瀬織津姫の実像
2023.02.23
[隠匿] ― 最初の国づくりを支えた姫神 ―


なぜ瀬織津姫は『日本書紀』から隠されたのか



正体不明ゆえにスピリチュアル界隈でもアレコレと取り沙汰されています。

直観や霊視などの主観は、ご自由なのでかまいません。

ですが、古代に実在したナゾの神「瀬織津姫」(せおりつひめ)とは?

『古事記』や『日本書紀』には登場しませんが、神道の「大祓詞」に登場し、また日本最古の歴史書で偽書の「ホツマツタヱ」に記され、『倭姫命世記』に補記されています。

天皇誕生日記念「伊勢神宮と倭大国魂神社」の補足記事です。



≪天照大神と瀬織津姫≫

記事をアップした翌日、なぜか「瀬織津姫」に関するコンテンツにアクセスしました。

なんで? と思いつつみていくと、伊勢に祀られる天照大神との関連に気づきました。

「これゆえか!」と思いました。

伊勢に祀られている歴史上に実在した天照大神について「伊勢神宮と倭大国魂神社」で取り上げたからでしょう。

『日本書紀』に記される“神話上”の「天照大神」のお話ではありません。

そういえば、かつて伊勢神宮を訪れたとき次のようなことがありました。


【One Point】 当サイトで以前、ナゾの神「瀬織津姫」の正体に触れたことがあります。

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の祓ぎはらいによって最初に生まれた「八十枉津日神」(やそ まがつひ の かみ)として『日本書紀』に出てきます。

「禍いの神」ゆえ、忌避されるよう仕向けられていたのです。



≪荒祭宮と多賀宮≫



伊勢神宮は、ご存じのように天照大神を祀る内宮と豊受大神を祀る下宮とがあります。

下宮の別宮(わけのみや)「多賀宮」(たかのみや)をご参拝したときです。

個人的には何も感じませんでしたが「剣」と「巻物」を授けられたと言われたのです。

もちろん実際の剣や巻物ではありません。

ですが、これは“真実を見出して明らかにする”といったような意味が認められます。

それはともかく、下宮の「多賀宮」にも内宮の「荒祭宮」にも鳥居がありません。

さらに多賀宮は、外宮のご祭神豊受大神を祀る本殿よりも小高い丘の上に位置している特別な別宮になっていました。

なぜかといえば、内宮の荒祭宮に祀っていた八十枉津日神を天照大神の荒魂とし、下宮を造営した際に本来のご祭神を多賀宮に遷したからのようです。


【One Point】 鳥居がないということは、重要な意味を持ちます。

内宮全体または下宮全体の鳥居が対応し、内宮や下宮のご祭神と同等ということになります。

それゆえ、荒祭宮も多賀宮も第一別宮に位置づけられており、天照大神や豊受大神と同格のお立場を意味することになります。




≪『日本書紀』の作為≫

伊勢神宮が今日のように立派にご造営される前、歴史上の天照大神と瀬織津姫は小さな祠に祀られていました。

それが第40代天武天皇のご発意を受け、后の第41代持統天皇によって立派に造営されたとき「御正宮」に天照大神をお祀りし、背後の第一別宮「荒祭宮」に瀬織津姫を分祀されたようです。

ただし、直後に編纂された『日本書紀』にとっては不都合でした。

なぜなら、持統天皇を「天照大神」になぞらえ、孫の第42代文武天皇を天照大神の孫=天孫降臨の瓊瓊杵尊になぞらえることで、女帝から孫への皇位継承の正当性の根拠とする意図があったからです。

つまるところ「万世一系」の定着です。

そのため、天照大神を“女性神”と解釈できるようにしたほうが説得力が増しスムーズです。

そういった事由がありまして、後年、下宮の造営に際して『日本書紀』の影響もあって荒祭宮の瀬織津姫をご遷座することによって、隠匿が図られました。

結果、荒祭宮のご祭神は現在、天照大御神の荒御魂(あらみたま)とされています。


【One Point】 最初に国づくりを行なった天孫の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)こと伊勢の天照大神と瀬織津姫は、御正宮とそのすぐ背後の荒祭宮にそれぞれ祀られていたことから、ご夫婦だったといえます。



【ご参考:宮崎県「速川神社」のご由緒】

宮崎県の西都市に速川神社があります。

ご祭神は、祓戸大神こと瀬織津姫です。

伝承によれば、天照大神の命を受け瀬織津姫が瓊瓊杵尊に伴なって、南下し当地を訪れた際に、速川の瀬で急流に足を取られて亡くなります。

その際に、瓊瓊杵尊が小さな祠を建立して御霊を鎮めたのがはじまりとされます。

速川神社自体の創建は、つまびらかではありません。



≪「アワの歌」が記される≫

神話上の「天照大神」ではなく、実在の天照大神こと饒速日命と瀬織津姫がご夫婦と推理できたところ、なんとその記録が残されていることが分かりました。

日本最古の歴史書とされる一方で、偽書とされる「ホツマツタヱ」です。

そこにはアマテル神と呼ばれる天照大神は男神で、12人の妻を持ち、瀬織津姫は正妻だと書かれているというのです。

ホツマツタヱが記される原文の古代文字を、現代の約50音にそのまま当てはめて読めるとはとうてい思えません。

もし、そのまま一音一音読めるなら、逆に相応の時代になってつくられた偽書ということが確実になります。

さらには、七五調の「アワの歌」と呼ばれる現代に通じる48音で構成された歌が掲載されているそうです。

これに及んでは、勝者の歴史書『日本書紀』に反発して、国譲りをさせられた側すなわち最初に国づくりをした神々を出自とする海人側またあわ四国側の人物による後世の歴史書です


【One Point】 『日本書紀』もそうですが、歴史は勝者の視点から記されます。

敗者の海人側また四国側が自分たちの歴史を世に知らしめようと残したものが「ホツマツタヱ」でしょう。

一面の事実はあっても、全体的な視点に欠けるために全部が正しいとするのは間違いです。




≪倭姫命世紀と瀬織津姫≫

『日本書紀』や「ホツマツタヱ」の記述はともかく、実際に伊勢の地に祀られていたのは、丹後や尾張に拠点を置いた海人族の祖であり、最初に国づくりを行なった天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(饒速日命)です。

実在の天照大神になります。

「神武天皇紀」からも分かるように、国譲りをした饒速日命は同じ天孫系です。

その饒速日命の妻が瀬織津姫で、通称天照大神と一緒に伊勢に祀らたものの、後年、秘匿されて“ナゾの神”と言われるようになったものです。

鎌倉時代の中期に編纂された『倭姫世紀』(やまとひめ の せいき)には、次のような記述があります。

◇荒祭宮一座〔皇太神宮荒魂、伊弉那伎大神の生める神、名は八十枉津日神なり〕
一名、瀬織津比咩神、是也、御形は鏡に座す。【別宮・荒祭宮】

つまり「荒祭宮」のご祭神は、八十枉津日神で、またの名を瀬織津姫といい、そのご神体は鏡だと記されています。


【One Point】 直観や霊視などでなく、また偽書とされる「ホツマツタヱ」に記されているからでもなく、歴史的な事実と記録とをプロファイリングして検証した結果です。

上述のように、最初に国づくりを行なった海人族の祖「饒速日命」(天照大神)の正妻が瀬織津姫ということになります。









伊勢神宮と倭大国魂神社
2023.02.21
[天皇誕生日記念] ― 驚愕の大どんでん返しが起きた ―


天照大神も倭大国魂神も皇祖ではなかったが…



双魚宮時代の末期は「海王星」の象意“誤認”や“欺瞞”などに基づいて、驚くほど多くの誤解や勘違いが発生しています。

“〇〇で当然”と思われているケースが多いのですが、ここでは「伊勢神宮」と「倭大国魂神社」を取り上げてみます。

明治天皇のご裁可によって、皇祖神は「天照大神」(あまてらす おおみかみ)と定められました。

ですが『日本書紀』が720年に奏上されて以降、庶民は異なりますが、天照大神は幕末まで歴代天皇からはむしろ疎んじられ忌避されていました。

歴史的な事実はそういうことで、皇祖神ではないものの、日本の「祖神」といえるご存在です。



≪皇祖でなかった天照大神≫

皇祖神は、天照大神ではありませんでした。

『日本書紀』神代(下巻)の冒頭に「皇祖の高皇産霊尊(たかみ むすひ の みこと)は…」とハッキリと書かれています。

『日本書紀』によると、高皇産霊尊の娘と、天照大神の子の天忍穂耳尊(あめ の おしほみみ の みこと)が結婚し、天孫降臨された「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)が誕生します。

後年、皇祖の親戚となりましたが、もともとは別の系統です。

また、天照大神は「女性神」のように思われていて卑弥呼と同一視されることがありますが、「LGBT」でもなくれっきとした男性神です。


【One Point】 『日本書紀』が、なぜ「女性神」とも解釈できるように記述したのかというと、編纂当時の第41代持統天皇(高天原広野姫天皇)から、孫の文武天皇(天之真宗豊祖父天皇)への皇位継承によって万世一系を確立させるためです。



【ご参考:『日本書紀』がつくった中性神「天照大神」】

『日本書紀』は、なぜ「天照大神」を女性神と読めるようにしたのでしょうか。

ポイントは次のとおりです。

「天照大神」→孫の「瓊瓊杵尊」の天孫降臨による天皇家の正当性。

「持統天皇」→孫の「文武天皇」への皇位継承による万世一系の正当性。

女性の持統天皇を「天照大神」になぞらえ、孫の文武天皇への皇位継承をスムーズに行なうことで、念願の万世一系の定着を図るためです。

両天皇の和風諡号(しごう)をみれば明らかです。

もう一つは、卑弥呼(大日「霝の下に女」貴)をはじめ、素戔嗚尊との誓約(うけい)や各地の豪族の祖神を神話上の「天照大神」に習合させて、日本を一つにまとめるためです。



≪伊勢を遥拝した天武天皇≫



天照大神が皇祖神ではなかったもう一つの理由をご説明いたします。

大和の支配をかけた古代最大の戦い「壬申の乱」(じんしんのらん:672年)に際し、のちの天武天皇(天渟中原瀛真人天皇)こと大海人皇子(おおあま の おうじ)は、隠棲先の吉野から東国へ向かう途中、伊勢を遥拝します。

当時の伊勢は小さな祠がある程度にすぎません。

「壬申の乱」に勝利した天武天皇の発意によって、后の持統天皇が今日のように立派な伊勢神宮に造りかえ、式年遷宮まで行なうようにしたものです。

ところが、歴代天皇は立派になった伊勢神宮を以後、誰一人としてご親拝していないのです。

天照大神が皇祖神であれば、ありえないお話です。

明治になって初めて明治天皇が伊勢神宮をご親拝されました。


【One Point】 歴代天皇が盛んに熊野詣をした記録はあっても、伊勢を訪れなかった主な理由は、次の2つです。

1つは天照大神が皇祖神ではなかったこと。

もう1つは、神仏習合によって天皇は「院号」を名のるなど、神道よりも仏教に帰依していたからです。




≪実在の天照大神とは≫

では、歴史的な実在の天照大神とはどなたなのでしょうか。

最初に国づくりを行ない、『日本書紀』の記述では初代「神武天皇」に国譲りをし、実際的には実質上の初代である第10代「崇神天皇」(御間城入彦五十瓊殖天皇)に国譲りをされた天孫系の祖です。

『日本書紀』神代(上巻)をみてみましょう。

伊弉諾尊(いざなぎ の みこと)が、黄泉の国に葬られた伊弉冉尊(いざなみ の みこと)のもとから帰ってきて、祓(みそ)ぎはらいをされて左目を洗ったときに生まれたのが「天照大神」とされています。

それに先駆けて、伊弉諾尊と伊弉冉尊が最初に国生みをしたときに、天下の君たるものとして生んだ“日の神”が「大日靈貴」(おおひるめ の むち:「靈」の巫の部分は女)です。

のちに高天原に送り上げられたり、「一書に天照大神という」とも記されていることなどから「天照大神」と混同されていますが、その正体は、通称「魏志倭人伝」に記される卑弥呼(ひみこ)です。

神話上の「天照大神」は中性神ですが、歴史上の天照大神は男性で、卑弥呼は女性なのでまったくの別人です。


【One Point】 伊勢に祀られていた天照大神は、最初に国づくりを行なって大和を治めていた天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あまのほのあかり くしたま にぎはやひ の みこと)と申し上げます。




≪大洋航海祈願の原伊勢≫

天武天皇こと大海人皇子は、伊勢に海人族の祖が祀られていることを知っていました。

尾張に拠点を構えていた海人族とのつながりが深いためで、伊勢湾の入り口に祖神を祀って大洋航海に際し、当時は小さな祠だった“原伊勢”に安全を祈願していたのでしょう。

最初に国づくりをし、かつて大和を治めていたので、大和の支配権をかけた「壬申の乱」に際して、大海人皇子は伊勢を遥拝しました。

結局、『日本書紀』においては高皇産霊尊が「皇祖」と記され、歴史的には国譲りを行なった敵対側の天照大神だったことから、歴代天皇が伊勢をご親拝することはありませんでした。

一方、庶民は、古代の国づくりにおいて、最初に国を治めた主という意味をもつ“大国主”こと別称:天照大神が、病気の治療を含めて、いろいろと教え助けてくれた祖神でもあるために、何気に感じていたようでお伊勢参りを行なっています。

ちなみに、『日本書紀』に記される「天照大神」というのは、当時の国家分裂と他国からの侵攻の可能性という危機的な国情から、天皇のもとに臣民一体の挙国一致体制を図り、統一独立国家「大和」を建国するために、全豪族らが崇拝できる象徴となる習合神です。


【One Point】 『日本書紀』は、古代の歴史書であると同時にプロパガンダ(政治宣伝)の書です。

編纂に際して、レトリックを駆使して万世一系を確立させたカゲの編者:藤原不比等は天才ですが、藤原本家を古来から天皇家とともにある由緒ある家柄として描いています。




≪四国の倭大国魂神社≫



初代神武天皇と並んで、「御肇国天皇」(初めて国を治めた天皇)と記される第10代「崇神天皇」がいらっしゃいます。

その天皇紀に不思議な記述があります。

宮殿に祀っていた「天照大神」と「倭大国魂神」(やまと おおくにたま の かみ)の神威に不安を覚え、ほかに移すことにしたというのです。

倭大国魂神は、いわゆる最初に国々をまとめられた各地の大国主(大国魂)のトップともいえるお方です。

天照大神も倭大国魂神も天皇家ゆかりであれば、その「ご神威」を喜びこそすれ、不安を覚える必要はないはずです。

真相は、崇神天皇の御世に事実上の“国譲り”が行なわれ、結果的に天照大神は伊勢に、倭大国魂神は四国に戻して鎮魂し、大神神社(おおみわじんじゃ:大物主神)を拝殿として三ツ鳥居によって、それぞれを祀るようにしたものと考えられます。

ちなみに、東京都府中市に大国魂大神を祀る「大国魂神社」がありますが、そちらではなく四国に戻して祀られた延喜式に記される「倭大国魂神社」のほうです。


【One Point】 明治以降、最初に国づくりを成し遂げた天照大神が明治天皇のご裁可によって皇祖神に定められたということは、国譲りの前の日本の原点に戻ったという仕儀です。

日本のルーツいわば霊統に宝瓶宮時代に向けて驚愕の大どんでん返しが起きたことを意味します。



【ご参考:四国:本家本元の事実と勘違い】

ご参考に書いておきます。

最初の国づくりに四国は重要な拠点でした。

ただし、万世一系の皇統を記した『日本書紀』に四国が出てこないことからもお分かりのように、天皇家に国譲りをした側なので忘れ去られていくことになります。

徳島の阿波忌部氏をみてもお感じの方がいらっしゃるかもしれませんが、その無念の魂の叫びが今日にも残っているようです。

四国にかかわる歴史研究家や好事家の多くは、無意識にそのことを感じとっているのです。

そのため、古代の発祥や所在などに関して、ウリジナルならぬ「我こそが本家本元!」いった“反発”や“恨み”、また純朴な人柄ゆえに“思い込み”が強く、自己主張をされることがみられます。

四国は歴史的に由緒ある土地柄なので、その後の歴史的事実やご認識を混同し、国づくりの過去と現状との勘違いがみられます。









失われたアークの行方
2022.11.27
[聖櫃] ― イスラエルとユダヤの違い ―


ソロモンの秘宝はともかく聖櫃は日本に来なかった



古代イスラエルの影響が日本にあったのは事実ですが、日本人とユダヤ人の祖先が同じとする「日ユ同祖論」は明らかな間違いです。

行方不明となったイスラエル10氏族が、失われた「アーク」(聖櫃)を持って日本に来ることもありません。

都市伝説的に愉しむのはご自由ですが、古代イスラエルとユダヤ教の違いを知れば明白な事実です。

諏訪(長野)にも剣山(徳島)にも、残念ながらほぼ100%、日本には失われたアークが存在しないことは明らかです。



≪古代カルデア人≫

日本に古代イスラエルの10氏族の一部が来た可能性はあるかもしれません。

ですが、ユダヤ教の“ご神体”ともいえる「アーク」(聖櫃)が日本に来ることはありません。



モーセの十戒が記された石板やアロンの杖またマナのツボを入れた「アーク」(聖櫃:キリスト教では契約の箱)は、映画「インディ・ジョーンズ」シリーズの第1作「レイダース 失われたアーク《聖櫃》」(1981)でも有名で、『旧約聖書』出エジプト記などに記されています。

「古代イスラエル」も「アストロロジー」も、源流は4,000年ほど前の古代メソポタミアの「カルデア」に端を発します。

アストロロジーは、古代カルデア人の天体観測にはじまり、西上して古代ギリシャで四元素説が唱えられはじめた前5世紀以降、ホロスコープとともに発祥しました。

古代カルデア人は、チグリス・ユーフラテス川を下って河口域に新バビロニア王国(カルデア王国)を前7世紀頃に築きます。

このチグリス・ユーフラテス川の上流域にあった「カルデアのウル」を出自とするのが、ユダヤ教やイスラム教が「信仰の父」とするアブラハムです。


【One Point】 歴史が進むにつれて、どんどんと枝分かれしていくアブラハムの子孫たちのお話になります。

そのため先に結論を書いておきますと、行方が分からなくなった「イスラエル10氏族」とイスラエル2氏族に由来する「ユダヤ教」は異なるために、アークは日本には来ていません。



≪イスラエルの12氏族≫

「イスラエル」という名前は、アブラハムの孫の「ヤコブ」にはじまります。


天使との組み打ちに勝って「イスラエル」という称号を与えられたヤコブには12人の子供たちがいました。

これがイスラエル12氏族になっていきます。

モーセ(前16世紀または前13世紀)に率いられ、奴隷とされていたエジプトから脱出したのち、彼らはサウル、ダビデ、ソロモンの三代王の時代に、古代「イスラエル王国」(前11世紀-前8世紀)を築いてソロモン王の時代に栄華を極めます。

そのソロモン王が死ぬと「北イスラエル王国」と「南ユダ王国」に分裂します。

この時点でモーセの十戒が記された石板などを入れたアークは、南ユダ王国のエルサレムの神殿にあるのです。


【One Point】 なぜなら、北イスラエル王国の10氏族は異教の神も崇めており、モーセが神から示された戒律を守るユダ族ら2氏族はエルサレムがある南ユダ王国を築き、彼らゆえにその後「ユダヤ教」と呼ばれるようになったのです。



≪南ユダ王国のアーク≫

すでにお気づきでしょう。

北イスラエル王国(BC931-BC721)は、紀元前721年にアッシリアに滅ぼされ、10氏族はこつぜんと消えて、一部はシルクロードを経て日本に来たことが移動の痕跡や史料などから分かります。

ですが、アークを“ご神体”とした南ユダ王国はまだ滅びていません。

それゆえアークはエルサレム神殿に安置されたままなのです。

これをイスラエル10氏族が持ちだすのは不可能なことで、失われたアークが10氏族とともに日本に来ることはありえません。

もっとも、南ユダ王国(BC931-BC586)も、紀元前586年に新バビロニアによって滅ぼされ、彼らはバビロンに捕囚の身となってしまいます。

このとき、新バビロニアが没収した一覧の中に「アーク」がなかったことから、失われたアークと騒がれているのですが、「聖書外伝」にはエルサレム陥落の前に持ちだされて洞窟に隠されたと記されているようです。


【One Point】 実際、アークを担いで遠くまで逃げおおせるものではありません。

エルサレムかその近隣に隠すはずです。

もしくは、東の新バビロニアや西のエジプト方面を避けて、その勢力圏から離れた南のアラビア半島の荒野の方面に持ち出すのがふつうでしょう。



≪アークは日本に来なかった≫

いずれにしても、ユダヤ教のもととなったユダ族またベニヤミン族の2氏族(南ユダ王国)と、そのほかのイスラエル10氏族(北イスラエル王国)とは国家が異なり、一時は争っていたのです。

このことが分かれば、イスラエル10氏族が自分たちの北イスラエル王国が滅んだからといって、南ユダ王国のエルサレム神殿からアークを持ちだすことも、またアークをご神体とするほど戒律を重んじてもいないことから、持ち出してまで逃げる理由がないことがお分かりいただけるでしょう。

もっとも、北イスラエル王国滅亡から約250年後に南ユダ王国は、新バビロニアによって滅ぼされます。

その際、エルサレム陥落前にアークを持ちだして、どこに行ったのか分からない10氏族のあとを追って、たまたま日本に来たというのであればお話は別ですが、そこまで妄想をたくましくすれば歴史は何でもありになってしまいます。

ということで、アークが10氏族とともに日本に来ることはありえないため、諏訪にも剣山にもありません。

ただ、日本をはじめ、古代イスラエル民族の痕跡が残るシルクロードの国や、アフリカのエチオピアなど、アークの形代(レプリカ)と思われる御輿様のものを担ぐ風習が残っているのは事実です。


【One Point】 複数のアークがあるわけではありません。

なので、御輿様のものを担ぐ風習が複数の国や地域に残るのは、イスラエル民族の伝統を行事として再現しているからでしょう。

そこに本物のアークがあるから行なわれているとはかぎりません。



≪諏訪と四国が要所の理由≫

ここからは余話です。

ソロモン王の時代、父親のダビデ王のときから仲のよかった海の交易集団フェニキアと組んで、世界にソロモンの船団を派遣していました。

約3年に1度の派遣で、鉄などの鉱石や宝石また珍物を求めて、東洋や極東の日本にも約半年をかけて来ていたようです。

火山国の日本は、フォッサマグナのある「糸魚川静岡構造線」や四国を横切る「日本構造線」、また大きな火山の界隈や近隣を流れる川や河口付近には、鉱石また宝石が見つけられたのです。

両構造線が交わる諏訪地方や、西からの黒潮や穏やかな瀬戸内に挟まれ、航海や寄港の便がよい四国などはそのポイントです。

事実、瀬戸内西端部の周防灘~豊予海峡付近をはじめ淡路島南端部などには、古代イスラエルの痕跡が認められます。


【One Point】 四国は、古代イスラエルはもちろん、忌部氏など古代天皇家とのかかわりが深く由緒ある地です。

逆にいえば、それゆえに「アーク」や「邪馬台国」は四国にあったなど妄想を膨らませやすくなっています。











邪馬台国への行程ミス
2022.07.03
[魏志倭人伝の矛盾] ― 平和ボケした学者や研究者 ―



◆「合理的な解釈をすれば北部九州を出ない邪馬台国




『三国志』(魏書第30巻 烏丸鮮卑東夷伝倭人条)こと、通称「魏志倭人伝」に、記述ミスもしくは解釈ミスがあるのはご存じのかたも多いでしょう。

記述どおりに進むと、海の中に邪馬台国が位置することになるためです。

かといって、里程や日程また方角が間違っていると考えるのも的外れです。

そういった学者や研究者は、たぶん平和ボケしていて、当時の状況がつかめていないのではないでしょうか。


※画像は映画「レッドクリフ」より。



【観光旅行の記録ではない】

晋の史官、著作郎の陳寿(233?-297?)が記した「魏志倭人伝」は、一般人の倭国観光旅行記を資料にしたものではありません。

三国志の時代はもちろん、その前の後漢(東漢帝国 25-220)といえども、予断は許さない戦時中です。

これが意味するところは、陳寿が参考にした記録は、文化レベルも分からない海を渡った異国の軍事偵察を兼ねたものだということです。

しかも、倭国大乱をはさんだ時代であって無防備で旅をすることはありえません。

万一に備えて、軍隊や偵察測量のプロを伴なった一行の記録だと考えなければなりません。

里程や日程また方角をもし間違えたら、自分のクビが飛びかねない時代なのです。

そんな軍事偵察のプロが記した倭国偵察記をもとに著したのが、通称「魏志倭人伝」です。

里程や日程また方角を大きく間違うことは、ほぼありえません。




【複数あった偵察訪問の記録】

倭国を訪れた記録は1つだけではありません。

福岡の志賀島(しかのしま)で発見されたと伝わる金印の時代、1世紀に相互に訪問した記録が『後漢書』に記されています。

後漢や魏を訪れた倭国からの使者から聞き取った記録も残されているでしょう。

また、2世紀の倭国大乱や3世紀の卑弥呼共立後の記録など複数あることが、太宰府天満宮に残された国宝「翰苑」(かんえん)の逸文などからみえてきます。

結局、「魏志倭人伝」を著した陳寿は、複数の記録を参考にしつつ一つにまとめたのです。

卑弥呼の邪馬台国が記された記録は、その最後のものでしかありません。

もちろん手書きの時代ですし、書き間違いや写し間違いはチェックしたとしても起こりえるでしょう。

だからといって、里程や日程の数字にミスがあってはいけないので、慎重にチェックされます。

まして、東西南北の方角を写し間違えるなど、軍事偵察の記録にはあってはいけないことなので、大きなミスは考えられません。

これが「魏志倭人伝」をひもとく大前提になります。




【単位の違う行程を足し算しても】

こう書いても信用されないかたがいらっしゃるのではないでしょうか。

「いやいや、それだと邪馬台国は海の中に…」

ありません。

北部九州内にきれいに収まります。

なぜなら、ポイントは「投馬国」(つまこく)にあるからです。

謎解きをしましょう。

帯方郡(半島の付け根付近)から、倭(当時は九州)の「不弥国」(ふみこく)までは、里程(短里)で記されています。

ところが、次の投馬国や邪馬台国は、日程で記されているのです。

これをつなげて邪馬台国は海の中になるとか、方角の間違いで畿内だなどと解釈しているのです。

そういった歴史学者や研究者は、もう一度小学校にいって算数を習いなおされたほうがよいでしょう。

もちろんジョークですが、単位が異なる里程と日程の足し算は成り立たないのは常識です。

「魏志倭人伝」も同じです。

不弥国までの行程(里程)の記録と、直後に記される投馬国や邪馬台国までの行程(日程)の記録は、分けてとらえるべきで、出発点が同じだと考えなければなりません。




【原文をよく読んでみよう】

不弥国までは、詳しく里程によって記されていることもあって、場所は福岡市の東方面に比定されることで、ほぼ合意がなされています。

ところが、そのあとに記される南に水行20日の「投馬国」(つまこく)の比定地は、不弥国の南には海がなく、どこなのか比定地はてんでバラバラです。

そして、投馬国のあとに記されるのが邪馬台国(やまたいこく)です。

なので、投馬国の比定がポイントです。

「魏志倭人伝」から邪馬台国の位置を割り出す要諦になっています。

どうとらえればいいのか、すでにお答えは上述しておきました。

出発点の帯方郡から、不弥国までの里程とは別に、もう一度、出発点に戻って、再度、日程によって記されたのが投馬国を経た邪馬台国までの行程です。

距離で記された里程と、日数で記された行程は別ものです。

道らしい道はなく地図もないので、距離で記しても何日かかるか分かりません。

軍事行動にとって日数は、食料など兵站にかかわる重要データです。




【行程問題となる箇所の原文】

出発点の帯方郡から、南に水行20日が投馬国で、そこから水行10日陸行1か月が邪馬台国です。

原文では次のように記されています。

「東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家
南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸」

読み下しますと、次のようになります。

「東行すること不弥国に至る百里なり。官は多摸といい副は卑奴母離という。千余家有り。
南に投馬国に至る水行二十日なり。官は弥弥といい副は弥弥那利という。五万余戸ばかり。

この後に「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」、すなわち「南に邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。水行十日陸行一月」と続きます。

邪馬台国の行程問題で課題となる箇所はここだけなのです。

たったこれだけです。

平和ボケしていると、現代の視点から解釈を繰り広げます。

全部の方角が90度ほど違っているなら「南は東の間違い」はありえますが、都合のいい部分だけを方角の間違いとするのは曲解です。

※ちなみに夏時間の場合、最大で23.4度ほど全体的に方角が異なることも考えられます。




【写し間違いか昔の名称:投馬国】

原文の違いにお気づきいただけますでしょうか。

微妙ながら不弥国までの里程表現と、投馬国や邪馬台国までの日程表現の書き方が違います。

「行至」と「至」の違いですが、たぶん日本人には難しくても、漢文にこなれた学ある中国人なら、里程と日程の違いなどもあって、ダメ押し的に念を入れてもう一度併記し直したものだと一発で気づくのではないでしょうか。

現代中国人にとっては、昔のことで他国のことですし、一文の得にもなりませんので、関心のないことだと存じます。

単位が異なる里程と日程を非常識にも足し算したために、邪馬台国の比定に混乱が生じています。

陳寿は、複数の記録を参考に、卑弥呼が都とする場所を里程と日程の両方で記したのです。

間違えないように念を入れて、邪馬台国までの行程を里程と日程の両方で記しておいたものを、読む側が知らずに一つにつなげたら、倍の距離に邪馬台国が位置することになります。

ちなみに、邪馬台国に至る行程を記した最後は、次のように明記されています。

「自郡至女王國 萬二千餘里」

読み下しますと、「自郡(帯方郡)から女王国に至るは1万2千余里」。

福岡市東辺部に位置することでコンセンサスがとれている不弥国からだと、帯方郡から1万2千余里はいくばくも残っていません。

結局、北部九州を出ることのない奈辺に邪馬台国はあったことが確定できます。






【投馬国は対馬だった】

出発点の帯方郡から、1万2千余里のところにある邪馬台国に至るには、日程でいえば「水行20日」で投馬国まで行くことができ、そこから「水行10日陸行1か月」ほど、すなわち軍隊をもってして2か月ほどで邪馬台国まで行けるという記述です。

最後にタネ明かしを書いておきます。

投馬国というのは、対馬(つしま)のことです。

使節の出発点から、記述どおり朝鮮半島を西海岸沿いに南に下り、大昔のことなので天候や風待ちをしながら、水行20日ほどで投馬国こと対馬に着きます。

そこから南北70kmほどの対馬をさらに南下しつつ、海を渡って九州北岸に着き、そのまま松浦川などを溯上して行けるところまでが水行10日ほどです。

その後は、食料の調達や道なき道を確認しながら、筑紫平野(つくしへいや=佐賀平野+筑後平野)の北端の山際を東へ進んで、陸行すること1か月ほどで卑弥呼が都とした古(いにしえ)の邪馬台国に行けるという過去の記述です。

もはや、どうでもいいお話です。


「南は東の間違いだ」などとおっしゃって、ありえない強弁をもって意図的に近畿にもっていきたい御仁がいらっしゃるようで、邪馬台国論争に拍車をかけています。

それによって、本が売れたり視聴率が稼げるので、マスコミは半ば分かっていても劣勢の畿内説を取り上げて、あおっているようにも思えます。

知らんけど。









物部氏は古代オリエント族?
2022.05.09
 
[大胆仮説] 物部氏は古代オリエント族の末裔か?
[饒速日命を祖にもつ意味]
― なぜ神武以前にヤマトにいたのか ―



◆「最初に日本をまとめた大国主命または饒速日命の国譲り◆ 



古代日本を成立させた物部氏(もののべうじ)に関する大胆仮説です。

宝瓶宮占星学サイトに連載した「日本の原点」に関連して、どうしても納得のいかない点がありました。

国譲りをおこなったとされる「出雲族」と、国づくりを行なった「大国主命」(おおくにぬし の みこと)、そして「饒速日命」(にぎはやひ の みこと)を祖とする古代の豪族「物部氏」の正体とその関係です。

大胆仮説となるのを承知で申し上げますと、これらは同一か錯綜した類似関係にあります。

さらにいえば、饒速日命は紀元前7~8世紀頃に日本に来た古代オリエント族にもかかわり末裔かのようです。



≪統一独立国家建設≫

『日本書紀』は、史実をベースとしながらも、明らかに作為された記述が散見できます。

天孫族を正統とした「神代」(かみよ)の記述や、各地の豪族を赤子(せきし)に組み込んで、統一独立国家「日本」(大和)を建国することが急務だった7世紀の影響が色濃くあらわれています。

『日本書紀』編纂の総裁だった「舎人親王」(とねり しんのう)は歌人で、“舎人”と称されているように名目上の責任者でしょう。

舎人親王は、『日本書紀』の編纂を勅命された天武天皇(???-686)の皇子だからです。

実質は、抜群に頭もよく策謀家で、万世一系の定着に貢献した「藤原不比等」(ふじわら の ふひと)によるアイデアが満載で、一定の史実をベースに、そこには天皇と藤原氏また大和朝廷による「統一独立国家」建設の意図を盛り込んだ「プロパガンダ」(政治宣伝)の書になっています。

天才というのは、彼のような人を言うのかもしれません。

おかげで第40代「天武天皇」(てんむ てんのう)、その妃で第41代「持統天皇」(じとう てんのう)、両天皇の孫で第42代「文武天皇」(もんむ てんのう)と、『日本書紀』の天孫降臨神話どおりの皇位継承に成功し、事実上の万世一系がはじまり、今日も続いています。

揺らぐことなく歴代天皇のもと統一独立国家として1,300年のちも「国体」が保たれていることへの彼の功績は大きいのです。



≪神武以前のヤマト国≫

そういった『日本書紀』ですが、初代「神武天皇」への「国譲り」のお話が描かれている以上、東征以前にヤマトに譲るべき国らしきものがあったと考えるほかありません。

当然、出雲や大国主命また饒速日命にかかわる国です。

“大国主”という名前は、最初(大)に国の主(あるじ)となった人物を意味します。

現在の出雲大社(いずも おおやしろ)の主祭神です。

古代出雲を治めたとされる素戔嗚命(すさのお の みこと)の子孫が大国主命であることを知ればおかしくありません。

さらに、「神武天皇紀」に記されているように、物部氏の祖とされる「饒速日命」(にぎはやひ の みこと)は、神武以前にヤマトにいて主(あるじ)でした。

“饒速日”という名前は、先に和(饒)をもたらし国づくりをしていた人物(ひ:霊)であることが読めるのです。

結局、出雲族、大国主命、饒速日命は、どこか一つにつながってしまいます。




≪饒速日命も天孫族だった≫

饒速日命から物部氏の初代となる「宇摩志麻遅命」(うましまじ の みこと)が生まれています。

物部氏は、天皇を支える古代豪族でありながら、「天孫系」で特別氏族とされます。

『日本書紀』には、神武天皇がヤマト入りをしたときに天皇が長髄彦(ながすねひこ)に、「主(あるじ)の饒速日命が天津神(天孫族)なら表(しるし)があるだろう」と問うと、長髄彦は天羽羽矢(あまの ははや)と歩靭(かちゆき)を天皇に示したとされます。

すると天皇は「偽りではない」と認められているのです。

ご存じのように天孫降臨した「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)から天孫族の皇統がはじまり、彦火火出見尊(ひこほほでみ の みこと)、鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえず の みこと)、そして初代「神武天皇」へと続きます。

このどこかに饒速日命がいたことになりますが記されていません。

どこまでが史実なのかはともかく、意図的に省くといった『日本書紀』の記述の在り方が読めます。

そういった『日本書紀』なので、出雲族、大国主命、饒速日命がどこかでつながっていてもおかしくないのです。

古代ヤマト(奈良)で国譲りが行なわれ、ヤマトの地に大国主命の別名「大物主大神」(おおものぬし の おおかみ)を祀る「大神神社」(おおみわ じんじゃ=おんが さま)が実際にあるのです。

出雲大社の主祭神でもある大国主命が、名前を変えて大神神社の主祭神として祀られている以上、もともとはヤマトにいたことが、その規模やご神体の三輪山からわかります。

ちなみに、かえって混乱するかもしれませんが、史実としては、古代ヤマトは卑弥呼の邪馬台国などではなく、出雲族や大国主命また饒速日命にかかわる集会地や祭祀上の国だったとすれば、三輪山のふもとに箸墓古墳(はしはか こふん)があることのつじつまがあいます。



≪九州北部からの東征≫

さて、ここまで推測できれば、お話は簡単です。

古代日本の弥生時代におけるコメ作り、また土器は北部九州や遠賀川(おんががわ)流域から全国に広がりました。

広めたのは、おんがさま(大神様)こと大国主命(大物主神)すなわち饒速日命です。

大国主命は一人とはかぎらず、各地にいてもおかしくありません。

そのなかで各地に医薬などの道を教え広めて、ゆるやかな大国主連合を築いていった代表が『日本書紀』に記され、大神神社や出雲大社に祀られる大物主大神こと大国主大神でしょう。

そのように考えると、年代は未定ですが北部九州の遠賀川上流域をさらにのぼった「朝倉」周辺の地名が、ヤマトこと現在の奈良県や近畿に、方向や位置関係も一致して多くあることもうなづけてしまいます。

また、東征の上陸地大阪をみても同様です。

福岡市の屋台ラーメンで有名な長浜に隣接する草ヶ江は、古代は入り江となっていた「草ヶ江湾」(くさがえ わん)でした。

同じように大阪府の東部にあった古代の河内湖の古称は「日下江」(くさかえ)です。

さらには、住吉大社は今でこそ総本社として大阪にありますが、日本第一宮住吉神社が今も博多駅近くに残っています。

古代の入り江「草ヶ江湾」また「冷泉津」(湾、港)を抱えていた古代の“博多湾”に流れ込む那賀川(なかがわ)の河口に古代から住吉神社はあって、現在は土砂の流出や埋め立てによって内陸部になっています。

住吉神社は、海人族(あまぞく)の住吉三神をご祭神とし住吉大神らしき武内宿禰(たけの うちの すくね)ゆかりのようです。



≪古代オリエント族≫

さらに、大胆仮説を申し上げます。

神武東征とされる紀元前7世紀頃は、古代イスラエルのソロモン王の船団が、交易集団フェニキアの力を借りて世界各地に鉄や宝石また珍物を求めて3年間ほどのスパンで航海を続けていた時代です。


※ Phoenician Ship : フェニキアの二段櫂船

海に囲まれ大自然が豊かな火山地帯である古代の日本は、山海の食糧だけでなく、砂鉄や宝石類も多かったために、ソロモン王の船団も来ていたようです。

淡路島には古代イスラエルの物証が残っているとか。

日本列島には以前から原住縄文人がいましたので、日ユ同祖論は明らかな誤りですが、古代イスラエルの影響が副次的にあったことまでは否めません。

上述の紀元前7~8世紀頃をはじめ、史実からみても3世紀、5世紀、7世紀など日本のはじまりとされる時代に古代オリエント系の影響があったようです。

物部氏が鉄器と兵器の製造や管理をしていたというのも、温和な縄文系の古代日本民族では特殊で、戦いを常とし鉄器文化を開いた古代オリエントのヒッタイトにゆかりがある可能性も残されています。

なぜなら、古代イスラエルのダビデ王の妻バド・シェバ(バテシバ)の元夫はヒッタイト人で、彼女はソロモン王の母親でもあるからです。

ソロモンの船団には、古代イスラエル人を雇用主に、フェニキア人の操船者と、ヒッタイト人の技師らが乗っていたことでしょう。

彼らは古代イスラエルが紀元前931年に南北に分裂したのち、北イスラエルも紀元前721年に滅亡したため、帰る場所を失い、食料が豊かでキレイな水にも恵まれ気候も温暖な日本に居つくか舞い戻ってきたのではないでしょうか。

そして、古代国づくりを援助したのですが、原住ではないことから“神武天皇への国譲り”に至ったことが推測できます。









武家政権と日本の天運
2022.04.11
 
武家政権と日本の天運
― 古代と現代をつなぐ武士の“魂” ―



◆「今日ある日本の独立維持は草薙神剣の“霊威”だった?



先の「頼朝と義経の文化のレベル」に、次のように書きました。


「頼朝がひらいた武家政権によって日本は救われていくことになります」


今回は、このご説明です。

今から1,300年ほど前の飛鳥時代(592-710)。

第40代天武天皇(?-686)による統一独立国家「日本」は、天武天皇が当時意図したように1,000年のちも天皇の御世による独立日本を維持し、現在も続いています。

日本の国体が1,000年以上も続いていて今も変わらないことは、歴史研究家の間で「人類歴史の奇跡」と呼ばれています。

では、源頼朝(みなもとの よりとも:1147-1199)がひらいた武家政権の誕生によって、日本はどのように独立を維持し救われていったのでしょうか。

ご存じのかたも多いと思いますが、概観してみましょう。



≪統一独立国家のはじまり≫

『日本書紀』史観では、神代(かみよ)のむかしから日本は“独立国家”とされています。

ですが、史実は異なります。

天武天皇(てんむ てんのう)の勅命による7世紀の編纂が『日本書紀』だからです。

天武の皇子、舎人親王(とねりしんのう:676-735)を編纂の総裁として、実質は藤原不比等(ふじわらの ふひと:659-720)の関与のもと、第44代元正天皇(680-748)の御世に上奏(720年)されました。

その『日本書紀』において、日本が神代の当初からの独立国家かのように記されているのです。

なぜそうなのかというと、先帝天智天皇(626-672)による「白村江の戦い」の大敗北や、その皇子大友皇子(648-672)との古代最大の内戦「壬申の乱」に勝利されて、ご即位されたのが天武天皇だからです。

天皇は、日本の危機を感じ、皇統の維持や正統性を記すことはもちろん、「日本の独立と統一国家」の建設を強く意図されて『日本書紀』の編纂を命じられたからです。

なので、以降、大和朝廷のもと日本は、統一独立国家として律令(法律)の整備がなされています。


それ以前の歴史を振り返りますと、6世紀まで九州倭国は大陸の冊封下にあり、日本も半島と関係がありました。

その冊封下から最初に離れたのは、九州倭国王と思われる「阿毎多利思比孤」(あめの たりしひこ)大王で、事実上の「独立宣言」を607年に隋王にしてからです。

有名な「日出処の天子、書を、日没する処の天子にいたす、つつがなきや…」という国書がそれです。

そののち天武天皇の御世に、統一独立国家「日本」が誕生していきます。

その象徴が『日本書紀』に記される、黄泉の国から帰ってきた伊弉諾尊(いざなぎの みこと)のみそぎでした。

伊弉諾尊は、天下を治めるべき子として、大日孁貴(おおひるめの むち:一書では天照大御神)、月神(一書では月弓尊また月読尊:つきよみの みこと)、素戔鳴尊(すさのうの みこと)の三貴子(みはしらの うずのみこ)を誕生させます。

このようなエピソードによって、当初からの独立国家として記され意識さているのです。



≪元寇=元高麗連合の来襲≫

さて、平安時代(794-1185)は、天皇をないがしろにした藤原氏の専横が続きました。

争いを避ける公家衆が事実上、政権運営をしていた時代です。

元武家だった平安末期の平家も類似です。

当時、令外官(りようげの かん)とされた武家であるよりも、公家を志向したのが平家だからです。

もし、そのような平安時代のまま「元寇」(げんこう)を迎えていたらと思うとゾッとします。

血や武力を忌み嫌うのが当時の公家衆ゆえに、戦わずして降伏したでしょう。

もしくは戦っても負けて、日本は「元」(今のモンゴル)に併呑され、その属国「高麗」(半島)の支配下に組み込まれていたでしょう。

そうなっていた場合、今の日本国はありません。

当然、私たち日本人は地上から姿を消して、私たちが生まれることはなかったのです。

「元寇」と呼ばれてはいるものの、実質は日本国に攻め込むように「元」に進言したのは「元」の支配下にあった「高麗」(半島)だとされますし、その先頭に立った戦闘要員も半島人だったからです。


しかし、日本は「天運」によって奇跡的に守られます。

「元寇」が起きたとき、すでに日本全体が武家政権になっていました。

鎌倉幕府第8代執権北条時宗(1251-1284)のもと、九州各地の御家人によって、文永の役(1274)と弘安の役(1281)の2回とも防御に成功します。

日本の独立は保たれたのです。

源頼朝による鎌倉幕府の開幕(1185)から、わずか89年後のことでした。



≪武家政権による禁教令≫

次の戦国時代(15世紀末-16世紀末)も同様です。

安土桃山時代(1573-1603)や江戸時代初期をふくめ、西欧の世界支配から逃れています。

キリスト教(旧教)の布教を先鞭とするなどして、世界を植民地支配していたポルトガル、スペインなどの武力侵攻から守れたのも、武家政権の世になっていたゆえです。

堺をはじめとした鉄砲や刀鍛冶など武器生産技術の高さと、戦さに慣れた戦国武士によってでした。

当時の日本の軍事力=武士の戦闘力は、世界最高レベルだったようです。

世界を制覇していたポルトガル、スペインも、地の果て極東に文化精神レベルも高く、軍事大国のジャポンがあったことに驚き、軍事侵攻による侵略をあきらめざるをえなかったほどです。

そこで、キリスト教による大名や庶民への布教による占領を試みます。

しかし、それも戦略を見抜いた武家政権によって失敗します。

天下人秀吉が筑前(現在の福岡市:博多)で発した宣教師や司祭を対象にした「バテレン追放令」(1587)や、さらには江戸幕府による「キリスト教禁止令」(禁教令:1612)などによって失敗に終わります。

もちろん、追放令や禁教令を発したところで、海外からの軍事侵略に対しては、強大な戦闘力(軍事力)を要した武家政権がなければ意味をなさなかったのです。



≪「草薙神剣」の“霊威”≫

すでにご存じのことばかりで申し訳ありません。

もう一つ、大英帝国ことイギリス、フランス、アメリカなど西洋諸国の植民地支配が全盛期を迎えていた幕末も同様でした。

すでにへたりはじめていた江戸幕府ですが、九州や本州西端など「薩長土肥」に代表される西南雄藩が残っていました。

日本全土が武家による諸藩であることを知った西洋諸国は、やはり武力侵攻はあきらめ、日本に内戦を起こさせることで疲弊と乗っ取りを画策します。

ですが、それを見抜いた徳川幕府最後の将軍徳川慶喜(1837-1913)は、内乱になるのを避けて、挙国一致が可能な大政奉還を行ないます。

これによって、明治新政府の誕生とともに、約700年続いた武家政権は終わりました。

もし、源頼朝による鎌倉幕府(武家政権)ができていなければ、天武天皇が意図した統一独立国家「日本」の存立が保たれていなかったことがお分かりでしょうか。

この武家政権を誕生させたのが、「草薙神剣」(くさなぎのみつるぎ)を奉斎する熱田神宮の大宮司家の娘を母にもつ、ご存じ源頼朝です。

もしかしたら、本州(山口)と九州(福岡)の間にある関門海峡の「壇ノ浦」の周辺にある地域が国防に活躍したことをみると、「壇ノ浦の戦い」で海に沈んだ「草薙神剣」の“霊威”が日本を守ったのかもしれません。









頼朝と義経の文化のレベル
2022.04.05
 
頼朝と義経の文化のレベル
― 草薙神剣が重要だった ―



◆「熱田神宮大宮司家の娘を母に持つ鎌倉殿



幼名「牛若丸」こと源義経は人気があります。

平家を滅亡に追いやった軍功からもそうなのでしょう。

一方、武家政権の世をひらいた源頼朝は、さほどではありません。

ですが、頼朝がひらいた武家政権によって日本は救われていくことになります。

それはのちの歴史のお話。

もし、義経に文化的素養があれば、その運命は違ったものになったでしょう。



≪異母兄弟の頼朝と義経≫

初代鎌倉将軍「源頼朝」(みなもとの よりとも)と、異母兄弟の弟「義経」(よしつね)の文化差は歴然です。

二人とも河内源氏の6代目棟梁:源義朝(みなもとの よしとも)を父にもちます。

ですが、母は異なります。

兄:頼朝の母は父の正妻:由良御前です。

弟:義経の母は側室:常盤御前でした。

由良御前の実家は三種の神器のひとつ、「草薙神剣」(くさなぎの みつるぎ)が奉斎されることで知られる熱田神宮の大宮司家です。

日本の文化の根因に通ずる由緒ある家柄です。

一方、九条院こと藤原呈子の雑仕女(ぞうしめ:召使い)だった常盤御前の出自やご両親は不明です。

母親の違いではなく、頼朝と義経の文化的素養のお話です。

常識にとらわれない発想や身体能力は、兄:頼朝を超えて頭抜けた義経でした。

ですが、日本(世の中)の伝統文化の把握、もしくは考慮においては、遠く頼朝におよびませんでした。



≪壇ノ浦での平家滅亡≫

ご存じのように、義経は本州と九州の間にある関門海峡「壇ノ浦の戦い」で平家を滅亡に追い込みました。

戦いに勝った義経ですが、やむをえないとはいえ、大きなミスをおかしてしまいます。

敗走する平家は、幼帝「安徳天皇」と、そのお立場の象徴「三種の神器」を持ち去っていました。

敗北が決定的になると、幼帝を抱いた平清盛の妻:時子は、三種の神器もろとも入水したといいます。

結果、三種の神器のうち、草薙神剣は回収できませんでした。

八咫の鏡(やたのかがみ)は箱ごと波間に浮いていたようですが、神剣は沈んでしまったようです。

歴代天皇の中で、最も短命で崩御された幼帝でした。

数え年で8歳です。

2歳でご即位されたため、実権は存命中の外祖父:平清盛が握っていました。

安徳天皇の母は、高倉天皇の皇后で平清盛の娘:徳子こと建礼門院です。

清盛の病没後4年めに起きた「壇ノ浦の戦い」(平家滅亡)でした。



≪頼朝の思惑を知らなかった≫

平家を滅ぼした源義経は、意気揚々と兄:頼朝に報告したのではないでしょうか。

しかし、三種の神器を手にすることが日本国のトップを象徴することを知っていた源頼朝です。

平家は滅びたものの、三種の神器とくに草薙神剣を回収できずに喪失してしまったことを熱田神宮大宮司家の娘を母に持つ頼朝が喜ぶでしょうか?

三種の神器がなければ、「京」を押さえ武家政権の世を盤石にする名目が立たないのです。

喪失した草薙神剣が本物だったのか、もしくは形代(かたしろ:レプリカ)だったのかはわかりません。

少なくとも皇位継承の儀に使われていたものであることは確実です。

そんな頼朝の思惑を知るよしもなかった義経でした。

安徳幼帝の退位もなく、神器継承もないまま、即位していたのが京にいた後鳥羽天皇です。

平家が滅び、頼朝にも神器が渡らず、喜んだ天皇からの官位を受けたのが義経でした。



≪義経の裏切り行為≫

繰り返します。

頼朝は、鎌倉政権を盤石なものにするためにも、三種の神器を手に入れたかったのです。

平家に代わってこの国を治めることはもちろん、後鳥羽天皇や京に対して優位に立つことができるからです。

しかし、京の鞍馬山で育った義経でしたが、神器の重要性は認識していなかったようです。

もしくは、知っていても軽視したことになります。

そんな文化レベルの義経だとは、頼朝も思いもおよばなかったでしょう。

一方、義経は、宝鏡:八咫の鏡(やたかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を京に持ち帰って、凱旋を果たします。

喜色満面の後鳥羽天皇だったのではないでしょうか。

ご自身のもとに三種の神器がなかったことはもちろん、頼朝の手に神器が渡らなかったことが大きいからです。

結果、兄:頼朝を軽視して、裏切ってしまったことに気づかない義経でした。



≪文化レベルが異なる≫

現在、NHKで放送されている大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が、どう描くのかはわかりません。

三谷作品は、文化よりもエンターテインメント重視だからです。

源頼朝の視点を語り部として描いた2012年の大河ドラマ「平清盛」とは異なります。

低視聴率だった「平清盛」でしたが、文化レベルは高かったのです。

ですが、NHKは今回、文化レベルよりもエンターテインメントのほうを重視したようです。

商業ベースではないNHKですが、文化よりも視聴率のほうが気になるようです。

“公共放送”という虎の威を借りて受信料金を徴収しているNHKです。

ですが日本の文化を描くことは期待できないようです。

三谷作品であることもそうですが、内部事情からなのか、他国に配慮して奥深い描写はできないのかもしれません。









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