中津宮と沖ノ島への参拝
2018.08.09
福岡県北岸にある宗像大社。

ご存じ天照大神と素戔嗚尊の誓約によって生まれたとされる「宗像三女神」こと「田心姫神」(たごりひめのかみ)、「湍津姫神」(たぎつひめのかみ)、「市杵島姫神」(いちきしまひめのかみ)がまつられています。

『日本書紀』の一書(あるふみ、別伝)には、これら三柱の女神は、「道主貴」(みちぬしむち)といわれ、筑紫の水沼君(みぬまのきみ)らの祭神であると記されています。

詳しいご説明はともかく、“三貴子”(みはしらのうずのみこ)というのは、本来、「大日霎貴」(おおひるめのむち)、「大已貴神」(おおあなむち、おおなむち)、そして「道主貴」(宗像三女神)であるはずですが、一般的には「天照大神」、「月の神(月読命)」、「素戔嗚尊」を三貴子と呼びます。

つまり、大日霎貴は「天照大神」に、道主貴は「月の神(月読命)」に、大已貴神は「素戔嗚尊」の系統として『日本書紀』に描かれているわけです。

また、「宗像三女神」の一人、沖ノ島に祀られる「田心姫神」は、『古事記』では多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)、また『日本書紀』では別名を「奥津島比売命」(おきつしまひめ)と記され、一書(あるふみ)では、辺津宮(宗像大社)に祀られている「市杵嶋姫神」(いちきしまひめ、市寸島比売)の別名ともされていています。

多分、本来は同一神です。

宗像海人族が、海路の安全を願う“守り神”としての三柱の女神なので、実態はなく、強いていえば大国主神に嫁いだ「多紀理毘売命」が、田心姫神をはじめとした市杵嶋姫など“海の女神”として祀られるようになったといえます。

沖ノ島は、島全体が“ご神体”とされ、これまで「女人禁制」として知られてきました。

ですが、今年2018年からは男子も立ち入り禁止と定められ、10日交代で祭祀をつとめる神官のみが常駐しています。

ただし、江戸時代には福岡藩が防人をおいたという記録が残っています。

一説では、沖ノ島が本格的に“神域化”されたのは、明治になってからという説があったり、「女人禁制」の記録は17世紀までしかさかのぼれないともいわれますが、これらは間違った理解です。

なぜなら、明治になってからも人が渡っていた反面、信長秀吉の安土桃山時代の軍船ならともかく、17世紀以前に手漕ぎの舟でもって、庶民が荒れることで知られる玄界灘を、約60km近く離れた「沖ノ島」に出入りすることは無理だったからです。

潮の流れもあって、時速2~3ノットの手漕ぎの舟だと、夜明けから日没まで半日間、休まずに漕ぎつづけても着きません。

17世紀以降、平和な江戸時代になって海運が発達し、物資輸送に従事する廻船が全国的になって以降、「女人禁制」の禁忌が一般にも知られるようになったといえます。

事実、今回、中津宮のある「大島」から、航海速力27ノット(時速50km)の動力船でも1時間強かかりました。

眼前に見る沖ノ島は、たしかに人を寄せつけないような“神々しさ”を秘めていて、“ご神体”(神の島)と呼ばれるのも納得です。

2600年以上昔の古代フェニキアの世界最先端の帆付きの二段櫂船でも、見渡すかぎり水平線しか見えない大海原を、どれくらい進んでいるのかもわからず、航海し続けていくわけです。

ましてや、古代海人族の船で、周囲4km、標高243mの沖ノ島が見えれば、板子一枚底は地獄の海のなかに、まるで“神”を見出すような体験をもたらした沖ノ島だったはずです。

島面積のわりに高い最高峰の「一の岳」にのぼれば、天候次第ですが、大島や九州・山口が見え、位置や方向を確定できます。

実際、立地をみればわかりますが、玄界灘を進む船にとって、対馬からも、また壱岐からも、九州北岸からも、また本州西端の山口沿岸からも、いずれも50km~70kmといった大海原の真ん中に沖ノ島は位置します。

そんな「沖ノ島」は、宗像海人族にとって、中継拠点であることはもちろん、“守り神”となる要衝の島だったのです。




「湍津姫神」を祀る中津宮。神湊(こうのみなと)から7kmほど離れた大島あります。


沖ノ島近影。手前のテトラポッドに囲まれた港内に上陸用の桟橋が設けられています。


一の岳。沖ノ島の最高峰 標高243m、灯台があり、神官が日本海海戦を目撃しています。

※九州北岸、宗像市の隣にある福津市の「対馬見山」の標高も243mです。なので、同じ高さで対馬に近い沖ノ島の「一の岳」から「対馬」が見えることになります。
また、243mあれば比較的平らな「壱岐」も望める計算です。当然、高い山がある「九州」や「本州西端」は指呼の範囲です。実は、沖ノ島の“秘密”がここにあります。




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