“逆説”の邪馬台国-5
2020.09.15
【「邪馬台国」幻想と陰謀】
今回は、「邪馬台国」に皆さまが抱いている“幻想”をお届けいたします。
「魏志倭人伝」を著した作者 陳寿の「陳寿伝」をよく読めばわかることですが、陳寿は、“ロマン”を書きたてる筆致が得意です。
史実を“単純化”して勧善懲悪的な“ドラマ風”に記したために、わかりやすかったのです。
実際、陳寿が著した史書『三国志』は、“ドラマ風”の要素があるために、「蜀」の王“劉備”ならびに「死ぬときは一緒」と義兄弟のちぎりを交わした“関羽”や“張飛”を主人公とする劇作『三国志演義』(通称「三国志」)としてドラマに仕立てられ、人気をはくしているのはご存じのとおりです。
実際の史書『三国志』は、魏の“曹操”こそが英雄と呼べる人物なのです。
それはともかく、史書『三国志』のなかに、『魏書』があり、その末端に「倭人条」(魏志倭人伝)が収録されています。
なので「魏志倭人伝」も例外ではなく、“ロマン”を書き立てる筆致で記されています。
実際には、“枝葉”の出来事があるシビアな史実であるにもかかわらず、陳寿は単純化して描いたために、「卑弥呼」や「邪馬台国」がそこにあって、まるで“英雄”かのように“ロマン”を夢みてしまうことが起こります。
つまり、我知らずとも“幻想”を抱き、「卑弥呼」や「邪馬台国」以外に重要な史実がなかったかのように“勘違い”してしまうのです。
このことが、「邪馬台国」の所在地を比定するときに冷静さを欠いて弊害が生じます。
1、「邪馬台国 幻想」
一例をあげましょう。
「魏志倭人伝」を、ほかにない100%の史実かのように我知らずとも信じると、“卑弥呼”や“邪馬台国”が日本の“原点”かのよう錯誤することが起こります。
「邪馬台国 畿内説」は、その代表です。
『日本書紀』に記される畿内における初代「神武天皇」の御即位と「大和朝廷」の成立を「卑弥呼」や「邪馬台国」が“原点”としてかかわるに違いないと信じ込んでしまうのです。
“歴史的大チョンボ”なのですが、気づいていません。
もしくは気づいていても、“意図的”に「邪馬台国は畿内大和だ」とこじつける理由がありそうです。
さて、「卑弥呼」や「邪馬台国」の時代、すなわち3世紀の日本の全国の考古学的出土品のデータを、ごくふつうに学術的に「魏志倭人伝」と照らし合わせてみれば、ほぼ答えが出てしまいます。
「畿内大和説」はあてはまらないのです。
それゆえ、彼らは逆に「考古学的には畿内が優勢だ」などと、恬として恥じずにウソぶき続けます。
冷静に客観的に比較すればわかることです。
「畿内説」の学者や研究家は、自分の“学問的プライド”や“学閥”があるし、何より“研究費”の件もあるし、“世間体”などもあって、いまさらひるがえすわけにはいかないというのが実状のようです。
一例を挙げますと、「魏志倭人伝」に「鉄鏃」(てつぞく:鉄のやじり)など鉄器の記述が出てくるのですが、青銅器の記述はありません。
当時の畿内は、出雲系の「青銅器文化」だったことは学校などで習ったとおりです。
「魏志倭人伝」に記される3世紀の「鉄鏃」の出土は、全国でもダントツの300個近い数量を出土している福岡県と熊本県がそれぞれ1位と2位を争っています。
畿内大和は、わずか数個の出土にもかかわらず、「畿内から鉄鏃が出ている」と“畿内説”ありきの観点で「考古学から裏付けられた」と語っているだけなのです。
もちろん、「畿内説」に不利なデータは歴史学界をはじめオモテに出そうとしません。
つまるところ、かつてのヒトラーのドイツ帝国や現在の中共のように、“ウソも100回言えば真実になる”という心理戦によって“強弁”し続けています。
「卑弥呼」や「邪馬台国」をなんとなくでも日本の“原点”と妄想を抱いている人々は、畿内説学者の“強弁”を無意識に心に残し信じてしまうことがあります。
卑弥呼や邪馬台国は、決して日本の“原点”などではありません。
歴史の「一コマ」にすぎず、3世紀に日本に存在した国邑(こくゆう)の“ワン・ノブ・ゼム”にすぎないことは、広く古代日本をひもとけばみえてきます。
邪馬台国以外に、全国各地に国があり、畿内国はその一つでした。
調べていただいてご判断されればいいのですが、ゆるやかな“本州大国主連合”の集会地の一つが畿内国、奈良盆地だったようです。
なぜなら、『日本書紀』からもわかるように出雲系の残滓が多いのです。
2、3世紀前後の「国邑」
上述のように、「邪馬台国」以外にも全国各地に“国邑”(こくゆう)がありました。
「魏志倭人伝」や『後漢書』をみても、次のように記されています。
● 「魏志倭人伝」より抜粋(1)
「(女王国)その南には狗奴国(くなこく)あり、男子を王となし、女王に属せず。
(中略)
倭の女王 卑弥呼、狗奴国の男王 卑弥弓呼(ひめここ)と、もとより和せず。」
● 「魏志倭人伝」より抜粋(2)
「女王国の東、海を渡りて千余里、また国あり、みな倭の種なり。
また、侏儒国(しゅじゅこく)あり、その南に在り、女王を去ること4千余里なり。」
● 『後漢書』より抜粋
「女王国より東のかた海を渡ること千余里にして拘奴国(くなこく:「狗」の字が異なる)に至る。みな倭種なりといえども、女王に属せず。
女王国より南のかた4千余里にして侏儒国(しゅじゅこく)に至る。」
「魏志倭人伝」に記録されるだけでも、規模は不明ながら「狗奴国」(または「拘奴国」)があり、「侏儒国」があったことがわかります。
では、ここから何がわかるでしょうか。
仮に「畿内」に女王国があったと比定した場合、東に「海を渡ること千余里」(約70km)に国はありません。
また、南に4千余里(約280km)もの先に国はあるでしょうか。
畿内大和からだと、約180km近い沖合いの太平洋の中になります。
ご参考に申し上げますと、日本の中で海を渡ること千余里(約70km)の東に国があるのは、九州と四国のみが該当します。
ただ、四国の場合、南に4千余里(約280km)もの先に、国は存在できません。
ちなみに、九州北岸から鹿児島南端は約300km強です。
それはともかく、3世紀前後の主な国内の国をあげてみます。
四国には、由緒ある「阿波国」がありました。
中国地方の瀬戸内海沿岸には「吉備国」があります。
日本海側には山陰に「出雲国」、近畿に「丹後国」、北陸に「越国」があります。
近畿の「畿内国」や中部の「尾張国」さらには縄文集落跡が残る「諏訪国」なども古い国邑です。
関東にも、「関東王国」もしくはその前身となる国邑がありました。
当然、東北地方にも縄文時代から集落があったことがわかっています。
これらは古い国も多いのですが、「女王国連合」は2世紀末に誕生したばかりの新興国にすぎません。
もっとも、金印が出土した「奴国」は1世紀にはありましたし、卑弥呼を女王に輩出したことから「邪馬台国」は、もう少し古い国のようです。
3、「畿内説論者」の“陰謀”
「畿内説学者」のやり方は“ヘン”です。
“中共”(中国共産党政権)と同じ手法をとっています。
中共が「尖閣は古来から中国の領土だ」と強弁して奪取しようとしているのと同じように、「邪馬台国が畿内だ」と強弁し、“実力行使”でねじふせようとしています。
客観的な「歴史研究」というよりも、“プロパガンダ”(政治宣伝)の域に近いのです。
あまりにもヒドく、学究的ではないので、理由を考えてみました。
「宝瓶宮占星学」サイトにも書いたことですが、古代支那の冊封下にあった「邪馬台国」を畿内大和だと“強弁”することによって、日本は古代から中国の冊封下にあった国だと“既成事実化”しているのかもしれません。
もちろん、上述したように「プライド」や「学閥」や「研究費」などの理由もあるでしょうが、それ以上にやり方が“異常”なのです。
中共が、「台湾」や「尖閣」また「沖縄」の占領を足がかりに、海洋侵出して東太平洋の覇権を手中にしようとしているのはすでに衆知のことです。
まずは、アメリカと世界を二分統治し、そののちアメリカまでも侵略して「世界覇権」をにぎることが彼ら共産主義者の目的です。
その前段で、当然、日本も中共の属国化が試みられます。
そのさい、邪馬台国また女王国連合は「古代支那の冊封下にあった」という“歴史的事実”が日本支配の根拠になります。
そのため、「邪馬台国」が地方にあっては論拠が弱まるのです。
どうしても『日本書紀』に初代“神武天皇”が即位されたと記され、代々天皇が“都”とし、実際、統一「大和朝廷」が置かれた畿内が「古代支那の冊封下にあった」としたいわけです。
そのため、「邪馬台国 畿内説」を声高に主張する人たちの中に、中共の意を受けた“工作員教授”や“スパイ研究者”がいて、「畿内説」を定着させようと動いていてもおかしくありません。
なぜなら、「畿内説論者」のやり方は中共とウリふたつだからです。
1、テドロス事務局長を「WHO」に送り込んだように、まず“権威”である「歴史学界」などに畿内説学者を送り込み、“学術的権威”から日本人を操ります。
2、中共が「マスコミ」を利用して常時、情報戦を仕掛けているように、畿内説論者は朝日新聞など「反日マスコミ」を使って“ウソ”の情報を大々的に流して日本人の洗脳を図っています。
……※ご参考:一例【モモの種】(後述)。
3、“武漢ウイルス”は、もはや中国の研究所から出たことが複数の証言によって明らかです。にもかかわらず中共は、“ウソ”を言い続けたように、畿内説の学者や研究者も不利な情報は隠し、“牽強付会”で畿内説を言い募っています。
史実を客観的に探究する職業にもかかわらす、それを超えてシロウト騙しの“牽強付会”を続けるのは、もはや学問のほかに強い理由があるからとしか考えられません。
結局、“工作員教授”や“スパイ研究者”を想定しないと、理解できないほど中共と同じ“プロパガンダ”(政治宣伝)のやり方を展開していることが傍証です。
“学者”というよりも、将来に備え、「中共の日本支配」に向けた歴史的根拠づくりを着々と行なっていると考えるしかないほどの“強引”さです。
※ご参考:一例【モモの種】
2018年に“大量のモモの種”が纒向遺跡(まきむく:奈良県桜井市)から発見されました。
それは客観的な事実ですが、「畿内論者」は「卑弥呼のモモの種」だと、失礼な言い方ですが“バカ丸出し”にも発表し、そればかりか、中共のやり方をならって「反日マスコミ」をもちいて大々的に報じ、「これで畿内に決まりだ」などと強弁して“既成事実化”を図ったのです。
良識ある歴史学者や研究者は、みんなあきれかえりました。
なぜなら、「魏志倭人伝」にはひと言も「モモ」は出てきません。(注)
また、「卑弥呼」が何を食べたかなどは書かれていないからです。
さらに、彼らが、卑弥呼のモモだという証拠となる“文献”を示さなかったところをみると、古代支那の「史書」のどこにも卑弥呼が“魔除け”にモモを食したなどと書かれていなかったのは明白です。
つまり、彼らの“妄想”また“こじつけ”なのです。
この一連の出来事を目にしたとき、その“牽強付会”ぶりに、彼らは中共と同じ手法をもって「ねつ造」し「事実」を捻じ曲げるということがハッキリとわかりました。
ほかにもありますが、彼らはもはや“学者”や“研究者”ではなく、すでに“アジテーター”(大衆扇動者)か、もしくは“邪馬台国幻想”を抱く信者や宗教活動家のようです。
ちなみに、纏向遺跡から出土した「モモの種」(桃核)は、2,765個です。
一方、岡山県で同じ弥生時代の遺跡から出土した「モモの種」(桃核)は、約10,000個もあります。
「魏志倭人伝」に記される“大衆を惑わす”「卑弥呼」を、証拠もなく“モモの種”と結びつけること自体に客観性もなにもないのです。
それをマスコミまで使って堂々と公表することを、“陰謀家”といいます。
(注) 「モモは出てきません」のご説明
「魏志倭人伝」には、「その竹には、篠・簳・桃支あり。」(原文:「其竹篠・簳・桃支」)とあります。
ここに「桃」という字は出てきますが、この一文は、倭国に産する竹の種類で「篠(しのだけ)、簳(やだけ)、桃支(とうたけ:桃支竹)」が植生しているという意味です。
次回は、「卑弥呼」の“幻想”をお届けいたします。
“逆説”の邪馬台国-4
2020.09.12
【「里程」と「日程」問題】
「邪馬台国」の所在論争は、「魏志倭人伝」の問題です。
作者 陳寿が“行程記録”を正しく記せなかったためです。
もしくは、よく理解できないまま「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)を著したためです。
どういうことか。
もし、陳寿が「邪馬台国」への行程を正しく理解し、正確に記していれば、今日のような“邪馬台国所在論争”は起きることはありませんでした。
陳寿は、「倭国」を訪れたことがありません。
そのため、すでにあった魚豢(ぎょかん)の『魏略』(ぎりゃく)を参考にしました。
また、いにしえの「奴国」や3世紀の「倭国」から魏に行った使者の記録も参考にしたでしょう。
さらには、当然、魏王の命を受け、倭国を訪れた帯方郡の郡使の記録を元に、「魏志倭人伝」を著したのです。
もっとも、陳寿が行程を正確に記せなかったことを、次のように“反論”されるかたもいるでしょう。
「いやいやそうではない。陳寿が参考にした“行程記録”そのものが不正確だったのだ」と。
そうでしょうか。
たしかに、パーフェクトではないのは事実ですが、「魏志倭人伝」を読むかぎり、“当たらずとも遠からず”の記述を陳寿は、部分的に記しています。
なので、“行程記録”そのものが間違っていたわけではありません。
間違えたのは、明らかに陳寿のほうです。
では、実際はどうなのか、みてみましょう。
1、郡使は「伊都国」に駐まる
「魏志倭人伝」には、次の一文があります。
● 「魏志倭人伝」より抜粋(1)
「伊都国に到る。(中略) 郡使往来するとき、常に駐(とど)まるところなり。」
すでに指摘されていることですが、伊都国(いとこく)に“至る”ではなく、「到る」という字がもちいられていることは“到着”を意味するために、郡使は「伊都国」までしかきていません。
伊都国には「一大卒」が置かれ、“女王国連合”約30諸国を“検察”していたことが「魏志倭人伝」に記されています。
「常に伊都国に治す」と記されていることから、郡使は、わざわざ危険を冒してまで諸国に行かなくても、伊都国で用が足りたのです。
当然、「常に駐(とど)まるところなり」と、駐車場の“駐”が使われていることも、郡使は伊都国に滞在していたことがわかります。
では、このことは何を意味するのでしょうか。
簡単です。
郡使が出発した「帯方郡」から、半島南端(倭の北岸)を経て、「伊都国」に到るまでの行程(里程)は、倭国を訪れた郡使ら自らが体験した比較的に正確な記録です。
なので、大きく間違うことはありません。
さらには「伊都国」と地続きの「奴国」(なこく)や隣の「不弥国」(ふみこく)までは平野部にあり近いことから、記された“里程”や“方角”に大きな間違いはないといえます。
つまり、「不弥国」までの行程は丸めた数字ながらほぼほぼ合っていますので、場所の比定は比較的、簡単にできるのです、
2、軍事偵察
次に、陳寿の間違いについて述べます。
現在の平和な時代の視点から、「魏志倭人伝」を解釈すると間違います。
たとえば、「南は東の間違いだ」とする強弁は、愚の骨頂です。
なぜなら、魏(帯方郡)の郡使は、“物見遊山”や“観光旅行”で「倭国」を訪れたわけではありません。
呉や蜀などと戦争中だった魏は、“軍事偵察”をかねて倭国を訪れました。
南方の「呉」、西方の「蜀」の二方面で熾烈な戦いを繰り広げていた「魏」は、東方の半島はもちろん、海を隔てているとはいえ、「倭」を味方につけておくことは、三方面の戦いを避けるためにも戦略的に最重要課題でした。
そのため魏王は、“東夷”の国でありながら、女王卑弥呼に「親魏倭王」の金印を仮授したのです。
平和ボケすると、このあたりの事情が見えなくなります。
魏の郡使は、万が一のことを考えて、「地理」や「方角」や「里程」の軍事専門家を随伴していたのは、常識中の常識です。
それゆえ、「魏志倭人伝」には、行程はもちろん、倭国の山海や風習また産物などが詳しく記されています。
すべて、倭国と戦さになったときのためなのです。
つまり、随伴した軍事専門家が「方角」や「里程」を大きく間違えて報告することはありえません。
もし、間違えるレベルであれば、古来より戦乱が続く大陸では、“笑いもの”にされるか、“戦さ”にならないばかりか、最悪は敗北し、国を滅ぼすことになってしまいます。
そのような事由から、郡使が駐(とど)まった「伊都国」また近隣の「不弥国」までの“里程”や“方角”は相応に正しく、信用できるのです。
問題は、伊都国から離れた、「投馬国」(つまこく)や「邪馬台国」さらにその南にあった旁余の諸国です。
3、陳寿は複数の記録をつなげた
問題は、実際には郡使が訪れなかった「不弥国」に続く次の行程です。
● 「魏志倭人伝」より抜粋(2)
「南して投馬国に至る、水行20日なり。(中略) 南して邪馬台国に至る、女王の都する所なり、水行10日、陸行1月」
最も重要な部分です。
解釈に課題が生じるポイントとなる部分がここなのです。
もし、この記述を「不弥国」に続くものだとすれば、「邪馬台国」はとんでもない位置になります。
ここがミスだとわかるのは、「不弥国」の南に水行20日などできる海や河川はありません。
陳寿の記述の“誤り”がここにあります。
それゆえ解釈が大きく分かれ、「邪馬台国所在論争」の最大要因になっています。
では、ヒントを書きましょう。
陳寿は、複数の記録を参考にして「魏志倭人伝」を著しました。
郡使は「伊都国」までしか来ていません。
にもかかわらず、「伊都国」と地続きの「奴国」や「不弥国」はともかく、別の記録から「投馬国」(つまこく)と「邪馬台国」への行程を、不弥国に続けて記してしまったことが、陳寿のミスです。
なぜなら、不弥国までの行程は「里程」です。
ところが、投馬国と邪馬台国への行程は「日程」です。
このような“ダブル・スタンダード”の表記は、郡使に随伴した軍事専門家は行ないません。
もし、行なったのであれば、まず帯方郡を出発してからの「里程」と「方角」を記しておいて、そのうえで再度、帯方郡からの「日程」を記し、万全を期したといえなくもありません。
にもかかわらず、陳寿は、不弥国までの「里程」に続けて、ことわり書きもなく、南に投馬国までの「日程」を水行20日のと記し、邪馬台国までの「日程」を水行10日、陸行1月と記したのです。
ドラマ的に書きたがる陳寿の最大のミスです。
「里程」と「日程」は、並列表記、もしくは別の「行程記録」を陳寿がかってにつなげたものだとわかれば、ことは簡単です。
4、「投馬国」と「邪馬台国」の比定
結局、帯方郡から水行のみ20日でいける海に面した国が「投馬国」です。
一方、水行10日で沿岸に着き、そこから当時の交通で陸行1月がかかる内陸部の国が「邪馬台国」です。
ここまで明かせば、「魏志倭人伝」などから邪馬台国の所在を試みておられるかたは、かなり絞り込むことができるでしょう。
もちろん、皆さまがご自由に比定されてかまいません。
私見は述べず、ここではヒントのみ書いておきます。
A) 邪馬台国は河川の上流域
当時の交通は船が主役です。
道路は国防を考えてのこともあって充分に整備されてはおらず、海や河川がメインの交通網でした。
「邪馬台国」が陸行1月の内陸部に位置するというのは、遡行しやすい河川の上流域に位置していたことを意味します。
河口や下流域は津波や洪水などの水害はもちろん、上流の国から攻められやすいためです。
古く由緒ある国ほど、早い者勝ちで広い平野部をそなえた河川の上流域に国(都)をつくりました。
中国も例外ではありません。
長安(西安)は、黄河の上流にある支流「渭河」の上流の広大な盆地に築かれた都です。
洛陽は、山を隔てた黄河の上流に隣接し、支流の「洛河」のほとりに築かれた都です。
日本の場合、のちの平城京や平安京も河川の上流域の盆地に築かれた都でした。
B)南に旁余の21か国と狗奴国
「魏志倭人伝」によれば、邪馬台国の南に「女王国グループ」に属する21か国の旁余の諸国があったと記されています。
邪馬台国を比定するさいは、南に21か国が存在できる地がなければなりません。
当時の国邑(こくゆう)ゆえに、現在の県を超えるほどの広さはありませんが、21か国が河川などを通して相応に隣接する規模であることが条件です。
さらに、その南には女王国連合と敵対する「狗奴国」があったと「魏志倭人伝」には記されています。
女王国の境界がつきる旁余の諸国の21か国の南に、さらに相応の国力をもった「狗奴国」(くなこく)が存在したのです。
つまり、狗奴国は「女王国連合」に相応に匹敵する平野部を抱えていた国でした。
上述いたしましたように、陳寿は解釈を間違えましたが、理由もなく間違えることはありません。
「奴国」や「不弥国」の南方に「邪馬台国」があったために、「帯方軍」からの「南」と気づかずに、「不弥国」に続けて著してしまいました。
結局、「邪馬台国」の南に女王国に属する「旁余の21か国」があり、さらにその南に、相応の規模を有した「狗奴国」が存在できる、河川上流域にある内陸部が女王卑弥呼の「邪馬台国」です。
ほかにも、比定に役立つ記述はありますが、長くなりましたので、今回はここまでです。
“逆説”の邪馬台国-3
2020.09.10
【「邪馬壱国」と「邪馬台国」】
かつて、『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)という書籍が発刊されました。
編集者がつけたタイトルらしいのですが、「邪馬台国」(やまたい こく)ではなく、「邪馬壱国」(やまい こく)があったという論旨のようです。
つまり、「臺」(台)ではなく、「壹」(壱)が正しいと。
先回の「“逆説”の邪馬台国-2」でご紹介しました陳寿は、「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)に、「邪馬壹国」(壱)また「壹與」(壱与)と記しています。
だとすれば、正しいのでしょうか?
ちなみに、この「壱与」(いよ)を根拠の一つとして、四国は古来「伊予」と呼んだことから、「邪馬台国 四国説」を唱える方もいるほどです。
にもかかわらず、古来より「邪馬台国」や「台与」と呼称されてきています。
専門家や研究者が、「魏志倭人伝」に“邪馬壱国”や“壱与”と記されていることを知らないはずはありません。
今回は、「宝瓶宮占星学」サイトでも触れた内容ですが、なぜ“邪馬壱国”ではなく、「邪馬台国」と呼ばれつづけてきたのか。
「魏志倭人伝」以外の古代文献からみてみたいと存じます。
1、陳寿は日本にきたことがない。
まず、陳寿は、「倭国」に来たことがありません。
では、どのようにして「魏志倭人伝」を著したのでしょうか。
それは奴国や倭国からの使者が、「後漢」や「魏」を訪れていたからです。
また、「魏志倭人伝」に記されているように、魏王からの使者、太守の「弓遵」や建中校尉の「梯儁」らが倭国(伊都国)に来ているからです。
そういった奴国や倭国からの使者らに聞いた記録や、弓遵や梯儁らが倭国に来て視察した報告などが残されていたからです。
また、陳寿が『魏書』(倭人条)を著す前に、魚豢(ぎょかん)が残した『魏略』(ぎりゃく)がありました。
そこに倭国の都(邪馬台国)に関する記述もあったからです。
陳寿は、そういった複数の記録や資料をもとに、「魏志倭人伝」を著したのです。
それらの記録には、いったい「邪馬○国」と書かれていたのでしょうか。
2、『魏略』の逸文
これらの原本は、残念ながら散逸して残っていません。
しかし、魚豢の『魏略』の逸文(引用文)が、福岡の太宰府天満宮に残っています。
唐の時代に記された『翰苑』(かんえん)がそれです。
遣唐使の名残りなのか、現在、わが国の国宝に指定されています。
では、『翰苑』に残される『魏略』の逸文、3世紀の倭国に関する部分をみてみましょう。
●『翰苑』より抜粋(1)
1) 『魏略』の逸文
「憑山負海 鎮馬臺 以建都」
【読み】 山につき、海を負い、馬台を鎮め、以って都を建てる。
○『翰苑』自体の注釈の抜粋
「後漢書曰 (中略) 其大倭王治邦臺」
【読み】 後漢書にいわく、(中略) その大倭王は(邪馬)台で治める。
陳寿が「魏志倭人伝」を著すにあたって参考にした『魏略』には、逸文ですが卑弥呼の都を「馬臺」と記していたことがわかります。
『後漢書』においても、倭王は「邦臺」(邪馬台国)で治すと注釈がつけられています。
では、次の逸文をみてみましょう。
●『翰苑』より抜粋(2)
2) 『魏略』の逸文
「臺與幼歯方諧衆望」
【読み】台与は幼歯でまさに衆望にかなう。
○『翰苑』自体の注釈の抜粋
「名曰卑弥呼 死更立男王 國中不服 更相誅殺 復立卑弥呼宗女臺與 年十三爲王 國中遂定」
【読み】名は卑弥呼という。死してさらに男王を立てる。国中服さず。さらに相誅殺。再び卑弥呼の宗女台与を立て十三歳を王となす。国中ついに定まる。
これらの逸文からは、「馬臺」「邦臺」(邪馬台国)また「臺與」(台与)というように、明らかに「臺」(台)の字が使われています。
3、そのほかの史書
では、のちの古代支那の史書には、どのように記されているのでしょうか。
●『後漢書』より抜粋…5世紀前半
「其大倭王居邪馬臺國」
【読み】 その大倭王は邪馬台国に居す。
「後漢」は「魏」より古い前の国ながら、『後漢書』自体は、「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)が記された3世紀後半よりのち、5世紀前半に范曄(はんよう)によって記されました。
●『梁書』より抜粋…7世紀前半
「又南水行十日 陸行一月日 至邪馬臺國 即倭王所居」
【読み】 また南に水行十日陸行一月、邪馬台国に至る。すなわち倭王の居すところ。
「復立卑彌呼宗女臺與為王」
【読み】 ふたたび卑弥呼の宗女台与を王となす。
●『隋書』倭国伝より抜粋…7世紀
「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」
【読み】 都を邪靡堆(やまたい)におく。『魏志』におけるいわゆる邪馬台国なり。
以上のように、支那の正史には、「魏志倭人伝」をのぞいて、すべて「邪馬臺国」(邪馬台国)または「臺與」(台与)と記されています。
つまり、「魏志倭人伝」のほうが例外なのです。
理由は何であれ、陳寿の「魏志倭人伝」の元となった資料にも、少なくとも『魏略』には「臺」(台)と記されていました。
にもかかわらず、陳寿のみが「壹」(壱)の字に変えて、「邪馬壹国」(壱)と記したのです。
4、「臺」(台=うてな)の考察
ちなみに、『「邪馬台国」はなかった』の著者は、次のように解釈しています。
「臺」(台=うてな)は、「天子の宮殿とその直属の中央政庁」という特殊の意味を有する。
なので「邪馬」という卑字に、神聖至高の文字「臺」を用いるはずがない。
ゆえに「邪馬臺国」(台)という国名などありえない。(「邪馬壹国」(壱)があった)
本当でしょうか。
「ウィクショナリー日本語版」によれば、「臺」(台=うてな)には、“しもべ”という意味があります。
「邪馬」という卑字に、魏王の“しもべ”という意味で「臺」を用いても、支那としては「邪馬台国」(臺)という国名で、なんら問題はないといえます。
そうであれば、問題は曲筆でも知られる陳寿ご自身のようです。
ちなみに、「臺」(台=うてな)には、まわりを見渡せるように作られた高い建物、また物見台といった意味もあります。
「邪馬台国」が、川の上流域など高台にあったのかもしれません。
もしくは、「魏志倭人伝」に卑弥呼の都のようすが「楼観、城柵、厳かに設け」と記されるように、“高い物見台”(楼観)があったゆえに、「邪馬台国」という漢字があてられたのかもしれません。
“逆説”の邪馬台国-2
2020.09.08
【陳寿伝】
「陳寿」(ちんじゅ)は、信頼できる人物でしょうか。
「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)を著した「陳寿」(ちんじゅ)は、どんな人物なのか、それがみえてくれば「魏志倭人伝」の記述がどこまで信用できるのか、そのベースが見えてきます。
「陳寿」について残された記録は、『晋書』第82巻列伝52の一人として出てきます。
233年~297年に生きた陳寿ですが、『晋書』は7世紀に記されました。
「邪馬台国」に関する記述や講演などを見聞きしていると、ときおり「陳寿は正しい人物だったので『魏志倭人伝』の記述は信用できる」といっておられるかたがいらっしゃいます。
本当でしょうか。
先回の「“逆説”の邪馬台国-1」に、「邪馬台国」など古代史にご関心をもたれるかたは、“夢”(ロマン)や“事実誤認”を象わす「海王星」の象意の影響を受けた人物が多いと書きました。
ゆえに、“善意”だったり、“悪気”はないことが多いのですが、“シビア”な視点からは、にわかには首肯できない一面があります。
なぜなら、元資料には「邪馬台国」(臺)と記されていたにもかかわらず、かってに「邪馬壹国」(一、壱)と書き換えた人物だからです。
では、「陳寿伝」からみてみましょう。
1、宦官の「黄皓」におもねず
「陳寿伝」で、いちばん最初に出てくるエピソードは次のようなものです。
劉邦、関羽、張飛の義兄弟や諸葛孔明で知られる『三国志』の一国「蜀」に陳寿がいたころのお話です。
●「陳寿伝」より抜粋(1)
「ときに宦官の黄皓が権勢をほしいままにしていた。大臣らはみな意を屈して黄皓に付き従っていた。
陳寿だけは、これにおもねることはなかった。このため、しばしば官位を下げられた。」
これだけを読むと、“善意”の日本人であれば、「陳寿は正義心にあふれた人だ」と思い込んでしまいそうです。
ですが、マンガやドラマのお話ではありません。
また、陳寿は日本人でもないので、そう単純な理由からではなさそうです。
それは、陳寿の別のエピソード(記録)からみえてきます。
2、「喪」の話と、“ワイロ”の要求
●「陳寿伝」より抜粋(2)
「父の喪にあい病気になった。下女に“丸薬”をつくらせた。弔問の客がそれを目にしたために、郷里の人々に非難されることになった。」
(中略)
「また、次のようにも言われている。
丁儀兄弟は、魏で名声があった。
陳寿はその子に、“千斛の米をいただけるなら、父君のために立派な伝を作りましょう”と言った。
丁兄弟の子らは与えなかったので、伝を立てなかった。」
千斛の米というのは、日本の分量と同じかどうかは不明ですが、“千石大名”と同じで、江戸時代で換算すれば“千両”もの金額になります。
要は、一種の“ワイロ”の要求ですね。
もし、このとき陳寿が、丁兄弟の子らから千斛の米をもらっていれば、「丁儀兄弟伝」は、正しい“歴史記録”として残されたでしょうか。
現在の“広告掲載費”と同じと考えれば、“ワイロ”(掲載費)をもらいながら“悪く”書くことはむずかしいために、どこかに「曲筆」が混じると存じます。
この事実は、丁兄弟の子らが拒否したので明らかになったと考えられます。
「魏志倭人伝」がそうだとは申しませんが、陳寿が著した「伝」のなかに同じようなことはなかったといえるでしょうか。
3、“泣いて馬謖を斬る”関連
次の記述も驚きです。
『三国志』の中に、だれもが知る「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」というエピソードがあります。
「蜀」の名参謀 諸葛亮(りょう)こと「諸葛孔明」は、有能な馬謖(ばしょく)将軍を高く評価していました。
しかし、あるとき戦さで、馬謖が軍命に従わず、かってに動いたため、蜀軍は大敗をしてしまいます。
軍律違反は大罪です。
なので、軍律保持のため、孔明は泣いて馬謖を処したという故事です。
実は、このとき陳寿の父親は、馬謖の“参軍”(参謀役)をしていました。
そのため、陳寿の父もまた、連座して刑に処せられたことが記されています。
その続きが次の記述です。
●「陳寿伝」より抜粋(3)
「(亮の子)諸葛贍(しょかつ せん)も陳寿を軽んじていた。
陳寿は、亮(諸葛孔明)の伝を立て、“将軍としての計略は優れたものではなく、敵に対応できる軍才はない”と述べ、“諸葛贍は、ただ書がうまいだけで、名声がその実力を越えている”と言った。
議論する者は、このことで陳寿をそしった。」
この一文からみえてくるのは、陳寿は自分の感情で人物の評価を下すということです。
それだけなら、肉親の情として“当然”といえばそういうこともありますので、同情はできます。
ですが、自分の感情によって歴史を曲げて記すのは、もはやフィクションでしかありません。
客観的な“歴史記録”にならないからです。
これらのエピソードは、陳寿は自分の感情や利によって“筆を曲げ”たり“公私混同”して、“歴史記録”を残す人物であることがわかります。
4、『三国志』編纂
上述のようなエピソードの一方で、次のような記述もあります。
●「陳寿伝」より抜粋(4-1)
「(陳寿は)『魏呉蜀三国志』全65巻を編纂した。
当時の人々は、よく記述されており、すぐれた史官としての才能がある、と賞讃した。
夏侯湛は、時を同じくして『魏書』を書いていた。
陳寿の著作をみると、自分の書いたものを破り、書くことを止めてしまった。」
陳寿に文才があったことは事実です。
また、『三国志』は人々(庶民)にも人気があったことが記され、史実どおりかどうかはともかく、わかりやすく、“勧善懲悪”ともいえるドラマ風に仕立てるのが上手だったようです。
それが、後年のだれもが知る劇作『三国志演義』の誕生につながったといえるでしょう。
陳寿は歴史の事実を、ドラマのように“勧善懲悪”で仕立てるのがうまかったことは、次のエピソードからもわかります。
「陳寿伝」の最後に、死後のエピソードとして、俗称「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)が収録される『三国志』が書き写されたいきさつが記されています。
●「陳寿伝」より抜粋(4-2)
「范頵らが上表していうことには、(中略)
“陳寿は『三国志』を著しました。
その文辞には、善を勧め悪を懲らしめることが多く記され、ことの成否が明らかにされ、人民を教え導くのに有益なものです。
文章の艶麗さは、相如にはおよびませんが、しかし、内容の質直さにおいては、相如以上のものがあります。
どうか御採録を賜りますように。”
そこで、河南の尹・洛陽の令に詔がくだされ、(陳寿の)家に行って、その書(『三国志』)を書き写させた。
陳寿はまた『古国志』50篇、『益部耆旧伝』10篇を撰述し、その他の文章も今の世に伝えられている。」
で、「陳寿伝」は終わっています。
文中で“質直”というのは、飾り気がないことです。
余計な修辞(レトリック)がなく記されているという意味です。
この最後のエピソードは、「陳寿伝」の4分の1近い文字数がさかれており、“デティール”(細部)が効きすぎています。
“歴史書”がこういう饒舌な書き方をするとき、“弁明”や“ウソ”などを、のちの読者に納得させようとしていることが多いのです。
たぶん、ワケありで、上表した功績を誇示すために“盛った”可能性などがありそうです。
それまでの「陳寿伝」の簡潔な流れからみると、長々と上表に触れずに、たとえば「記録として残すため、陳寿の家に行って『三国志』を書き写させた」という事実のみで済むはずだからです。
5、おわりに
以上、「魏志倭人伝」の作者 陳寿について『晋書』からご紹介しました。
「陳寿伝」のエピソードが、どこまでが“事実”なのかはわかりません。
ですが、上述のような記録が残る陳寿が、書きあらわした『三国志』巻30「魏書30 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」(魏志倭人伝)の内容は、どこまで信用できる“歴史記録”といえるのでしょうか。
私見を述べることは避けますが、ご参考の一部とされて「邪馬台国」の所在地の比定をされてみられるのもアリかと存じます。
“逆説”の邪馬台国-1
2020.09.06
議論百出の「邪馬台国」なのはご存じのとおりです。
史実はともかく、個々人が“所在”をどこだと主張してもかまいません。
すると、まれに“トンデモ説”がでてきます。
ですが、“トンデモ説”すぎるのは、逆にありえないと多くの人がわかるのでいいのです。
むしろ、いちばん困るのは、ご本人が真剣に信じているのか、「ついに完全解明」とか、「最終結論」などと我知らずとも“うそ”ぶいてしまうことです。
それは、「当たらずとも遠からず」といった相応の“確証”があるからでしょうが、なかにはアクセス数稼ぎや出版社が売らんかなの“釣り”でもって、そう誇張することがあります。
それが困るのです。
「え? 魏志倭人伝(倭人条)って、そんなに整合性のある“歴史記録”でしたっけ?」
と思っちゃいます。
理数系ならともかく、「歴史書」は正確ではありません。
たとえば、“勝者”と“敗者”どちらの立場からみるかによっても、また“第三者”の目からなるべく客観的にみたとしても、“ウソ”とまではいいませんが、どこか一方的な主観になったり“間違い”が生じるのは事実です。
そんなことは、実は、だれでも身近に経験しているのです。
なのに、なぜか「魏志倭人伝」だと、正しい“歴史記録”だととらえてしまう人がいます。
もちろん、「南は東のことだ」とか「1月は1日の間違いだ」などど、曲解するのは論外です。
著者が意図するしないにかかわらず、当時の事情や状況などによって、情報不足や誤解もふくめ“誤まって”記述してしまうことは、“歴史記録”には避けられません。
身近な一例をあげましょう。
お隣の国の歴史認識などは“論外”ですが、正しい歴史を伝えようとする日本の「歴史教科書」がよい例です。
戦後の一時期ほどの左翼偏向の記述は、多少は少なくなったと思います。
ですが、一般的なところでも“聖徳太子”がどうのとか、“足利尊氏”の肖像が違うとか、“鎌倉幕府開幕”の年代が異なるとか、明らかになっていなかった“誤り”は今なお出てきます。
比較的“史実”の結論のみを記そうとする「教科書」でさえそうなのです。
“歴史記録”ってそんなものです。
今日のネット社会のように、玉石混交ながらも情報があふれているわけでもありません。
文字は一部の人しかもちいていませんし、残すとしても“絵”がせいぜいで、写真などの情報インフラが整っていない時代の記録です。
著作郎(著述家)だったとしても、記録されたり伝え聞いたごく一部の“情報”しか伝わらない時代の記録です。
まして、大陸サイドの目で残した「魏志倭人伝」なので、客観的な部分があったとしても、どこかにフィルターがかかります。
古代日本の、しかもごく一部地域の、わかる範囲でしかない情報を、“主観的”に記録しただけなのです。
決して、当時の日本各地の状況を把握して記録したのでもなければ、古代日本のそれ以前の変遷をふまえて記したものでもありません。
そんな「魏志倭人伝」の記述ゆえに、古い日本の原点を記したものでもありません。
実際、大陸の“記録”に残らないだけで、紀元前の“文明文化”のあとは、世界が驚くほど日本各地に残っているからです。
とくに、卑弥呼が共立されてのちの「女王国連合」(新・邪馬台国グループ)というのは、2世紀末に誕生した“新興国”にすぎません。
「“逆説”の邪馬台国」とタイトルをつけたのは、そういう意味からです。
また、『逆説の日本史』(初巻)においても、卑弥呼や邪馬台国の新たな解釈が付加された項がありますが、著者は作家らしく確たる証拠はないにもかかわらず、“持論”を展開されて史実かのように語っているのです。
著作は自由ですが、客観的かつ公平にみれば、やはり“思い込み”がみられることから、あえて「“逆説”の邪馬台国」というタイトルで、確実に史実に近い部分と、そうでない“思い込み”の部分、さらには“留保”すべき部分などを『逆説の日本史』に関係なくみていきたいと存じます。
もし、「魏志倭人伝」(倭人条)が100%正しい“歴史記録”なら、邪馬台国の位置はとっくに比定されているはずです。
今だにそれができていない以上、そういうレベルの“歴史記録”だということです。
なのに、状況証拠などを結びつけて、「ついに完全解明」だとか、「最終結論」などと断言されるから、“おかしく”感じますし、真に史実を解明しようとするときに“困る”のです。
それはともかく、“邪馬台国”をはじめとした「古代史」解明に、なぜ、“思い込み”や“事実誤認”が生じやすいのかを占星学からご紹介しておきます。
古史古伝に描かれる“超古代史”や邪馬台国のような“古代史”など、「現実」(現代)を超えた世界や時代への意識やご関心(ロマン)は、星でいえば「海王星」がもたらします。
ちなみに、「木星」の場合は、地域的には“海外”など、地上規模の意識や関心の広がりにとどまります。
一方、「天王星」となると、“宇宙”規模の意識や関心の広がりをもたらします。
それゆえ、「木星」と共鳴したかつての「双魚宮時代」は、海外に広く領土や産物を求めた“大航海時代”や“支配/被支配”の“植民地時代”が到来しました。
それが、「天王星」を共鳴星とする「宝瓶宮時代」の影響圏に入ると、ついには“飛行機”や“ロケット”などの飛行体が開発され、「宝瓶宮時代」が正式にはじまった今後は、“宇宙ステーション”や“各種衛星”をはじめ“宇宙時代”へと進んでいくわけです。
では、「海王星」はどうなのでしょうか。
上述いたしましたように、「海王星」による意識やご関心はそれらを超えます。
「現実」を超越してしまうのです。
人間の形而上的な“心理”や“心象”をふくめて、“時空”を超越した存在しえない“イメージ”や“フィクション”の世界へと誘っていきます。
それを、まだ「自覚」できているうちはいいのですが、海王星の影響は、自分でも気づかないことが多く、“これは事実だ”とまるで“現実”かのように思い込むはたらきが加わるのです。
そういった「海王星」の象意を、強く生まれ持っていたり、「海王星のディレクション」を受ける人生期にあるとき、“スピ系”などもそうですが“古代史”の世界に“関心”や見果てぬ“夢”(ロマン)をいだくことが起こります。
“良し悪し”とは関係がありません。
「海王星」自体が、現実を超えた“霊界”や“不思議系”など、不確かな世界に共鳴して、“イメージ”や“インスピレーション”をもたらすために、よくよくご注意しないと、“現実錯誤”や“事実誤認”、また“思い込み”をもたらすことになるのは事実です。
当然、不確かさの残る「古代史」や“シュメール文明”をはじめ「古史古伝」などによる“超古代文明”と共鳴(スパーク)して、まるまる信じてしまうことが起こります。
“イメージ”や“イスピレーション”が、「海王星」の象意によってさらにふくらむ結果、“これは事実に違いない”と、無意識のうちにまるで「現実」かのように我知らずとも信じ込みやすくなるのです。
それが、邪馬台国の所在などに関して、「最終結論」だとか「ついに完全解明」などと、断言してしまう言動にいたる理由です。
“悪気”はないのですが、「現実」が見えなくなるのです。
結果、史実の究明とは正反対に「海王星」らしく“混乱”や“混迷”また“欺瞞”を我知らずにもたらす結果をまねきます。
地道に史実を探究する人たちにとっては、いい迷惑なのです。
ただ、弁護しておきますと、ときに「海王星」の“妄想”や“フィクション”また“インスピレーション”が、史実へのヒントになって役立つことはあります。
そのためにも、「土星」の象意をもっておくことが必要です。
なぜなら、「土星」は、“誤魔化すことのできない現実”を象わすためです。
海王星とは正反対に、地に足をつけて、地道にコツコツと、忍耐強く、慎重に研究を一歩ずつ重ねていく働きをもたらします。
また、“疑心暗鬼”といえば失礼ですが、“用心深い”ので容易には“観念論”や“妄信”には流れません。
もっとも、それゆえ「土星」は、現世でなく“天上天国”や“信仰”に価値をおく「キリスト教」や、19世紀後半以降、現実に根差さないオカルト解釈に流れた「神秘占星術」(オカルト占星術)の流れをくむ現代西洋占星術などでは、“大凶星”とされてきました。
ですが、もはやそんな「双魚宮時代」は終わったのです。
新しい宝瓶宮時代は、星に「吉凶」はありません。
「海王星」は、海王星らしく、“夢”(ロマン)や“想像”(フィクション)を楽しめばいいでしょう。
「土星」は、“シビア”に、“誤魔化すことのできない現実”にそって、一歩ずつ史実の解明に近づいていけばいいのです。
問題は、そのバランスとTPOです。
お遊びや興味半分なら、「海王星」によってご関心をもたれてもいいのですが、「邪馬台国」をはじめ古代史の史実を解明していくには、やはりこれからの時代は「天王星」や「土星」の象意また作用が重要になります。
いずれにしましても、上述のようなことから「“逆説”の邪馬台国」を、随時お届けしてまいります。
奴国、邪馬台国☆雑考編
2020.08.26
今回はいくつかの雑考編です。
1、「金印」(漢委奴国王)
住吉大神(すみのえのおおかみ)らにならぶ海人族(あまぞく)の雄「安曇連」(あずみのむらじ)が当初、拠点とした博多湾の志賀島(しかのしま)から「金印」が発見されました。
「漢委奴国王」と刻印された金印は、『後漢書』に記される倭(わ)の奴国の使者に西暦57年、光武帝が賜った「印綬」(印章と紐)だとされます。
奴国の使者は「大夫」(たいふ)と自称したと記されていますが、これは支那の身分でいえば“大夫”にあたる奴国の身分だと考えられます。
それはともかく、「漢委奴国王」という印刻を素直に読めば「漢が委ねる奴国の王」です。
一方で、「漢の委奴国の王」と読む向きもあります。
“委奴国”を、いにしえの「伊都国」(いとこく)と読むわけです。
しかし、後の歴史書には「倭国はいにしえの奴国なり」という記述があります。
なので、「委奴国」を“倭の奴国”と読むのはアリでも、「いとこく」と呼ぶには無理があります。
実際、邪馬台国で有名な「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)には、女王国(倭国)を構成する国として、一大卒の「伊都国」と「奴国」(なこく)が2つ出てきます。
つまり「奴国」と「伊都国」は別の国です。
さらには、福岡県糸島市に比定される「伊都国」の東南にあったと記される「奴国」は、金印が発見された博多湾を抱える福岡平野部に位置していることから、「金印」の刻印と一致する「奴国」で間違いなさそうです。
ちなみに、「奴国」というのは、博多湾沿岸部は古代は湿地帯で沼が多く“ぬまこく”と呼べる地形から、“ぬこく”(なこく)となったようです。
2、女王国の中心は「伊都国」
卑弥呼を女王に共立して“倭国大乱”は収まりました。
いわゆる“女王国連合国家”が2世紀末に誕生したのです。
しかし、女王になってのち、卑弥呼は自らの“都”とする邪馬台国からほぼ姿を見せていないことが「魏志倭人伝」に記されています。
では、実質上、女王国連合を管轄したのはだれでしょうか。
それは、「一大卒を置きて諸国を検察せしめ、諸国これを畏憚(いたん)す」と記され、畏れはばかられていた「伊都国」(王)です。
伊都国には、「世々王あり」と記されるように、かねてより王がいて、奴国や不弥国(ふみこく)をはじめ女王国連合の30余国を“検察”していたのです。
江戸時代にたとえますと、ちょうど京都に“天皇”がいて、実際の政治は江戸で“徳川幕府”が行なっていたのと同じです。
そのため“都”の「邪馬台国」(卑弥呼)には実権がなく、実質は「伊都国」(伊都国王)が“卑弥呼”の名によって魏と通じ、諸国ににらみを利かせていたというのが実状です。
このことがわかれば、当時、伊都国が検察できる範囲はおのずとかぎられてきます。
博多湾に流れ込む御笠川などの河川に隣接する福岡平野周辺の諸国と、上流は太宰府近辺から逆に山口川→宝満川→そして有明海へと流れ込む筑後川の北岸部をメインとした諸国の範囲です。
鉄道も電信もなかった当時、河川が主な交通手段でしたので常時、目が届く範囲はかぎられます。
そのため、同じ北部九州でも福岡平野の東側の山を越えた、宗像市を河口とする遠賀川(おんががわ)流域の「秦王国」(しんおうこく)などは含まれず、『隋書』でいう「竹斯国」(ちくしこく:筑紫国)をメインとした福岡県西部や中南部が、邪馬台国を含む「女王国」です。
3、「拘奴国」と「狗奴国」
魏志倭人伝には女王国(邪馬台国)に敵対する「狗奴国」が記されています。
『後漢書』には「拘奴国」が記されるのですが、いずれも「くなこく」です。
『後漢書』の「拘奴国」は、「女王国より東のかた海を渡ること千余里にして拘奴国に至る。皆、倭種なりといえども女王に属せず」と記されます。
一方、「魏志倭人伝」の「狗奴国」は、「(女王国の境界がつきたところ)その南に狗奴国あり。男子を王となす。女王に属せず」さらには「倭の女王卑弥呼、狗奴国の王、卑弥弓呼(ひみここ)と もとより和せず」と対立状態にあったことが記されています。
「後漢」と「魏」とでは、後漢のほうが歴史的に古い国なのですが、『後漢書』と『魏書』(魏志倭人伝)とでは“逆転”します。
『魏書』(魏志倭人伝)のほうが古いのです。
「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)は、事実を捻じ曲げて記すことがあることでも知られる陳寿(ちんじゅ)によって、3世紀末期に記されました。
曲筆の代表例は過去の記録に「邪馬臺国」(台)と記されていたにもかかわらず、陳寿はかってに「邪馬壹国」(一、壱)と倭人条(魏志倭人伝)に記載しました。
一方、『後漢書』は、5世紀前半に范曄(はんよう)によって記されています。
そのさい、学識もあった范曄は過去の記録を調べなおして、正しく「邪馬臺国」(台)と『後漢書』に記しています。
それはともかく、「女王国」の南にあった「狗奴国」は熊本県界隈です。
なぜなら、3世紀の鉄鏃(てつぞく:鉄の矢じり)が日本でダントツに出土しているのは、福岡県と熊本県です。
邪馬台国の3世紀に、魏志倭人伝の記述どおり、北の「女王国」(福岡側)と南の「狗奴国」(熊本側)界隈で大きな戦さがあったことが裏付けられているからです。
もし、仮に、5世紀頃の装飾古墳群で知られる菊池川沿いを含む熊本県に「邪馬台国」があったとしましょう。
その場合、まず、九州北部沿岸部の「伊都国」の検察が、熊本県にあった場合の“邪馬台国”やその南にあった旁余(ぼうよ)の諸国にまでおよぶでしょうか。
また、熊本を“邪馬台国”とした場合、その旁余の諸国のさらに南に「狗奴国」に比定できる対等の勢力圏が存在しなければなりませんが、そんな国が存在することはもちろん、大きな戦さの記録はもちろん、痕跡などはないのです。
ちなみに、両国の戦いは、「魏」をバックにした「女王国連合」(邪馬台国グループ)と、「呉」をバックにした有明海沿岸の「狗奴国グループ」による、一種の三国志(魏/呉/蜀)の“代理戦争”の様相を呈していた一面があります。
このような「呉」が渡来した痕跡は、やはり熊本県(有明海沿岸部)なのです。
一方、それゆえ「魏」は、卑弥呼側から要請があったこともあって、海を渡って「詔書」や「黄幢」また「激」をもって「女王国」(邪馬台国グループ)を告諭したのです。
なぜなら、もし「呉」をバックとした狗奴国が、九州北岸部の伊都国をはじめとした「女王国」を占領してしまえば、「魏」は海を隔てて狗奴国と敵対してしまうことになります。
呉と魏は「南船北馬」といわれるように“海戦”に長けた呉に、魏は南方の陸(呉)と東方の海(狗奴国)とから攻め込まれてしまう恐れがあるためです。
お話は変わりますが、「拘」と「狗」は、当時の筆による行書だとほぼ同じです。
読み間違えていて、実は同じ国たとしたら、あくまでも推測ですが、“狗奴国”は『後漢書』が記された5世紀前半の時代には、築後平野を経て東征し、瀬戸内沿岸部の「呉」(くれ)や「四国」などに影響を与えた可能性が考えられなくもありません。
4、「邪馬台国 四国説」の誤謬
最後に「邪馬台国 四国説」に触れておきます。
阿波国をはじめとした四国には、縄文時代のもとより古い文化がありました。
また、古代イスラエルの影響もなくはなく、畿内はもちろん関東にまで影響をおよぼしています。
さらに申し上げますと、古代日本の“基盤”(ルーツ)の一つなのです。
一方、「邪馬台国」自体はともかく“女王国連合”は、倭国大乱を経て2世紀末にできた新興国です。
阿波国など四国の日本古来の特別な「伝統」をもった国とは異なり、支那の冊封体制下にあった、いわば“属国”のような国にすぎません。
それゆえ、支那の歴史書に比較的に詳しく1~3世紀の古代日本として記されています。
というだけなのに、なにか“日本の原点”かのように勘違いしている方が多いのです。
まったく違います。
日本古来の文化や国邑(こくゆう)は、縄文時代より各地に築かれ、四国はその代表の一つです。
天皇の即位にあたって麻の白衣を献上する阿波国(忌部氏)は、支那の冊封下にあった“北部九州連合”「女王国」(邪馬台国グループ)などとは異なる、日本古来の伝統的な国家です。
そのため、「邪馬台国 四国説」を四国以外の人々が唱えるならともかく、地元の四国民までもが声高に「邪馬台国は四国にあった」などと断言するのは、阿波国をはじめ四国や畿内をふくめた古代日本の品位を貶めるものにほかなりません。
さて、四国説の人々がなぜか勘違いしていることの一つは、「丹」です。
魏志倭人伝に「真珠、青玉を出だす。その山には丹あり」という記述を、「丹は四国でしか採れない」とナンチャッテ歴史番組で、とある“学者”が誤まって言ったウソを信じ込んでいるのです。
どの範囲を「丹」と定めるかによりますが、狭く水銀朱ととらえても「水銀鉱床」は、日本列島各地に分布しています。
一例をあげましょう。
九州豊前は水銀朱(丹)の産地でした。
また、佐賀県と長崎県の県境にある虚空蔵山(こくうぞうさん)は水銀朱が採れる山で、「その山には丹あり」といえます。
もちろん、阿波の那賀川に面した平野部に程近い「加茂宮ノ前遺跡」や「若杉山遺跡」もその一つです。
ほかにも、紀伊半島の奈良や伊勢でも「丹」こと水銀朱が採れました。
さらに申し上げますと、四国の山間部を“邪馬台国”とした場合、その南に「魏志倭人伝」に記される旁余の諸国があり、さらにその南に「狗奴国」が存在し、3世紀に両国が戦った痕跡がなければなりません。
平和な古代の四国の南にそれらがないことから、大陸の影響を受けて戦さの多かった北部九州の邪馬台国などとはやはり異なるのです。
歴史的に「邪馬台国」の場所を比定しようというのは必要です。
ですが、卑弥呼や“邪馬台国”また“女王国”をありがたがるのは、万世一系を記した『日本書紀』の観点からみても主流ではないのです。
事実、『古事記』にも『日本書紀』にも、ワケあって卑弥呼や邪馬台国は記されていません。
ただし、卑弥呼を「共立」して倭国大乱を収めたことで、邪馬台国を“都”とする「女王国連合」を築いたことは、のちの“統一大和”のモデルになった可能性があるといえます。
以上、「邪馬台国」に関する雑考をお届けいたしました。
邪馬台国トンデモ“別府”説
2020.08.23
また「邪馬台国」の所在について、“耳”を疑うトンデモ説がでました。
いわく、『邪馬台国は別府温泉だった!』というものです。
今年2020年7月30日に「小学館新書」(288頁)で発売され、昨日8月22日、概容がネットニュースで掲載されていました。
当該書籍には、「火山灰に封印された卑弥呼の王宮」とサブタイトルがつけられ、どうやら別府温泉の地下に卑弥呼の王宮が眠ると推測されているようです。
著者は、東大農学部卒業で一流企業の中央研究所に勤め、「全国邪馬台国連絡協議会会員」でもある酒井正士氏です。
内容を紹介する記事を読みましたが、思わず“突っこみたく”なるほど、一見、“科学”を装った勘違い内容がある記事でしたので、同じ間違いをされないためにも、勝手に指摘しておきます。
もっともご本人は、“科学は正しい”と信じておられるようなので、そこに根本的な間違いがあるのですが、以下の指摘は“門外漢”のものとしてご一考にとどめるだけでかまいません。
「邪馬台国」の所在について、多くみられる間違いを著者もされています。
俗称「魏志倭人伝」を読めば、誰でも知っているポイント中のポイントをご理解していないのです。
それは、「女王が都とする邪馬台国に至るには、水行10日、陸行1月」(原文:邪馬壹国 女王之所都 水行十日 陸行一月)という箇所です。
しかし、著者は次のように述べています。
―― 私は、「魏志倭人伝」――正確には(中略)を、丹念に読み込み、陳寿の記したとおりの距離と方角をたどれば、邪馬台国は、別府市の扇状地にあったのではないか、との結論を導き出しました。 ――
本当に「丹念に読み込み」ました?
邪馬台国に至るには、上述のように「陸行1月」と書いている以上、内陸部しか比定できません。
仮に、「水行だと10日」「陸行だと1か月」と併行読みの解釈をしても、当時、水行で10日で行ける場所に、わざわざ北部九州の港から危険の多い当時の山道を1月もかけて「別府」に行きます?
当時の交通は「船」が主流なのです。
瀬戸内海の西端に位置する別府は、穏やかな内海に面し船が便利です。
事実、「邪馬台国」の直前に記される「投馬国」(つまこく)に至るには「水行20日」のみで記され、陸行は記されていません。
つまり、投馬国は間違いなく海に面した場所にあった国です。
もし、「邪馬台国」が海に面した“別府”にあったのなら、わざわざ「陸行1月」を記す必要はないのです。
水行に続き「陸行」と書かれている以上、邪馬台国は河川の上流域にあたる内陸部にありました。
所在地比定にあたって、著者は「丹念に読み込んだ」と書いているものの、“基礎中の基礎”となるポイントをごを理解できていないようです。
それは、次の記述からも明らかです。
―― 自然科学の仕事をする研究者として、いちばんに心がけてきたことは「生データを大切に扱うことの重要性」です。 ――
―― 邪馬台国へ至るルートの探索では、魏志倭人伝中の行程記述、とくに方向や距離、日数などが「生データ」に相当すると思います。 ――
「はぁ!」ってな記述でしょ。
著者は、「魏志倭人伝」に記載される“方向”や“距離”や“日数”を(科学的な)“生データ”として、「別府温泉」の位置を割り出したと言っているのです。
その結果、「一大国」(壱岐)から「千余里で末盧国に至る」を、通説の“唐津”近辺だと短いため、宗像市近辺を勝手に港とし、さらに東に進んだ北九州市を「末盧国」に比定しています。
そこから南に「不弥国」を中津市に、さらに別府を「邪馬台国」に比定し、“生データ”どおりの解釈だと主張しているわけです。
主張は勝手です。
ですが、そもそも科学における「生データ」と、歴史記録書における“方向”や“距離”また“日数”などの数字は、同じ“生データ”として扱えるたぐいのものではありません。
「歴史は勝者の記録」といわれることがあるように、プロパガンダ(政治宣伝)や主観が混じることがあるのは、もはや多くの人が知っています。
そのため、文献から歴史の真実を見出そうとするとき、共産主義者はともかく、“文献批判”の観点を一応はもって、記述のウラをとることが重要なのです。
それもせず、“生データ”として「科学」と同一に扱うのはご自由ですが、科学が大事にする「客観的」な検証とは正反対の行ないだということに気づいておられないのです。
以上は一例ですが、要は「邪馬台国 別府説」は、著者の「読み込み不足」と重篤な「勘違い」を論拠とした“トンデモ説”になっていると考えられます。
以下は余談です。
著者はご存じないようですが、“公文書を隠蔽・改竄”したのは、著作郎・陳寿のほうです。
倭(国)偵察記録には、ちゃんと「邪馬台国」(臺)と記されていました。
それを歴史を書き換えることでも知られる陳寿は、「倭人条」を記すにあたって、勝手に「邪馬壹国」(一、壱)と改竄したことは、古来より専門家のあいだでは知られている常識です。
それゆえ歴史学者たちは、「魏志倭人伝」(倭人条)に“邪馬壹国”(一、壱)と記されているにもかかわらず、正しく「邪馬台国」と修正して語り伝えてきたのです。
そんな著作郎・陳寿の記述を「生データ」として扱うのは、科学的にもおかしいことこのうえないお話だといえます。
“門外漢”としてはそう思いますが、いかがでしょうか。