11.27
[聖櫃] ― イスラエルとユダヤの違い ―


ソロモンの秘宝はともかく聖櫃は日本に来なかった



古代イスラエルの影響が日本にあったのは事実ですが、日本人とユダヤ人の祖先が同じとする「日ユ同祖論」は明らかな間違いです。

行方不明となったイスラエル10氏族が、失われた「アーク」(聖櫃)を持って日本に来ることもありません。

都市伝説的に愉しむのはご自由ですが、古代イスラエルとユダヤ教の違いを知れば明白な事実です。

諏訪(長野)にも剣山(徳島)にも、残念ながらほぼ100%、日本には失われたアークが存在しないことは明らかです。



≪古代カルデア人≫

日本に古代イスラエルの10氏族の一部が来た可能性はあるかもしれません。

ですが、ユダヤ教の“ご神体”ともいえる「アーク」(聖櫃)が日本に来ることはありません。



モーセの十戒が記された石板やアロンの杖またマナのツボを入れた「アーク」(聖櫃:キリスト教では契約の箱)は、映画「インディ・ジョーンズ」シリーズの第1作「レイダース 失われたアーク《聖櫃》」(1981)でも有名で、『旧約聖書』出エジプト記などに記されています。

「古代イスラエル」も「アストロロジー」も、源流は4,000年ほど前の古代メソポタミアの「カルデア」に端を発します。

アストロロジーは、古代カルデア人の天体観測にはじまり、西上して古代ギリシャで四元素説が唱えられはじめた前5世紀以降、ホロスコープとともに発祥しました。

古代カルデア人は、チグリス・ユーフラテス川を下って河口域に新バビロニア王国(カルデア王国)を前7世紀頃に築きます。

このチグリス・ユーフラテス川の上流域にあった「カルデアのウル」を出自とするのが、ユダヤ教やイスラム教が「信仰の父」とするアブラハムです。


【One Point】 歴史が進むにつれて、どんどんと枝分かれしていくアブラハムの子孫たちのお話になります。

そのため先に結論を書いておきますと、行方が分からなくなった「イスラエル10氏族」とイスラエル2氏族に由来する「ユダヤ教」は異なるために、アークは日本には来ていません。



≪イスラエルの12氏族≫

「イスラエル」という名前は、アブラハムの孫の「ヤコブ」にはじまります。


天使との組み打ちに勝って「イスラエル」という称号を与えられたヤコブには12人の子供たちがいました。

これがイスラエル12氏族になっていきます。

モーセ(前16世紀または前13世紀)に率いられ、奴隷とされていたエジプトから脱出したのち、彼らはサウル、ダビデ、ソロモンの三代王の時代に、古代「イスラエル王国」(前11世紀-前8世紀)を築いてソロモン王の時代に栄華を極めます。

そのソロモン王が死ぬと「北イスラエル王国」と「南ユダ王国」に分裂します。

この時点でモーセの十戒が記された石板などを入れたアークは、南ユダ王国のエルサレムの神殿にあるのです。


【One Point】 なぜなら、北イスラエル王国の10氏族は異教の神も崇めており、モーセが神から示された戒律を守るユダ族ら2氏族はエルサレムがある南ユダ王国を築き、彼らゆえにその後「ユダヤ教」と呼ばれるようになったのです。



≪南ユダ王国のアーク≫

すでにお気づきでしょう。

北イスラエル王国(BC931-BC721)は、紀元前721年にアッシリアに滅ぼされ、10氏族はこつぜんと消えて、一部はシルクロードを経て日本に来たことが移動の痕跡や史料などから分かります。

ですが、アークを“ご神体”とした南ユダ王国はまだ滅びていません。

それゆえアークはエルサレム神殿に安置されたままなのです。

これをイスラエル10氏族が持ちだすのは不可能なことで、失われたアークが10氏族とともに日本に来ることはありえません。

もっとも、南ユダ王国(BC931-BC586)も、紀元前586年に新バビロニアによって滅ぼされ、彼らはバビロンに捕囚の身となってしまいます。

このとき、新バビロニアが没収した一覧の中に「アーク」がなかったことから、失われたアークと騒がれているのですが、「聖書外伝」にはエルサレム陥落の前に持ちだされて洞窟に隠されたと記されているようです。


【One Point】 実際、アークを担いで遠くまで逃げおおせるものではありません。

エルサレムかその近隣に隠すはずです。

もしくは、東の新バビロニアや西のエジプト方面を避けて、その勢力圏から離れた南のアラビア半島の荒野の方面に持ち出すのがふつうでしょう。



≪アークは日本に来なかった≫

いずれにしても、ユダヤ教のもととなったユダ族またベニヤミン族の2氏族(南ユダ王国)と、そのほかのイスラエル10氏族(北イスラエル王国)とは国家が異なり、一時は争っていたのです。

このことが分かれば、イスラエル10氏族が自分たちの北イスラエル王国が滅んだからといって、南ユダ王国のエルサレム神殿からアークを持ちだすことも、またアークをご神体とするほど戒律を重んじてもいないことから、持ち出してまで逃げる理由がないことがお分かりいただけるでしょう。

もっとも、北イスラエル王国滅亡から約250年後に南ユダ王国は、新バビロニアによって滅ぼされます。

その際、エルサレム陥落前にアークを持ちだして、どこに行ったのか分からない10氏族のあとを追って、たまたま日本に来たというのであればお話は別ですが、そこまで妄想をたくましくすれば歴史は何でもありになってしまいます。

ということで、アークが10氏族とともに日本に来ることはありえないため、諏訪にも剣山にもありません。

ただ、日本をはじめ、古代イスラエル民族の痕跡が残るシルクロードの国や、アフリカのエチオピアなど、アークの形代(レプリカ)と思われる御輿様のものを担ぐ風習が残っているのは事実です。


【One Point】 複数のアークがあるわけではありません。

なので、御輿様のものを担ぐ風習が複数の国や地域に残るのは、イスラエル民族の伝統を行事として再現しているからでしょう。

そこに本物のアークがあるから行なわれているとはかぎりません。



≪諏訪と四国が要所の理由≫

ここからは余話です。

ソロモン王の時代、父親のダビデ王のときから仲のよかった海の交易集団フェニキアと組んで、世界にソロモンの船団を派遣していました。

約3年に1度の派遣で、鉄などの鉱石や宝石また珍物を求めて、東洋や極東の日本にも約半年をかけて来ていたようです。

火山国の日本は、フォッサマグナのある「糸魚川静岡構造線」や四国を横切る「日本構造線」、また大きな火山の界隈や近隣を流れる川や河口付近には、鉱石また宝石が見つけられたのです。

両構造線が交わる諏訪地方や、西からの黒潮や穏やかな瀬戸内に挟まれ、航海や寄港の便がよい四国などはそのポイントです。

事実、瀬戸内西端部の周防灘~豊予海峡付近をはじめ淡路島南端部などには、古代イスラエルの痕跡が認められます。


【One Point】 四国は、古代イスラエルはもちろん、忌部氏など古代天皇家とのかかわりが深く由緒ある地です。

逆にいえば、それゆえに「アーク」や「邪馬台国」は四国にあったなど妄想を膨らませやすくなっています。











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