「三種の神器」の複雑な経緯
2017.01.19
●宝瓶宮占星学サイトの連載「占星学と解く日本成立史」と「占星学から解く日本の原点」に書いていない「小ネタ」を随時アップしていく第11弾です。


これまで、7世紀の統一大和までは「三種の神器」ではなく、持統天皇までは「二種の神器」だったことをアバウトながらお伝えしてまいりました。

繰り返しますと、九州系天皇(東征王)の神璽(みしるし)が「八咫鏡」(やたのかがみ)で、出雲をはじめとした本州系大王(素戔嗚尊・大已貴神・大国主系)の神璽が「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)です。

7世紀に、天武天皇は、壬申の乱にさいして、伊勢(神宮)を遥拝し、戦勝を祈願します。
その戦に勝って皇位に就いたのち、正妃の持統天皇とともに伊勢神宮を現在のように立派にしています。

その伊勢神宮に祀られるのが「八咫鏡」です。
なので、天武天皇のルーツは九州系天皇(東征王)側になります。
※厳密なお話はさておき、そういえます。

ただし、天武天皇と持統天皇の孫で、天孫降臨した「瓊瓊杵尊」になぞらえられた「文武天皇」の即位によって事実上の「万世一系」ははじまり、「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)が加わって現在にいたる「三種の神器」になります。

この点では、天武系天皇また天智系天皇の神璽は、「八尺瓊勾玉」だといえなくもありません。

いずれにしましても、天武天皇に祟った「草薙剣」は、天皇の許から熱田神宮に移されます。
現在も熱田神宮に祀られる草薙剣は、国譲りをした「被征服者側」の神璽(みしるし)であって、征服者(九州王)側の天武天皇に祟ったために、まるで祟りを封じ込めるかのように2重の「赤土」や3重の「ケヤキの箱」をもって、厳重に封印されているそうです。

伊勢神宮に祀られるもう一方の「八咫鏡」も、持統天皇以降、約1,000年後に明治天皇がはじめてご親拝をされるまで、誰一人として天皇が伊勢神宮に参拝しなかったことからもわかるように、これまた複雑な経緯が秘められています。

単純に九州王(東征王)の神璽としてしまうと、誤解を招く事情があるのです。

奈辺の理由はわかっていますが、ここでご紹介するのは日本の原点と経緯にかかわって複雑なので、別の機会にゆずります。


次回、「三種の神器」の“締め”をお届けします。


「八咫鏡」と「草薙剣」の秘密
2017.01.17
●宝瓶宮占星学サイトの連載「占星学と解く日本成立史」と「占星学から解く日本の原点」に書いていない「小ネタ」を随時アップしていく第10弾です。


「三種の神器」シリーズの最初に書いたように、単なる「鏡・剣・玉」をもって三種の神器とはいいません。

天皇の神璽(みしるし)である「三種の神器」は、固有の「八咫鏡」と「草薙剣」をもって大和の「天皇」と認められるものです。

『日本書紀』前後以降は、これに「八尺瓊勾玉」が加わり、統一大和の「天皇」であることを証明する「三種の神器」になりました。

では、なぜ「八咫鏡」と「草薙剣」をもって、大和(倭)の天皇(大王)の神璽(みしるし)となりえるのでしょうか。
それは、両神璽が2つの「国」の権威(王位)を象徴するものだからです。

「鏡」(みかがみ)は、北部九州連合の倭国王(魏志倭人伝では「卑弥呼」)を象徴します。
一方、「剣」(みはかし)は、出雲をはじめ本州大国主連合の王(神武天皇紀では「饒速日命」)を象徴します。

要は、国譲りにさいして、出雲をはじめとした本州大国主連合の王権を示す「剣」を、九州から来た東征王に差し出すことで、結果、「鏡」と「剣」の両方を有したものが、大和(畿内国)の王(大王:のちの天皇)になり、その神璽(みしるし)になるわけです。

かつて、7世紀の統一大和において、実際には最初に「天皇」と号した天武天皇が病にかかったとき、占うと「草薙剣」の祟りと出て、直ちに熱田神宮に安置したことが『日本書紀』に記されています。
もともと東征王(天皇)側の所有物であれば、祟ることはありません。
なぜ祟ったのかといえば、要は国譲りをした(征服された)側の王位をあらわす神璽(みしるし)だったからです。

天武天皇にはじまり正妃の持統天皇は、伊勢神宮を今のように立派にします。
伊勢神宮に祀られるのが「八咫鏡」であることからも、そのことがわかります。
つまり、天武天皇こそが正統もしくは「鏡」を神璽(みしるし)とした九州倭国王の流れに関係します。


※この項、さらに続く。


『日本書紀』まで「二種の神器」
2017.01.10
●宝瓶宮占星学サイトの連載「占星学と解く日本成立史」と「占星学から解く日本の原点」に書いていない「小ネタ」を随時アップしていく第9弾です。


まずは、昨日アップした「三種の神器は“創作”だった」をご参照ください。

「三種の神器」は、後世の創作で、690年即位の「持統天皇」までは「二種の神器」でした。

『日本書紀』の最後を飾る「持統天皇紀」には、次のように記されています。

●『日本書紀』「持統天皇紀」より抜粋
「忌部宿禰色夫知が神璽の剣と鏡を皇后にたてまつり、皇后は皇位に即かれた」
原文:「忌部宿禰色夫知 奉上神璽劒鏡於皇后 皇后卽天皇位」

学者の中には、「三種の神器」は神話(神代)の時代から「実在した」と思っている人がいます。

ですが、実際には、天武天皇と持統天皇の孫「文武天皇」のときに「八尺瓊勾玉」が加わり、「三種の神器」となったとするのが妥当です。

「瓊瓊杵尊」の時代から「三種の神器」があったと考える学者らは、天皇の即位にさいして『日本書紀』には「鏡」と「剣」は出てくるものの、「玉」が出てこないので「璽」を「玉」のことだと解釈します。

しかし、「璽」というのは、「印」(しるし)のことで、印鑑と同様に自分を証明するものです。
天皇の場合、それを「神璽」(みしるし)といい、「八咫鏡」と「草薙剣」であったわけです。

もし「璽」が、「八尺瓊勾玉」のことであれば、「神璽」または「璽符」と書かずに、「玉璽」と書いたはずです。

天皇の即位に際して、「鏡」(みかがみ)と「剣」(みはかし)をたてまつった記録は、『日本書紀』には3か所しか記されていません。
くだんの「継体天皇」の即位(507年)のさいがその一つで、次のように記されています。

●『日本書紀』「継体天皇紀」より抜粋
「大伴金村連はひざまづいて、天子の璽符の鏡と剣をたてまつって拝礼した」
原文:「大伴金村大連 乃跪 上天子鏡劒璽符 再拜」

ここでは「神璽」ではなく「璽符」と記されているのが、どこか意味深です。
その2代後の「宣化天皇」の即位にさいしては、「神璽」も「璽符」もなく、ただ「鏡」と「剣」と記されるのみです。

それも当然で、720年に『日本書紀』が奏上されてのち、「三種の神器」は神話(神代)の時代からあったかのように既成事実化されたからです。

実際には、697年に即位した「文武天皇」から「八尺瓊勾玉」が加わり、「三種の神器」となったものです。

※この項、さらに続く。

「三種の神器」は“創作”だった
2017.01.09
●宝瓶宮占星学サイトの連載「占星学と解く日本成立史」と「占星学から解く日本の原点」に書いていない「小ネタ」を随時アップしていく第8弾です。


『日本書紀』の中に、三種の神器は何か所出てくるでしょうか。

ちなみに、三種の神器というのは、単なる「鏡・剣・玉」とは違います。
固有の「八咫鏡」「草薙剣」「八尺瓊勾玉」をもって三種の神器とし、皇位を象徴するものです。
でなければ、そのへんの「鏡・剣・玉」をもって三種の神器だといって、だれでも「天皇」を名乗ることができてしまいます。

実は、『日本書紀』の中に「三種の神器」は、たった1か所しか出てきません。

それも「神代」(下)=神話の中のみです。
さらには、本文ではなく「一書」に記されるのみなのです。

つまり、『日本書紀』編纂者でさえ、当時は「三種の神器」を正統な記録として扱っていません。
「一書にいう」ではじまる参考としての「異伝」の中に、次のように記されています。

●『日本書紀』神代下「一書」より抜粋
「そこで天照大神は瓊瓊杵尊に八尺瓊曲玉および八咫鏡・草薙剣の三種の神器を賜った」
原文:「故天照大神 乃賜天津彥彥火瓊瓊杵尊 八坂瓊曲玉及八咫鏡 草薙劒 三種寶物」

いわゆる「三種の神器」というのは、「神話」にすぎず、しかも「異伝」(一書)のお話でしかないのです。

その「三種の神器」が、なぜ今日に伝わる実在になったのでしょうか。
それは、万世一系のもととなった天武天皇と持統天皇の孫、「文武天皇」への皇位継承が完成したからです。

なぜなら、文武天皇こそ「祖父天皇」(和風諡号)であり、天照大神の孫、天孫「瓊瓊杵尊」の立場にあたる実在の現人神(天皇)だからです。

持統天皇までの「鏡」と「剣」の二種の神器に「玉」を加え、文武天皇の即位以降、「三種の神器」として万世一系の天皇の神璽(みしるし)となって今日まで続いているわけです。

※この項つづく。


「霧島神宮古宮址」訪問
2016.12.22
鹿児島県と宮崎県の県境にある霧島山の近く「高千穂河原」に行ってきました。

そこにある「天孫降臨神籬斎場」こと霧島神宮「古宮址」への訪問です。
※神籬(ひもろぎ)、古宮址(ふるみやあと)

「高千穂河原」は、なかなかに澄んだ空気感のある場所でした。
その点では、奈良のご神体山「三輪山」山頂に似た空気感に包まれます。
要は「本物」の場所なのです。

誰が演出したのか「逆鉾」で有名な高千穂峰と、御鉢(おはち:火口)の間の背門丘(せたお)に、西暦540年頃からあった霧島神社(元宮)を、8世紀の御鉢の噴火で消失したために、この「古宮址」に移したといいます。

しかし「古宮址」も、13世紀の御鉢の噴火によって消失し、今は山をくだった現在の場所に「霧島神宮」として建てられています。

当たり前のことですが、「皇孫」が天から降りてきたという非科学的なありえないお話は、当然ながら事実ではありません。
ですが、『古事記』や『日本書紀』が記される以前から、霧島神社「元宮」(祠)があったのは事実です。
それが記紀後、誰かによって「天孫降臨」の場所の一つとして作話されます。

火山地帯でもある周辺の地理的状況や三輪山の山頂と似た空気感(波動)があることから、およその検討はつきますが、それがどこまで事実かどうかのお話は、調べてから記したいと存じます。


 
(写真左)古宮址(斎場前)の広場と鳥居、(写真右)古宮址の磐座の後ろから鳥居を臨む。

「和魂」と「荒魂」は別の神?
2016.12.16
●宝瓶宮占星学サイトの連載「占星学と解く日本成立史」と「占星学から解く日本の原点」に書いていない「小ネタ」を随時アップしていく第8弾です。


今回は「問題提起」です。

古代の神々や神社について調べていくと、よく「和魂」「荒魂」という表現を目にします。

さらにみていくと、「幸魂」「奇魂」というのもあって、これら4つの魂を総称して「一霊四魂」というそうです。
1柱の神は4つの魂をもつという説ですが、「和魂」と「荒魂」は、だいたい別の社に祀られています。

ところが、「一霊四魂」という概念は江戸時代にできたものです。

幸魂と奇魂は「和魂」の中の2つの魂なので、実質は「和魂」と「荒魂」の2つです。
ものの本には、「荒魂は、神の荒々しい側面で荒ぶる魂であり、和魂は、雨や日光の恵みなど神の優しく平和的な側面である」などと1柱の神の両面の性質として説明されていたりします。

では、1柱の神をわざわざ「和魂」と「荒魂」にわけて祀る必要はあるのでしょうか?

たとえば、伊勢の外宮の第一別宮「多賀宮」は外削ぎの「男千木」で、鰹木も男性を象わす奇数の5本ですが、もともとは伊勢内宮の第一摂神だった「荒魂多賀宮」を、外宮整備にさいして移したものと記されています。

内宮はご存じのように、『日本書紀』でいう「天照大神」を祀り、内削ぎの「女千木」ですが、そこにあった男千木の「荒魂多賀宮」を外宮に移し、今は天照大神の「荒魂」は内宮の「荒祭宮」に祀られています。

「多賀宮」は、今は外宮「豊受大神」の「荒魂」とされます。

どうも、お話が混乱して筋がみえないのですが、実は、もともとは、「和魂」と「荒魂」は別々の神ではないかという問題提起です。

単純にいえば伊勢の場合、「荒魂」は本来の大和の神で、「和魂」はあとから祀られるようになったいわゆる征服者(日本書紀)の神ではないでしょうか。

それゆえ内宮も外宮もそうですが、正宮には鳥居があって「和魂」を祀りますが、いずれも「荒魂」を祀る「多賀宮」や「荒祭宮」には鳥居がなく、「多賀宮」は一段高い丘の上にまつりあげられて、地上から遠ざけるかたちになっています。

そう考えれば、国譲りの神を祀る出雲の神殿(大社:おおやしろ)が高かったのも道理です。





「大物主神」は物部氏の祖神
2016.12.13
●宝瓶宮占星学サイトの連載「占星学と解く日本成立史」と「占星学から解く日本の原点」に書いていない「小ネタ」を随時アップしていく第7弾です。


『日本書紀』には、どうしても書き記せない「歴史の真相」があります。

その代表が「大物主神」(おおものぬしのかみ)です。
なので大物主神にかぎりませんが、日本書紀は「神代」(神話)の登場人物の名前を工作して「暗喩」にしました。


大物主神は、ご存じのように三輪山に祀られており、大神神社(おおみわ じんじゃ)のご祭神です。
この神がどんなお方かというと、歴史の真相は、畿内国「大和」を最初に治められた“御肇国天皇”(はつくに しらす すめらみこと)ともいえる大和の本当の初代大王です。

またの名を、信じられないかもしれませんが元祖「天照大御神」と申し上げ、伊勢の内宮に祀られている「男神」です。

この元祖「天照大御神」や「素戔嗚尊」をはじめ「卑弥呼」や「持統天皇」など、複数の人物を日本書紀は「天照大神」の名のもとに習合させ、日本統合の象徴としています。

ここに大物主神が元祖「天照大御神」であることや、最初に大和を治めていた人物であることを記せない理由の一つがあります。

7世紀の「壬申の乱」において、伊勢を遥拝した「天武天皇」が、もし『日本書紀』が上奏されたときまで生きていたら、『日本書紀』にはその“事実”が正しく記されていたはずです。

しかし、皇統は天武系から天智系へと変わってしまいました。
天智の娘ながら天武天皇の正妃である「持統天皇」以外に、皇祖神であるはずの「天照大神」を祀る伊勢神宮を明治にいたるまで、だれ一人訪れた天皇がいなかったことが、その何よりの証拠です。

天皇の伊勢ご親拝は、1,000年後の明治天皇まで待たなければなりませんでした。
これをもって、本来の「万世一系」へと戻ったといえます。

さらに書いておきますと、「大物主神」は「物部氏」の祖神を暗喩しています。
「大」は元祖、「物」(もの)は、霊や魂を意味しますが物部氏の「物」なのです。

日本書紀は、物部氏が“神武天皇”に国譲りをし、神武が最初の天皇であると記す以上、大物主神が最初の「大和王」だったことを記せないのは当然です。
また、大物主の「主」は、物部氏の当主というだけではなく、大和の「主」でもあったために大和のご神体山「三輪山」に祀られています。


※付記:“御肇国天皇”である「崇神天皇」紀に「大物主神」が記されるのは上述ゆえです。
日本書紀では、「神代」(上)に1回、「神代」(下)に2回、大物主神は記されていますが、神武以降の人代になってからは、神武~10代までのほぼ架空の天皇を除けば、実際の初代となる第11代「崇神天皇」紀に、初めて大和を治められた「大物主神」が記されるのは、歴史の真相からいって当然なのです。




- CafeNote -