邪馬台国トンデモ“別府”説
2020.08.23
また「邪馬台国」の所在について、“耳”を疑うトンデモ説がでました。
いわく、『邪馬台国は別府温泉だった!』というものです。
今年2020年7月30日に「小学館新書」(288頁)で発売され、昨日8月22日、概容がネットニュースで掲載されていました。
当該書籍には、「火山灰に封印された卑弥呼の王宮」とサブタイトルがつけられ、どうやら別府温泉の地下に卑弥呼の王宮が眠ると推測されているようです。
著者は、東大農学部卒業で一流企業の中央研究所に勤め、「全国邪馬台国連絡協議会会員」でもある酒井正士氏です。
内容を紹介する記事を読みましたが、思わず“突っこみたく”なるほど、一見、“科学”を装った勘違い内容がある記事でしたので、同じ間違いをされないためにも、勝手に指摘しておきます。
もっともご本人は、“科学は正しい”と信じておられるようなので、そこに根本的な間違いがあるのですが、以下の指摘は“門外漢”のものとしてご一考にとどめるだけでかまいません。
「邪馬台国」の所在について、多くみられる間違いを著者もされています。
俗称「魏志倭人伝」を読めば、誰でも知っているポイント中のポイントをご理解していないのです。
それは、「女王が都とする邪馬台国に至るには、水行10日、陸行1月」(原文:邪馬壹国 女王之所都 水行十日 陸行一月)という箇所です。
しかし、著者は次のように述べています。
―― 私は、「魏志倭人伝」――正確には(中略)を、丹念に読み込み、陳寿の記したとおりの距離と方角をたどれば、邪馬台国は、別府市の扇状地にあったのではないか、との結論を導き出しました。 ――
本当に「丹念に読み込み」ました?
邪馬台国に至るには、上述のように「陸行1月」と書いている以上、内陸部しか比定できません。
仮に、「水行だと10日」「陸行だと1か月」と併行読みの解釈をしても、当時、水行で10日で行ける場所に、わざわざ北部九州の港から危険の多い当時の山道を1月もかけて「別府」に行きます?
当時の交通は「船」が主流なのです。
瀬戸内海の西端に位置する別府は、穏やかな内海に面し船が便利です。
事実、「邪馬台国」の直前に記される「投馬国」(つまこく)に至るには「水行20日」のみで記され、陸行は記されていません。
つまり、投馬国は間違いなく海に面した場所にあった国です。
もし、「邪馬台国」が海に面した“別府”にあったのなら、わざわざ「陸行1月」を記す必要はないのです。
水行に続き「陸行」と書かれている以上、邪馬台国は河川の上流域にあたる内陸部にありました。
所在地比定にあたって、著者は「丹念に読み込んだ」と書いているものの、“基礎中の基礎”となるポイントをごを理解できていないようです。
それは、次の記述からも明らかです。
―― 自然科学の仕事をする研究者として、いちばんに心がけてきたことは「生データを大切に扱うことの重要性」です。 ――
―― 邪馬台国へ至るルートの探索では、魏志倭人伝中の行程記述、とくに方向や距離、日数などが「生データ」に相当すると思います。 ――
「はぁ!」ってな記述でしょ。
著者は、「魏志倭人伝」に記載される“方向”や“距離”や“日数”を(科学的な)“生データ”として、「別府温泉」の位置を割り出したと言っているのです。
その結果、「一大国」(壱岐)から「千余里で末盧国に至る」を、通説の“唐津”近辺だと短いため、宗像市近辺を勝手に港とし、さらに東に進んだ北九州市を「末盧国」に比定しています。
そこから南に「不弥国」を中津市に、さらに別府を「邪馬台国」に比定し、“生データ”どおりの解釈だと主張しているわけです。
主張は勝手です。
ですが、そもそも科学における「生データ」と、歴史記録書における“方向”や“距離”また“日数”などの数字は、同じ“生データ”として扱えるたぐいのものではありません。
「歴史は勝者の記録」といわれることがあるように、プロパガンダ(政治宣伝)や主観が混じることがあるのは、もはや多くの人が知っています。
そのため、文献から歴史の真実を見出そうとするとき、共産主義者はともかく、“文献批判”の観点を一応はもって、記述のウラをとることが重要なのです。
それもせず、“生データ”として「科学」と同一に扱うのはご自由ですが、科学が大事にする「客観的」な検証とは正反対の行ないだということに気づいておられないのです。
以上は一例ですが、要は「邪馬台国 別府説」は、著者の「読み込み不足」と重篤な「勘違い」を論拠とした“トンデモ説”になっていると考えられます。
以下は余談です。
著者はご存じないようですが、“公文書を隠蔽・改竄”したのは、著作郎・陳寿のほうです。
倭(国)偵察記録には、ちゃんと「邪馬台国」(臺)と記されていました。
それを歴史を書き換えることでも知られる陳寿は、「倭人条」を記すにあたって、勝手に「邪馬壹国」(一、壱)と改竄したことは、古来より専門家のあいだでは知られている常識です。
それゆえ歴史学者たちは、「魏志倭人伝」(倭人条)に“邪馬壹国”(一、壱)と記されているにもかかわらず、正しく「邪馬台国」と修正して語り伝えてきたのです。
そんな著作郎・陳寿の記述を「生データ」として扱うのは、科学的にもおかしいことこのうえないお話だといえます。
“門外漢”としてはそう思いますが、いかがでしょうか。
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