大仙稜古墳の“被葬者”
2019.07.13
今年2019年7月6日に世界文化遺産に登録が決定したことで話題の「百舌鳥・古市古墳群」。

その中心が、かつては「仁徳天皇陵古墳」と呼ばれていた「大仙陵古墳」です。

日本最大の前方後円墳でありながら、その“被葬者”についてはよくわかっていません。

築造年代が5世紀(前半?)であることから、4世紀初期の「仁徳天皇」とは年代が合わないのです。

それがなぜ、“仁徳天皇陵古墳”とされたかというのは、17世紀の『堺鏡』に「仁徳天皇陵」と記されていることもそうなのですが、一説では、『日本書紀』に、“人徳に優れた天皇”として記されていることから、日本最大の古墳を「大鷦鷯天皇」(おおさざきの すめらみこと)こと「仁徳天皇」にあてたという説があります。

情としては、そのようにしたい気持ちはわかるのですが、ありえません。

ご自分の暮らしよりも、民の暮らしにご配慮されるほどの天皇であれば、築造に延べ約680万人の人員を要し約16年もの歳月をかけて、民草を動員されることはしないからです。

では、歴代天皇のなかで、被葬者としてもっともふさわしいのはだれでしょうか。

次の3つの要因からしぼられてきます。

1、
これだけの人員を長期にわたって動員できるのは、関東から九州のみならず半島にも広く権勢をのばして影響力を持った大王(天皇)でなければならず、ちょうど「倭の五王」(420年-479年)の時代に重なることです。

「倭の五王」の年代に即位されていた天皇は、『日本書紀』によって記せば、第19代「允恭天皇」、第20代「安康天皇」、第21代「雄略天皇」の御世が相当します。

さらには、最大の「前方後円墳」を築いて、世に残そうとされた天皇でなければなりません。

2、
『日本書紀』をみたときに、この3代の天皇の中に、もっとも多くページ数を割いて記録されている天皇がいます。

その天皇は、日本だけではなく、高麗軍を撃破したと記録されていますし、また新羅を討伐したほどの武力を備えていたことが『日本書紀』には記されています。

それだけではありません。
それまで葛城氏が代表して奉祀していた豊受大神を、丹波国の元伊勢こと籠神社の真名井神社から遷宮し、伊勢の外宮を建立した天皇としても知られています。

3、
さらに知られているのは、埼玉の稲荷山古墳から出土した鉄剣にその大王(天皇)の名が記されていることです。
のみならず、これによって熊本の江田船山古墳から出土した鉄剣もまた、同じ大王の名であることが判別されました。

これらの考古学による事実は、関東から九州まで広く影響力をもった「実在の天皇」であることが確認されたことです。

その銘は、ご存じのように“ワカタケル大王”です。

『日本書紀』に記された諡号(しごう)でいえば、「大泊瀬幼武天皇」(おおはつせの わかたけの すめらみこと)、8世紀に定められた漢風諡号でいえば、「雄略天皇」その人です。

一般に言われているのは、残忍性と人徳の両方を備えた天皇という評価です。

ですが、国を治めるというのは、ときに一見、冷たいと思われるような“政断”も、当然、当時であればくださなければなりませんし、そうでなければ、現在の“平和”(民主主義)の時代とは異なり、天下を治(し)らしめることなどできません。

その一方で、「蚕(こ)を集めよ」と言われた臣下が勘違いして、「嬰児」(わかご=こ)集めたことを笑って許され、「少子部連」(ちいさこべのむらし)の姓を賜ったエピソードなど、寛容さや徳も随所に記されています。

ちなみに、秦氏が租税として大量の絹をうずたかく献ったことで、「うずまさ」という姓を賜ったというエピソードも、この雄略天皇のお話です。

結局、『日本書紀』が最大のページを割いて記したのも、それだけ多くの功績やエピソードを持っていたのみならず、記録として残されていたからで、関東と九州から「ワカタケル大王」と刻まれた鉄剣が出てきたのも、記録として残される意志が強かったからです。

これらは、たぶんですが秦氏の協力のもと、日本最大の「前方後円墳」を築くことで威を示し残そうとされたことと、無関係ではないと考えられます。

そうとらえれば、時代的にみても「大仙稜古墳」の“被葬者”として、最有力候補だといえるのです。






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