天智にいたる皇統の操作
2019.06.15
先回の記事で、欽明天皇(29代)から天智天皇(38代)にいたる皇統(王統)は、操作されていると書きました。

理由は、合併による「九州倭国」と「畿内大和国」の王統を一つにつなげたためで、また、7世紀前半、蘇我氏三代が実質の大王(天皇)だったことを糊塗して、王統をつなげたためです。

今回、さらに提起したいのは、天智天皇こと中大兄を「万世一系」に組み込むために、王統を操作した可能性があることです。

そのいちばんの大きな理由は、『日本書紀』には“中大兄皇子”とは書かれておらず、すべて「中大兄」と記されているからです。

『日本書紀』は、“レトリック”を駆使して、「中大兄」と「大海人皇子」が実の兄弟かのように錯誤させ、中大兄を“皇子”だと勘違いさせるように記しています。

先回、「中大兄」と「大海人皇子」の母親とされる「宝皇女」(たからの ひめみこ)が“皇極天皇”(35代)として即位したかのように記されているのは、蘇我入鹿が実質の大王(天皇)だったことを隠すためだと書きました。

「斉明天皇」(37代)は、皇極天皇の“重祚”として記されていますが、「皇極紀」には簡単な系譜しか記されていないのに対して、のちの「斉明紀」には、宝皇女が最初、高向王に嫁つぎ漢皇子を生み、その後、「舒明天皇」(34代)に再嫁して二男一女を生んだといった、詳しいいきさつが記されています。

また、皇極紀と斉明紀を読むかぎり、二人が同一人物とは思えないという指摘は、案外となされているのです。

そういうこともあって、“皇極天皇”は創作で、斉明天皇こそが実際の宝皇女です。

さらに、「舒明天皇紀」には、「葛城皇子」「間人皇女」「大海皇子」の二男一女がいたことが記されています。

間人皇女(はしひとの ひめみこ)は、孝徳天皇(36代)の妃になりますが、中大兄の愛人だと言われるのも、ほんとうの兄妹ではなかったからでしょう。

つまり、大海人皇子は「大海皇子」と同一人物だと理解できるものの、中大兄は舒明の皇子とも「葛城皇子」だとも、どこにも記されていないのです。

にもかかわらず、『日本書紀』の現代語訳者は、葛城皇子をかってに「中大兄」と注記し、また過去に藤原氏が、“望月の世”をつうじて中大兄を「中大兄皇子」かのように喧伝したために、だれもが皇位継承権をもった「中大兄皇子」と信じ込んでいるのです。

実際は、皇位継承権をもたない単に「中大兄」でした。

次に、欽明天皇(29代)から天智天皇(38代)にいたる下記系図(図左)をご覧ください。

世代関係がわかるように、蘇我氏三代と呼応させてみました。すると、おかしなことがみえてきます。



中大兄が“弑逆”した蘇我入鹿は、中大兄の世代からみると三世代も前の“曽祖父”の世代にあたり不自然です。

婚姻関係は、1世代ほどズレることがありますので、それを考慮したとしても、これだと「孫と祖父」の世代関係にしかなりません。

さらに、蘇我蝦夷と姉妹の「河上姫、刀自古郎女、法提郎女」は、世代の異なる「祟峻天皇」「厩戸皇子」「舒明天皇」の三世代にわたって嫁ついでいます。

祖母(または母)の世代が、舒明天皇(田村皇子)に嫁ついだというのは、いくら政略結婚だとしても限度を超えています。

結論的にいえば、『日本書紀』は、実際は蘇我氏が大王(天皇)だった時期の“舒明天皇”と“皇極天皇”を「敏達天皇」(30代)の皇子「押坂彦人大兄皇子」(おしさかの ひこひとの おおえの みこ)につなげて、畿内大和国の「万世一系」としたのです。

用明天皇(31代)と推古女帝(33代)は、和風諡号に「豊」がつくことから、「九州倭国」系の王統だと考えられますので、両帝の皇子(皇統)を隠蔽して、「押坂彦人大兄皇子」につなげたために、1世代ズレてしまったようです。

さらに、大海人皇子(天武天皇)が舒明天皇の皇子で、中大兄(天智天皇)が宝皇女(のちの斉明天皇)の「連れ子」だとすれば、たしかに父親違いながら“兄弟”にはなります。

ただし、宝皇女の初婚の相手と記される「高向王」が用明天皇の孫だというのは疑問で、ここでも1世代ズレて繰り上がる可能性が高いのです。

ちなみに、「押坂彦人大兄皇子」に関して『日本書紀』は、なにも記していません。
名前だけが使われていて、実在かどうかも怪しいのです。

いずれにしても、「中大兄」が中臣鎌子(藤原鎌足)とともに蘇我入鹿を殺害した「乙巳の変」(645年)のとき、「ひ孫」(または「孫」)の世代だったとする上記左側の系図は、どうみてもムリ筋です。

結局、中大兄は、上述いたしましたように『日本書紀』の系図より「2世代上」が妥当で、詳細は省略いたしますが皇子ではなかったことがわかれば、いろいろとつじつまがあってきます。

正統である弟の大海人皇子に、長女と次女の2人もの娘を嫁つがせていることも、その一つです。

もし、中大兄が皇子であれば、“臣下”のはずの蘇我入鹿を、これまた“臣下”の中臣鎌子(藤原鎌足)にそそのかされて、“皇子自ら”が手にかけるような暴挙にはでません。

皇子ではなく、傍系だったからこそ、できたのです。

実際的にも、『日本書紀』が“大逆者”と記す「蘇我本宗家」を滅ぼした“英雄”かのように中大兄を記しながら、「乙巳の変」ののち、23年間も即位できなかったのは、中大兄が皇子ではなかったからで、また人望がなく、次々とライバルの皇子たちを殺害しているからです。

結局、中大兄は、年老いた母親を「斉明天皇」として即位させ、“皇子”の立場を手にしたのち、正統の大海人皇子に次期王位(皇位)を譲るという了解をえたうえで、ようやく王位(皇位)に就いたというのが実際のところです。

さらにいえば、藤原不比等が関与した『日本書紀』は、中大兄(天智天皇)を“英雄”かのように描きながら、実のところ最大の“功労者”を「藤原氏」と読めるように描くことに成功し、もくろみどおり、『日本書紀』上奏後の後年、蘇我氏にとってかわり、天皇家をしのぐ権勢を手に入れていくことになりました。

そんな一面が隠されていることも見逃すことはできないのです。







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