“逆説”の邪馬台国-7
2020.09.20
 
【「邪馬台国」の比定】

最後に、これまで6回の「“逆説”の邪馬台国」から、「邪馬台国」の位置を比定してみようと思います。

ただし、以下の比定を強弁するつもりはありません。

ほかの方々が比定した論拠を交えつつ、なにが“事実”なのかを客観的にご判断いただくご参考になればと存じます。


なぜなら、なぜ、邪馬台国論争が混迷するのかというと、一部分だけを見るからです。

また、文献的には、陳寿の記述に惑わされて、「邪馬台国」は大和朝廷に連なる日本の“中心”(原点)に違いないと思い込んでしまうからです。

遺跡的には、その地域の出土品のみをみて、3世紀の日本全国の出土品を謙虚に比較検討しようとせずに、“結論ありき”で学界やマスコミを巻き込んで“牽強付会”にこじつける学者や研究者がいるからです。

ちなみに、「魏志倭人伝」にも間違いはあります。

ですが、「邪馬台国」(卑弥呼)が記された“原典”となる資料は、「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)しかないといえのも事実です。

そのため、無視するわけにはいかず、3世紀前後の日本全国の出土品などとも照らし合わせながら、「文献」と「出土品」また「時代状況」を勘案しつつ、全体的かつ客観的に比定していくしかありません。

ちなみに「倭国」や「倭王」に関する記述なら、後述いたします『隋書』や『旧唐書』また『新唐書』などにも記されています。

これらを無視して、「魏志倭人伝」のみを取り上げて結論づけたり、部分的な考古学の遺構や出土のみを取り上げて断定したり、古い歴史があるからと「ここが邪馬台国だ!」と思い込むと、“視野狭窄”に陥って、“信者”のように周囲が見えなくなり、誤まってご判断してしまうことが起こります。


1、2つの行程問題

さて、まずは考古学では解けない「邪馬台国」への行程です。

「魏志倭人伝」の行程は、まるめた数字で記されていることからも100%正確ではないし、実際、過去の記録をもとに「魏志倭人伝」を著した陳寿が明らかに間違えている箇所もあります。

その大前提は、現代中国もそうですが、古代支那においても“白髪三千丈”とばかりに、相手を威嚇したりするために「数字を誇大に記す」といった傾向が一部にあることです。

そのことを意識に置きつつ「魏志倭人伝」の行程や記された国の規模などを検討していくことも必要です。


「魏」の群使が、帯方郡(北朝鮮南西部)から半島西沿岸に沿って半島南端(倭の北岸)に至り、そこから対馬、そして壱岐へと島伝いに渡ったことは確定しています。

問題は、そこからです。

「また一つ海を渡り、千余里にして末盧国(まつろこく)に至る」という記述です。

半島南端から対馬へ“千余里”、対馬から壱岐へ“千余里”に比較して、壱岐(一支国)から唐津(末盧国)へ至る“千余里”は近すぎるからです。

ちなみに、壱岐から松浦半島の北端までは、わずか30kmほどしかありません。

それまでの“千余里”(約70km)に比べて近すぎるのです。

なので、「末盧国」は壱岐の“南”に位置する唐津付近ではなく、壱岐から“東”に「宗像」(むなかた)付近ではないかと推察されるかたもいます。

ですが、「魏志倭人伝」の対馬(対馬国)や壱岐(一支国)の項には、「南北に市糴(してき)す」と書かれています。

古代において船で海を渡るとき、いちばん近い陸地をまず目指すのは常識です。

船で大海原に出たことがあるかたならおわかりだと思います。

地球は丸いため、5kmほども沖に出れば、もはや出港した桟橋は見えなくなります。

沖合いでは、四方八方、海と空しか見えず、潮の流れもあることから、自分がどこにいるのかわからなくなります。

そんなときでも、内陸部に1,000m級の山があれば、100km以上の沖合いからでも山頂部が見えます。

そこに陸地があることがわかるので、その方向を目指して船を進めることができます。

壱岐からは、南方面の松浦半島の付け根「唐津」の内陸部には、800m~900m級の山が複数あります。

天気さえよければよく見えますし、進む目印にできたのです。

一方、東の「宗像」だと壱岐からは70km近くありますし、高い山も少ないことから少しモヤがかかると見えません。

当然、壱岐から間近に見える唐津市(末盧国)方面をめざします。

すると、約30km先の松浦半島の北端にすぐに至ります。

そのまま、松浦半島の東岸に沿って入り江を進めば、壱岐からだと都合40数kmで末盧国(唐津市)に着きます。

帯方銀からはるばる遠路、一支国(壱岐)まで船できた郡使ら乗組員は、長旅の疲れもあっていちばん近い末盧国(唐津市)を目指したのは当然です。


2、“軍事偵察隊”の陸行

だからといって「群使」は、末盧国で下船する必要がありません。

末盧港にいったん立ち寄ったものの、直接、一大卒が置かれた「伊都国」(いとこく)に船で向かったのは当然中の当然です。

一支国(壱岐)から末盧国(唐津市)を経由して「伊都国」(糸島市)に到る、この約60kmの行程が一支国からの「また一つ海を渡り、千余里(末盧国に至る)」の正体です。

ただし、群使らの船が末盧国に寄ったとき、そこで下船した一行がいました。

それは「魏志倭人伝」が単なる“物見遊山”や“観光旅行”の記録ではないことがわかれば見えてきます。

当時、「呉」や「蜀」と戦争中だった魏は、わざわざ海を渡って朝献にきた「倭国」の現状を“軍事偵録”するという当然の任務もあったからです。

倭と戦争になった場合、海から攻める場合と陸から攻める場合を想定して、郡使一行に随伴していた“軍事偵察隊”の一部が末盧国で下船したことは充分に考えられます。

そして、周辺の地形を調べながら、陸行で「伊都国」を目指した可能性はあります。

その記述が末盧国に記される「草木茂り盛(さか)えて、行くに前の人見えず」という「魏志倭人伝」の記述でしょう。

これが当時の“道”の状況です。

この記述からは、道なき道を進まざるをえなかったことが見えてきます。

偵察隊は、右(山側)に左(海側)に偵察を繰り返しながら、草木を押し分けて進み、どのように行軍するのがよいか情報収集をしながら進んだはずです。

さらには、食料の捕獲や、毎日の野営の準備、ときには雨で足止めをくらいながらも進んだことでしょう。

そのため、後段に「陸行1月」と記されていても、現代人の感覚でとらえると間違います。


3、陳寿、最大の記述ミス

さて、郡使一行がとどまった「伊都国」からは、東南に百里で「奴国」(なこく)。

唐津(末盧国)~糸島(伊都国)までの約5分の1の距離なので、伊都国からだと奴国は福岡平野にあったことがわかります。

さらに東に百里で「不弥国」(ふみこく)と記されています。

福岡平野は、南北方向に大きな河川がいくつか流れています。

このことから、福岡平野の西部が「奴国」で、河川を挟んだ東部が「不弥国」だといえ、平野を大きく東西に二分していたことがわかります。

その国境だったと思われる「那珂川(なかがわ)」もしくは「御笠川」(みかさがわ)を南方面(内陸部)に遡行すると、のちに大堤(おおつつみ)「水城」(みずき)が築かれた「大宰府政庁」があった太宰府市に通じます。

近年でいえば、江戸時代に筑前国博多(福岡藩)と豊後国日田(西国郡代、代官所)を結んで栄えた「朝倉街道」に連なります。


陳寿は「一支国~末盧国」の行程のミスに続き、「不弥国」以降の行程で2つめの大きな記述ミスを犯しました。

陳寿が『魏略』などをはじめとして複数の訪倭記録をもとに「魏志倭人伝」を記したことが知られています。

「倭国」はもちろん「邪馬台国」にきたことがなかった陳寿は、それらを読み比べるさいに解釈を間違えたようです。


その間違いは次のように、重大な問題を含むものでした。

不弥国の南方に、「邪馬台国」が位置したのは事実です。

なので、陳寿は不弥国から南に直接行くかのように、「水行20日、投馬国(つまこく)。水行10日陸行1月、邪馬台国」と記してしまったのです。

福岡平野の南に水行20日はもちろん水行10日の海などありません。

また、なぜこれが間違いとわかるのかというと、次のような理由からです。

地理や方位に詳しい「軍事偵察隊」が「里程」と「日程」を直列して記すことはないからです。

そういったダブル・スタンダードで記す場合、帯方郡からの「里程」をまず記しておいて、次に再度、帯方郡からの「日程」で記して、距離と日数を併記して万全を図ることはありえます。

それが常識だったので、陳寿は断りもなく「不弥国」に続けて「投馬国」や「邪馬台国」への“日程”を記したことは考えられなくもありません。

その場合、“平和ボケ”した日本人が、直列だと勝手に勘違いして解釈したことになります。

ですが、そうではなく、今昔、不弥国までの新しい「里程」の記録と、邪馬台国までの古い「日程」の記録の2つを、陳寿が直列だと勘違いして「魏志倭人伝」につなげて記したのです。

いずれにしても、里程と日程との直列はありえず、並列に理解し、行程を解釈しなおすべきです。

これが、陳寿の最大のミスです。


4、邪馬台国の比定地

この“ミス”によって、「南は東の間違い」などと主張することが起こりました。

軍事偵察は、距離や方位の専門家なので、“平和ボケ”したありえない解釈です。

陳寿の2つの記述ミスは、「邪馬台国 所在論争」の一因ともなりました。


さて、ご参考に「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)以外の史書の記述をご紹介しておきます。


『隋書』には、「竹斯国(筑紫国)より以東、みなに附庸(ふよう)たり」と記されています。

『旧唐書』には、「倭国伝」(筑紫州)と「日本伝」(大和州)の2つが別の国として併記されています。

『新唐書』には、「(倭王は)筑紫城に居す。(中略)治を大和州に移す」と記されています。


これらの記述からは、当時の「倭国」が九州と認識されていたことがハッキリと分かります。

さらにいえば「竹斯国」(筑紫国=福岡県界隈)にあったことまで明らかです。

「畿内説」の学者の“スゴイ”ところは、自分たちに都合が悪いこれらの記述を「これらの史書はみな“偽書”だ」と恥ずかしげもなく“強弁”していることです。

もはや畿内にあってほしいと“駄々”をこねる子どもでしかありません。

あるいは“畿内説信仰”に陥って周囲の客観的な事実が見えなくなっているかのようです。


余談ですが、「畿内説」の事実を書いておきます。

3世紀までの畿内は、青銅器の銅鐸文化圏だったことは学校で習ったと存じます。

出雲や淡路島また畿内など、本州(大和州)には数多く出土しています。

一方、当時の九州はすでに鉄器文化圏でした。

この一事からも、奈良盆地は“ゆるやかな大国主連合”(銅鐸文化圏)の集会地でした。

それは、九州以外の本州の国々の土器が数多く出土していることからもわかります。

上述の支那の「史書」にも記されているように、九州「倭国」と本州「畿内国」(日本国)は、邪馬台国(女王国)の3世紀までは異なる文化圏だったのです。

なので、3世紀の遺跡や宮殿が発見されても、それは「邪馬台国」ではなく青銅器文化圏を形成していた“大国主連合”のものでしかありません。

実際、畿内説学者や研究者は、良識ある学者や研究者からは、自説に都合のよいことしか発表しないし、出土年代をねつ造することでも知られています。

「魏志倭人伝」に記される「鉄鏃」(てつぞく、鉄の矢じり)の出土分布を見ようともしませんし、当然、自らは発表しようともしません。

ちなみに、日本全国の3世紀を含む弥生時代の出土状況をみれば、福岡県と熊本県がダントツで、それぞれ「400個」近い出土が確認されています。《※注)ご参照》

これに対し、奈良県は「4個」に過ぎません。

「邪馬台国」の時代、まだ青銅器文化だった本州「畿内国」とは異なり、北部九州は「魏志倭人伝」にも記される鉄器の文化圏だったのは「鉄鏃」以外の考古学的出土品からも学術的に明らかです。

ところが、この事実でさえ、畿内説学者は無視します。

まともな研究者や学者からはあきれられていますが、“厚顔無恥”は治りません。


さて、上述のなどから、「邪馬台国」は「帯方郡」から“水行10日”で「末盧国」(唐津)あたりに着いて、そのあと、“陸行1月”の内陸部にあったことがわかります。

※陸行の推定ルート:末盧国(唐津市)から南に松浦川を遡上し、佐賀平野からは東に吉野ヶ里方面に歩いたか、いったん有明海に出て築後川を遡上して邪馬台国方面へ。奈辺の筑紫平野は“約7万戸”の邪馬台国グループに属していたため、福岡平野ルートよりは安全。


もちろん、当時の「陸行1月」は簡単ではありません。

草木をかき分け、道なき道を進み、荷物を積んだ船を引き上げつつ川を遡上したり、日が暮れる前に野営の準備をしたり、雨や増水で足止めをくらったりして進んだ日数です。

まとめますと、「邪馬台国」の条件は、次の3つになります。


1、「不弥国」など福岡平野からみて南方に位置した。

2、九州北岸部(末盧国など)から、川の遡上をふくめて陸行1月程度の内陸部。

3、「魏志倭人伝」に記されるように、「邪馬台国」の南に旁余の国(21か国)あり、さらにその南に敵対する「狗奴国」(くなこく)が存在できる地理的条件にあう場所。


5、「山門説」は当てはまらず

有力な説でいえば、「山門説」(みやま市)は上の2、3、の条件にあてはまりません。

「魏志倭人伝」の記述とは大きく異なります。

「山門」こと現「みやま市瀬高町」は、かつては有明海沿岸部で船で直接行けるほどでした。

また、地形をみればわかりますが、山門の南にある、有明海に迫る丘陵や山を隔てて、直接、その南の「狗奴国」と対峙する地域でもあるからです。

つまり、邪馬台国の南にあった「21か国」の旁余の諸国が存在できる余地がないのです。

このことから「山門」は「女王国連合」(邪馬台国グループ)の南方の境界付近にあった最前線の国です。

国名からは、「邪馬台国」への“入口”(門)だといえます。


むしろ、大已貴神神社(おんがさま)のある三輪(みわ:筑前町)や甘木(あまぎ:朝倉市)を含めた「朝倉説」(朝倉市)のほうが、上の3条件に近いのです。

ただし、唯一の難点は、一大卒が置かれた「伊都国」へはもちろん、福岡平野の「奴国」や「不弥国」には遠いことです。

朝倉は、筑後川の中流域で平野部が多く、国は栄えていたのですが、女王卑弥呼を輩出するには福岡平野部との関係からも難があるため、個人的には次のように考えています。

「御笠川」の上流域でもあり、同時に筑後川支流の「宝満川」の上流域でもある場所が、福岡平野にも築後平野の旁余の諸国(旧邪馬台国グループ)にも通じ、卑弥呼が「都」とした中枢部だったと考えています。

後年、奈辺(福岡平野側)には「大宰府政庁」が置かれたことからもわかるように、地理的にみても交通や守りの要衝だったからです。

逆にいえば、太宰府近辺は卑弥呼が“都”とした「邪馬台国」の北の前線基地だったことから、後年、「大宰府政庁」が置かれる所以になったとも考えられます。

なぜ、奈辺が福岡平野と筑紫平野にあった30か国近い「女王国連合」を治めるのに適していたのかを書いておきます。

当地から、そのまま御笠川を北に下れば「不弥国」や「奴国」に通じ、博多湾に出て、「伊都国」に行けます。

では逆に、南はどうでしょう。

太宰府から少し南に「朝倉街道駅」があります。

気づきにくいのですが、いわゆる分水嶺になっています、

その脇を山口川が流れ、すぐに宝満川上流域と合流できます。

そのまま宝満川をくだり、久留米で筑後川と合流します。

築後川を左に遡行すれば、朝倉や日田(大分県)に通じ、右に下れば吉野ヶ里方面を経て有明海やくだんの「山門」に出ます。

宝満川や筑後川を交通のルートとして「邪馬台国」の南にあった旁余の21か国は連携していました。

この地が九州最大の筑紫平野部です。

これらの21か国は、もとより「邪馬台国グループ」を形成していたと考えています。

広い意味での“邪馬台国”です。

その中でも狭義の「邪馬台国」の“都”は、御笠川や宝満川の上流域近辺に位置し、交通にも守りにも便利な地理に位置します。

このことからいえるのは、グループの中でも古くからの歴史がある中心の国が「邪馬台国」で、それゆえ福岡平野で起きた“倭国の乱”の仲裁者として、女王「卑弥呼」を共立輩出できたといえます。


ただし、“女王”卑弥呼と「魏志倭人伝」に記されるものの、陳寿や一般に抱く女王のイメージとは異なり“お飾り”にすぎませんでした。

「女王国連合」の実権は、一大卒が置かれ魏の軍使が駐(とど)まった「伊都国」(王)が握っていたからです。

詳しくは、「“逆説”の邪馬台国-6」をご参照ください。

付記すれば、「狗奴国」(比定地:熊本県界隈)からの攻撃が強まるにつれて、魏と通じた伊都国王の力が必要になったことからもそういえます。


ちなみに、「魏志倭人伝」に記される“南”にあったとされる「狗奴国」は、のちの5世紀前半に記された『後漢書』では、海を渡った“東”に「拘奴国」(狗奴国、くなこく」)があったと記されています。

この2つが同じ「狗奴国」の場合、前後の歴史からの推測ですが、筑紫平野の旁余の諸国を席巻した狗奴国は、豊かな朝倉界隈を拠点とし、後日、伊都国をはじめとした女王国連合とともに東征したと考えられます。

推測されるストーリーは、卑弥呼の死後、伊都国王もしくは狗奴国王が立つも治まらず、13歳の「台与」が再び実権のない女王に立てられます。

和平に至った彼らは、その後、台与を旗印に東征し、5世紀の記録に海を渡った東に「拘奴国」があると記されるようになったともいえます。

いわゆる「神武東征」の実在モデルの一つとなったケースです。

いずれにしても、時代は不明ですが、安本美典氏が述べるように、「朝倉」近辺に拠点を築いたグループは、後年、「畿内大和」に治を移したといえそうです。


以上、現時点のデータから「邪馬台国」を比定してみました。












※注) 「鉄鏃」のデータは、WEBページ「13.遺跡は語る―考古学の成果からみると-総論-」(邪馬台国大研究 本編)より引用。

“情報鎖国”の現代日本
2020.09.19
 
しかし、国体「水瓶宮」、現体制「牡牛宮」の日本は、いまだに“鎖国”が続いているのをご存じでしょうか。

ここでいう“鎖国”というのは、マスコミによる「情報鎖国」のことです。


というか、民族性「魚宮」と戦前の現体制「射手宮」の日本は、広く海外と情報交流をしていました。

明治以降は、現体制「射手宮」だったからです。

当時は、江戸時代以前から欧米による「アジア蚕食」(植民地化)の時代だったので、かならずしも悪いとはいえず、むしろ「日本」を守るためにも必要だったのですが、「神国日本」をもってアジア進出、すなわち「八紘一宇」を進めました。

占星学に詳しいかたなら、簡単にご理解できるはずです。

民族性「魚宮」は、古来よりの「神国日本」を意味します。

さきの戦争が終わるまで、明治以降の現体制「射手宮」は、日本人の「和魂洋才」また「脱亜入欧」や、その後の海外進出すなわち「大東亜共栄圏構想」や「八紘一宇」を象わします。


魚宮が、“宗教”や“信仰”また“形而上世界”を象わし、射手宮が“精神”や“海外”また“拡大”を、それぞれに象意とすることを知っていれば、ほぼ“鎖国状態”だった江戸時代以降、大政奉還が成った明治新政府の西欧に学ぶ「文明開化」にはじまる戦前(終戦)までの日本の“メインストリーム”が見えてくるはずです。

ですが、“終戦”(敗戦)によって、新憲法のもと、日本の現体制は「牡牛宮」に変わりました。

“海外”を志向する射手宮から、“国内”の安全と快適性を求める現体制に変わったのです。

それが、戦後日本の“高度経済成長”につながります。

さらには、1960年の池田内閣による“所得倍増計画”などによって、豊かで快適な暮らしを目指し、家電“三種の神器”をはじめとしたさまざまな電化製品などによって、世界一といえる便利で快適で清潔な国民生活を手に入れてきた、占星学的な理由になっています。


その一方、戦後の現体制「牡牛宮」は、古来よりの国体「水瓶宮」との歪みを少なからず生み続けました。

牡牛宮生まれ(太陽)の「昭和天皇」は、その象徴(シンボル)でした。

もっとも「天皇」自体が、日本の国体「水瓶宮」にかかわりますので、そのジレンマを超克した偉大なご生涯だったのは事実です。


ところが、1989年に人知れず“宝瓶宮時代のビックバン”が起きます。

これによって、約2,160年続いた双魚宮時代が終わり、新たな「宝瓶宮時代」が正式にはじまりました。

詳しくは、「宝瓶宮占星学」サイトをご高覧ください。

ここでのご説明は省略させていただきます。

このことは、国体を「水瓶宮」にもつ日本との共鳴関係によって、その共鳴星「天王星」は日本の国体を象徴する「天皇制」にも共鳴し、新たな「平成」の御世をもたらすことになりました。

同時に、現体制「牡牛宮」が優位だったそれまでの戦後日本に、少なからず変化が生じはじめたのです。

現体制「牡牛宮」はそのまま継続ながら、同時に国体「水瓶宮」が漸次、“復興”するというか勢いを増していきます。

その傾向の一つが、反日の左翼や隣国などからは、俗称“ネトウヨ”などと呼ばれますが、それこそが良識的な日本人の復活で、“民度”の高い“美しい日本”を愛する若者たちをはじめとした国民意識につながっていきます。

これは、大きな歴史の流れなので、いくら左翼がわめいても、そこに時代の流れと共にある「天運」がともなっている以上、とめられません。

逆に、反日の左翼や隣国のほうが、次第に“運勢”を落としていくことが起こります。

ちなみに、2010年以降の約14年間ほどは、「双魚宮時代のリバイバル」のディレクション(運勢変化)の期間中です。

なので、「宝瓶宮時代」のはじまり、すなわち「双魚宮時代」の終わりとともに崩壊したソ連共産主義の流れをくむ中国共産主義が一時的に“勢力”をもつこと(共産主義のリバイバル)が起こります。

それも、もはや「星のディレクション」からみても長くは続きません。


それはそれとして、日本国内にお話を戻します。

日本の現体制が、古来よりの日本の国体「水瓶宮」と少々スタンス(象意)を意にする「牡牛宮」に変わったことで、為政(政治)をはじめとした現体制とのあいだに齟齬が生じはじめました。

その代表が、民族性を「射手宮」とするアメリカの“占領軍”ことGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による“日本人洗脳工作”といわれる「WGIP」(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)です。

その残滓を、大半の「反日マスコミ」は、今も引き継いでいます。

要は、反日勢力の情報は“報道しない権利”などといって隠蔽し、日本を貶めたり、日本が“不利”になる海外情報はピックアップして流すなど、“インフォメーション操作”をして今も日本国民を“洗脳”し続けているのです。

結局、マスコミは、日本国民に正しい情報を伝えていません。

世界が今、反日国家「中共独裁政権」や共産主義国家にしようともくろむ「文独裁志向政権」に対する動きはいっさい報道しないのです。

つまり、過去に“第4権力”といわれた「マスコミ」による“情報鎖国”に日本国民は陥っています。


ご安心あれ。

玉石混交ながらネットには、くず情報に混じって、キラリと光る“玉”のような情報もときおりアップされます。

もはや、偏向した情報を伝え、“異国のプロパガンダ”(政治宣伝)の道具に成り下がった「反日マスコミ」は、平成に続く令和が進むほどに信用されなくなります。

“令和おじさん”こと菅新内閣の閣僚人事を正しく見抜けないマスコミなどを信じると、ご判断を誤まるためです。

たとえば、「蓋を開けてみれば菅内閣は高齢議員が多く、しかも女性閣僚も少なかった。また、留任・再任の閣僚ばかりで新鮮味に欠け、サプライズともいえる大胆な抜擢はなかった。」などはその一例です。

ワイドショーの“市民コメンテイター”ばりの、政治に詳しくないド・シロウト・ライターとしかいいようがない記事です。

当ブログの「新総理「菅義偉」を読む」にも書きましたが、新鮮味に欠けるどころか“玄人好み”の菅義偉氏そのものの“質実剛健内閣”です。

菅新首相ご自身が、官房長官時代に官僚をコントロールし熟知していることから、各省庁のTOPに立つ大臣の取りまとめる内閣総理大臣、菅義偉氏が組閣した内閣に甘さは隙はほぼないといえます。

官僚に苦しめられている経済界などは、雑誌「プレジデント」などをみてもわかるのですが、今のところ菅新総理を持ち上げにもちあげ、官僚へのコントロール(行革)を期待していることがわかります。

わかる人にはわかるのです。


いずれにしても、もはや「マスコミ」とは名ばかりで、インタラクティブ(双方向)でもあり“超コミ”のネットの時代、マスコミによる“情報鎖国”に甘んじると生き方を誤まります。

上述の組閣記事などもそうですが、今、アメリカをはじめとした世界が習近平の中共に対して、どのように包囲網を着々と敷いて動いているのか、いっさい報道しません。

このまま中国(中共支配)と関係をもったり中国製品を使い続けていると、今の流れからいえば、ある日、突然使えなくなって支障をきたすのは、政財界も国民も同じです。

そういった重大な動きを、マスコミは“国民の知る権利”などといって取材するのですが、その知る権利を情報操作によって奪い、いかにも“国民の代表”ぶっている記者やライター、マスコミは、自分たちの危うい現状にさえ気づかず、自ら“鎖国状態”に陥っているかのようです。










“逆説”の邪馬台国-6
2020.09.17
 
【“幻想”の卑弥呼】

夢を壊すようで申し訳ありませんが、「“邪馬台国”幻想と陰謀」に続いては、「“幻想”の卑弥呼」をお届けいたします。

先回もご紹介しましたように「魏志倭人伝」の作者陳寿(ちんじゅ)は『晋書』「陳寿伝」を読めばわかるとおり、作家としての文才はあっても「史述家」としては信頼できない部分があります。

筆が立つのはいいのですが、シビアな「史実」を著すにしては、“ロマン”をかきたてる筆致が得意だからです。

俗称「魏志倭人伝」こと『魏書』「倭人条」も同様で、「卑弥呼」や「邪馬台国」をミステリアスな“ロマン”ある筆致で著しました。

そのため、“倭の女王”「卑弥呼」に対して、多くの人が少なからず“ロマン”を感じ、正直にいえば、“美化”してしまい、“幻想”を抱いてしまう書き方をしているのです。

では、史実としての「卑弥呼」はどんな人物だったのでしょうか。

「魏志倭人伝」を、陳寿の筆致に惑わされずに考証しながら読めば、そこそこながら「卑弥呼」の“実像”が浮かび上がってきます。


1、女王「卑弥呼」実権をもたず

陳寿は「邪馬台国」に来たことはありません。

もちろん、「卑弥呼」に接したこともありません。

それどころか、「魏志倭人伝」を読めばわかることですが、人前にほとんど姿を現わさなかった「卑弥呼」は、当時の人々でさえ接した人がほぼいなかったことがわかります。

この記述が意味するところは、卑弥呼に接したことがない倭の人々の“伝聞”をまた聞きした魏の使者の“伝聞録”をもとに、陳寿は、“女王”ゆえ「卑弥呼」は相応の人物に違いないと、“ドラマチック”に真の女王かのように描いたことがみえてきます。

これが“曲者”なのです。

いわば、支那流の“女帝”か“歴史のヒロイン”など“スーパースター”のような筆致で「卑弥呼」を描いています。

では、「魏志倭人伝」から「卑弥呼」に関する記述をみてみましょう。


● 「魏志倭人伝」より抜粋(1)

「倭国乱れて相攻伐すること年を歴(へ)たり、すなわち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。」

原文 : 「倭国乱 相攻伐暦年 及共立一女子為王 名曰卑弥呼」


「魏志倭人伝」のなかに「卑弥呼」が最初に登場するこのシーンは、印象的にドラマチックな筆致で記されています。

マンガであれば、戦乱に明け暮れ人類が危機にひんするなか、ついに正義の味方「卑弥呼さま登場!」 ジャジャーン! といった手法です。

この登場シーンによって、読者は「卑弥呼」が歴史的な英雄のかのように感じ、古代日本のスーパースターかのように誤解させる根本要因になっています。

本当に「卑弥呼」は“スーパースター”なのでしょうか。

事実は、「魏志倭人伝」から明らかにしていくとして、“倭の女王”と記されているものの、「卑弥呼」に“実権”はなかったことがわかります。

つまり、和平のために御輿に担ぎ上げられれた“お飾り”でしかありませんでした。

と、いえば、「何をそんなバカな」という声が聞こえてきそうです。

続けて、次のように記されています。



● 「魏志倭人伝」より抜粋(2)

「鬼道に事(つか)え、よく衆を惑わす。年、すでに長大なれども、夫婿(ふせい)なし。」

原文 : 「事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻」


この書き方は、正体がわからない「卑弥呼」を“ミステリアス”にショー・アップしています。

「よく衆を惑わす」という表現は、その後段を読めば、矛盾する一文だからです。

もし、陳寿が“ドラマ”仕立てではなく、史実のみを書こうとすれば、「鬼道につかえた」だけでこと足りるのです。

ですが陳寿は、続けて「よく衆を惑わす」と記し、続く「年、すでに長大なれども、夫婿なし」と対句的に“ドラマ仕立て”の修辞を使っています。

「よく衆を惑わす」の矛盾については後述するとして、文脈から「年、すでに長大にして…」という一文を素直に読めば、2世紀末に女王に共立された時点で、すでに“老婆”だったと読めてしまいます。

その場合、「女王になった年齢」+「3世紀中頃まで約70年近く」を当時、生き長らえたとするのは、環境与件や食料事情からは少々無理がありそうです。

なので陳寿は、事実よりも“イメージ優先”また“漢詩的表現”で、上の一文を書いたことがわかります。

さらに続きます。


● 「魏志倭人伝」より抜粋(3)

「男弟ありて国をたすけ治む。王となりてより以来、見まゆることある者、少なし。
婢千人をもって自ら侍らしむ。ただ男子一人のみありて飲食を給し、辞を伝えて出入りす。」

原文 : 「有男弟 佐治国 自為王以来 少有見者 以婢千人 自侍 唯有男子一人給飲食 伝辞出入」


「女王になって以来、見た人が少ない」と記されています。

前段の「よく衆を惑わす」という一文と矛盾する一文です。

陳寿は「鬼道」の何たるかを説明しようと「よく衆を惑わす」という一文を入れたのでしょう。

それは陳寿の“親切”ではなく、これこそが陳寿が得意とした“ドラマ手法”で、ヘタに用いると史書ではなく“フィクション小説”になりかねないものです。

さらには、「卑弥呼」はほとんど室内に引きこもっていたと記されていることから、「女王国連合」の“運営”や“政務”は当然、行なうことができません。

実権のない“お飾り”にすぎなかったことは、次の一文からもわかります。


● 「魏志倭人伝」より抜粋(4)

「女王国より以北は、とくに一大卒をおきて諸国を検察せしめ、諸国これを畏憚(いたん)す。常に伊都国に治す。」

原文 : 「自女王国以北 特置一大卒 検察諸国 諸国畏憚之 常治伊都国」


「女王国連合」の諸国が畏(おそ)れ憚(はばか)っていたのは、女王「卑弥呼」に対してではなく、「魏志倭人伝」に「世々王あり」と記される「伊都国王」でした。

「卑弥呼」が実権のない“お飾り”なのは、その死後、力も経験もない13歳の「台与」(とよ)が引き続き“女王”に選出されたことからもわかります。

結局、「卑弥呼」も「台与」も御輿に担がれた存在でしかなく、実際の権力は、諸国から畏れ憚られていた「伊都国王」の掌中にあったのです。

次に述べる「鬼道」から申し上げますと、重大時にかぎり、「卑弥呼」からの“託宣”が伊都国王に届けられた可能性はあります。

ですが、聞く聞かないは伊都国王の胸一つです。



2、「鬼道」にみる「卑弥呼」の“正体”

さて、次に「鬼道」についてお届けいたします。

「日本的霊性」を見失い、「科学」に毒された学者をはじめ現代人は、古代の「鬼道」を理解できなくなりました。

なかには「道教」の一種だと“学問的”に主張する人もいますが、違います。

古代日本では当たり前のことだったのですが、即物的な利に走る中国や古代支那また陳寿には理解できず、「衆を惑わすもの」ととらえられています。

“謎解き”は簡単です。

以前、「宝瓶宮占星学」サイトにも書いたことですが、中国また古代支那で「鬼」が何を表わすかが見えてくれば、古代日本に照らし合わせてすぐに「鬼道」の正体がわかります。


昨今の中国では建設ラッシュが起こり、高層マンションが数多く建ちました。

その数が多すぎて、また高価だったりしたことから、人が住まず、次第に“ゴースト・タウン”となってしまった住宅街がありますが、それを中国では「鬼城」と書き表わします。

なぜ、“街”なのに“城”と表現されるのかというと、戦乱が続いた古代支那では、「城」(砦)の中に「街」がつくられていたからです。

また北京で、「鬼街通り」といえば、“幽霊通り”のことをさします。

日本でも、類似の意味をもつ「鬼」の使われかたに、“火の玉”(霊の魂)を「鬼火」と呼んでいたことがあります。

ほかにも、人が死んだことを「鬼籍に入る」と表現することも同様です。

つまり「鬼」は、“人がいない状態”や“人が亡くなった先”、さらには“幽霊”など“死者の魂”(霊)といった、日常ならざる状態や「死後の世界」にかかわる事物を意味します。

そのため「鬼道」と表現された理由は、人がいないにもかかわらず、イタコのように“死者の霊”を招き寄せて、その言葉を人に伝える“口寄せ”のようなことを「卑弥呼」が行なっていたからです。

かつては盲目の女性が行なうことも多かったようです。

なぜ、盲目の女性が多かったのかというと、外界の刺激が遮断された“孤独”な状態のほうが、“霊”がかかりやすく、“コンタクト”がとれやすいからです。

『日本書紀』などに出てくる単語を用いれば、神仏の言葉を伝える「託宣」(たくせん)ともいえます。

今風にいえば、“間違い”が多いのですが俗にいう「霊言」の類いです。


古代日本においては、男が「政」(まつりごと)を行ない、女性が「祭祀」(祭りごと、祈祷)を行なう、分業して国を治め運営していく「ヒメヒコ制」がありました。

その名残りで、“憑依体質”の持ち主「卑弥呼」が祭祀を行なう“女王”に共立されたともいえます。

なので実際の政治は、“男王”の「伊都国王」が実権をもって行ない、諸国を検察し、女王国連合の実質的な運営を行なっていたのです。

なぜ、卑弥呼が人前にほとんど姿を現わさなかったのかというと、「鬼道」を行なうさいの“憑依体質”や“霊媒体質”は、お日さまのもとや健全な日常生活では弱まることが起こるからです。

盲目や孤立した状況、また相応に不健康な状態のほうが、“憑依体質”を維持でき、絶対に避けなければなりませんが、“霊”が懸かりやすいのです。

そのために、「卑弥呼」は密室や暗い屋内に引きこもり、「鏡」を前に自分の意識を徐々に飛ばして、“死者の霊”をのりうつらせたり、とり憑(つ)かせて「鬼道」(口寄せ)を行なっていたのです。



3、卑弥呼≠天照大神

よく、「天照大神」は「卑弥呼」だと言われることがあります。

それは「正解」ではありませんが、100%間違っているわけでもありません。

あえていえば30%は“正解”です。

まず、『古事記』や『日本書紀』に、天照大神が「鬼道」につかえたとか、「口寄せ」の類いを行なったということは記されていません。

「天照大神」は、『日本書紀』に記される皇祖「高皇産霊尊」(たかみむすひのみこと)と、高天原にいた先祖神の“1柱”だとされます。

詳細なご説明は、本旨からそれるので省きます。

簡単にいえば、「統一大和」を築くために、だれもが崇める共通の“象徴”(シンボル)が必要でした。

全国各地の国邑(こくゆう)や豪族を、「天皇」のもとに一つに結集するために、“実在”をベースに立てられた“1柱”が「天照大神」なのです。

なので、物部氏をはじめ、全国各地の豪族の高祖神(始祖)の“集合体”だと考えてもらってかまいません。

卑弥呼や台与は、その一部にすぎません。

『日本書紀』(神代)をよく読めばわかるように、「天照大神」は“男性”でもあり、また“女性”でもあり、“キャラ変”したかのように描かれている箇所があります。

現代的には、大政奉還ののち、明治天皇はその意をくまれて、素戔嗚尊(すさのうのみこと)ではなく、「天照大神」を日本民族統合の象徴として「皇祖神」と定めるご聖断をくだされました。

「天照大神」は日本を照らす“お天道様”を象徴する側面をもちますが、「卑弥呼」はまったくの逆です。

上述いたしましたように“口寄せ”(鬼道)を行なうために、日光を避けて屋内にこもり、人前に姿を見せずに「鏡」をもちいていたからです。


4、「ひみこ」と名づけられた理由

これらのことがわかれば、「ひ・み・こ」と呼ばれた理由がみえてきます。

死者の霊を呼び込む“口寄せ”(鬼道)につかえたゆえに、“明るい場所”や“太陽”を避けて屋内にこもっていた「ひみこ」です。

決して“日巫女”や“天照大神”などではありません。

むしろ正反対です。

明るく輝き、生きとし生けるものに“生命”をもたらす「太陽」を意味する“日”(ひ)などとは真逆に、“肉体”を失った「冥府」や「常夜の国」の死者などを象わす“霊”(ひ)のことです。

「卑弥呼」は、霊(ひ)によって「鬼道」(口寄せ、霊言)を行なっていたゆえに、“霊”の“御子”すなわち「ひみこ」と呼ばれていたといえます。

たとえば、「霊の魂」(ひのたま:火の玉)もそうですが、『日本書紀』に記される皇祖「高皇産霊尊」(たかみむすひのみこと)の4番めの文字=「霊」(ひ)がそうです。

死者の霊(れい=ひ)をとり憑かせて、“口寄せ”や“霊言”の類いである、支那人いわく「鬼道」に生涯つかえたために、「ひみこ」(霊御子)と呼ばれ、“霊力”の喪失をおそれて結婚もしなかった(禁じられていた)ということです。

さらにいえば、「邪馬台国」の王また豪族の娘(御子)だったようです。

なぜなら、そのへんの市井(しせい)の「巫女」が女王に共立されることなど実際にはありえません。

長く続いた「倭国の乱」を終える“仲裁者”にふさわしく、相応に歴史や立場を持っていた「邪馬台国」の王族の出身(御子)だったために、その正統性によって“お飾り”ながら、「女王」に共立されたと考えられます。













新総理「菅義偉」を読む
2020.09.16
 
今夜にも新閣僚人事が発表される予定です。

すでに陣容は固まっていますが、その「顔ぶれ」をみると、「菅義偉」新首相の「ホロスコープ」(出生天球図)の特徴に“うり二つ”の閣僚人事になっています。

菅義偉氏の「ソーラー・チャート」をひと言でいうと、“氷の下の炎”です。

表向きの“面白味”のなさそうな印象や、手堅い“実務家”と同時に、内面には“ロマン”や“改革”また抑制された“闘争心”など案外と“ホット”な内面をもちます


現在、発表されている閣僚の顔ぶれでいえば、その特徴は次のようになります。

菅義偉氏の表向きの“手堅さ”は、前厚労省だった「加藤勝信」(蠍宮、64歳)の「官房長官」人事にあらわれています。

一方、菅義偉氏の内面の“改革心”や“闘争心”は、前防衛相だった「河野太郎」(山羊宮、57歳)を「行革担当相」にすえたことにあらわれています。

河野大臣に、いわゆる“縦割り行政をぶっこわす”など、「行政改革」を期待しているようです。

さらに、菅義偉氏が内面にもつ“前向き”や“ロマン”は、今般、菅氏が新設する「デジタル改革相」の人事にあらわれており、前IT担当相だった「平井卓也」(水瓶宮、62歳)を充てることにあらわれています。

中共による“コロナ渦”がいまだに残る現在、「安倍政権」の実務を当面は継承するため、そのまま横滑りになった閣僚人事が多いのは事実です。

それは実務のあらわれの一つなのですが、上記の三閣僚は、「菅義偉」新首相のホロスコープの特徴にそっていて今回の人事の目玉でもあり特徴になっています。


菅義偉新首相の“分身”のような「実務+改革+ロマン」による人材配置です。

それはそうなのですが、ご自分の「ホロスコープ」(出生天球図)の場合は、自分自身の内面での“コントロール”なので、比較的矛盾は少なくなります。

ですが、閣僚人事は対外的に個人の“コントロール”が必要なので別物になります。

それがどこまでうまく機能するのか、緻密でありつつ案外と“豪腕”な内面をもつ菅義偉新首相の手腕が見ものです。


これまで、パッと見、“令和おじさん”こと菅義偉氏のホロスコープを拝見したことはありませんでした。

しかし、先月8月28日の突然の安倍首相の辞任発表のとき、「宝瓶宮占星学」サイトの「今週の運勢」を執筆している最中で、ちょうど「射手宮」に象意を持つ人の「今週の運勢」を書いている途中でした。

そのとき、射手宮は“TOP運”の今週また昨今に入ることをリーディングしていたこともあって、一例としてそこに「菅官房長官」の名前を書いておきました。

つまり、トランシット・ホロスコープによる「星のディレクション」からは、安倍首相の辞任発表と同時に菅義偉官房長官の「新首相」への選出がリーディングできていたのです。

それは、翌日(29日)の未明にアップした「今週の運勢2」の「射手宮」の項をご高覧いただいたかたであれば、周知の事実です。


そういったこともありまして、今般、下掲のように菅義偉氏の「ソーラー・チャート」を作成してみました。

たしかに、「TOP運」を生まれもっています。

出生時間が不明なので、“断定”は避けますが、およその出生時間の推測はできていることから、“抑制”は効いているものの、かなりの“豪腕”(強権)も読みとれます。

見た目的には、オモテが“氷”(実務)なので、内面の“炎”(闘争心)や“ロマン”(構想)は外からは見えにくいものになっています。

このような菅氏の運勢は、法にのっとって正々堂々と行なえば、成果(実績)を期待できる新首相になります。

逆に、もし不正や権力を握ったことで傲慢(ワンマン)になれば、その時点で菅政権は終わりかねない運勢の両面性をもっています。

いずれにしましても、「菅義偉」新首相を一面的に“こうだ”と決めつけると、実は正反対の側面が目に入らなくなりますので、真意を読めず、実像を見誤まることになりかねません。

表向きの「実務能力」や“質実”さと、内面の「改革ロマン」また“剛健”さなどから、“うり二つ”の閣僚人事で、予断を許さない“質実剛健内閣”ともいえそうです。


最後になりましたが、以上をリーディングした菅義偉氏の「ソーラー・チャート」を掲載しておきます。




出生時間が不明なため、日の出の時間の「太陽」をASC(Ascendant アセンダント=上昇点)の位置におく「イコール・システム」で作成しています。

個人のホロスコープ(出生天球図)の場合、宝瓶宮占星学では「太陽」と「月」のみ、許容度数(オーブ)10度をとっているのは、当サイトをご覧のかたならご存じのとおりです。


ちなみに、“一言解説”をしておきますと。

「射手宮生まれ」(太陽)の菅義偉氏の場合、「金星」を軸とする「月」と「冥王星」のT矩(Tスクエア=90・90・180)もそうですが、「土星」が「太陽」に上方矩(アッパー・スクエア=90度)をとっていることが、政治家としてこのソーラーチャートの場合、“ベスト”(最高度)に効いています。

このへんは、大三角(グランド・トライン=120度×3)を一方的に“大吉座相”と占断する古い“吉凶解釈”の西洋占星術からは見えてこない、「実学的」な宝瓶宮時代のリーディングの真骨頂のひとつだといえます。












“逆説”の邪馬台国-5
2020.09.15
 
【「邪馬台国」幻想と陰謀】

今回は、「邪馬台国」に皆さまが抱いている“幻想”をお届けいたします。

「魏志倭人伝」を著した作者 陳寿の「陳寿伝」をよく読めばわかることですが、陳寿は、“ロマン”を書きたてる筆致が得意です。

史実を“単純化”して勧善懲悪的な“ドラマ風”に記したために、わかりやすかったのです。

実際、陳寿が著した史書『三国志』は、“ドラマ風”の要素があるために、「蜀」の王“劉備”ならびに「死ぬときは一緒」と義兄弟のちぎりを交わした“関羽”や“張飛”を主人公とする劇作『三国志演義』(通称「三国志」)としてドラマに仕立てられ、人気をはくしているのはご存じのとおりです。

実際の史書『三国志』は、魏の“曹操”こそが英雄と呼べる人物なのです。

それはともかく、史書『三国志』のなかに、『魏書』があり、その末端に「倭人条」(魏志倭人伝)が収録されています。

なので「魏志倭人伝」も例外ではなく、“ロマン”を書き立てる筆致で記されています。

実際には、“枝葉”の出来事があるシビアな史実であるにもかかわらず、陳寿は単純化して描いたために、「卑弥呼」や「邪馬台国」がそこにあって、まるで“英雄”かのように“ロマン”を夢みてしまうことが起こります。

つまり、我知らずとも“幻想”を抱き、「卑弥呼」や「邪馬台国」以外に重要な史実がなかったかのように“勘違い”してしまうのです。

このことが、「邪馬台国」の所在地を比定するときに冷静さを欠いて弊害が生じます。


1、「邪馬台国 幻想」

一例をあげましょう。

「魏志倭人伝」を、ほかにない100%の史実かのように我知らずとも信じると、“卑弥呼”や“邪馬台国”が日本の“原点”かのよう錯誤することが起こります。

「邪馬台国 畿内説」は、その代表です。

『日本書紀』に記される畿内における初代「神武天皇」の御即位と「大和朝廷」の成立を「卑弥呼」や「邪馬台国」が“原点”としてかかわるに違いないと信じ込んでしまうのです。

“歴史的大チョンボ”なのですが、気づいていません。

もしくは気づいていても、“意図的”に「邪馬台国は畿内大和だ」とこじつける理由がありそうです。


さて、「卑弥呼」や「邪馬台国」の時代、すなわち3世紀の日本の全国の考古学的出土品のデータを、ごくふつうに学術的に「魏志倭人伝」と照らし合わせてみれば、ほぼ答えが出てしまいます。

「畿内大和説」はあてはまらないのです。

それゆえ、彼らは逆に「考古学的には畿内が優勢だ」などと、恬として恥じずにウソぶき続けます。

冷静に客観的に比較すればわかることです。

「畿内説」の学者や研究家は、自分の“学問的プライド”や“学閥”があるし、何より“研究費”の件もあるし、“世間体”などもあって、いまさらひるがえすわけにはいかないというのが実状のようです。


一例を挙げますと、「魏志倭人伝」に「鉄鏃」(てつぞく:鉄のやじり)など鉄器の記述が出てくるのですが、青銅器の記述はありません。

当時の畿内は、出雲系の「青銅器文化」だったことは学校などで習ったとおりです。

「魏志倭人伝」に記される3世紀の「鉄鏃」の出土は、全国でもダントツの300個近い数量を出土している福岡県と熊本県がそれぞれ1位と2位を争っています。

畿内大和は、わずか数個の出土にもかかわらず、「畿内から鉄鏃が出ている」と“畿内説”ありきの観点で「考古学から裏付けられた」と語っているだけなのです。

もちろん、「畿内説」に不利なデータは歴史学界をはじめオモテに出そうとしません。


つまるところ、かつてのヒトラーのドイツ帝国や現在の中共のように、“ウソも100回言えば真実になる”という心理戦によって“強弁”し続けています。

「卑弥呼」や「邪馬台国」をなんとなくでも日本の“原点”と妄想を抱いている人々は、畿内説学者の“強弁”を無意識に心に残し信じてしまうことがあります。

卑弥呼や邪馬台国は、決して日本の“原点”などではありません。

歴史の「一コマ」にすぎず、3世紀に日本に存在した国邑(こくゆう)の“ワン・ノブ・ゼム”にすぎないことは、広く古代日本をひもとけばみえてきます。

邪馬台国以外に、全国各地に国があり、畿内国はその一つでした。

調べていただいてご判断されればいいのですが、ゆるやかな“本州大国主連合”の集会地の一つが畿内国、奈良盆地だったようです。

なぜなら、『日本書紀』からもわかるように出雲系の残滓が多いのです。


2、3世紀前後の「国邑」

上述のように、「邪馬台国」以外にも全国各地に“国邑”(こくゆう)がありました。

「魏志倭人伝」や『後漢書』をみても、次のように記されています。


● 「魏志倭人伝」より抜粋(1)

「(女王国)その南には狗奴国(くなこく)あり、男子を王となし、女王に属せず。
(中略)
倭の女王 卑弥呼、狗奴国の男王 卑弥弓呼(ひめここ)と、もとより和せず。」


● 「魏志倭人伝」より抜粋(2)

「女王国の東、海を渡りて千余里、また国あり、みな倭の種なり。
また、侏儒国(しゅじゅこく)あり、その南に在り、女王を去ること4千余里なり。」


● 『後漢書』より抜粋

「女王国より東のかた海を渡ること千余里にして拘奴国(くなこく:「狗」の字が異なる)に至る。みな倭種なりといえども、女王に属せず。
女王国より南のかた4千余里にして侏儒国(しゅじゅこく)に至る。」


「魏志倭人伝」に記録されるだけでも、規模は不明ながら「狗奴国」(または「拘奴国」)があり、「侏儒国」があったことがわかります。

では、ここから何がわかるでしょうか。

仮に「畿内」に女王国があったと比定した場合、東に「海を渡ること千余里」(約70km)に国はありません。

また、南に4千余里(約280km)もの先に国はあるでしょうか。

畿内大和からだと、約180km近い沖合いの太平洋の中になります。

ご参考に申し上げますと、日本の中で海を渡ること千余里(約70km)の東に国があるのは、九州と四国のみが該当します。

ただ、四国の場合、南に4千余里(約280km)もの先に、国は存在できません。

ちなみに、九州北岸から鹿児島南端は約300km強です。


それはともかく、3世紀前後の主な国内の国をあげてみます。

四国には、由緒ある「阿波国」がありました。

中国地方の瀬戸内海沿岸には「吉備国」があります。

日本海側には山陰に「出雲国」、近畿に「丹後国」、北陸に「越国」があります。

近畿の「畿内国」や中部の「尾張国」さらには縄文集落跡が残る「諏訪国」なども古い国邑です。

関東にも、「関東王国」もしくはその前身となる国邑がありました。

当然、東北地方にも縄文時代から集落があったことがわかっています。

これらは古い国も多いのですが、「女王国連合」は2世紀末に誕生したばかりの新興国にすぎません。

もっとも、金印が出土した「奴国」は1世紀にはありましたし、卑弥呼を女王に輩出したことから「邪馬台国」は、もう少し古い国のようです。



3、「畿内説論者」の“陰謀”

「畿内説学者」のやり方は“ヘン”です。

“中共”(中国共産党政権)と同じ手法をとっています。

中共が「尖閣は古来から中国の領土だ」と強弁して奪取しようとしているのと同じように、「邪馬台国が畿内だ」と強弁し、“実力行使”でねじふせようとしています。

客観的な「歴史研究」というよりも、“プロパガンダ”(政治宣伝)の域に近いのです。

あまりにもヒドく、学究的ではないので、理由を考えてみました。

「宝瓶宮占星学」サイトにも書いたことですが、古代支那の冊封下にあった「邪馬台国」を畿内大和だと“強弁”することによって、日本は古代から中国の冊封下にあった国だと“既成事実化”しているのかもしれません。

もちろん、上述したように「プライド」や「学閥」や「研究費」などの理由もあるでしょうが、それ以上にやり方が“異常”なのです。

中共が、「台湾」や「尖閣」また「沖縄」の占領を足がかりに、海洋侵出して東太平洋の覇権を手中にしようとしているのはすでに衆知のことです。

まずは、アメリカと世界を二分統治し、そののちアメリカまでも侵略して「世界覇権」をにぎることが彼ら共産主義者の目的です。

その前段で、当然、日本も中共の属国化が試みられます。

そのさい、邪馬台国また女王国連合は「古代支那の冊封下にあった」という“歴史的事実”が日本支配の根拠になります。

そのため、「邪馬台国」が地方にあっては論拠が弱まるのです。

どうしても『日本書紀』に初代“神武天皇”が即位されたと記され、代々天皇が“都”とし、実際、統一「大和朝廷」が置かれた畿内が「古代支那の冊封下にあった」としたいわけです。

そのため、「邪馬台国 畿内説」を声高に主張する人たちの中に、中共の意を受けた“工作員教授”や“スパイ研究者”がいて、「畿内説」を定着させようと動いていてもおかしくありません。

なぜなら、「畿内説論者」のやり方は中共とウリふたつだからです。


1、テドロス事務局長を「WHO」に送り込んだように、まず“権威”である「歴史学界」などに畿内説学者を送り込み、“学術的権威”から日本人を操ります。

2、中共が「マスコミ」を利用して常時、情報戦を仕掛けているように、畿内説論者は朝日新聞など「反日マスコミ」を使って“ウソ”の情報を大々的に流して日本人の洗脳を図っています。
……※ご参考:一例【モモの種】(後述)。

3、“武漢ウイルス”は、もはや中国の研究所から出たことが複数の証言によって明らかです。にもかかわらず中共は、“ウソ”を言い続けたように、畿内説の学者や研究者も不利な情報は隠し、“牽強付会”で畿内説を言い募っています。

史実を客観的に探究する職業にもかかわらす、それを超えてシロウト騙しの“牽強付会”を続けるのは、もはや学問のほかに強い理由があるからとしか考えられません。

結局、“工作員教授”や“スパイ研究者”を想定しないと、理解できないほど中共と同じ“プロパガンダ”(政治宣伝)のやり方を展開していることが傍証です。

“学者”というよりも、将来に備え、「中共の日本支配」に向けた歴史的根拠づくりを着々と行なっていると考えるしかないほどの“強引”さです。



※ご参考:一例【モモの種】

2018年に“大量のモモの種”が纒向遺跡(まきむく:奈良県桜井市)から発見されました。

それは客観的な事実ですが、「畿内論者」は「卑弥呼のモモの種」だと、失礼な言い方ですが“バカ丸出し”にも発表し、そればかりか、中共のやり方をならって「反日マスコミ」をもちいて大々的に報じ、「これで畿内に決まりだ」などと強弁して“既成事実化”を図ったのです。

良識ある歴史学者や研究者は、みんなあきれかえりました。

なぜなら、「魏志倭人伝」にはひと言も「モモ」は出てきません。(注)

また、「卑弥呼」が何を食べたかなどは書かれていないからです。

さらに、彼らが、卑弥呼のモモだという証拠となる“文献”を示さなかったところをみると、古代支那の「史書」のどこにも卑弥呼が“魔除け”にモモを食したなどと書かれていなかったのは明白です。

つまり、彼らの“妄想”また“こじつけ”なのです。

この一連の出来事を目にしたとき、その“牽強付会”ぶりに、彼らは中共と同じ手法をもって「ねつ造」し「事実」を捻じ曲げるということがハッキリとわかりました。

ほかにもありますが、彼らはもはや“学者”や“研究者”ではなく、すでに“アジテーター”(大衆扇動者)か、もしくは“邪馬台国幻想”を抱く信者や宗教活動家のようです。

ちなみに、纏向遺跡から出土した「モモの種」(桃核)は、2,765個です。

一方、岡山県で同じ弥生時代の遺跡から出土した「モモの種」(桃核)は、約10,000個もあります。

「魏志倭人伝」に記される“大衆を惑わす”「卑弥呼」を、証拠もなく“モモの種”と結びつけること自体に客観性もなにもないのです。

それをマスコミまで使って堂々と公表することを、“陰謀家”といいます。


(注) 「モモは出てきません」のご説明
「魏志倭人伝」には、「その竹には、篠・簳・桃支あり。」(原文:「其竹篠・簳・桃支」)とあります。
ここに「桃」という字は出てきますが、この一文は、倭国に産する竹の種類で「篠(しのだけ)、簳(やだけ)、桃支(とうたけ:桃支竹)」が植生しているという意味です。



次回は、「卑弥呼」の“幻想”をお届けいたします。











日向坂46 上村ひなの(16)
2020.09.14
 
「アクセントキャラ・グループ」の最後となる4人めは、「上村ひなの」(牡羊宮、16歳)です。

日向坂46メンバーの「ソーラー・チャート」の特徴をご紹介する当シリーズでは、19人めです。

昨年2019年2月の「日向坂46」に“改名/独立”以前から加入していた唯一の3期生です。

ちなみに、“ひらがなけやき”こと「けやき坂46」から「日向坂46」に“改名”(独立)直後に加入した新3期生の3名がほかにいます。

新3期生の「ソーラー・チャート」の特徴は、おいおいご紹介するとして、「上村ひなの」の「ソーラー・チャート」は、やはり“特別”でした。

この記事は、「宝瓶宮占星学」サイトに今年2020年3月にアップした「「日向坂46」への改名/独立」(リーディングサンプル&メモ)のつづきです。

その記事の左欄に「メンバーのリーディングは後日」と告知しておいたその“下書き”となるメンバーの「ソーラー・チャート」の特徴をご紹介しています。

「上村ひなの」の「ソーラー・チャート」は、次のとおりです。




これまでのメンバーをふくめ全員が「出生時間」不明です。

そのため、出生時の「太陽」をASC(Ascendant アセンダント=上昇点)の位置におく「ソーラー・チャート」のイコールハウスでお届けしています。

太陽をメインとした「ソーラー・チャート」の場合、「プラシーダス・ハウスシステム」や「コッホ・ハウスシステム」など「12ハウス(室)」を均等に30度ずつに区分した“ASCハウスシステム”とは異なります。

ハウス(室)ではなく「12サイン(宮)」を30度ずつ均等に区分するのが正解です。

もし、「えっ、なんで? 12サイン(宮)を30度ずつ均等に表示するホロスコープ作成ソフトは正解じゃないの?」と思われたかたがいらっしゃるかもしれません。

「サイン(宮)」を30度ずつのメインにしておいて、「ハウスシステム」とはいえません。

本来は「ハウス(室)」を30度ずつにメインにするのが「ハウスシステム」なのですが、プログラムの都合上などによって、便宜上、「12サイン(宮)」をメインに出力しているだけです。

もっとも「ホロスコープ作成ソフト」によっては、ホイール・ハウスに返還して正しく出力できるものもありますが、読めなければ意味がありません。


それはともかく、「上村ひなの」のソーラーチャートの特徴は次のとおりです。


3つもの「交歓」(ミューチュアル・リセプション)があることもその一つです。

それよりも、3つの「衝」(オポジション=180度)があり、そのすべてが「T矩」(Tスクエア=90・90・180)を形成しているのと同時に、すべて「調停」(メディエーション=60・120・180)の座相をとっていることです。

そこに、交歓(ミューチュアル・リセプション)がかかわっていることが最大の特徴です。

詳しくは、上掲の「ソーラー・チャート」をご高覧いただきたいのですが、3つの衝(180度)は次のとおりです。


1、「月」と「ケレス」の衝(180度)

出生時の「太陽」を軸に「月」と「ケレス」とで「T矩」(90・90・180)を形成しています。

この衝(180度)に対し、「月」と「交歓」(ミューチュアル・リセプション)の「土星」が「調停」(60・120・180)の座相を投げかけています。


2、「木星」と「天王星」の衝(180度)

「火星」と合(0度)の「金星」を軸に「木星」と「天王星」とで「T矩」(90・90・180)を形成しており、「ドラゴン・ヘッド」と「ドラゴン・テール」が「調停」(60・120・180)の座相を投げかけています。


3、「ドラゴン・ヘッド」と「ドラゴン・テール」の衝(180度)

「海王星」が軸となって「ドラゴン・ヘッド」と「ドラゴン・テール」の「T矩」(90・90・180)を形成しており、こちらも「土星」が「調停」(60・120・180)の座相を投げかけています。

この「海王星」は「天王星」と「交歓」(ミューチュアル・リセプション)で、前述のように「土星」もまた「月」と「交歓」(ミューチュアル・リセプション)です。


以上のように、上村のホロスコープは、良し悪しに関係なく、複雑に象意が“錯綜”するアスペクト・パターンを構成しています。

これは、どこから何が飛び出すか、ご本人のみぞ知る、いえご本人も予測できない常人離れした象意をもつことになっています。

いずれにしましても、これまでご紹介してまいりました日向坂46メンバーの「ソーラーチャート」は、「牡羊宮」に星が“あるなし”にかかわらず、案外と“いきおい”や“思い切り”がよい「牡羊宮」の象意をもっているメンバーが多くいました。

「上村ひなの」は、そんな日向坂46ではじめての「牡羊宮生まれ」(太陽)です。


「上村ひなの」の加入は、上掲の「ソーラー・チャート」からいえば、今日の「日向坂46」の“飛躍”をもたらすものになっています。

聞くところによると、坂道グループ(乃木坂46、欅坂46、けやき坂46)の合同の新規加入生の募集と審査があり、自薦か他薦かは知りませんが、新規生が各グループにふりわけられたようです。

“今”をときめく「乃木坂46」や「欅坂46」ではなく、当時はまだ“日陰げグループ”ともいえる「けやき坂46」に唯一、加入したのが「上村ひなの」でした。

驚くべき“事実”は、運勢的にみた場合、「上村ひなの」の加入は、ご本人の“資質”にかかわらず、今日の「日向坂46」の“人気”や“隆盛”をもたらすものになっています。

このことは、誰にもわからないはずです。

「数理法則」を基礎理論とした「宝瓶宮占星学」からリーディングできるものだからです。


ご理解はいただけないと存じますが、メンバーや運営が気づかなくても、「上村ひなの」(牡羊宮、当時15歳)が加入したゆえに、“ひらがなけやき”の運勢が加速し、「日向坂46」への独立はもちろん、デビュー以来のヒットやご活躍につながっています。

逆にいえば、これまで諦めずに努力してきたメンバーたちに、“天”は上村ひなのを送り込んで、“ときの運勢”をもたらしてくれたともいえます。

世間一般的な理由を挙げるとすれば、運営サイドから“日陰者扱い”されていないことが、上村の加入によって無意識にも感じ、「頑張ろう」といっそうの“パワー増幅”をもたらしたともいえます。

また、上村の加入は構成作家などの“意識アップ”をもたらしたと世俗的にはいえるでしょう。

ですが、そういったことを起こしたことが“運勢”なのです。


いずれにしましても、上掲の「ソーラー・チャート」からは、上村ひなのの加入は、メンバーたちやスタッフも気づかずに“時の運勢”がもたらされることを象わしています。


ただし、それによって、もしメンバーたちが傲慢になったり尊大になると、一気に運勢を失うことが起こりかねないものにもなっています。












転載記事-研究所で作られた
2020.09.13
 
WOWKOREAの記事をそのまま転載します。


中国の科学者が暴露
「新型コロナ、武漢ウイルス研究所で作られたという科学的な証拠を発表する」


9/13(日) 17:02配信


香港のウイルス学者が英国のトークショーに出演し、「新型コロナウイルスは中国の武漢研究所から出た」と暴露した。


 香港大学公衆保健学部でウイルス学と免疫学を専攻したイェン・リーモン(麗夢、Limeng Yan)博士は11日(現地時間)に公開された英国メディアITVのトークショー『ルーズウーマン』とのインタビューで「ウイルスが武漢の水産物市場ではない、武漢ウイルス研究所(以下、武漢研究所)で作られたという科学的な証拠を発表する予定だ」と明らかにした。

 イェン博士は「遺伝子の塩基配列は人間の指紋のように識別が可能だ。私は中国でこのウイルスがどのように出たのか、なぜ彼らがこのウイルスの創造者なのかに関する証拠をつかんでいる」と強調した。

 イェン博士は「ウイルスの根源は私たちが知らなければならない重要なもの」だとし、「私たちがこれを知らなければ克服することは出来ないだろう。このウイルスは全ての人々の生命を脅かすだろう」と警告した。

 イェン博士は香港大学での勤務中に身辺に危険を感じ、米国へ亡命している状態だ。

 イェン博士は「武漢研究所は中国政府が統制している」とし、「恐怖心から中国から出たが、公の場で暴露を決意した理由は、真実の通り話さなければ後悔することになるから」と告白した。

 これに先立ち、イェン博士は中国本土に派遣され、新型コロナの集団感染の事例を調査したという。当時に関しては「新型コロナの発病初期にも人間間の伝染証拠を発見し、上司にすぐ報告したが、黙殺された」と主張した。

 イェン博士は、「米国に居住するとある有名なユーチューバーの助けで、中国政府はコロナウイルスの人間間伝染についてすでに知っていた」と暴露した。

 イェン博士はまた「フォックスニュース」とのインタビューでも「新型コロナに対する真実を明らかにするために米国に来た」とし、「もし中国でこの事実を暴露したら、私は殺害されただろう」と話した。

 イェン博士は「私は彼らが内部告発者にどのように接するのか知っている」とし、「夫は私が米国に逃避したことで非常に腹を立てている」と付け加えた。

 イェン博士が勤務していた香港大学はイェン博士に関する情報をすべて削除し、電子メールやポータルへのアクセスをすべて中断させた。 香港大学の代弁人は「イェン博士はこれ以上、学校の職員ではない」と明らかにした。

 中国当局は今まで新型コロナの“武漢研究所起源説”を否認し、ウイルスが自然に発生したと主張してきた。

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