宝満山「竈門神社」
2019.04.18
先の「高祖山」(たかすやま:クシフル岳)につづき、宝満山は「竈門神社」(かまど じんじゃ:上宮)に参拝登山をしてきました。

高祖山のふもとにある「高祖神社」(たかす じんじゃ)のご祭神は、彦火火出見命(ひこほほでみ のみこと)を主座に、玉依姫命(たまよりひめ のみこと)と、息長足姫命(おきながたらしひめ のみこと:神功皇后)です。


一方、竈門神社は、「玉依姫命」をご祭神とします。
玉依姫は、ご存じのとおり『日本書紀』では、神武天皇こと彦火火出見命の母親とされています。

宝満宮竈門神社の交通安全祈願には、次のように記されていました。

ご祭神玉依姫の命は、御子神武天皇の御東征に当り、この宝満山に陸路航海の安全をお祈りになったと伝えられています。(以下、略)


また、宝満山の山頂付近の「馬蹄石」(ばていせき)には、次のように縁起が記されていました。

玉姫(ぎょっき)降神すれば則(すなわ)ち山谷(さんこく)鳴りて震動す。
心蓮(しんれん)座に登れば則ち天華(てんげ)飛びて繽粉(ひんぷん)たり。
天武天皇白鳳(はくほう)2年(673)2月10日の辰の刻に法相宗(ほっそうしゅう)の僧で、この山の開山である心蓮上人が宝満山に籠(こも)り、樒閼伽(しきみあか)の水を持って修行していたところ、俄(にわ)かに山谷が震動し、何ともいえない香りが漂い、忽然(こつぜん)と貴婦人が現われ、「我は玉依姫なり。現国(うつしくに)を守り、民を鎮護(ちんご)するためにこの山に居ること年久し……」と告げたかと思うと、たちまち雲霧がおこり、貴婦人は姿を変じて金剛神となり、九頭の龍馬(りゅうめ)に駕(が)して飛行した。
その時の龍馬の蹄(ひづめ)のあとが、大岩の上のくぼみであると言い伝えている。


さらに、「竃門神社の由来」は次のとおりです。

第40代天武天皇の御代白鳳2年(紀元673年)法相宗の心蓮という僧が宝満山に篭り、常にシキミアカの水をもち修業しでいた2月10日の朝、俄に山谷が震動し何ともいえない香が漂い忽然として貴婦人が現れて
「我は玉依姫の霊、現国を守り民を鎮護せんためにこの山中に居すること年久し異賊国を傾けんとすること甚だし吾、皇紀を守る神としてこの山の上より海内を塞(ふさ)き、ある時は山の形、水に映り岩の如く波を起こし、ある時は神風を吹かせて賊の船を覆し、神光を飛ばせで船中を迷動す。これによって異賊来るを得ず」
と心蓮に告げたかと思うと、たちまち雲霧が起こり貴婦人は姿を変じで金剛神となり、手に錫杖を携え九頭の龍馬に駕して飛行した。
(その時の龍馬の蹄(ひずめ)の跡が竃門神社上宮の少し下に馬蹄岩として残っている)
さて心蓮は玉依姫命の示現に大変感激し、このことを天皇に奏聞すると、天皇は有司に宣下して社を建立した。
これが宝満山山頂(829m)に建っでいる竃門神社の起元であると伝えられている。


真偽はともかく、『日本書紀』の「神代」(下)に記されている一般に紀元前660年以前とされる神武生誕の母として、玉依姫は登場します。

ほかの地域の神社はよくわかりませんが、九州北部では「玉依姫」「応神天皇」「神功皇后」が、案外と一緒に祀られていることが多いのです。

応神天皇というのは、『日本書紀』で唯一、出生地が記されている天皇で、その場所が、宝満山のすぐ北の宇美町(うみまち:宇美八幡宮)の地とされています。

ですが、「応神天皇」と「神功皇后」の母子神は、『日本書紀』では3世紀のお話です。
なぜ、紀元前7世紀の「神代」に出てくる「玉依姫」とともに祀られているのでしょうか。

ここには、『日本書紀』(古代史)の秘密が隠されています。


実は、「神武天皇」の東征モデルの一つとなった出来事が、いずれも四男である「応神天皇」なのです。
一方、「神功皇后」は、「魏志倭人伝」に記されている邪馬台国の2代目女王「台与」(とよ)と重なります。

つまり、機会があれば詳述いたしますが、宝満山奈辺が「邪馬台国」に比定できるのです。

邪馬台国を有する「九州倭国連合」は、3世紀末に“台与”こと神功皇后を旗頭に、『日本書紀』でいう“大和帰還”、実質的に「東征」を男王ともくされる武内宿禰(たけのうちのすくね)とともに行なっています。

いわゆる「邪馬台国東遷説」ですが、九州倭国連合(邪馬台国=やまと)が東征し、より全国規模の初期「大和(やまと)連合」を築くことになります。



 

[画像左] 山頂のご神体とされる「岩」。“えんむすび”をうたっている竈門神社ゆえか、それとも先にこの二枚岩があったゆえに“えんむすび”の神社にしたのか。写真内の白フチ画像は、ご神体を横から見たもの。ひとつ岩にしか見えない。

[画像右] 山頂に建つコンクリートの神明造りの竈門神社(上宮:白フチ画像)の真後ろにある岩。二枚岩より高い位置にあり、社の真後ろにあることから、こちらがほんとうの“ご神体”ではないでしょうか。岩には「寶満山上宮」と印刻されているようです。







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