天皇と「日本の天運」その4
2021.03.23
 
● 初代 「神武天皇」以前に“国づくり”を行なった「大国主神」


ここからは本題の「天皇と“日本の天運”」その変遷をお届けする初回です。


結論的に、日本で最初の“国づくり”を行なったのは、実在が不確かな初代「神武天皇」ではなく、それ以前の「大已貴命」(おおあなむちのみこと)こと“大国主大神”(おおくにぬしのおおかみ)です。

ウソや冗談ではなく、『日本書紀』にそう記されています。

結局、「大国主神」の“善政”にはじまる日本の「天運」となっています。


詳細は後述いたします。

約2,160年間(計算値)続いた「双魚宮時代」(そうぎょきゅうじだい)も、また今後の「宝瓶宮時代」(ほうへいきゅうじだい)も日本は「天運」を有します。

それゆえ、世界史の中で数千年も滅びることのない“奇跡の国家”になっています。

それは、今後の「宝瓶宮時代」も同様です。


その理由は、「双魚宮時代」のはじまりと相前後して、「魚宮」(木星)で象わされる“民族性”をもち、「宝瓶宮時代」に共鳴する「水瓶宮」を“国体”として当時の国づくりが行なわれたからです。

それを可能にしたのが、日本列島の豊かな“大自然”と、太古また古代に日本列島にたどり着き住みついた複数の“海人族”(あまぞく)との融合で、特徴的には君臨しても支配しない“天皇”(大王、大神)やそのもとで平和的な“合議制”(共和制)の国体にあります。

もちろん、例外となる時期や国邑(こくゆう)はありました。


「双魚宮時代」は、今から32年前の1989年に終わりました。

人知れず“宝瓶宮時代のビッグバン”(宇宙波動の変化)が起き、新たに“共鳴関係論”を歴史パラダイムとする「宝瓶宮時代」が正式にはじまったからです。

宝瓶宮時代もまた約2,160年間(計算値)続きます。

これらの時代区分は、“春分点歳差”にともなう「プラトン年」(グレート・イヤー=約25,920年の周期)にもとづく「プラトン月」(グレート・マンス=約2,160年)のことです。

詳細は、「宝瓶宮占星学サイト」や「数理法則とクオリアル・ワールド伝授講座」で述べていますが、人類歴史は「プラトン月」こと占星学的な時代区分にもとづいて、その象意による“歴史パラダイム”に規定されて推移し、漸次、発展してきた事実があります。

これまでの「双魚宮時代」は、“対立二元論”を歴史パラダイムとしていましたので、“神とサタン”、“天国と地獄”、“霊と肉”、“善と悪”、“吉と凶”といった「宗教」また「思想哲学」の時代でした。

ただし、昨今は、そのような「双魚宮時代」から「宝瓶宮時代」の社会体制への重要な移行期(変遷期)にあります。


約2,000年ほど前、“対立二元論”の「双魚宮時代」初期にあって、日本も1~2世紀に大陸からの影響と鉄製武器の普及などによって、“争い”が生じました。

それを治めたのが、「ヒメヒコ制」(共立的統治形態)にもとづいて、“祭祀長”(大王、天皇)を推戴し、より対等の立場で首長や豪族らによる“合議制”の平和的な連合体(共和国)の運営でした。

そのような“長”のあり方や“臣民平等”の国家運営は、日本の“国体”「水瓶宮」となっていきます。

なぜなら、最初に“国づくり”を行なった“大已貴命”こと「大国主神」は、人々を“大御宝”(おおみたから)として、“支配”ではなく対等に教え諭して「和」(饒:にぎわう、ゆたかさ)をもたらしてきたからです。

そういうこともありまして、『日本書紀』の“憲法十七條”には、冒頭に「一曰(いちにいわく:第1条)以和爲貴」(和をもって貴しとなす)と記されています。


さて、“万世一系”の皇統を記す『日本書紀』ですが、それは7世紀の「白村江の戦い」の敗戦など国内外情勢によって、早急に「天皇」のもとに確固とした“統一独立国家”「大和」を構築する必要が生じていたためです。

また、古代最大の内戦「壬申の乱」によって、“千年のちまでも二度と皇位争いを起こさない”と誓った第40代「天武天皇」によって、皇位(王位)の“正統”を明確にする必要があったからです。

それゆえ、“プロパガンダ”となる部分が『日本書紀』には相応にありますが、日本書紀編纂の総裁をつとめた歌人の舎人親王(とねりしんのう:天武天皇の皇子)の人柄ゆえか、一方では案外と正直に史実のままに残そうと努めています。

初代「神武天皇」以前に、すでに“国づくり”が行なわれていたことが、ちゃんと記されているのもその一つです。

そのへんを、まず「神武天皇紀」から抜粋してみましょう。


●『日本書紀』「神武天皇紀」から抜粋

「塩土(しおつつ)の翁(おじ)に聞くと『東の方に良い土地(※注:葦原中国)があり、(中略)その中に天の磐舟(あまのいわふね)に乗ってとび降ってきた者がある』と。(中略)そのとび降ってきた者は、饒速日(にぎはやひ)というものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる。」

「長髄彦(ながすねひこ)は、使いを送って言上し、『むかし、天神の御子が天磐船(あまのいわふね)に乗って天降(あまくだ)られました。櫛玉(くしたま)饒速日命といいます』」

「(饒速日命は)その部下を率いて帰順された。神武天皇は饒速日命が天から降った(※注:国を治めていたという意味が含まれる)ということはわかり、いま忠誠のこころを尽くしたので、これをほめて寵愛された。これが物部氏の先祖である。」


つまり、物部氏の祖「櫛玉饒速日命」が、“葦原中国”(あしはらのなかつくに)に天降りし、すでに古代“国づくり”を行なっていたと記されているのです。

そこに、おなじ天孫族の“神武”が東征してきたので、“国譲り”をして忠誠を誓ったという“ストーリー”を『日本書紀』は描いています。


次に、順番が前後しますが、神武以前の「神代」(上)をみてみましょう。


●『日本書紀』「神代」(上)一書から抜粋

「大国主神は、大物主神(おおものぬしのかみ)とも、また国作(くにつくり)大已貴命(おおあなむちのみこと)ともいう。(中略)また、大国玉神(おおくにたまのかみ)ともいう。また顕国玉神(うつしくにたまのかみ)ともいう。」

「さて、大已貴命と少彦名命(すくなびこなのみこと)は、力を合わせ、心を一つにして天下を造られた。また、現世の人々と家畜のためには、病気治療の方法を定めた。

また、鳥獣や昆虫の災いを除くためには、まじないの法を定めた。このため、百姓(おおみたから=大御宝)は今に至るまでその恵みを受けている。」

「これから後、国の中でまだ出来上がらないところを、大已貴命が一人でよく巡り造られた。ついに出雲国に至って揚言(ことあげ)していわれるのに、『そもそも葦原中国(あしはらのなかつくに)は、もとから荒れて広いところだった。けれども、私が皆くだき伏せて、今は従わないという者はない』と。

そして、『今この国を治めるものは、ただ私一人である。私とともに天下を治めることができる者がほかにあるだろうか』と。」


ここにおいても、天孫「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)が高天原から天降る前に、大已貴命こと「大国主神」による“国づくり”が「葦原中国」(狭義では“畿内国”、広義では“日本”)で成されていたことが記されています。

つまり、日本国でみた場合、実質の初代は「大国主神」(大已貴命)なのです。


しかし、それでは「天皇」が治める正当性が成立しません。

それゆえ、当時の出来事や、のちの世に東征しモデルとなった実在の人物よって、初代“神武天皇”をたてて、“始めて天下を治められた天皇”「始馭天下之天皇」(はつくにしらすすめらみこと)という“ストーリー”を作成したのが『日本書紀』です。

なので、実在の“初代天皇”は、『日本書紀』にもう一人「御肇国天皇」(はつくにしらすすめらみこと)として記されている第10代“崇神天皇”(和風諡号:御間城入彦五十瓊殖天皇:みまきいりびこいにえのすめらみこと)の御世にあたります。

最初に“国づくり”を行ない、天下を治めた「大国主神」(大物主神、大已貴命)がそうです。

それを『日本書紀』は“万世一系”の皇統に“崇神天皇”あるいはその“御世”のこととして組み込んで記しています。

当時は、固有名詞(名前)が不確かなので、「大国主神」という呼び名は、“最初(太古)に国づくりを行なって主(あるじ)となったかみ(人物)”という業績から名づけられたものです。

必ずしも一人とはかぎりません。

ですが、最初に“国づくり”を行なった人物を「大国主命」また「大国主神」と申し上げます。


『日本書紀』によると、物部氏の祖「饒速日命」もその一人です。

「饒速日命」という呼称も、大国主神と類似で、“先に人々に「和」(饒:にぎわう、ゆたかさ)をもたらした尊い人物”という意味です。

後日(平安時代)、“天皇家”の由緒を記した『日本書紀』との整合性をとって、加筆修正された物部氏の由緒『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)によると、饒速日命は物部氏の祖「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと」と記されています。

実は、男性神「天照大御神」(大神さま)となった人物です。

ですが、『日本書紀』は、“万世一系”を定着させた第41代「持統天皇」(和風諡号:高天原広野姫天皇:たかまのはらひろのひめのすめらみこと)をわけあって「天照大神」になぞらえさせたために、途中で女性神「天照大神」に“キャラ変”させています。

それが今日に伝わるイメージになりました。


厳密にいえば、「天照大神」は、“饒速日尊”(物部氏や大国主神)であり、“大日孁貴”(おおひるめのむち:九州倭国の卑弥呼)でもあり、“持統天皇”(畿内国大和の天皇)とも読めるようになっています。

要は、“統一大和”の象徴として『日本書紀』に描かれたわけです。

そのため、「天照大神」を崇拝すれば、どの豪族や臣民であっても、自分たちの先祖や先祖大神を崇めるように計算されていて、「素戔嗚尊」(すさのおのみこと)との誓約(うけい)によっても、どの子孫が崇めてもおかしくないように修辞されています。


さらに付記しておきます。

縄文晩期後半また弥生早期において、「遠賀川式土器」(おんががわしきどき)が模倣もふくめて東北青森まで全国に広がっています。

その意味は、北部九州また福岡県の遠賀川流域に発した稲作が、“おんがさま”(大神さま)こと「大国主神」(大已貴命また饒速日命)によって、日本海の出雲を経て、全国規模に広まっていったことを現わしています。

上掲の『日本書紀』「神代」(上)の抜粋を今一度、ご吟味いただければ、そのことが示唆されていると存じます。


事実、福岡県郡筑前町(旧三輪町)には、山をご神体とした“おんがさま”と呼ばれる「大已貴神社」があります。

のちに、畿内国(大和)の三輪山をご神体とする「大神神社」(おおみわじんじゃ=おんがさま)の“前身”ともなる神社だと考えられます。

大和の大神神社は、「大物主大神」をご祭神とし、大已貴神と少彦名神を配祀しています。

ちなみに、「大物主神」という呼称は、“最初の物部氏の主(ぬし)となったかみ(人物)”とも読めることから、その場合、饒速日命こと物部氏の祖「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(男性神「天照大神」)の別称ともいえます。

三輪山をご神体とされる“大神神社”ですが、本来は三輪山登拝口がある「狭井神社」(さいじんじゃ)こそがもとの神社です。

なぜなら、狭井神社でご参拝すると、ちゃんと三輪山山頂を拝するようになっています。

これに対し、大神神社でのご参拝は、その方向にはだれがたくらんだのか、三輪山山頂ではなく「伊勢神宮」を遥拝するかたちになっているためです。


この意味を解説いたしますと、大神神社に祀られる「大物主大神」は、上述のように伊勢神宮の元祖「天照大御神」こと物部氏の祖で、最初に“国づくり”を行ない全国に遠賀川式土器とともに稲作をもたらし指導した「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(≒大国主大神)という可能性が否定できなくなります。


いずれにしても、重要なのは、日本の「天運」の原点は、人物でいえば「天皇」もそうですが、古代“国づくり”を行なった実質の初代「大国主神」(大物主神、大已貴神)また男性神「天照大御神」(櫛玉饒速日命)にかかわって、もたらされているという事実があります。

このことがみえてくると、以後、今日に至る日本の「天運」の変遷が解けてきます。












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