“逆説”の邪馬台国-書紀編1
2020.10.06
【『日本書紀』の中の“邪馬台国”】
先の「“逆説”の邪馬台国-番外編」で終わろうと思ったのですが…。
ついでなので『日本書紀』編を書いておきます。
そのまえに、なぜ、“逆説”とタイトルをつけたのかというと、『逆説の日本史』の第1巻に「卑弥呼」や「邪馬台国」が、新たな解釈をふくめてでてきます。
たとえば、“卑弥呼は日食で殺された”や、“卑弥呼は天照大神だった”などです。
一見、なるほどと思える説なのですが、事実は異なります。
小説家でもある著者は、どうやらあまり深く調べたのではなく、意外性のある面白い説得力のありそうな説を書いたただけなのかもしれません。
唯一、倭の女王「卑弥呼」が記される「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)や、「邪馬台国」があった「倭国」が記される古代支那の史書をよく読まれてはいないようなのです。
そんなこともあって、“本当”の「卑弥呼」と「邪馬台国」の比定に役立つ「あれこれ」を書いてみようと考えて、“逆説”を拝借し、はじめたのが「“逆説”の邪馬台国」シリーズです。
最初は3~4回で書き終わると思っていました。
ですが、書いていくうちに今回で12回になります。
最後に支那の史書だけではなく、「邪馬台国」が直接出てくるわけではありませんが、『日本書紀』のなかの“邪馬台国”にも触れておいたほうがいいと考えて補足することにしました。
1、三数思考(クオリアル・シンキング)
それを述べる前に、順番が前後しますが「邪馬台国」を解明する手法を書いておきます。
「数理法則とクオリアル・ワールド」(伝授講座)から宇宙この世界をつらぬく「数理法則」によって、真相の解明には「三数思考」(クオリアル・シンキング)が重要です。
かんたんにいえば、この世界が「三次元」から成り立っているように、一方向からのみでは「実像」がつかめないのです。
商品の大きさを「タテ×ヨコ×奥行き」で記し、ときに「重さ」も記すように、「基本三数」3(4)数が必要です。
「邪馬台国」の所在も同様です。
「史書」だけでなく「考古学」も必要ですし、全国各地の古代の「時代考証」も必要です。
そういった、最低限まったく異なる3つの方向から検討しないと正しい所在地はみえてきません。
邪馬台国「所在論争」が起きるのは、「魏志倭人伝」の一部しかみていなかったり、「考古学」の一部しかみていなかったり、「一部地域の歴史」しかみていないなど、いずれにしても客観性を欠いて“部分”のみをみて“絶対”だなどと決めつけるからです。
2、「山門説」の一例
たとえば、「魏志倭人伝」をよく読まれていたり、地方の歴史年代を把握されてるとは思いますが、重要な一節を見逃してしまうと、「山門説」や「八女説」になってしまいます。
「魏志倭人伝」に記される位置関係からは残念ながら、当てはまりません。
「山門説」や「八女説」など筑紫平野の南端部の場合、「女王国」(広義の邪馬台国)の北に「伊都国」(いとこく)、「奴国」(なこく)、「不弥国」(ふみこく)があったというのはなんとか該当しますが、「邪馬台国」の南に「21の某国」があったと記されていることに該当しないためです。
「魏志倭人伝」には女王(国)の境界が尽きたその南に「狗奴国」(くなこく)があったと記されています。
狗奴国は、現在の「菊池」など“熊本県界隈”です。
旧「山門」(みやま市瀬高町)は、その南の丘陵や山を挟んで、すぐに熊本県になります。
今もむかしも「川」や「山」が国境(県境)になるのは、生活圏が異なるために変わりません。
つまり、「邪馬台国」の南にあったと記される「21の某国」が存在できる余地が「山門」や「八女」の場合、ないのです。
また、魏の郡使は「邪馬台国」には行っていません。
「伊都国」に駐(とど)まっています。
などの理由から、旧「山門」や現「八女市」は、「邪馬台国」に比定するには明らかに位置関係が「魏志倭人伝」の記述に合わないのです。
3、考古学の陥穽(かんせい)
「三数思考」をもちいると「魏志倭人伝」だけでなく、その資料となった『魏略』(逸文のみ)をはじめ、「倭国」について記される『隋書』『旧唐書』『新唐書』も参考にすることになります。
さらには、直接は記されませんが『日本書紀』も参考にすることで文献から“邪馬台国”の位置が浮かび上がってきます。
文献だけをみても、3つ4つをみないと「邪馬台国」の所在は比定できません。
ですが、文献だけでも片手落ちなのです。
それを確実に証明する「物証」が2番めに必要だからです。
それが「考古学」などですが、考古学も1か所だけでなく「三数思考」によって異なる3点をみることが必要ですし、自分の地域だけでなく、邪馬台国が存在した3世紀の古代日本の全体的な出土状況をみないと、正しいご判断はできません。
考古学によって3世紀の日本全国のすべてが出土していれば、比較検討して「比定」することは相応に可能です。
ただし、日本全国を掘り起こすことは不可能ですし、考古学だけではムリです。
まして一部の地域だけの出土で比定するのは、“無謀”というほかありません。
ちなみに、3世紀の畿内は「青銅器文化」と「石器」がメインで、大陸は遠すぎて交流は行なわれていませんでした。
もし、行なわれていたのであれば、大陸に近い北部九州のように3世紀の「鉄鏃」(てつぞく)などの鉄器製品が相応に出土してもいいはずです。
ですが、ほとんどみられません。
今や多くの関係者が知ることですが「畿内説」学者や研究者は、マスコミを巻き込んで纒向説への“こじつけ”がひどいことで知られています。
良識的な多くの学者や研究者また一般のマニアでさえも、そのことを見抜いてあきれているのです。
「日本学術会議」ではありませんが、古代史や政策などの人文分野では、学者の“権威”などあてになりません。
なぜなら、結果的に間違っていることのほうが多いからです。
ほかのページにも書きましたが、かつて「出雲国」なんて神話にすぎないという歴史学の大家がいましたが、全国の出土数を上回る銅剣が一気に出雲の荒神谷遺跡から出土したことがあります。
感想を求められた大家は、なにも答えられませんでした。
最近の言葉でいえば表現は悪いのですが、“学歴のあるバカ”のたぐいで、“専門”(一部)しか見ておらず、「古代史」や「政治」などのように広く世界全体をみて判断しなければならない分野では、狭い分野にはなるほど間違うことが起こりやすいのです。
4、『日本書紀』の「邪馬台国」
それはともかく、日本の成り立ちを記した『日本書紀』にも当然、「邪馬台国」はシンボリックに記されています。
日本古来からの“万世一系”を記し、“統一独立国家”「大和」を記した『日本書紀』は、九州“倭国”をはじめ各地の歴史を取り込んで、「統一大和一国史」として記しているからです。
この意味は重要なのです。
初代「神武天皇」ご即位以前の「神代」(上、下)の部分など古代はとくにそうです。
先に結論をいえば、古代九州「倭国」は、“高天原”としてが描かれていることが多いようです。
一方、国譲り以前の本州「大国主国連合」(仮)は、“出雲”や“大已貴神”(おおなむちのかみ)の活動などをして描かれています。
このあたりの『日本書紀』の記述は、100%正しいというのではなく、「神代」(上下)には数々の「一書」(あるふみ=別伝)が併載されていることからもわかるように、当時の“記録”や“伝承”が少なく、各豪族によって交錯していたこともあって、相応に“創作”を交えて記されています。
なので字面どおりに『日本書紀』を読んでも“正解”にはいきつきません。
どのような“意志”(意図、考え)のもとに『日本書紀』が記されたのか、その“編纂方針”などを見抜ければ、記述のカラクリ(レトリック)がみえてきます。
天武天皇がなぜ『古事記』や『日本書紀』の編纂を命じたのか。
当時の国内外の情勢がどのようなときに天武は「天皇」になったのか、なぜ“大海人皇子”だったのかなどともかかわっています。
また、天武の皇子で編纂委員長をつとめた歌人「舎人親王」(とねりしんのう)や“卓越”したアドバイザー「藤原不比等」(ふじわらのふひと)が、どのように日本古来からの“万世一系”や“統一独立国家”を記そうとしたのか。
その「編纂方針」や、もちいられている「表記基準また「論理展開」を見抜ければ、隠された実在の九州「倭国」や「邪馬台国」また「卑弥呼」が“おぼろげ”ながらでもみえてきます。
もう一つ重要なのは、大和統一のために、日本各地の有力な豪族たちや国邑(こくゆう)を、どのようにして「天皇」のもとに結集せしめたのか。
その「ノウハウ」などが『日本書紀』の記述からみえてくると、有力な1国でもあった「倭国」や「邪馬台国」また「卑弥呼」の姿がシンボリックながら明らかになっていくのです。
詳しくは後日、機会をみてお届けいたします。