天皇と「日本の天運」その2
2021.03.15
● 「天運」の変遷を解くカギ 「中大兄」の出自
歴史学者が“根本的”にあえて間違えている「中大兄」(なかのおおえ:天智天皇)に関してです。
問題は、その出自です。
7世紀後半に即位された「天武、持統、文武」の親孫三代(第40~42代)の天皇によって、確固とした“万世一系”の基盤が築かれました。
万世一系の皇統は、天武系が第48代「称徳天皇」(しょうとくてんのう)で終わったあとも、天智系へと変わり、今日まで受け継がれています。
なぜかというと、宇宙この世界の根本法則「基本三数」(数理法則)にそって成立したからです。
簡潔にいえば、「基本三数」は一体不可分の「1数=意志」「2数=実体」「3数=関係」の3(4)数によって成り立ちます。
天武天皇の“意志”(1数)が、持統天皇の“実体”(2数)によって、孫の文武天皇への譲位へと藤原不比等のサポートもありつつ内外の“関係”(3(4)数)によって、皇位継承(万世一系)の「基本三数」が『日本書紀』とともに成立したのです。
「基本三数」が整うと、6(7)数、そして“宇宙森羅の最小象徴数”12(13)数へと「基本三数の二段構造」また「基本三数の基本三数展開」によって順次、発展展開していくようになっています。
それはともかく、天武系の皇統が「称徳天皇」で終わったあとも持統天皇の父親の第38代「天智天皇」の孫で、すでに年老いていた“酔いどれ”の第49代「光仁天皇」から天智系の皇統がはじまります。
このへんの経緯は、不比等まではともかく、その子の藤原四兄弟(いずれも病没)以降の“謀略”とも思える思惑が働いており、自らは天皇につかずとも外戚として天皇を意のままに操ろうと動いてきた歴史があります。
いずれにしても、天智系の皇統は続きましたので、天智天皇こと「中大兄」に対しては、御用学者はもちろん、その出自の秘密を暴くことはできませんでした。
なぜなら、戦前戦中は、皇室に対する「大逆罪」や「不敬罪」に問われたからです。
それは戦前戦中にとどまらず、戦後も昭和天皇が尊敬する人物として「天智天皇」を挙げられたために、決して“悪く”は書けないという配慮や忖度が続いたといます。
そのため、「天智天皇」(中大兄)と「天武天皇」(大海人皇子)に対する評価は、歴史上の事実とは異なって“逆転解釈”が起きてきました。
天智と天武の実状は省略させていただきますが、中大兄と大海人皇子を“実の兄弟”とするのはかわいいほうで、両者の母「宝皇女」(たからのひめみこ:斉明天皇)が高向王(たかむくおう)と離別する前に生んだ「漢皇子」(あやのみこ)が、大海人皇子ではないかとするトンデモ解釈さえ散見できます。
つまり、“弟”の大海人皇子(天武天皇)のほうが、宝皇女の連れ子だという解釈です。
ふ~ん…。
兄ではなく、弟のほうが“連れ子”なのね。ばかじゃないの…。
『日本書紀』は、大海人皇子の出生年を明らかにしていません。
ですが、中大兄は、3人もの自分の娘を“義弟”の大海人皇子に嫁がせています。
鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ:持統天皇)と、大田皇女(おおたのひめみこ:持統の実姉)、そして大江皇女(おおえのひめみこ)です。
とくに、大田皇女と鸕野讃良皇女は、姉妹同時に大海人皇子に嫁いでいます。
3人めの大江皇女は、10代後半で大海人皇子に嫁ぎ、壬申の乱のときには3歳になる長皇子(ながのみこ)が生まれていました。
さらにもう一人、新田部皇女(にいたべのひめみこ)も天智崩御(壬申の乱)後に天武天皇の後宮に入っています。
計4人もの娘が“弟”に嫁いでいるのです。
なぜでしょうか。
実は、中大兄のほうが宝皇女の連れ子だったからです。
父親はほんとうに「高向王」なのか誰なのかもわからず、母が舒明天皇と再婚したため、のちに“義弟”となった本来の嫡子(跡継ぎの皇子)の「大海人皇子」にとりいる必要があったからです。
なぜなら、“野心家”の中大兄は、母の舒明天皇との再婚によって、タナボタ式に天皇(大王)への可能性が出てきたからです。
個人的な心象では、まず“義兄”の自分が舒明天皇のあとをついで天皇(大王)に即位し、次に“義弟”の大海人皇子に譲る密約があったと考えています。
そのプランにそって、中大兄は天皇に即位する可能性のある人々を何人か殺害しています。
結局、大海人皇子に娘たちを嫁がせたのは、緊密な姻戚(身内)関係を結ぶことによって、天皇への道を開こうとしたものです。
また、中大兄が“義兄”であることは、『日本書紀』の呼称からもみえてきます。
通常、“大”がつくほうが長男(大兄)で、“中”は次男(中兄)になります。
では、「中大兄」と「大海人皇子」はどうでしょうか?
もし、中大兄が舒明天皇の長男であれば、単に“大兄”と呼ばれたはずです。
しかし、『日本書紀』は、大兄は大兄でも「中大兄」と、“皇子”の尊称もつけずに記録しています。
一方、「大海人皇子」は、凡海(おうしあま)ではなく、長男につける“大”の字をもって、ちゃんと大海人皇子と記録されています。
なぜなら、“弟”の大海人皇子が、本来は舒明天皇の嫡男(跡継ぎ)であって、中大兄は舒明天皇の子ではないからです。
それゆえ、大海人皇子は、天智天皇の子「大友皇子」(明治3年追諡:弘文天皇)との壬申の乱に勝利し、天皇に即位されたとき、自らの正統を明らかにし、“千年のちも二度と皇位争い(内戦)を起こさない”と誓い、過去の歴史と自らの正統性を示すべく『古事記』と『日本書紀』の編纂を命じています。
『古事記』については、また別の秘密がありますが、機会があれば後述いたします。
しかし、結局は、ご存じのように藤原氏の“遠謀”もあって、天智天皇の子「志貴皇子」(しきのみこ)の子、第49代「光仁天皇」へと皇統はうつっていきます。
以降、天智系の皇統が続くことになるのです。
さて、大海人皇子は、壬申の乱にあたって「伊勢」を遥拝しています。
なぜ、伊勢を遥拝されたのかは重要なヒントです。
ですが、ご説明は長くなるので省略し、壬申の乱に勝利したのち「伊勢神宮」の改築(増築)にとりかかり、その遺志を継いだ持統天皇によって、今日のような「大神宮」に生まれ変わっています。
持統天皇は、周囲の反対を推し切り、「伊勢神宮」に何度かご行幸をされていますが、のちの天皇は誰一人として伊勢にお参りをされていないのはご存じかもしれません。
ところが、そのような天智系の皇統が1,200年あまりも続いたのち、御一新後に、「明治天皇」が初めて「伊勢神宮」をご親拝されているのです。
さらには、皇祖を「天照大御神」(あまてらすおおみかみ)と改められました。
『日本書紀』に記される皇祖は「高皇産霊尊」(たかみむすびのみこと)です。
源頼朝公にはじまる武家政権になってからは、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ:草薙剣)で知られる「素戔嗚尊」(すさのおのみこと)また「大国主大神」(おおくにぬしのおおかみ)も崇められてきました。
明治の国家神道は、ご祭神を正式に決める際、伊勢派(天照大御神ほか)と出雲派(大国主大神)とで論争が起きましたが、結論はでず、結局は明治天皇のご勅裁によって「天照大御神」に決定します。
不思議に思われませんか?
武家政権が終わり、明治天皇になって、突如、天武天皇が遥拝し、その正妃の持統天皇が大神宮に改修した「伊勢」(天照大御神)が正式のご祭神となったのです。
「伊勢」(天照大御神)をないがしろにした天智系の天皇は、結局、公家政権の藤原氏の意のままに操られ、鎌倉幕府を開いた源頼朝公の武家政権へと日本の「命運」は託されることになりました。
そのような武家政権を開いた「源頼朝公」の母は、三種の神器のひとつ「草薙の剣」が祀られる「熱田神宮」の大宮司家の娘「由良御前」(ゆらごぜん)です。
実際、熱田神宮の西門前にあった「熱田大宮司」(藤原家)の別邸が、頼朝公の生誕の地と伝わっています。
現在は「誓願寺」になっていますが、当時は井戸はなく、別邸に池があり、その水を産湯につかったようです。
次回は、伊勢を遥拝した天武天皇とは異なり、天智系は“正統”ではなかったゆえに、日本の「天運」は半減しました。
にもかかわらずそれを補い、日本の「天運」を維持した源頼朝公(熱海神宮:草薙の剣由縁)にはじまる武家政権と、明治天皇ご即位によって「天運」が還るまでをお届けいたします。