白山比咩大神と菊理媛
2019.12.13
石川県は、大きくわけて、北の「能登地方」と、南の「加賀地方」があります。

北の能登国一之宮は「氣多大社」(けたたいしゃ)で、ご祭神は「大国主命」です。

一方、南の加賀国一ノ宮は「白山比咩神社」(しらやまひめじんじゃ)で、ご祭神は「白山比咩大神」(しらやまひめおおかみ)と「伊邪那岐尊」(いざなぎのみこと)と「伊弉冉尊」(いざなみのみこと)の三柱です。

今回、年末のリーディング等が忙しいなか、まことに申し訳ないのですが、ワケあって両宮にご参拝してきました。

両宮の最大の特徴は、伊勢神宮や熱田神宮など代表的な神社とは異なり、屋根に「千木」(ちぎ)や「鰹木」(かつおぎ)がないことです。

それはともかく、今回は「白山比咩神社」に祀られる「白山比咩大神」(しらやまひめおおかみ)と、一般に同一視されている「菊理媛神」(くくりひめのかみ)について書いてみます。


結論を先に書きますと、神社の由緒からみて「白山比咩大神」と「菊理媛神」は異なります。

ただ昨今は、“両エネルギー”が併存しているとのことです。

菊理媛神をご参拝に多くの方が訪れますので、当然、そうなっていきます。

ご存じのように、古神道は山や岩など「大自然」をご神体とします。

富士山や立山とともに「日本三霊山」のひとつに数えられる「白山」は、ご神体山で、その厳しくもなだらかな山容から、古来よりご祭神を「白山比咩大神」としていました。

崇神天皇7年(紀元前71年)には、遥拝所(まつりのにわ)が現在の「白山比咩神社」があるふもとの手取川そばの「古宮跡」(かつての白山比咩神社)に創建されていました。

そののち、修験者「泰澄」が718年(養老2年)に“白山妙理大権現”を奉祀して開山し、白山修験が中世に隆盛するとともに、白山神社は全国に勧請され広まっていきます。

現在のように、「菊理媛神」を白山のご祭神、すなわち「白山比咩大神」と同一視するようになったのは、何を根拠にしたのか不明ながら平安時代後期、正二位権中納言で歌人の「大江匡房」(おおえのふさふさ:1041年~1111年)が最初だとされています。

熊野三山の奥の宮「玉置神社」の磐座(いわくら)に白山社があって、「菊理媛」が祀られており、さらには三重県側にある「花の窟神社」(ご祭神:伊弉冉尊)に菊理姫も祀られているといいます。

大江匡房がこれらを参考にしたのか、それとも大江匡房が「白山比咩大神=菊理媛神」と同一視することによって、全国に白山比咩大神は菊理媛神だと誤まって広まっていったのかはわかりません。

いずれにしても、『日本書紀』(神代上)の一書(ある書物:異本)には、黄泉の国に帰った伊弉冉尊(いざなみのみこと)を追って、伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)が訪ね、その別れに際してもめたとき、菊理媛神(くくりひめのかみ)が何ごとかを申し上げると、伊邪那岐尊はほめて、未練を残すことなく去っていったことが記されています。

こののち伊邪那岐尊は、「私はひどく汚いところに行ってきた」といって中の瀬で禊ぎ祓いをされ、日本を治めることになる「天照大神」と「素戔嗚尊」(すさのおのみこと)さらには「月読尊」(つくよみのみこと)など九柱の重要な神々をお生みになります。

ここから実際的な日本がはじまっていったわけです。

つまり、菊理媛神の“働き”(パワー)は、「伊邪那岐尊」(いざなぎのみこと)と「伊弉冉尊」(いざなみのみこと)を“縁結び”させたのではなく、逆に“ストーカー”と化した黄泉の国に帰った「伊弉冉尊」と、日本の祖「伊邪那岐尊」の腐れ縁を、上手に切るアドバイスをされた“守り神”だったのです。

昨今の半島と日本の関係をみるとき、まさに伊弉冉尊と伊邪那岐尊の訣別のときのように、「菊理媛神」の働き(パワー)が必要な今日になっています。



※雪の白山連峰と柴山潟(ネットより)








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