富士山を遥拝-山宮浅間神社
2020.12.28
 
お正月も近いので、日本にお話を戻します。

初夢といえば「一富士、二鷹、三茄子」の順に縁起が良いといわれます。

そこで、静岡県富士宮市にある「富士山本宮浅間大社」(ふじさん ほんみや せんげん たいしゃ)の“富士山元宮”といわれる「山宮浅間神社」(やまみや せんげん じんじゃ)をご紹介いたします。

ここは、「富士山本宮浅間大社」から北に住宅地を抜けた5.5kmほどの閑静な山すそにあります。

「社」(やしろ)はなく、山あいからみえる富士山をご神体として、古くから遥拝されていた場所です。


※山宮浅間神社(遥拝所)からみた富士山


一般に、富士山や「浅間大社」は、「木花之佐久夜毘売命」(このはなの さくやひめの みこと)をご祭神とすることで知られています。

それは、遠方より眺望する富士山が“なだらか”で、“女性的”な印象を与えるからではないでしょうか。

しかし、この浅間大社や富士宮市から近場で見上げる富士山は、決して“なだらか”ではなく、山頂も鋭角な部分があり、富士山に抱く一般のイメージとは異なってかなり「男性的」です。

それもそのはずで、もともとのご祭神は「富士大神」や「浅間大神」(あさまの おおかみ)なのです。

実際、日本の“始原”にもつうじる古くからの「大神」の感じがします。


富士山が現在のような形態になったのは、約11,000年前~約9,000年前の断続的な噴火ののちで、その後、4,000年間ほど穏やかだったものの、約5,000年前から新富士火山としてほぼ現在にいたります。

そして、約3,000年ほど前の縄文時代後期に、4回の爆発的噴火が起きました。

奈辺で生活していた日本原住の縄文人は、そのような富士山におそれを抱き、「あさまの おおかみ」と呼んで崇拝したのかもしれません。

「“あさま”しい」といえば、現代では“ネガティブ”な意味で使われますが、古文ではそうとはかぎらず両方の意味をもちます。

それは、“予想外”や“驚くべき”といった日常ならざる形容です。

推測ですが、古代の人々は、ずば抜けた「富士山」の威容に、そのような“あさま”しさ(驚き、畏敬)を感じ、「あさまの おおかみ」(浅間大神)と呼んだのかもしれません。

もちろん、漢字は当て字です。

『続日本紀』に記された「富士」の表記が一般的になったのは、江戸時代からで、それ以前は『万葉集』では「不二」や「布士」などさまざまに表記され、『竹取物語』では「不死」、また「常陸風土記」では「福慈」といったように必ずしも定まっていませんでした。

いずれにしても、富士山本宮浅間大社の元宮「山宮浅間神社」がある富士宮市から見た「富士山」は、どちらかといえば、まさに“あさま”しく、雄々しい姿をしています。

それが、鎌倉幕府を開いた「源頼朝公」や甲斐の「武田信玄公」、また江戸幕府をひらいた「徳川家康公」が日本一の富士山を“ご神体”また本来の“ご祭神”とする「富士山本宮浅間大社」を尊崇し、数々の寄進を行なった理由かもしれません。

たとえば、武田信玄公は「流鏑馬」(やぶさめ)をご寄進し今でも伝統行事として行なわれています。

また、富士山頂を所有していた徳川家康公は、その山頂を「富士山本宮浅間大社」に寄贈し、いまや「浅間神社」が山頂に建っているのはご存じのとおりです。



●ご参考「山宮浅間神社」説明板



山宮浅間神社(やまみや せんげん じんじゃ)は、富士山そのものを祭神として祀られた場所と言われていています。境内には社殿がなく、富士山を直接仰ぎ見る遥拝所(ようはいしょ)があります。拝殿や本殿が存在しないのは、富士山体を遥拝する場所として、その祭祀(さいし)の形を留めているものと推定されています。遥拝所には、南北15.2m、東西8.4mにわたり 30~40cm程度の溶岩で築かれた斎場となる石列(れきれづ)があります。この石列は玉垣(たまがき)で囲まれ、さらにその周囲には45cm四方を区画する溶岩を積み上げた石塁(せきるい)が見られます。
神社の創建年代は不詳ですが、富士山本宮浅間大社伝によれば、山宮に遷(うつ)される前、山足の地へ祀り、その後、山宮の地に祀ったと伝えています。
かつては、浅間大社の春秋の大祭前日に、浅間大社の祭神が山宮を訪れる「山宮御神幸」(やまみやごしんこう)が行われていました。この行事に使用された行路を「御神幸道」(ごしんこうどう)と呼び、道筋の50丁(1丁=約109メートル)の間には、1丁目毎に目安の石碑が建てられていました。(現在は4基だけが残されています。)
また、「山宮御神幸」の祭神は、鉾に宿り山宮へ向かったことから、御神幸の途中休憩する際に鉾を置く「鉾立石」(ほこたていし)が設けられました。鉾立石は道筋に幾つかあったといわれますが、現在は浅間大社楼門前と山宮浅間神社の参道に残っています。
拝殿や本殿が存在しない山宮浅間神社ですが、境内には籠屋(こもりや)と呼ばれる建物があります。かつて神事の際に浅間大社の神官らが参籠(さんろう)したとされるもので、現在の籠屋は、昭和8年に建築されたものです。











「“逆説”の邪馬台国」をUP
2020.10.28
 
宝瓶宮占星学サイトに、「“逆説”の邪馬台国」の新連載を開始いたしました。


当ブログでアップした「“逆説”の邪馬台国」のシリーズを、リライトしつつ逆順に後ろの記事からアップしていくものです。

なので、初回は、最後の「“逆説”の邪馬台国-馬臺編」を、「序:ほんとうに邪馬台(壱)国はなかったwww」と題してアップいたしました。

基本的に内容は、当ブログにアップした記事と同じです。

ただし、説明を補足するなど、いくらかわかりやすく充実させたつもりです。


お気が向きましたら時間のあるときにでも、ご高覧いただけましたら幸いです。













“逆説”の邪馬台国-馬臺編
2020.10.13
【“邪馬台国”の名称問題】


「邪馬台国」の呼び名についての重大な問題提起です。

当時の日本人が倭の女王「卑弥呼」の都をほんとうに「ヤ・マ・タ・イ」もしくは「ヤ・マ・ト」と呼んでいたのでしょうか。

もちろん、いずれも違います。

「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)に、“邪馬台国”と記されているために、後世の人々が、それを「やまたいこく」や「やまとこく」と読んでしまったのです。

現代中国の発音と、魏の時代の「上古音」は、多少なりとも異なる発音の部分があることからもそういえます。

ですが、そこにはもっと根本的な問題があるのです。

それは陳寿が、なぜ「邪・馬・壹・国」(ヤ・マ・イ・コク)という文字を使って、ヒミコの“都”を表現したのかです。


1、陳寿は意図的に“邪馬壱国”と記した

“邪馬台国”まで行ったことがない「魏」の郡使らが、常に駐(とど)まった「伊都国」(いとこく)にて聞いた倭の女王「卑弥呼」の都を、彼らなりに漢字で表記したものです。

発音自体が異なりますので、聞いた音に近い“当て字”なのはいうまでもありません。

陳寿も“邪馬台国”に行ったことはありません。

そのため、過去の『魏略』や郡使などの“訪倭記録”をもとに「魏志倭人伝」を著わしています。

ちなみに、「魏志倭人伝」のなかに「邪馬壹国」(壱)という表記は、たったの1度しか出てきません。


すでにご存じのかたも多いのですが、陳寿は【邪馬壹国】(やまいこく)と書き表わしたように、現在、通称の邪馬台国の「臺」(台)ではなく、「壹」(壱)の字をもちいました。

であれば、「邪馬台国」に関する公式な史書は、「魏志倭人伝」が最も古いので、陳寿が表記したとおりに、“邪馬壱国”(やまいこく)と呼んでいてもよさそうなのですが、そうはなっていません。

ご存じのように、「邪馬台国」と記すのが常識です。

なぜでしょうか。

陳寿は、『魏略』などの記録に残る「臺」(台)の字を、かってに「壹」(壱)の字に変えて、「邪馬壱国」(やまいこく)と記したことが明らかだからです。

それは、当時の支那の学者らも認めた事実で、それゆえほかの支那の古代の史書は、ちゃんと「邪馬台国」(やまたいこく、やまとこく)と記されています。

陳寿の“邪馬壹国”(やまいこく)は間違いだと退けられているのです。


2、『翰苑』に残された“邪馬台国”

陳寿が参考にした『魏略』などをはじめ、魏の郡使らが残した“訪倭記録”などを調べれば、すぐにわかるのですが、なんせ3世紀のお話なので、その原本は残っていません。

ところが、唯一、『魏略』の「逸文」が、なんと福岡の「太宰府天満宮」に残っているのです。

「逸文」というのは、ほかの書物の中に“引用文”として残されたもので、唐の時代に記された『翰苑』(かんえん)がそれです。

太宰府天満宮には、『翰苑』の第30巻と叙文のみが残っています。

なぜ、九州倭国の“首都”でもあった「大宰府」に、いにしえの“邪馬台国”が記された『魏略』の逸文が残っているのでしょうか。

それは「邪馬台国」の比定においても興味深い事実なのです。

ですが、ここでは触れません。

今回のテーマは、なぜ“邪馬壹国”(やまいこく)と記されたのかです。


『翰苑』から『魏略』逸文(一部)を抜粋

「憑山負海 鎮馬臺 以建都」

《意味》
山に憑き、海に負い、馬臺に鎮め、もって都を建てる。


解釈いたしますと、次のようになります。

倭国は、「山」が海岸近くまで迫っており、「海」によって営み、「馬臺」において国を鎮め、「都」としている。


大陸(内陸)の魏からみれば、「海に負う」という表現は、自分たちとは異なるために珍しいことだったようです。

いずれにしても、ここには、ちゃんと「台」(臺)と記されています。

「臺」(うてな)という字は、天子直属の“政庁”などを表わすこともありますが、一般的には、“土を高く積んで人が来るのを見張るための物見台”など、高台を意味します。

彼らが、卑弥呼の“都”をこのように「臺」(台)をもちいて表現したのは、次のような理由が考えられます。


1、楼観などの「物見台」があった。

これだけだと、どこにでもあり、特徴にはなりません。別の理由です。


2、倭の女王「卑弥呼」が都としたゆえに「臺」(台:うてな)をもちいた。

これはそのとおりでしょう。
さらには、彼らお得意の“ダブル・ミーニング”が込められており、次のように解釈できます。


3、卑弥呼が都とした「邪馬台国」は、平野部ではなく台地などの「高台」(山際)にあった。


倭国に来た魏の人々が、「臺」(台)の字をもちいて表現した事実は、“邪馬台国”の所在地比定にも大きなヒントを与えてくれます。


3、なぜ「邪」の文字が付加されたのか

すると、こんな声が聞こえてきそうです。

「まてまて、“馬臺”には、“邪”の文字が抜けているではないか」

そうなのです。

陳寿は、記録に残っていた「馬臺」のままだと、「東夷」(とうい:東の野蛮人の意)の国には、“美しすぎる”と考えたようです。

まず、「馬」というのは、倭の地には牛馬がいないと「魏志倭人伝」に記されていますので、動物の「馬」がいたということではなさそうです。

また、「馬」を悪字とするのはむずかしく、現在も中国人の姓の一つで、「馬」は、百家姓の第52位になっているほどです。


一方、「臺」は、天子の政庁など高い場所を意味していますので、これまた悪字どころか、ふつう良い意味です。

なので、名文を書くものの、歴史をドラマチックに脚色して(ウソを)記すことでも知られる陳寿は、「臺」(台)には、“タイ”、“ダイ”、“トィ”、“イ”などの発音があることから、「臺」(台)によく似た「壹」(壱:イ)の字をあてました。

ですが、「馬壹国」(マイ国)だけでは、“悪字”にはまだ不十分です。

そこで、卑弥呼の「鬼道」から、「邪」(シェ)の字を頭にもってきて「邪馬壹国」(やまいこく:シェマイ国)としたようです。

人を貶める字をもちいたり、表現をして、悦に入るのは半島や大陸の悪い癖です。

失礼!

それよりも、「邪」(シェ)の意味ですね。

卑弥呼の「鬼道」は、宝瓶宮占星学サイトや当「“逆説”の邪馬台国-6」でも述べたとおりです。

死者の霊を乗りうつらせて言葉を語る「口寄せ」のことを、支那人は“鬼”の字がもつ意味から「鬼道」と表現しました。

なぜなら、中国や古代支那では、「鬼」は“幽霊”(ゴースト)や“死者”を意味するからです。

そえゆえ、死者の霊を呼び寄せて「口寄せ」(霊言、良くいえば託宣)を行ない衆を惑わす卑弥呼の“術”を、彼らは「鬼道」と表現したのです。


ちなみに、「口寄せ」は、“お日様”のもとでは行ないません。

なので「ひみこ」を、“日巫女”としたり、「天照大神」と完全同一視するのは、大きな間違いです。

また、“日食”が起きて殺されたというのも真っ赤なウソです。

正解は、「霊巫女」(ひみこ)だからです。

だいたいは、ローソクなどを灯した暗い密室などで「口寄せ」は行ないます。

そのほうが、実際に行なうのは「絶対」に避けなければなりませんが、卑弥呼のような霊媒者にとって、“霊”が乗り移りやすくなるためです。

ま、現代人ほど「科学思考」はいたしませんので、霊も共鳴しやすく、乗り移りやすかったことでしょう。

占星学からみても、当時は「双魚宮時代」の初期ですし、日本人の民族性は「魚宮」なので、「政」(まつりごと、祀りごと)に“祭祀”や“巫女”や“霊”(物の怪)は、ごくジョーシキでした。

「魏志倭人伝」にも、卑弥呼を見た人は少なく、館(部屋)にこもっていたようすが記されています。

そのとおりなのです。


4、ほんとうに「邪馬台国はなかった」(笑)

お話を戻します。

漢字一文字の意味を大事にするのが支那人です。

もっとも、明治の文明開化以降に漢字を組み合わせて、西洋の科学技術や文明を表現した“日本語”を、彼らは取り入れるようになりました。

新たな解釈が付加された漢字の“逆輸入”です。

お話はそれますが、現代中国の国名にもなっている「人民」や「共和国」は、皮肉なことに日本人が西洋言葉を訳して表現した「和製漢語」なのは有名です。

それは近年のことで、古代支那人は漢字一文字一文字の意味を重要視してもちいました。

『日中・中日辞典』によれば、「邪」には、「(迷信で死者の霊魂がもたらす)災い,たたり」と記されています。

ということから、陳寿は、女王「卑弥呼」の死者の霊魂を呼び込む「鬼道」から、卑弥呼が都とした「馬臺」を二重に貶める意味で、「臺」(台)を「壹」(壱)に変え、頭に「邪」をつけて、「邪馬壹国」(シェマトィ国)と表記したのです。

つまり、本来、“邪馬台国”(やまたいこく、やまとこく)も“邪馬壹国”(やまいこく)もありませんでした。

あったのは、『魏略』に記される「馬臺」(馬台、マトィ)国だったというのが真相です。


結局、「魏志倭人伝」に記された、たった1か所の「邪馬壹国」(邪馬台国=シェマトィ国)を、のちの人々が、“やまたい”や“やまと”と読んでしまったのは事実ですが、実際の歴史上の真実は、「馬臺」(マタイ、マトィ)という卑弥呼が“都”とした国でした。

なので、福岡の旧「山門」も、畿内の本来は7世紀以降の「大和」という呼び名も、3世紀の“邪馬台国”(マタイ、マトィ)に比定すること自体が、実は大きな間違いであることがわかります。













“逆説”の邪馬台国-書紀編3
2020.10.11
 
【『日本書紀』の中の“邪馬台国”】


今回は、神武天皇の“モデル”を生んだ「邪馬台国」をお伝えいたします。


先回までの『日本書紀』(神代)のお話はご納得いただけましたでしょうか。

『日本書紀』は、神武東征以降の「独立統一大和」“一国史”として記されました。

そのため、神武以前の歴史は、「神代」(上、下)の中に“神話”かのように記されています。

そこに記される「高天原」は、九州から東征した初代「神武天皇」ゆえに、“古代九州”での出来事であることを意味します。

さらに現実的なお話をすれば、『日本書紀』は、“紀元前660年”を「大和建国」としましたが、それには別の意味があって、実際には3世紀末に九州から「畿内東征」を行なった人物や出来事を神武東征の“モデル”の一つとしています。

このあたりの実際の歴史は、『日本書紀』の「神功皇后紀」に“3世紀”のお話として、象徴的に記されています。

いずれにしても、「高天原」のエピソードは、「古代九州」や2世紀の倭国の乱(倭国大乱)から3世紀にいたる卑弥呼や台与の「九州倭国」での出来事を、象徴的に記録したものです。


1、その後の「邪馬台国」

さて、『日本書紀』には「高天原」の「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)の天孫降臨が記されます。

その4代のちの天孫が初代「神武天皇」で、神武誕生にいたる経緯が記されています。

「神代」のお話はそこで終わり、人代にうつっては最初の「神武天皇紀」において、“大和東征”と“ご即位”による「日本建国」が語られます。

これらのお話を、史実に置き換えてみます。

「高天原」にたとえられた“古代九州”、とくには「九州倭国」において、3世紀後半に「神武天皇」の“モデル”となった人物が誕生し、3世紀末に「古代海人族」(あまぞく)の助けを受けて「畿内東征」に至ったことを意味します。

もう少し具体的に申し上げますと、「魏志倭人伝」には記されない「邪馬台国」のその後や「北部九州連合」こと九州「倭国」の一部が東征に至ったお話になります。

一例を挙げますと、3世紀末に記された「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)では、「狗奴国」(くなこく)は女王国の境界が尽きた南にあると記されていました。

しかし、5世紀前半に記された『後漢書』では、拘奴国(狗奴国)は「邪馬台国」の東に移動しているのです。


卑弥呼は、魏志倭人伝に「夫婿なし」と記されていることや、3世紀中頃には亡くなっていますので子どもはいません。

そのため、宗女(一族の女)で13歳の「台与」を2代目女王にかつぎ上げて「北部九州連合 倭国」に再び起きた内乱は治まります。

この「台与」であれば、子を生んだ可能性は充分にあります。

政略的に考えられるケースとしては、狗奴国王「卑弥弓呼」(ひみここ)を含めた「北部九州連合 倭国」を治めた“男王”との政略結婚によって、子を産んだといえるでしょう。

いずれにしても、卑弥呼と同様に御輿にかつがれた名目上の女王ながら「台与」と「その子」を旗頭に、3世紀末に「北部九州連合 倭国」を率いて東征を主導したした人物がいて、これら一連の出来事が、実在の“神武東征”のモデルです。

今回は、その人物や詳細についてまで、触れることはいたしません。


ちなみに、東征に出発した地は宮崎県の「日向」ではありません。

なぜなら、宮崎が「日向」と呼ばれるようになったのは、7世紀後半の律令制によってだからです。

『日本書紀』には記されませんので『古事記』から引用しますと、イザナギとイザナミの国生みに宮崎は出てきません。

国生みに出てくるのは、まず四国の4国と隠岐の島、そして九州の4国と壱岐に対馬です。

最後に本州が出てきます。

九州の4つの国とは、筑紫国「白日別」(福岡)、豊国「豊日別」(大分、福岡東部)、肥国「建日向日豊久士比泥別」(佐賀熊本)、熊襲国「建日別」(熊本以南)です。

宮崎が該当するとすれば「熊襲国」ですが、天皇に敵対した熊襲から初代天皇が出ることはありません。

なので、『日本書紀』に記される天孫降臨の「日向の襲の高千穂」というのも、神武の「東征」の出発地も、7世紀後半以降に「日向」となった宮崎ではありえません。

ではどこなのかというと、いまも「日向」の地名が数か所に残る北部九州(倭国)です。

奈辺が「神代」に「高天原」と記された地域です。

では、なぜ北部九州にあった「日向」の地名を、南九州に移したのかといえば、北部九州(倭国)が「天孫降臨」や「東征」の地「日向」だと、どうしても“マズイ”理由があるからです。

その代表的な理由は、次のようなことです。

「独立統一国家 大和」を7世紀以降に実際に築くにあたって、魏をはじめとした支那の冊封下にあった卑弥呼の「北部九州」(倭国)だと、“独立”の所以を保てないからです。

もっとも、「大和一国史」をとる学者らは気づいていませんが、6世紀末~7世紀初頭に、倭国王「アメノタリシヒコ大王」は、隋の高祖「文帝」に“仁義”を切り、九州「倭国」の政務を“弟”の畿内「日本国」に譲り、吸収合併させるかたちで、支那の冊封下から離れることに成功しています。

ふつうなら、支那から討伐軍が来てもおかしくないのですが、当時の隋は戦争末期でもあり、とでもそんな余力はありませんでした。

そこを読みきった「アメノタリシヒコ大王」の外交戦略の大勝利です。

なので、名実ともに日本全土は「独立国」となりましたので、問題はありません。

そのとき、隋の2代目「煬帝」(ようだい)に送ったのが、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子にいたす」という事実上の「独立宣言書」なのです。

そして隋は、その直後に滅びています。

このような輝かしい業績や仏教伝来(興隆)の実績をもつ九州倭国王「アメノタリシヒコ大王」の“功績”を奪うために、『日本書紀』(不比等)が考えた“架空”の人物が「聖徳太子」(厩戸皇子の虚像)です。

ですが、支那の史書に「冠位十二階」などを定めたのは「男王」と記されているのに、当時は女帝「推古天皇」の御世なので、誰が考えてもつじつまが合わず、摂政「聖徳太子」ではおかしいことはわかります。

わからないことを承知で、大和説の学者らは、“こじつけ”ているのです。



2、日本古来の「山族」と新参「海族」

では、“神武”は実際のところ、どのような経緯で誕生したのでしょうか。

『日本書紀』によれば、神武の父は「彦波瀲武兎鷀草葺不合尊」(ひこなぎさたけ うがやふきあえずのみこと)と申し上げます。

彦波瀲武が生まれるにあたっては、その父「彦火火出見尊」(ひこほほでみのみこと)こと“山幸彦”と、その兄「火闌降命」(ほのすそりのみこと)こと“海幸彦”のお話が、「神代」(下)に記録されています。

なぜ「山幸彦」と「海幸彦」なのかは、次のとおりです。


古代日本には、原住日本人の「山族」(広い意味では古代「海人族」もふくむ)がいました。

縄文系の彼らは河川を遡り、防御に適した豊かで開けた土地に都や群落を築き、平和に暮らしていました。

そこに南方の島々や、また西方や北方の大陸から流れてきたり、戦さに破れて海をわたってきた渡来人がいました。

彼らは、武器を持っていましたので、日本の沿岸部に住み着き国を築きます。

これが新参の「海族」です。

一方、南方のポリネシアをはじめ、古代中近東から来たフェニキアやヒッタイト系また国を失くした古代イスラエル人をふくむ「古代海人族」は、日本原住の「山族」と協力して、独自の製鉄技術などを教えて古代国づくりをすすめています。

これに対し、弥生中期前後に大陸から来た新参の「海族」は、戦争で敗北した経緯もあって、1~2世紀に北部九州で鉄器文化が栄えると、領土をめぐって争いを起こします。

それが、福岡平野で起きた「倭国の乱」(倭国大乱)です。

一方、「邪馬台国」をはじめとした日本古来からの「山族」は、広大な筑紫平野に約7万戸の“邪馬台国グループ”を築いて穏やかに暮らしていました。

それらの国邑(こくゆう)のなかで、徐福の船団の末裔にもかかわり、古くからの歴史があったのが、福岡平野にもほど近い位置にあった「邪馬台国」でした。

それゆえ、御輿にかつがれた“お飾り”ながら、邪馬台国を都とした「卑弥呼」は女王に共立されたわけです。

ちなみに、“邪馬台国グループ”(筑紫平野)の南にあった「狗奴国」は、呉から流れ着いた渡来人が相応に多かったことがわかります。

そのため、彼らは呉をバックに、当時の大陸の三国志のミニ版として、魏を後ろ盾にした「邪馬台国」(女王国連合)に戦さを仕掛けています。

そういったこともありまして、「女王国連合」の政(まつりごと)を事実上、とりしきっていた「伊都国王」(いとこくおう)は、女王「卑弥呼」の名によって、魏に援軍を要請する使いを送ります。


3、「山幸彦」と「海幸彦」

さて、神武天皇に連なる「山幸彦」と、敵対した「海幸彦」のお話に戻ります。

結局、上述したような日本古来の「山族」(邪馬台国)と、大陸から来た新参の「海族」との争いといった北部九州での歴史の一コマは、『日本書紀』(神代)に善良な「山幸彦」と少々いじわるな「海幸彦」のお話として記されています。

争いの結末は、古代海人族の「塩土老翁」(しおつつのおじ)や「海神」(わたつみ)の助けをかりた「山幸彦」に、「海幸彦」は降参して従うことになります。

従うことになったゆえに、「万世一系」とともに「独立統一大和」また「天皇のもとにある大和一族」を築くために記された『日本書紀』は、“山族”の山幸彦こと「彦火火出見尊」と、“海族”の海幸彦こと「火闌降命」を、ともに鹿葦津姫(かしつひめ:別名=木花開耶姫姫)から生まれた“兄弟”として描いています。

詳しくは、『日本書紀』「神代」(下)をご確認ください。

「和をもって貴しとなす」からはじまる“憲法17条”もそうですが、『日本書紀』の隠し「テーマ」は、大和民族の「和」なのです。


ご存じのとおり、山幸彦こと「彦火火出見尊」(ひこほほでみのみこと)は、『日本書紀』(神代)に記される天孫であり、“山族”の「邪馬台国」に由来して象徴化された人物です。

なぜなら、山幸彦に象徴される“山族”(邪馬台国)は、天孫が娶(め)とった鹿葦津姫の母「大山祇神」(おおやまつみのかみ)に連なって“神武”の祖父「彦火火出見尊」を生んでいるためです。


鹿葦津姫の子「彦火火出見尊」は、古代海人族すなわち博多湾を拠点とした「安曇族」(綿津見三神、少童命:わたつみのみこと)や「住吉大神」(住吉三神、筒男命:つつのおのみこと)と協力関係にありました。

それが史実として裏付けられるのは、同じ「北部九州連合 倭国」を形成していたからです。

“神武天皇”(山族)が瀬戸内海を東征できたのも、「海神」(安曇族)や「塩土老翁」(住吉大神)など古代海人族の協力があったゆえです。

ちなみに、『日本書紀』に“3世紀”の歴史として記される「神功皇后紀」においても同様です。

神功皇后とその子「ホムタワケ」(応神天皇)による“大和帰還”という名の「東征」においては、瀬戸内海を進むにあたり「住吉大神」が助けたことが記されています。

このようにして、3世紀末に“台与”と“その子”を旗頭とした「北部九州連合 倭国」は、当時、纒向があった畿内国(ヤマト)へと“東征”に向かったのです。

これらが、初代「神武天皇」の東征の“モデル”になった一連のエピソードです。


ご理解しやすいように、“状況証拠”を交えて記した細かな差異の部分はあるとしても、大筋の流れとしては上述のようになっているのです。











“逆説”の邪馬台国-書紀編2
2020.10.09

【『日本書紀』の中の“邪馬台国”】


先回の続きです。

何のために『日本書紀』は編纂されたのでしょうか。

学者は、『日本書紀』が漢文による編年体で記されていることから“海外向け”だとし、『古事記』は大和ことばを漢字をもちいた当て字で表記されていることから“国内向け”だとしています。

失礼ながら、上から目線で採点すれば30点程度の回答です。

相応の編集経験からいえば、『日本書紀』には明確な“編集方針”があります。

このことを理解しないと、“字づら”に目を奪われて、『日本書紀』が記したくても書けなかった歴史の“行間”が見えなくなります。

逆にいえば実際の歴史を曲げてでも“作文”せざるをえなかった箇所もあるのです。

『日本書紀』の「編集方針」に関しては、かなり前に「宝瓶宮占星学」サイトで触れたので、詳しいご説明はいたしませんが、結論を記せば次のようになります。


『日本書紀』の編纂方針

1、「万世一系」の皇統が第一の目的。

2、初代「神武天皇」からの独立統一大和として記す。

3、豪族臣民は天皇に連なる“一族”であることを記す。

4、できるだけ史実に沿って記す。


重要度(優先順位)は、番号順です。

これら、1、「万世一系」は絶対方針で、2、「独立統一大和」としての一国史はメインテーマで、3、天皇を中心とした「一族」としての大和民族は、“和”また“一体感”をもたらそうとするものです。

そのうえで、4、「実際の歴史」を史実に沿って、できるだけ“忠実”に記そうとしたのが『日本書紀』です。

もちろん、記録や伝聞に残っていた範囲でのお話です。


1、「万世一系」の象徴「文武天皇」

以上を、簡単にご説明しておきます。

初代「神武天皇」以来、“ヤマト”(畿内)における7世紀末の第42代「文武天皇」にいたる「万世一系」だけは、どうしても譲れないのが『日本書紀』です。

天武と持統の孫、珂瑠皇子(かるのみこ)を「文武天皇」としてご即位させ、「万世一系」を確立させることが『日本書紀』の第一目的だからです。

そのため、持統天皇が孫の珂瑠皇子に譲位し、「文武天皇」がご即位したところで『日本書紀』は終わっています。

結局、「文武天皇」の“正統性”を記しているのです。

以降、天武系と持統天皇の天智系によって皇統が引き継がれていきます。

そこにいたるために、神武以来の系譜(皇統)を操作した箇所がないとはいえません。

ですが、あえて言わせてもらえば、詳細は省略せざるをえませんが、結局のところ日本古来の“皇統”に現在は戻っているといえます。


2、神武以来の“統一大和”一国史

「万世一系」の次は、初代「神武天皇」以来の「独立統一大和」の一国史として記すことです。

歴史的事実としては、6世紀末~7世紀初頭に畿内「日本国」と九州「倭国」が合併してのちが統一大和なのですが、畿内「日本国」は、神武の“モデル”となった人物が3世紀末に東征して“国譲り”を受けた、いえあば“弟国”(独立国)です。

つまり、“兄弟国”なので、広義の意味では「大倭国」(大和)といえなくもありません。

このような『日本書紀』のカラクリを見抜けないと、当初からの大和国家だったと勘違いし、「邪馬台国はヤマト(畿内)だ」という“ファンタジック”な思考の“ヤカラ”が出ることになります。

何を書いているのかというと、次のようなことです。

『日本書紀』は、古代からの“統一独立国家”「大和」として描いたために、紀元前660年の神武天皇以前に「国」はなかったことにしました。

しかし、実際は神武の“モデル”となった人物の東征によって「ヤマト」(畿内国)がはじまっていきます。

ところが、その史実を『日本書紀』は、書き残せないのです。

繰り返しますと、当初からの「統一独立国家」(大和)としたために、実在の“神武”による「ヤマト東征」(畿内東征)以前からあった全国各地の実際の「国々」の存在や歴史を書き残せなくなったのです。

ここが重要なのです。

畿内国の時代に、“神武”が出発した九州に筑紫国などの倭国があり、四国には阿波国があり、瀬戸内海には吉備国があり、日本海側には出雲国、丹後国、越国などがあり、ほかにも尾張国や関東王国など、少なくともその前身となる国邑(こくゆう)がありました。

それらの国の存在を記せなくなったために、今も多くの人々の意識にのぼってきにくくなっています。

結局、『日本書紀』は、ヤマト(東征)以前の歴史のなかで、重要な九州「倭国」と、出雲国をはじめとした本州「大国主連合」(仮)の歴史を、「神代」(上、下)に、“神話”かのように書き記したのです。

そのため、“神話”のようにみえて「神代」(上、下)は、実際の古代史を「史実」をベースに書き残したものです。


もし、「神代」のお話がまったくの「神話」なら、かってに“創作”できます。

適当でもいいし、都合のいいように書けるのです。

ところが、『日本書紀』の「神代」(上、下)を読まれた方ならご存じのように、「神代」には多くの「一書」(あるふみ、別伝)が多く残されてています。

創作された「神話」ならそのようにする必要はありません。

ちなみに、「神代」の分量を比較すると、「本文」が2割弱なのに対し、数々の「一書」(別伝)は7割を超えるページが割かれているのです。

この一事をみても、数々の記録や言い伝えが残る、“神武”以前の歴史をなるべく忠実に書き残そうとしたことがみえてきます。

逆に、神武天皇にはじまる「人代」(歴代天皇紀)に入ると、「一書」はありません。

そういう体裁を『日本書紀』はとっているのです。


3、「神代」に出てくる大已貴神の国

では、「神代」には、どんな歴史が書かれているのでしょうか。

1、神代(上)
「神々の誕生」と「高天原」の天照大神と素戔嗚尊、さらには「大已貴神」の古代の国づくり。

2、神代(下)
大已貴神がつくられた古代国「葦原中国」(あしはらの なかつくに)を天孫族が平定、高天原からの「天孫降臨」、そして「神武誕生」にいたる系譜(エピソード)です。


ここで「神代」は終わり、いよいよ「神武天皇紀」がはじまっていきます。

「大和東征」と「ご即位」(建国)が描かれます。

つまり、「神代」(上、下)は、“神武”のモデルとなった実在した人物による実際の「東征」以前の「古代日本」の姿を記しているのです。

当初からの「独立統一国家 大和」一国史として記すのが『日本書紀』なので、建国以前に実際の国があったことやその歴史は、リアリティーをもって書けません。

そのため、“神話”かのように「神代」に記しているのです。

ちなみに、日本語の“神”は、西洋の「創造神」(THE GOD)とは異なります。

「かみ」(神)は、「お上」(おかみ)や「上流」また「おかみさん」などのように、“支配層”や“古い”(昔)また“生まれ出る源”などのことをさします。

つまり、「神代」という意味は、西洋的な神々のお話(神話)という意味ではなく、神武が建国する以前の「古代」、すなわちヤマトが生まれ出る“源の歴史”といった意味をもちます。

そこで活躍したのが「神」(かみ)であり、また「貴」(むち)や「命」(みこと)「尊」(みこと)など「とうといお方」という意味です。

『日本書紀』は、なるべく歴史の事実を残そうとしましたので、日本の礎を築いた“尊い”先人たちを、そのように「神代」で尊称をつけて記したのです。


素戔嗚尊(すさのおの みこと)につらなる大已貴神(おおあなむちのかみ:大国主命)の古代の国づくりもそうです。

この国は、実在した「出雲国」をはじめ、大国主神(おおくにぬしのかみ)らによる本州「大国主連合」(仮)のことで、神武東征によって“解体”していきました。

その“集会地”こそが、ヤマト(畿内)の纒向です。

なぜそうなのかは、“神武”のモデルとなった実在の人物によって、“国譲り”をさせられた神々は、結局、大已貴神の国づくりを助けた「大物主神」(おおものぬしのかみ)は、大神神社(おおみわじんじゃ)こと「三輪山」に祀られ、大已貴神(大国主神)は、出雲の「出雲大社」(いずも おおやしろ)に祀られるからです。

ちなみに、「神武天皇紀」では、饒速日命(にぎはやひのみこと)の国譲りとして記されます。

これは、物部氏こそが「大国主神」に連なる日本古来“大”の“国主”だったことを意味します。


4、「神代」に出てくる九州「倭国」

一方、「神代」に出てくる「天照大神」や皇祖「高皇産霊尊」(たかみむすびのみこと)は、どの国を象徴しているのでしょうか。

天孫族がいた「高天原」は、九州「倭国」を意味します。

理由は簡単です。

初代「神武天皇」は、当時はどこだったのかはともかく“日向”すなわち「九州」からヤマト東征に出発したためです。

天孫降臨した「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)の4代目「神武」が東征に出発した場所は、「神代」でいう「高天原」にかかわる実在の地です。

なので、「高天原」は神武が東征に出発した「九州」(倭国)なのは明白です。

ちなみに、なぜ「高天原」と呼ぶのかというと、皇祖「高皇産霊尊」と「天照大神」の国だったからです。

2人の頭文字をとって、「高」+「天」+原(国)です。

「神代」に記される「高天原」のエピソードは、「古代九州」また「九州倭国」で起きた出来事を、コンパクトかつ象徴的にまとめたものです。


皇祖「高皇産霊尊」も九州にいました。

北部九州には「高木神」を祀る神社や伝承(エピソード)が数多く残っています。

明治以降、天皇家の先祖「皇祖神」となった「天照大神」も、元は九州なのですが、こちらは少々複雑です。

なぜなら、『日本書紀』は、天皇と臣民が一体の「統一大和民族」を形成するために、「天照大御神」を崇めれば、すべての臣民が自らの“先祖神”を祀ることになるよう、天照大御神のエピソードを少々創作したからです。

ベースは、当初、九州にいた物部氏の祖「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてるくにてるひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひのみこと)で、「男神」です。

ですが、『日本書紀』は、天照大神を“キャラ変”させて、素戔嗚尊との誓約(うけい)を記すことによって“血統”を交錯させ、高天原の天照大神を出雲系と融合させる記述を「神代」で行なっています。

さらには、九州「倭国」の卑弥呼(台与)をはじめとした豪族らの王や先祖神を「天照大神」に“習合”させて、日本(大和)の“象徴神”に巧みに仕立て上げています。

ここでは、「女神」にもなって、後世の第41代「持統天皇」との類似性をもたせる工夫をしています。

それは、『日本書紀』の狙いなのです。

どういうことかというと、「天照大神」を祀れば日本全国の豪族臣民らが自らの“王”や“女王”また“先祖神”を祀るのと同義にして、「天皇」のもとに結集できるようにしたものです。

それゆえ、日本ではときの権力者が替わろうとも、“和”の象徴「天皇」には手出しをしなかったのです。


5、ご参考

ご参考に付記しておきます。

『日本書紀』のこのような「編纂方針」は、7世紀当時の国内外の情勢に起因しています。

“権力亡者”ともいえるハネっかえりの「中大兄」(なかのおおえ:天智天皇)は、朝鮮半島での「白村江の戦い」に大敗し、日本国は「唐羅連合軍」からいつ攻め込まれてもおかしくない極東情勢のなかにありました。

ただし、唐と新羅は仲たがいをはじめ戦争になりましたので、日本を攻める余裕はなかったことがのちにわかりました。

さらに、国内に目をむけても、ようやく天皇に即位した中大兄こと「天智天皇」は、病床で正統な後継を無視して、息子の大友皇子(おおとものみこ、:追諡:弘文天皇)に皇位を託します。

これによって、古代最大の内乱「壬申の乱」が起きました。

大友皇子を倒して、「壬申の乱」に勝利した大海人皇子(おおあまの おうじ)こと「天武天皇」は、自らの「皇統」の正統性を証明すると同時に、千年のちも皇位争いを起こさないことを誓います。

同時に、日本を一つにまとめて海外に対抗できるパワーをそなえるべく、『日本書紀』の編纂を命じたのです。

そういった壮大なグランド・デザインのもとに、「独立統一国家 大和」を早急につくる必要がありました。

その“バックボーン”となるのが『日本書紀』です。

天武の皇子「舎人親王」(とねりしんのう)と当時の状況を理解した「藤原不比等」(ふひと)は、「万世一系」の確立と、「天皇」のもとに臣民が一致団結した「独立統一国家」を築くために、天武天皇の遺志を受け継ぎつつ、『日本書紀』を編纂したのです。












“逆説”の邪馬台国-書紀編1
2020.10.06
 
【『日本書紀』の中の“邪馬台国”】


先の「“逆説”の邪馬台国-番外編」で終わろうと思ったのですが…。

ついでなので『日本書紀』編を書いておきます。

そのまえに、なぜ、“逆説”とタイトルをつけたのかというと、『逆説の日本史』の第1巻に「卑弥呼」や「邪馬台国」が、新たな解釈をふくめてでてきます。

たとえば、“卑弥呼は日食で殺された”や、“卑弥呼は天照大神だった”などです。

一見、なるほどと思える説なのですが、事実は異なります。

小説家でもある著者は、どうやらあまり深く調べたのではなく、意外性のある面白い説得力のありそうな説を書いたただけなのかもしれません。

唯一、倭の女王「卑弥呼」が記される「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)や、「邪馬台国」があった「倭国」が記される古代支那の史書をよく読まれてはいないようなのです。

そんなこともあって、“本当”の「卑弥呼」と「邪馬台国」の比定に役立つ「あれこれ」を書いてみようと考えて、“逆説”を拝借し、はじめたのが「“逆説”の邪馬台国」シリーズです。

最初は3~4回で書き終わると思っていました。

ですが、書いていくうちに今回で12回になります。

最後に支那の史書だけではなく、「邪馬台国」が直接出てくるわけではありませんが、『日本書紀』のなかの“邪馬台国”にも触れておいたほうがいいと考えて補足することにしました。


1、三数思考(クオリアル・シンキング)

それを述べる前に、順番が前後しますが「邪馬台国」を解明する手法を書いておきます。

「数理法則とクオリアル・ワールド」(伝授講座)から宇宙この世界をつらぬく「数理法則」によって、真相の解明には「三数思考」(クオリアル・シンキング)が重要です。

かんたんにいえば、この世界が「三次元」から成り立っているように、一方向からのみでは「実像」がつかめないのです。

商品の大きさを「タテ×ヨコ×奥行き」で記し、ときに「重さ」も記すように、「基本三数」3(4)数が必要です。

「邪馬台国」の所在も同様です。

「史書」だけでなく「考古学」も必要ですし、全国各地の古代の「時代考証」も必要です。

そういった、最低限まったく異なる3つの方向から検討しないと正しい所在地はみえてきません。

邪馬台国「所在論争」が起きるのは、「魏志倭人伝」の一部しかみていなかったり、「考古学」の一部しかみていなかったり、「一部地域の歴史」しかみていないなど、いずれにしても客観性を欠いて“部分”のみをみて“絶対”だなどと決めつけるからです。


2、「山門説」の一例

たとえば、「魏志倭人伝」をよく読まれていたり、地方の歴史年代を把握されてるとは思いますが、重要な一節を見逃してしまうと、「山門説」や「八女説」になってしまいます。

「魏志倭人伝」に記される位置関係からは残念ながら、当てはまりません。

「山門説」や「八女説」など筑紫平野の南端部の場合、「女王国」(広義の邪馬台国)の北に「伊都国」(いとこく)、「奴国」(なこく)、「不弥国」(ふみこく)があったというのはなんとか該当しますが、「邪馬台国」の南に「21の某国」があったと記されていることに該当しないためです。

「魏志倭人伝」には女王(国)の境界が尽きたその南に「狗奴国」(くなこく)があったと記されています。

狗奴国は、現在の「菊池」など“熊本県界隈”です。

旧「山門」(みやま市瀬高町)は、その南の丘陵や山を挟んで、すぐに熊本県になります。

今もむかしも「川」や「山」が国境(県境)になるのは、生活圏が異なるために変わりません。

つまり、「邪馬台国」の南にあったと記される「21の某国」が存在できる余地が「山門」や「八女」の場合、ないのです。

また、魏の郡使は「邪馬台国」には行っていません。

「伊都国」に駐(とど)まっています。

などの理由から、旧「山門」や現「八女市」は、「邪馬台国」に比定するには明らかに位置関係が「魏志倭人伝」の記述に合わないのです。


3、考古学の陥穽(かんせい)

「三数思考」をもちいると「魏志倭人伝」だけでなく、その資料となった『魏略』(逸文のみ)をはじめ、「倭国」について記される『隋書』『旧唐書』『新唐書』も参考にすることになります。

さらには、直接は記されませんが『日本書紀』も参考にすることで文献から“邪馬台国”の位置が浮かび上がってきます。

文献だけをみても、3つ4つをみないと「邪馬台国」の所在は比定できません。

ですが、文献だけでも片手落ちなのです。

それを確実に証明する「物証」が2番めに必要だからです。

それが「考古学」などですが、考古学も1か所だけでなく「三数思考」によって異なる3点をみることが必要ですし、自分の地域だけでなく、邪馬台国が存在した3世紀の古代日本の全体的な出土状況をみないと、正しいご判断はできません。

考古学によって3世紀の日本全国のすべてが出土していれば、比較検討して「比定」することは相応に可能です。

ただし、日本全国を掘り起こすことは不可能ですし、考古学だけではムリです。

まして一部の地域だけの出土で比定するのは、“無謀”というほかありません。

ちなみに、3世紀の畿内は「青銅器文化」と「石器」がメインで、大陸は遠すぎて交流は行なわれていませんでした。

もし、行なわれていたのであれば、大陸に近い北部九州のように3世紀の「鉄鏃」(てつぞく)などの鉄器製品が相応に出土してもいいはずです。

ですが、ほとんどみられません。

今や多くの関係者が知ることですが「畿内説」学者や研究者は、マスコミを巻き込んで纒向説への“こじつけ”がひどいことで知られています。

良識的な多くの学者や研究者また一般のマニアでさえも、そのことを見抜いてあきれているのです。

「日本学術会議」ではありませんが、古代史や政策などの人文分野では、学者の“権威”などあてになりません。

なぜなら、結果的に間違っていることのほうが多いからです。

ほかのページにも書きましたが、かつて「出雲国」なんて神話にすぎないという歴史学の大家がいましたが、全国の出土数を上回る銅剣が一気に出雲の荒神谷遺跡から出土したことがあります。

感想を求められた大家は、なにも答えられませんでした。

最近の言葉でいえば表現は悪いのですが、“学歴のあるバカ”のたぐいで、“専門”(一部)しか見ておらず、「古代史」や「政治」などのように広く世界全体をみて判断しなければならない分野では、狭い分野にはなるほど間違うことが起こりやすいのです。


4、『日本書紀』の「邪馬台国」

それはともかく、日本の成り立ちを記した『日本書紀』にも当然、「邪馬台国」はシンボリックに記されています。

日本古来からの“万世一系”を記し、“統一独立国家”「大和」を記した『日本書紀』は、九州“倭国”をはじめ各地の歴史を取り込んで、「統一大和一国史」として記しているからです。

この意味は重要なのです。

初代「神武天皇」ご即位以前の「神代」(上、下)の部分など古代はとくにそうです。

先に結論をいえば、古代九州「倭国」は、“高天原”としてが描かれていることが多いようです。

一方、国譲り以前の本州「大国主国連合」(仮)は、“出雲”や“大已貴神”(おおなむちのかみ)の活動などをして描かれています。

このあたりの『日本書紀』の記述は、100%正しいというのではなく、「神代」(上下)には数々の「一書」(あるふみ=別伝)が併載されていることからもわかるように、当時の“記録”や“伝承”が少なく、各豪族によって交錯していたこともあって、相応に“創作”を交えて記されています。

なので字面どおりに『日本書紀』を読んでも“正解”にはいきつきません。

どのような“意志”(意図、考え)のもとに『日本書紀』が記されたのか、その“編纂方針”などを見抜ければ、記述のカラクリ(レトリック)がみえてきます。

天武天皇がなぜ『古事記』や『日本書紀』の編纂を命じたのか。

当時の国内外の情勢がどのようなときに天武は「天皇」になったのか、なぜ“大海人皇子”だったのかなどともかかわっています。

また、天武の皇子で編纂委員長をつとめた歌人「舎人親王」(とねりしんのう)や“卓越”したアドバイザー「藤原不比等」(ふじわらのふひと)が、どのように日本古来からの“万世一系”や“統一独立国家”を記そうとしたのか。

その「編纂方針」や、もちいられている「表記基準また「論理展開」を見抜ければ、隠された実在の九州「倭国」や「邪馬台国」また「卑弥呼」が“おぼろげ”ながらでもみえてきます。

もう一つ重要なのは、大和統一のために、日本各地の有力な豪族たちや国邑(こくゆう)を、どのようにして「天皇」のもとに結集せしめたのか。

その「ノウハウ」などが『日本書紀』の記述からみえてくると、有力な1国でもあった「倭国」や「邪馬台国」また「卑弥呼」の姿がシンボリックながら明らかになっていくのです。

詳しくは後日、機会をみてお届けいたします。











“逆説”の邪馬台国-番外編
2020.10.02
 
【畿内“日本国”の正体】

「卑弥呼」と「邪馬台国」は、シナの古代史書にしか記されていません。

そのひとつ『旧唐書』には、「倭国伝」と「日本伝」が併記されています。

次の『新唐書』になると「日本伝」のみになりますが、そこには「倭国」と「日本国」とが“合併”また“国名変更”をしたことが記されています。

唐直前の時代がそういうことで、それ以前の「魏志倭人伝」(『魏志』倭人条)に記される「卑弥呼」また「女王国」の3世紀には少なくとも「倭国」と「日本国」があったことがわかります。

もし、これらの史書を“偽書”だと否定するなら、「邪馬台国」そのものが“なかった”としなければつじつまが合いません。

事実は、唐がはじまる直前までは、「倭国」と「日本国」があったのですが、唐の時代(618年~)にはすでに「日本国」に合併していたのが事実です。


1、畿内は「邪馬台国」か

すでに滅びた「邪馬台国」です。

畿内の纒向遺跡が“邪馬台国”でもなく、箸墓古墳が“卑弥呼”の墓でもない、ごく簡単な理由があります。

まず、一般に「邪馬台国」(やまたいこく)を“ヤマト国”と読む人がいます。

しかし、そんな固有名詞の国はなかったかもしれません。

支那人がわざわざ「台」の字を用いて「邪馬台国」と表記した以上、天子直属の政庁“うてな”(台)に相当する女王「卑弥呼」の“都”「ヤマ国」を、“邪馬台国”と表記したかもしれないのです。

一方で、世々「王」がいて、一大卒がおかれ、政治の中心として諸国を検察していた「伊都国」は、当時の“倭国”(女王国連合)の“首都”機能を果たしていたために、“都”の文字が用いられています。

文字にウルサイ古代支那人は、“首都”の「都」(伊都国)と女王の“都”の「台」(邪馬台国)を使い分けたのです。

それゆえ陳寿は、逆に東夷の「倭の女王」の“都”とはいえ天子(皇帝)の直属にもちいる「台」(臺)の字を使うのは、“けしからん”と考えて、邪馬臺国(台)ではなく“邪馬壹国”(壱)に変えて「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)を記したのかもしれません。

まあ、「壹」(壱)でも“もっぱら”という意味がありますので、そう悪い意味ともいえません。


それはともかく、「邪馬台国」を“ヤマト国”と呼んで、それがのちの「大和朝廷」になったと畿内説学者らは考えているのです。

また、このことを根拠に、“邪馬台国は「大和」であり畿内だ”と単純にとらえるかたもいるようです。

本当でしょうか?

もし、そうなら、初代「神武天皇」以来、万世一系の「大和」を記したのが、ご存じ『日本書紀』です。

なので、3世紀の項目に「ヒミコ」が“女王”(女帝、天皇)の一人として堂々と明記されていなければなりません。

ですが、どこにも女王「卑弥呼」が記載されていないのはなぜなのでしょうか。

“決め手”となるお答えは、後述いたします。


2、九州「倭国」は6世紀まであった

「統一大和」(7世紀以降の大和朝廷)は、奈良盆地であって、3世紀の「邪馬台国」があったと畿内説学者は主張しているのですが、そうであればあるほど大和朝廷の正史である『日本書紀』に、女王「卑弥呼」が何らかのかたちで記されていなければおかしいのです。

さらに、彼らは、纏向遺跡から3世紀のあったと思われる“巨大宮殿”の跡が出土したから“卑弥呼”の宮殿だと決め付けています。

ですが、実は確実な“決め手”となる証拠は出ていないのです。

そういった畿内学者の説やマスコミ報道を読んで、一見、なるほどと思われる方もいらっしゃるでしょう。

それは『日本書紀』に記される初代“神武天皇”の古来から、日本は一つだったとする「統一大和史観」が刷り込まれているからです。

後述いたしますが、そういえる「統一大和」が誕生したのは7世紀に入ってからです。

実際、『日本書紀』にも畿内から、日本全国各地に将軍や皇子また天皇ご自身が征討に向かったことが記されています。

ほかに国が各地にあった事実は記さざるをえなかったのです。

「統一大和」がはじまる直近の6世紀でも、継体天皇の時代に畿内“ヤマト”に服属しない「磐井の乱」が北部九州で起きています。

『日本書紀』には、“鎮圧”したかのように記されていますが、結果は「糟谷(かすや)の屯倉(みやけ)」一つしか献上されていないところをみると、実際はせいぜい“和睦”でしかありません。

つまり、九州「倭国」は、唐に至る直前の時代まで、存続していたのです。

これについても後述いたします。


さて、『日本書紀』に「卑弥呼」は出てこないと書くと、畿内説のかたは次のように反論するでしょう。

「卑弥呼」ではなく別の名前「天照大神」で出ている。

詳しいご説明は面倒なので省きますが、「天照大神=卑弥呼」ではなく、天照に象徴される一部にすぎず、「天照大神>卑弥呼(各地の王や神)」というのが正解です。

なぜ、卑弥呼を「天照大神」だと間違って解釈するのかというと、「卑弥呼」を証拠もなく推測で、“日巫女”に違いなだと決めつけてしまうからです。

まず、事実は卑弥呼は「鬼道」につかえていました。

しかし、「天照大神」が、そんな鬼道をもちいた記述はありません。

「“逆説”の邪馬台国-6」でも書いたとおり、「鬼道」をもちいた卑弥呼は、“日巫女”などとは真逆に「霊御子」(霊見子)であることを見逃しているのです。

現代人は、そのことを忘却してしまいました。

鬼道ゆえに、「ひ」は古代の“霊”(高皇産霊尊:たかみむすひの“ひ”)のことでしかありえません。

死者の“霊”(ひ)を呼び込んで、口寄せをすることを支那ではゴースト(幽霊)“という意味の“鬼”をもちい鬼道”と表現しました。

もう少しかっこよくいえば“託宣”を「ヒミコ」は行なっていたのです。

それゆえ、太陽の神でもある「天照大神」と真逆で直接の関係はありません。

「卑弥呼」が“日食”で殺されたという説も、まったくの推測であって、それが真実だとする根拠はどこにもないのです。

事実、畿内でも九州でも当時、皆既日食は実際には起きていないことがわかっています。

にもかかわらず、“日巫女”ゆえに“日食”で殺されたと信じ込んでいる人が多いのです。


3、“大和帰還”は「畿内国東征」だった

では、天照大神が卑弥呼ではないとしたら、それ以外に3世紀の「ヒミコ」に相当する“女帝”(天皇)は『日本書紀』に記されているのでしょうか。

残念ながら、現在の『日本書紀』には見当たりません。

初めて“女帝”が記されているは、7世紀の「推古天皇」だからです。

3世紀の卑弥呼とは時代が合いません。

ところが、ところが。

応神天皇の母親である「神功皇后」(オキナガタラシヒメ)は、かつて『日本書紀』では「天皇」とされていました。

学術的な生存年代はともかく、『日本書紀』の年代では、“神功皇后”はピタリ「3世紀」の人物として記されています。

畿内論者からは、「ほらみろ!」という声が聞こえてきそうです。


でも違うのです。

『日本書紀』には、次のことが記されています。

3世紀後半~末あたりに「神功皇后」は、子供の応神天皇(ホムタワケ)とともに「大和帰還」を果たします。

皇位を簒奪しようとしたホムタワケの兄「忍熊王」(オシクマ)らを討ちとったことが記されています。

では、どこから“大和帰還”をしたのでしょうか。

『日本書紀』にちゃんと記されています。

応神天皇は「筑紫」(九州福岡)で生まれています。

その応神を抱えて、神功皇后は「北部九州」から“大和帰還”を果たしているのです。

つまり、応神も神功皇后も「北部九州」(倭国)にいたことを『日本書紀』は記しています。

万世一系を主旨とする『日本書紀』ゆえに、“大和帰還”と記さないとつじつまが合わなくなるのですが、実際は「大和東征」です。

それを住吉大神こと武内宿禰の助けを借りて行なっているです。

この一事は、「神武東征」の実在の“モデル”の一つともなっています。


かといって、神功皇后は「卑弥呼」ではありません。

卑弥呼は、すでに邪馬台国で亡くなり、魏志倭人伝にも「夫婿(ふせい)なし」と記されていることから、結婚はしておらず子供もいません。

ここでいう“神宮皇后”は「トヨ」(台与)のことなのです。

「邪馬台国」を“都”とした女王「卑弥呼」を共立した「女王国連合」は、卑弥呼の死後、男王が立つも再び乱れ、2代目女王「トヨ」を13歳にして立てて治まります。

新たな“女王国連合”こと「北部九州連合」は、大人になり“御子”を産んだ女王「トヨ」を旗頭に、当時の3世紀末の「畿内国」(のちの日本国また大和)へと“大和帰還”と記される実際上の「畿内東征」をしているのです。

そこで、“国を譲り受けた”ために、のちの「天皇」(大王)の和風諡号には、「豊」(トヨ)という文字がよく出てきます。


4、大和(大倭)は7世紀から

ほかにも、いくつか書いておきます。

畿内が、「大和」(大倭)と呼ばれるようになったのは、小国「日本国」が九州「倭国」を吸収合併するかたちで統合された6世紀末~7世紀初頭のことです。

「倭の女王」卑弥呼の倭国は、それまでどこにあったのでしょうか。

『隋書』『旧唐書』『新唐書』などを読むと、倭国には「阿蘇山あり」と記され、さらにハッキリと「竹斯国」(筑紫国)と記されていて、さらには「倭王は筑紫城に居す」とまで記されています。

ご賢察のとおり、北部九州(福岡界隈)です。

6世紀末の九州「倭国」王“アメノタリシヒコ大王”は、隋の文帝に「政務を弟に委ねる」と、これまで冊封下にあった“仁義”をきると、6世紀末~7世紀のはじめに、弟国の畿内「日本国」に九州「倭国」合併させるかたちで支那の冊封下から離れて“独立”を果たします。

それが、畿内「大和」(大倭)、すなわち「日本国」のはじまりです。

合併後、アメノタリシヒコは、隋の2代目 煬帝(ようだい)に書簡をあてます。

それが有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子にいたす、恙なきや」という“天子”どうしの挨拶で、事実上の「独立宣言書」なのです。

もちろん、支那は、そんことは恥ずかしくて「史書」(隋書)に詳細を残してはいません。

ですが、『旧唐書』に併記されていた「倭国」伝と「日本」伝は、次の『新唐書』になると「日本」伝のみに改められて、「統一大和」の姿が浮かび上ってきます。

つまり、古い『後漢書』また「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)に記されていた九州「倭国」と、畿内(本州)「日本国」は、歴史の事実としては「7世紀」に“統一大和”(大倭)を築き、ここから大和朝廷へと連なっていきます。

「畿内説」の“学者センセイ”に言わせると、これらは“偽書”なのだとか…。

ですが、畿内説(纒向説)学者や研究者は、“詭弁”を弄してなんでも“こじつけ”ることは、すでに良識的な考古学者や研究者のあいだでは、よく知られたお話です。


5、「纏向遺跡」の正体

では、最後に3世紀の畿内は、倭国の「邪馬台国」でもなく、「大和」でもなかったのであれば、「纏向遺跡」や出土した「巨大宮殿」はなんなのでしょうか。

答えは簡単で、考古学の常識を無視せずにいえば、「青銅器文化圏」の国です。

九州「倭国」は、2世紀にはすでに「鉄器文化圏」に移行していたことが考古学から明らかで、「魏志倭人伝」に記される鉄鏃(てつぞく:鉄の矢じり)なども数多く出土しています。

いくら、巨大宮殿遺跡が出たからといって、「邪馬台国」と書かれているわけでもなく、3世紀はまだ別の国だったのですが、あえて答えを申し上げますと、“出雲”を盟主とするゆるやかな本州「大国主連合国」の“集会地”だった場所です。

なぜかといえば、出雲につうじる「青銅器文化圏」もそうですが、『日本書紀』によれば「神武天皇」によって“国譲り”が行なわれた地だからです。

初代「神武天皇」が御即位された“紀元前660年”、この時代の“神武”のモデルとなった人物や出来事については、ここではふれませんが、3世紀後半~末の時代に畿内国に「東征」し、“神武”のモデルの一つともなった実在の人物は、『日本書紀』にも記されるとおり上述いたしました。

畿内の「三輪山」などに出雲系の「大物主神」らが祀られるように、「大国主命」らが、もともとは3世紀中頃過ぎまで治めていたので、“国譲り”で祟られないように封じているのです。

そういったことなどから、本州を広くゆるやかにまとめていた「大国主連合国」の“集会地”だったといえます。

「大国主」という名称自体が、“古くからの国の主”という意味なのです。

纏向遺跡には、人が居住した痕跡が少ないことから、“集会地”や“祭祀場”また収穫などの“情報交換”の場だと考えられます。

いずれにしても、出雲系の国で、3世紀中頃過ぎまで奈良盆地(纒向)にありました。


これが“ヤマト”になったというのであれば、3世紀後半~末に九州「倭国」から、神功皇后こと「トヨ」を旗印にして、“大和帰還”こと実質の「東征」によって“都”「邪馬台国」から“ヤマト”(台与の“ト”)と呼ぶようになったといえなくもありません。

確実には、九州「倭国」と畿内「日本国」(弟国)が合併したのち、「大和」(大倭)として7世紀に礎が築かれ、後半あたりに「統一大和」が正式にはじまったといえます。

その合併の功労者は、「蘇我氏」です。

そのさい、邪馬台国の「卑弥呼」(2代目「台与」)が共立されたのと同様に、御輿に担がれた“女帝”こそが「推古天皇」(トヨミケカシキヤヒメ)なのです。

なので、推古(トヨミケカシキヤヒメ)は、3世紀末に「北部九州連合」(倭国)の旗頭となって、畿内に東征した「トヨ」の末裔か、あるいは九州倭国に残っていた「トヨ」の末裔などを、「和」の象徴として立てた可能性が高いといえそうです。

それが『日本書紀』に最初の“女帝”として記されることになった理由です。















- CafeNote -