激変の7世紀/天智と天武
2023.09.19
[古代史解明6] ― 後編:統一大和の危機と新生 ―


日本の原点を築いた天武と持統そして不比等の尽力



前編「激動の7世紀/日本の原点」の続きです。

九州倭国王「阿毎多利思北孤」(あめのたりしひこ)大王が企図し、隋の冊封下から離脱して畿内国と合併して実現した統一独立国家「大和」でした。

しかし、その立役者:蘇我本宗家は「乙巳の変」(645年)によって滅び、政権奪取に成功した中大兄(なかのおおえ)ことのちの天智(てんじ)天皇と中臣鎌子こと藤原鎌足(かまたり)ですが、天智の世とその皇子(追諡:弘文天皇)の7世紀後半に建国後、最大の危機を迎えることになります。

「白村江の戦い」(663年:天智2年)の大敗北と、古代最大の内乱「壬申の乱」(672年:天武元年)です。

ですが、内乱に勝利した大海人皇子(おおあまのおうじ)こと天武(てんむ)天皇によって、今日の日本の「天運」の礎が築かれていきます。



《 兄弟ではない天智と天武 》

『日本書紀』は、天智天皇を「兄」とし、天武天皇を「弟」として描いています。

ありえません。

天智天皇(中大兄)は、万世一系の定着に最重要人物となる持統(じとう)天皇(在位:690~697年)こと鵜野讃良皇女(うのの さららの ひめみこ)をはじめ、3人の娘を天武天皇(大海人皇子)に嫁がせています。

持統天皇の和風諡号は「高天原廣野姫天皇」(たかまのはら ひろのひめの すめらみこと)です。

この意味は、『日本書紀』神代(下)に記される“葦原中国(あしはらの なかつくに)の君主”(祖)として天孫降臨させた瓊瓊杵尊(ににぎの みこと)の祖母:高天原の「天照大神」になぞらえらているのです。

事実、持統天皇は伊勢の神宮を今日のように立派にしたばかりか孫の文武(もんむ)天皇(和風諡号:倭根子豊祖父天皇=やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと)に譲位することに命をかけ、藤原不比等(ふじわらの ふひと)の尽力もあって、天武の遺志に応えて「万世一系」の定着に成功しています。

さて、お話を戻します。

天智と天武が兄弟でない理由は、天武天皇こと大海人皇子が“正統”で、天智天皇こと中大兄は“傍流”だったゆえに、王統に食い込むために3人もの娘を大海人皇子に嫁がせたようです。


明日香村にある八角五段築成の天武/持統天皇の合葬陵(檜隅大内陵、野口王墓古墳)


【One Point】 仮に『日本書紀』が創作したように、天智と天武が兄弟だったとしても、父親が異なります。

中大兄は宝皇女(のちの斉明女帝)の連れ子になります。

早いお話が、天智と天武を兄弟としなければ「万世一系」の皇統が成り立たないための創作です。




《 『日本書紀』編纂の狙いは中央集権化 》

『日本書紀』には、どうしても譲れない“編集方針”がありました。

1)古来からの統一独立国家「大和」であること。

2)同じく神代(かみよ)からの「万世一系」の皇統であること。

やむをえないこの2つの創作以外、『日本書紀』の記述は案外と真面目で、律儀に史実を記そうと努力しています。

『日本書紀』編纂の最大の狙いは、天皇のもとに海外に対抗しうる中央集権による統一独立国家の構築です。

そのため、大和朝廷によるプロパガンダ(政治宣伝)の書だともいえます。

たとえば、つくられた“聖徳太子”によって「和をもって貴きとなす。逆らう事なきを旨とせよ」という十七条憲法が創作され、当時の緊迫した国際情勢下で近代的な律令国家への道をめざしたのです。


【One Point】 「白村江の戦い」で唐羅連合に大敗北をした中大兄の時代、国家の危機を迎えます。

ですがほどなくして、唐と新羅は仲間割れを起こして戦争をはじめています。

日本に侵攻する余裕はなくなり、逆に敵方に付かないように使者を送ってきます。




《 つくられた「聖徳太子」の実像 》

さて、太子信仰による強烈な反対意見があると承知しますが、『日本書紀』に記された「聖徳太子」は創作です。

情報が発達していない当時の人々を太子の超人伝説でダマせても常識的に考えればありえませんし、誇張だったとしても限度を超えています。

このような常識を超えた表現は、『日本書紀』の随所にみられます。

なぜかといえば、正しい歴史を記そうとして案外と律儀なところがある『日本書紀』は、それは事実ではなくやむをえない“創作”であることを伝えようとしているのです。

“聖徳太子”を創作せざるをえなかった理由は、統一大和を建国した蘇我馬子の偉大な業績を『日本書紀』に残すわけにはいかず、太子伝説をつくって逆に倒すべき“悪者”にしたかったからです。

逆に言えば、それほど蘇我馬子は傑出した人物でした。


【One Point】 「聖徳太子」という呼び名は今から80年ほど前、戦後につくられたものです。

古代の文献には出てきません。厩戸豊聰耳皇子(うまやどの とよとみみの みこ)にしても、一族もろとも集団自決したことにされ、完全に抹消されています。




《 真実が分かる『日本書紀』の記述 》

事実上、『日本書紀』の重要部分を仕切った藤原不比等の手前、彼の父が弑逆(しいぎゃく)し、滅ぼした蘇我本宗家なので、その偉大な功績は記せません。

また、神代からの由緒ある統一独立国家「大和」一国史とする必要があるため、九州倭国の実在を記すこともできないのです。

ですが、いつの世も正しく評価する人はいます。

編纂に携わったのは、当時、最高クラスの知識人たちです。

天武の皇子で編纂の総裁となった「舎人親王」(とねりしんのう)も、また『日本書紀』編纂メンバーの中にも、蘇我氏の真相を知る人はいたでしょう。

新田部皇女を実母とする舎人親王は、自らの身の安全を図って政治とは一線を画し、歌人として生き、異母:持統天皇の覚えがめでたい不比等のイエスマンとなって「舎人」(とねり:使用人)と揶揄(やゆ)されるほどでした。

彼は、事実と異なる出来事を『日本書紀』に記さざるをえないときは、真実の歴史を推測できるように、あえて尋常ならざる表現をして、読む人が疑問を抱くようにしています。

実際は、天才:不比等もそれを分かっていて許容したのかもしれませんし、逆に不比等自身がそう仕向けたのかもしれません。


【One Point】 ちなみに、“聖徳太子”(蘇我馬子)ゆかりの四天王寺で4月22日に毎年行われる「聖霊会」(しょうりょうえ)での舞楽に「蘇莫者」(そまくさ)があります。

もとは唐楽ですが、“莫(な)きものにされた蘇我氏”をかけているかのようです。




《 “権力”の天智と“祭祀”の天武 》

さて、お話を天智と天武に戻します。

支配欲また権力欲の強い中大兄(天智)は、次々と政敵(ライバル)となる皇子らを殺害しています。

大海人皇子(天武)は正反対で、「壬申の乱」で敵方に付いた臣下を許しています。

また、乱後の「吉野の盟約」では、后:鵜野讃良皇女と自らの子供たちだけでなく、天智天皇の皇子皇女ら(大友皇子の兄妹)を両腕に抱き、千年のちまでも二度と皇位争いの殺し合いをしないことを誓っています。

ほかにも、日本と国民の安寧と繁栄(五穀豊穣)を願い、天皇自ら日々の祭祀の役割を果たすなど、今日に通じる「和の象徴」として、日本人の民度のもととなる精神意識を体現しています。

古来、日本が“民族性”を「魚宮」とし“国体”を「水瓶宮」として「天運」に守られてきたのは、そのような天武天皇と、伊勢の神宮を今日のように立派にし、また孫:文武天皇への譲位による「万世一系」を体現した持統天皇の果たした役割は、欠くことができません。


【One Point】 宝瓶宮時代(ほうへいきゅうじだい)を迎え、世界的に発展していく「天運」を持つ日本の原点は激変の7世紀にあります。

統一大和を企図した、蘇我馬子(阿毎多利思比孤)をはじめ、天武天皇、持統天皇、藤原不比等らの功績が大きいのです。











コメント一覧
コメント投稿

名前

URL

メッセージ

- CafeNote -