激変の7世紀/日本の原点
2023.09.17
[古代史解明5]― 前編:統一大和の誕生 ―


日出ずる処の天子は九州倭国王だった蘇我馬子!



「日本」の謎を解くカギは7世紀にあります。

蘇我氏、中大兄(天智天皇)と天武天皇、持統天皇や文武天皇、藤原不比等と「基本三数」よろしく3(4)数の人物によって、激変の7世紀に日本の原点「統一大和」が建国されています。

天武(てんむ)天皇、后の持統(じとう)天皇、孫の文武(もんむ)天皇、そして藤原不比等(ふじわらの ふひと)によって、事実上の「万世一系」の皇統が定着していったからです。

卑弥呼の共立に続く「水瓶宮」で象徴される日本の“国体”のはじまりです。

日本の古代史を知るよすがとなる『古事記』(712年)も『日本書紀』(720年)も実質、7世紀の激変によって編纂されています。



《 支那の冊封下から離れる 》

「えーっ、うそーっ」という「天運」にかかわる史実を記します。

誤った「日本書紀史観」や既存の古代史とは異なります。

古代中国の史書と照合すれば分かることですが、かつては九州が「倭国」で、本州(畿内大和)は「日本」でした。


倭の女王卑弥呼が都とした「邪馬台国」にほぼ隣接する位置にあった「大宰府政庁」(元倭国の首都:模型)

古代の文化や文明は海を渡って西からもたらされたため、当時は九州倭国が先進国で大国でした。

ただ、残念なことがあります。

金印「漢委奴国王」や、「親魏倭王」の邪馬台国の卑弥呼で知られるように、九州倭国は大陸支那(China:チャイナ)の冊封下にあったのです。

ただし、これからお話する7世紀の「統一大和」の起源は、九州倭国“兄”が支那(当時は隋)の冊封下から離れて、東の小国畿内国“弟”に自ら吸収合併されるカタチではじまります。


【One Point】 このことを企図し実行に移した天才政治家が九州倭国王「阿毎多利思北孤」(あめのたりしひこ)大王です。

隋が高句麗との戦争で動けないことを見抜き、初代文帝に“弟に政務を譲る”と冊封下から離れる旨、仁義をきります。




《 隋の高祖「文帝」への仁義 》

文帝に仁義をきった第1回遣隋使は『日本書紀』に記されていません。

当然です。

九州倭国からの遣隋使ですし、邪馬台国をはじめ九州倭国が実在したことなど、神代(かみよ)からの統一大和で万世一系だったとする『日本書紀』に記すことなどできません。

それは、隋の文帝側も同様です。

1世紀の奴国(なこく:現在の博多界隈)の時代から冊封下にあった倭国が、自らの代で離脱するなど、メンツを重んじる支那ゆえ、そのような不名誉なことを正確に残すことはありません。

「倭王は天をもって兄となし、日をもって弟となす。天いまだ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聞き、跏趺(かふ)して座す。日出ればすなわち理務を停め、我が弟に委ねんという」とワケの分からないことを倭王が言いだしたかのように『隋書』に残されています。


【One Point】 この一文に対する学者の曲解はともかく、実際は“弟:畿内国「日本」に兄:九州「倭国」を譲り、隋の冊封下から離れる”という意味です。

このときの文帝の言葉は(これまでお世話になっておきながら)「はなはだ義理なし」と『隋書』に記されています。




《 日出ずる処の天子の「独立宣言」 》

当時、隋は高句麗との戦争中で旗色はよくありません。

「倭国まで敵に回すわけにはいかない」と東アジアの国際情勢を読み切った九州倭国王「阿毎多利思北孤」大王の作戦勝ちです。

文帝に仁義をきった倭国王は、「九州倭国」を当時は小国の「畿内国」に自ら吸収合併させるカタチで隋の冊封下から離れ、統一独立国家「大和」(日本)を建国します。

当然、文化面でも軍事面でもダントツに優勢だった九州倭国の阿毎多利思北孤が、統一大和の政権をそのまま担ったのは想像にかたくありません。

直後に彼は、隋の2代目煬帝(ようだい)に第2回遣隋使を送ります。

それが、有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致すつつがなきや」という煬帝を激怒させた、隋と対等な立場での事実上の独立宣言書です。


【One Point】 2世紀に卑弥呼を女王に共立して「倭国大乱」をおさめ平和がもたらされたように、『日本書紀』に初の女性天皇として記される「推古女帝」を統一大和に際して立てています。

賢い阿毎多利思比孤は、大臣(おおおみ:首相)として実権を握っています。




《 元九州倭国王の蘇我本宗家の滅亡 》

「乙巳の変」(いっしのへん:645年)は政権奪取のクーデターです。

「無謀? ホラリー乙巳の変」をご参照ください。

人望/実力/見識ともにあった統一大和の実質上の初代大王:蘇我馬子(そがの うまこ)はともかく、三代目の蘇我入鹿(そがの いるか)になると、実力はあっても横暴が目立ち、人望が損なわれます。

「中臣鎌子」(藤原鎌足:かまたり、不比等の父)とのちの天智(てんじ)天皇となる「中大兄」(なかのおおえ)は、蘇我入鹿を弑逆(しいぎゃく)し、蘇我本宗家を滅ぼし政権奪取に成功します。

そののち、孝徳天皇(在位:645~654年)をはじめ、彼らが行なったとされる“大化の改新”は、阿毎多利思北孤こと蘇我馬子の仏教立国による近代化政策を受け継いだものです。

東アジア情勢の緊迫を見抜いた蘇我馬子(阿毎多利思比孤)は、日本列島を早急にまとめた独立国家を築かないと、いつ大陸の属国になってもおかしくないことを見抜いていたのです。


【One Point】 蘇我本宗家が滅んでも、緊迫した東アジア情勢は変わりません。

統一独立国家「大和」の構築が急がれ、中央集権化が権力欲の強い中大兄(天智天皇)らのもとで進んでいくことになります。

本来の「天命開別天皇」(あめみこと ひらかすわけの すめらみこと)という和風諡号がそのことを示唆しています。




《 九州倭国の歴史を記した『古事記』 》

詳細は次回「激変の7世紀/天智と天武」で述べるとして、九州倭国の歴史書だった『古事記』に触れておきます。

一般に『古事記』は、国内向けで、『日本書紀』は漢文表記ゆえに国際向けと解説されています。

結果的にそういえますが、事実は天武天皇が稗田阿礼(ひえだの あれ)に誦習(しょうしゅう)を命じた『帝紀』や『旧事』などの撰録(せんろく)で、本来は統一大和成立までの「九州倭国」の歴史書でした。

現存の『古事記』は、統一大和の『日本書紀』に合わせて改編されていますが、それでも『古事記』が畿内国と合併した際のまま、「推古女帝」で終わっていることが証左の一つです。

もし、国内向けなら尚のこと『日本書紀』と同様に、持統天皇による孫:文武天皇(在位:697~707年)への譲位で終わっていなければ意味がありません。

もっとも、「統一大和」の合併前の前身は先進国:九州倭国ともいえますので、今はなき“古事記”(『帝紀』『旧事』)には、奴国をはじめ卑弥呼や九州倭国の歴史が描かれていたはずです。


【One Point】 中央集権による統一独立国家「大和」を早急に構築するには、神代からの「統一国家」であり「万世一系の天皇」のもとにある由緒を“ウソ”でも周知させなければなりませんでした。

畢竟(ひっきょう)、邪馬台国も卑弥呼も九州倭国も、『日本書紀』に記すことはできず、抹殺せざるをえなかった奈辺(なへん)の事情をご理解ください。











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